『GHQ焚書図書開封6』より、『英米包囲陣と日本の進路』齋藤忠著
これがあまりにすごい内容なので、本の紹介とは他に、抜きだしておきたいと思います。
著者は読売新聞の記者。
刊行は昭和16年10月1日、日米開戦の2ヶ月前。
「原稿は、同年8月22日から9月7日まで読売新聞に連載されたもの」ということなので、日本がアメリカとの戦いを覚悟せざるをえなくなる、ちょうどその時の国民意識が描かれている。
『GHQ焚書図書開封6』に掲載されているその内容のすべてを、長くなるけれども、ここに留めておくことにする。
【大西洋憲章】
北大西洋の一隅××海岸の岩礁をわづかに距る半哩の地点、霏霏たる雨の海上に仮泊する合衆国重巡アウガスタの艦上に行われたルーズヴェルト、チャーチル会談が、何事を議し何事を決したかは、もとより我らの知り得るところではない。わづかに会談の成果として発表された八か条の共同宣言なるものは、空疎の文字をつらねた戦後秩序への得手勝手な希望の表白にすぎぬ。合衆国の元首と英帝国の運命を担う宰相とが、戦塵のヨーロッパをよそに、わざわざ軍艦に搭じて洋上に相会した芝居がかりの会談の成果としては、これはまたあまりといえば取りとめもない。だが、果たしてこれが英米両巨頭の洋上会談の真実の収穫であるか。
大西洋憲章 1 領土の不拡大 2 国民の合意なき領土変更の不承認 3 国民の政治体制選択の権利の尊重と、強奪された主権の回復 4 経済的繁栄に必要な世界の通商と原料の均等な解放 5 経済的分野における各国間の協力 6 ナチス暴政の最終的破壊と、恐怖と欠乏からの解放 7 海洋航行の自由 8 武力使用の放棄と、恒久的な一般的安全保障体制の確立 |
八か条の共同宣言のなかには、明らかに「ナチ政権打倒の後」云々の辞句を発見する。だがこのなかには、いまだ一文字といえども極東の事態に触れず、日本との関係に言及してはいない。しかしこれをもって、ルーズヴェルトがなお日本に対する特別の考慮を用意せんとしつつあるもののごとく受け取らんとするものがあるとすれば、そは帝国千年の運命を米大統領の気まぐれなる慈悲に託さんとする者か。だがそれにしても、これは真実に米合衆国の極東に対する消極的態度を表明するのもであるか。
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ワシントン会議以後、ひしひしと日本の身辺に感ぜられていた米合衆国の圧迫は、満州事変より支那事変へと加速度的に増大しつつ、日一日と再現もなく加重してゆくもののようであったが、ついに第二次大戦の勃発に至って、堰を切った奔流のように、一気に日本の存在を太平洋上から抹殺しようとする気勢さえ示すようになった。カナダを誘い、オーストラリアを引き入れ、英領マレーをつらね、蘭領東印度を拉し来って日本列島の四囲に築いた包囲封鎖の鉄壁は、すでに完全な形をなした。昨日までは、あらゆる手をつくしてもなお誘い得なかったソ連邦までも、今日は向こうから反枢軸陣営に転げ込んできたのだ。
広袤七千萬方哩の太平洋は、こうして英、米、ソの池沼になった。アリューシャン列島、アラスカ、カナダ、米合衆国本土、パナマ地峡、サモア、ハワイ、フィージー、フィーニックス、ソロモン、ニューギニア、ニュージーランド、オーストラリア、蘭領および英領の東印度諸島、フィリピン群島、マレー半島、ビルマ、重慶政権下の支那、そしてカムチャツカ、沿海州、シベリアとアジアに広がるソ連の国土―静かに地図をのべて、日本列島の四周を封ずる敵性国家の鉄壁の連陣を見まもるとき、かかる重囲のなかに在ってなお毅然として弧剣アジアの運命を護らんとする祖国の姿に、人は熱き血のたぎるを覚えぬか。
