『地獄と極楽』 シリーズ仏教が好き
先日、高校生を連れて山歩きをして、最後に子の権現って呼ばれてるお寺に立ち寄りました。「代表してお賽銭あげておくから、みんなも手を合わせておきな」って言ったんですが、手を合わせたのは一人だけでした。
高校生は十人いたんですよ。十人のうち、手を合わせたのは一人きりですよ。
でも、宗教が力を失ってしまったのかというと、おそらくそういう事でもないんです。おそらく彼らは、未だに“生”とか、“死”というものに、向き合えてないんだろうと思います。
そういうものと向き合う習慣を、おそらく親の段階から失っているんだろうと思うんです。だから、手を合わせろと言われても、何をどうすればいいのかわからなかったっていうのが、本当のところじゃないかなって、・・・。一人だけ、“手を合わせる”ってことが分かる子がいたってことじゃないかなって、そう思うんです。
もしかしたら、それは宗教が力を失ったって現象以上に悲しい話かもしれませんね。
アメリカとの戦争に負けて、War Guilt Information Programで、戦争に対する贖罪意識を植え付けられた戦後日本においては、それまで日本人の精神世界の支えを排除する動きが強まりました。世の中は即物的に流れ、精神世界は置き去りにされてしまいました。
公害が社会問題化して、科学偏重の傾向にブレーキがかかったとは言っても、世の中が即物的に流れる傾向は変わっていません。技術優先、経済優先の先っ走りが問題を起こすたび、「心はどうした」だのなんだのということになるんだけど、そういうのはすぐに忘れられてしまいます。
そうすると、神道の世界も仏教の世界も、自暴自棄になったかのように、みずからの果たす役割を忘れてるんじゃないかと思われるような暴挙に出ます。神社やお寺は、観光客から拝観料を取る以外に、どんな役割を果たしているんでしょうか。よもや、お寺さんの方こそ、地獄を失っているんじゃないでしょうか。
もともとが来世や他界を語る宗教だけに、安易に流れればカルト教団や霊感商法と変わりません。そうじゃないというなら、人々に生きる道や、死に臨む姿勢を示すべきです。さらには死後の世界への心の準備を促してもらいたいです。


そうかぁ。ギルガメッシュ叙事詩には、地獄の様子が書きこまれていたのか。
ずいぶん前に読んだんですけど、記憶には残ってませんでした。紀元前二千年の成立としても、今から四千年も前ですね。なんでも、「陰惨で塵芥の世界」と描かれているとか。
その後、ゾロアスター教にも受け入れられているというから、“地獄”という観念はヘレニズム玉石混交時代の荒波にもまれ、もまれながら磨かれて、あちらこちらの宗教の来世観、他界観に潜り込んでいったわけですね。
そう思うと、地獄に落ちるのも感慨深いものがあるかもしれませんね。
他にも、あの世のいろいろなことについて説明されてますよ。六道輪廻なんて、漫画のナルトによく出てきた言葉ですね。奈落は犬夜叉に出てましたね。奈落はサンスクリット語でナラカ、地獄を意味する言葉だそうですよ。
皆さんよく、地獄のことを勉強して、漫画を描いているんですね。
だけどやっぱり、「地獄に落ちるぞ!」って人を脅しつけるのって、いかなる時代であってもあまり趣味がいいとは思えません。いくら平等院鳳凰堂が美しくても、まずは自分だけが極楽浄土に往生しようと、それを建立した藤原頼通の心持は、あまりにもいやらしい。
それだけに懸命に生きた人の思いだけは大事にしたいです。考えてみれば、日本の文化っていうのは、地獄だの、極楽だの、お釈迦さまだの、阿弥陀如来だのって、本気になって考えて、涙がでそうなほど縋り付きたくて、必死になって作り上げたもんなんでしょう。
人々に生きる道を示そうとする寺社にこそ、敬意を払いたいです。死に臨む姿勢を示そうと仏さまに、導きを請いたいです。さらには死後の世界への心の準備を促す教えに、すべてをゆだねたいと思います。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
