「黄禍論」は差別の裏側 『黄禍論と日本人』
一九世紀の終わりから二〇世紀初頭に西洋世界に流布した、黄色人種およびその国家である日本や中国の勃興が、白色人種やその国家に対して脅威となるという考えやイメージ。 ある時は経済的な脅威として語られた。白人労働者の職を奪う中国あるいは日本からの低賃金労働者、市場を撹乱する東アジアからの低価格商品などが黄禍とみなされた。経済的な脅威とともに多く語られたのが、軍事的脅威としての黄禍である。同じ黄色人種の国家である日本と中国が同盟を結び、欧米の勢力をアジアの植民地から駆逐して西洋世界に迫るという、「アジアの覚醒」への懸念が語られた。 本書P42 |
![]() | 『黄禍論と日本人』 飯倉章 (2013/03/22) 飯倉 章 商品詳細を見る 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか |
義和団事変は、日本を除く西洋七カ国と中国との戦いという意味では人種戦争的な側面を持っていた。 一方、日本の政策決定者にとっては黄禍が自制要因として機能したことは見逃せない。 欧米列強とともに出兵する際、桂太郎陸軍大臣はすみやかに撤退することを考えていた。これは、黄禍論と三国干渉の再現を懸念してのことであった。つまり、日本が撤退せずに居残れば、中国を指導し支配しようとしていると疑われ、また何らかの干渉がもたらされることを憂慮したのである。さらに、事件が清国と列強の戦争に拡大した時、清国皇帝は明治天皇に親電を送り、事態収拾のための斡旋を依頼した。その時、清国皇帝は、東洋と西洋の対立を指摘しつつ、日支の連携をほのめかせた。黄禍を実現させるような申し出であった。明治天皇は謝絶した。 本書P99 |
イギリスに背中を押されたのはよく分かるのだが、その背景にアメリカがいることの意味が、もうひとつはっきりしなかったけど、「ロシアの満州占領」に関しては、三国の意向は、完全に一致していたんだな。それだけに、ハリマン事件の重みがあるということだ。
仮に日本が国際的な“ボイコット”に直面し、西洋文明の先輩で代表である諸国のなかに自分の居場所を得ることが決してできないと悟らされた場合には、その時は・・・その時にのみと我々は信じるが・・・日本は『黄禍』を現実のものとするために全力を尽くすかもしれない。この新参者を文明諸国から仲間はずれにすることほど、不公正でまぬけな政策はないだろう。 |
![]() | *日本人学童は「東洋人学校」へ(サンフランシスコ) 1906
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