皇国はいま、文字通り生死存亡の関頭に立つ。日本の外交も、遂に来たるべきところまで来たのである。
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七月七日アイスランド進駐が、行動によって米国参戦の意志を表明したものとするならば、八月十四日の英米共同宣言は、言辞によって明確に合衆国がすでに事実上の交戦国であることを世界に公言したものといえる。
この八か条の宣言を静かに読み返してほしい。どの一条を取り上げてみても、米合衆国は英帝国と不離なる一体として、「英米両国は」という複数の形をもって発言していることに気づくはずだ。
いわゆる「ナチの暴政」を打倒するために、そして世界のあらゆる地域における反民主主義国家を懲罰するために戦いつつあるものは、もはや孤影㷀然(ケイゼン)たるイギリスではない。そのイギリスの剣を執る手にぴったりと引添うて、いま米合衆国は誰憚るところなく、イギリスの戦争の分担者として戦場の名乗りをあげたのだ。米合衆国はすでに参戦した。戦闘旗は檣頭(ショウトウ)高く掲げられたのである。
今日におよんで、米合衆国は一体何のために参戦する。アメリカは、独ソ戦争の勃発を機会としてイギリス帝国落日の悲運を昔に招き返し得るとでも信ずるようになったのか。イギリスの戦いに必勝の公算あって、ドイツの敗衂(ハイジク)とアングロサクソン平和確立の可能を確信するに至ったか。― われらはけっしてその然るを信じない。真実はむしろ、その正反対にこそあろう。
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七月にいってやや衰えを見せたかと思われたドイツ潜水艦群のイギリス通商攻撃も、夏八月に入ってよりは、ふたたびすさまじい成果を示しはじめた。十五日までの前半期だけの犠牲の数字が三十九萬噸という。月の終わる日までには、戦果はおそらく八十萬噸の撃沈を示そう。
搗てて加えて、相次ぐドイツ空軍の爆撃下にあるブリテン島は、殆どすべての海港を破壊しつくされ、重軽工業の機能も瀕死の状態にある。どのように希望的に眼前の戦勢を判断しようと努力しても、冷厳な数字はあからさまにドイツの必勝を示し、イギリスの壊滅の運命を指さす。
米合衆国がいま猛然として起ち上がろうとするのは決してイギリスの勝利を信ずるがゆえではない。ルーズヴェルトはかえって、イギリスの離乱潰滅の日の必ず近かるべきをこそ信じ、また期待しているのである。
この参戦によって米合衆国が期待するところは、英帝国起死回生の奇跡ではない。ただ心ひそかに期するものは、英帝国遺産相続権の獲得なのだ。欧亜の両大陸に渡り、世界の七つの海をおおう広大無辺の領土を、英帝国崩壊ののちにむなしく戦勝者の手に委することは、米合衆国の到底忍び得ることではない。だが、いまこの危機の瞬間において剣を抜かなければ、米合衆国はあるいはイギリス帝国の遺産を護り受くべき口実を永久に失うかも知れぬのだ。そうなっては百年の悔いもなお及ばぬことを恐れるのである。
このようにして、すでに合衆国の参戦目的がイギリスの遺産に存するならば、その戦争が最後の目標として目指すものは、かならずアジアと太平洋におけるアングロサクソン永劫の支配権の確立にこそあらねばならぬ。英米共同宣言はかくてわれらに、いつの日かは必ず米合衆国の全圧力が、西太平洋と日本列島とに向かって焔の焦点のごとく集中さるることあるべきを予示するのだ。
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【大英帝国の覇権】