高校生は十人いたんですよ。十人のうち、手を合わせたのは一人きりですよ。
でも、宗教が力を失ってしまったのかというと、おそらくそういう事でもないんです。おそらく彼らは、未だに“生”とか、“死”というものに、向き合えてないんだろうと思います。
そういうものと向き合う習慣を、おそらく親の段階から失っているんだろうと思うんです。だから、手を合わせろと言われても、何をどうすればいいのかわからなかったっていうのが、本当のところじゃないかなって、・・・。一人だけ、“手を合わせる”ってことが分かる子がいたってことじゃないかなって、そう思うんです。
もしかしたら、それは宗教が力を失ったって現象以上に悲しい話かもしれませんね。
アメリカとの戦争に負けて、War Guilt Information Programで、戦争に対する贖罪意識を植え付けられた戦後日本においては、それまで日本人の精神世界の支えを排除する動きが強まりました。世の中は即物的に流れ、精神世界は置き去りにされてしまいました。
公害が社会問題化して、科学偏重の傾向にブレーキがかかったとは言っても、世の中が即物的に流れる傾向は変わっていません。技術優先、経済優先の先っ走りが問題を起こすたび、「心はどうした」だのなんだのということになるんだけど、そういうのはすぐに忘れられてしまいます。
そうすると、神道の世界も仏教の世界も、自暴自棄になったかのように、みずからの果たす役割を忘れてるんじゃないかと思われるような暴挙に出ます。神社やお寺は、観光客から拝観料を取る以外に、どんな役割を果たしているんでしょうか。よもや、お寺さんの方こそ、地獄を失っているんじゃないでしょうか。
もともとが来世や他界を語る宗教だけに、安易に流れればカルト教団や霊感商法と変わりません。そうじゃないというなら、人々に生きる道や、死に臨む姿勢を示すべきです。さらには死後の世界への心の準備を促してもらいたいです。
『地獄と極楽』 シリーズ仏教が好き 枻出版社 ¥ 1,620 死後の世界を知って、生きることの意義を実感する |
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そうかぁ。ギルガメッシュ叙事詩には、地獄の様子が書きこまれていたのか。
ずいぶん前に読んだんですけど、記憶には残ってませんでした。紀元前二千年の成立としても、今から四千年も前ですね。なんでも、「陰惨で塵芥の世界」と描かれているとか。
その後、ゾロアスター教にも受け入れられているというから、“地獄”という観念はヘレニズム玉石混交時代の荒波にもまれ、もまれながら磨かれて、あちらこちらの宗教の来世観、他界観に潜り込んでいったわけですね。
そう思うと、地獄に落ちるのも感慨深いものがあるかもしれませんね。
他にも、あの世のいろいろなことについて説明されてますよ。六道輪廻なんて、漫画のナルトによく出てきた言葉ですね。奈落は犬夜叉に出てましたね。奈落はサンスクリット語でナラカ、地獄を意味する言葉だそうですよ。
皆さんよく、地獄のことを勉強して、漫画を描いているんですね。
だけどやっぱり、「地獄に落ちるぞ!」って人を脅しつけるのって、いかなる時代であってもあまり趣味がいいとは思えません。いくら平等院鳳凰堂が美しくても、まずは自分だけが極楽浄土に往生しようと、それを建立した藤原頼通の心持は、あまりにもいやらしい。
それだけに懸命に生きた人の思いだけは大事にしたいです。考えてみれば、日本の文化っていうのは、地獄だの、極楽だの、お釈迦さまだの、阿弥陀如来だのって、本気になって考えて、涙がでそうなほど縋り付きたくて、必死になって作り上げたもんなんでしょう。
人々に生きる道を示そうとする寺社にこそ、敬意を払いたいです。死に臨む姿勢を示そうと仏さまに、導きを請いたいです。さらには死後の世界への心の準備を促す教えに、すべてをゆだねたいと思います。


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