三千四百四十一萬六千百三十八平方キロメートルという数字が、どのような広大な陸の展(ヒロ)がりを示すものであるか、考えてみた人があるであろうか。― これはイギリス帝国全版図の面積総計である。地球の陸の五分の一を占め、世界人口の四分の一を統治するという空前の大帝国は、七つの海をおおうて日の没する果てもないという。
だがその覇業は、多くの被圧虐民族の犠牲の上に立つ。わけてもその帝国の根幹を養うものは、十億の人口を擁するアジアの沃土である。規模の壮大において古今に比を絶する大帝国の偉容を仰ぎ見る前に、われらはまづ眼をふせて、その帝国の柱軸を疲れた肩の上に支えて立つ、世界至るところの失われたる民族の存在を注視しなければならない。
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一九一九年四月十三日のいわゆるパンジャブ虐殺事件は、そのもっとも悲惨なものの一例であった。パンジャブ州の一都市アムリッツァーに起こったこの大屠殺は、前年発布されたローラット法と呼ばれる悪法に対する民衆の反対示威運動を暴圧するために行われたものであるが、駐屯軍司令官ダイヤ―が、ただ一言の警告もなく、ジャリアン・ワラ・バタ公園に群集した二萬の市民の頭に機関銃火の雨をそそいで殺傷したことは、ガンディならずともまさに悪鬼の所行と断ずる他はない。これは永く英国暴虐の歴史の一項を飾るもの。アングロサクソンの残忍性を暴露することかくの如きも少ないといわねばならぬ。
同じような侵略戦と詐謀とは、支那大衆に対しても用意された。そればかりではない。われわれの日本に対してすらも、同じような内容の侵略戦は幾たびか指向されたのだ。幕末の開国攘夷の論争の頃から明治初年前後へかけての日本歴史を読むものは、幾たびか現在の支那と同じうしようとする危機に逢着したわれらの祖国の姿を見て、膚(ハダエ)に粟を生ずるの思いを禁じ得まい。
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英国が拭うべからざる醜名を千載にのこす圓明園離宮の未曽有の大掠奪事件も、またこの北京攻撃の副産物であった。北京城外に林泉の美を誇るこの清朝文化の記念塔に加えられた飽くなき却掠と破壊こそ文明の汚辱でなくて何であったろう。宮殿を飾る繍畫も、彫像も、陶器も、何もかも悉く、土足のままで乱入した英仏連合軍の士官の手で奪い去られてしまった有様は、面を背けしむるあさましさというほかはなかった。
これらの掠奪品は、司令官の手で競売に付された。司令官認許の公然たる強盗行為である。そしてその利益のうちの十数万円を、司令官は、軍律によって掠奪に加わり得ず、士官の獲物を指をくわえて眺めている他はなかった下級兵士らのために割いた。しかるにこれに次ぐ日曜のこと、監視の弛緩に乗じた英国兵士らは先を争うて離宮に闖入し、手当たり次第に残品を漁って狼藉の限りをつくしたのだ。
こうして二日にわたる大掠奪に一物をあまさぬ廃墟となった圓明宮は、一八六〇年十月十八日より十九日へかけて英軍の放つ火のために焼け落ちて、ただ一望の焦土となってしまった。
その後において彼が漸く中原に植え、湖西に培った絶大の勢力については、ここに事新しく語ることを避けよう。その一方において、辺境における彼の侵略の手も留まるところを知らず北に延びつつあった。ビルマはこうして支那から奪われた。日露戦争のどさくさ紛れに、チベットもこうしていつの間にか彼の手に収まった。
今日、英国はすでに支那より奪うべき何ものをも持たぬ。彼の支那大陸植民地化の野望は殆ど遂げられた。欲するほどのものがすでに悉くその手に期した今、恐るるところはただ現在持てるものを失わん一事のみである。イギリスの猛獅は、その両肢の間に支那の臠肉(レンニク)を抱いて右睥(ウヘイ)し、左睨(サゲイ)しつつ、ただその一片たりとも他の手に奪い去られんことを怖れ、且つ警戒しているのだ。唱えて支那領土保全という。
その美名は、己が折角抑え得たる獲物を他人の手に渡すまじとする利己心のカムフラージュにほかならぬ九カ国条約とは、極言すれば英国が譎詐(キッサ)と暴力によってかすめ得たる贓品を、永く他人の手より保障せんとする強盗の仁義だ。
好餌はすでに彼の肢(ウデ)の下にある。あますところはただその肉を貪り、その血を啜るの一事のみである。英国資本の力によって、中南支に縦横に布き列ねられた幾条かの鉄道は、すべてこれを支那大陸の精血を吸う脈管であったといって差し支えない。
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【日本の登場】
名づけて「東洋の番犬」という。過去四半世紀にわたって、英国は日本をその名に値するものたらしめんとして、籠絡至らざるなかった。日本もまた、一応は、日英同盟も存したる等の情誼よりして、表面強いて彼と事を構うるを避くるかの如きに見えた。だが、もとより彼が術策に乗って、彼がために火中の栗を拾うの愚を敢えてするものでは無かったのだ。かくて英国の朝野は、いま漸く、日本が夙(ツト)に英国の鎖を断ち切って、すでに彼らの番犬的存在ではなくなっていることに気がついたのである。忠実な犬とばかり思い込んでいたものは、まことは恐るべき猛獅であった。いまこの巨獅は、アジア解放の嵐に鬣(タテガミ)を鳴らしつつ、颯爽と、東亜の主への道へと歩を踏み出したのである。
今にして思えば、日英の両国は、いつの日かは必ず支那大陸において剣花の間に相まみゆべき宿命にあった。
しかも英帝国に対する日本の運命は、またそのままに米合衆国に対する日本の運命であらねばならぬ。英帝国の退陣は即座に米合衆国の猛進を結果した。アジアはいま前門の虎を追うて、かえって後門の狼を導き入れたのである。これら十億の救いなき魂のために、かくて日本は、あるいは再び剣を執って起つのやむなきに立ち至るかも知れぬ。
それにしても、その日本の「おおみいくさ」を誹謗して、英首相チャーチルが二十四日夜の放送において放言するところこそ、まことに奇怪至極というほかはない。彼は皇軍の大陸における行動を毒罵して「ただ支那の広大な地域を無益に彷徨蹂躙しつつ、到るところに殺戮と破壊とをほしいままにするもの」という。
だが、その二千載の久しい年月を互いに国を隣しつつ相倚り相親しんで来た皮膚の色をおなじうする二つの国民を、本意ならぬ戦いに駆って倶に相争わしめ、血を流さしめつつあるものはなにものであるか。
さきには支那民衆に毒ある思想を与えて、これを益なき抗日の戦いに駆った。いまは瀕死の重慶に、あらゆる方法をつくして武器を給与し、借款を与え、声援を送りつつ、支那民衆の血の最後の一滴までもこれをイギリスのための戦いに濯ぎつくさしめようとする。
彼らが四載にわたる抗戦の陰に終始ひそむ邪悪の傀儡師は、そもそも何ものなのであるか。
彼は、彼自身の手をもって皇軍の剣尖に盾として抛った支那の骸を指さして、これを皇軍の「殺戮」と誣罔(ブモウ)し、「破壊」と欺瞞する。しかしながら、よく眼を見開いて見よ。破壊され、殺戮されつつあるものは、ただイギリス帝国の吸血的搾取機構のみである。あたらしく美しきアジアは、いまその廃墟の上にこそ、日支両国のたゆまざる協力によって不死鳥のごとく甦り来たらんとしつつあるではないか。
しかも記憶すべきは、この讒誣誹謗(ザンブヒボウ)の大演説が、イギリス、インド軍の不法なるイラン侵入のまさしく前夜に行われたことである。
このような暴言の舌の根も乾かぬに、彼は世界の眼前に、そのいわゆる「ほしいままなる殺戮と破壊」の標本をみづから演じて見せようというのだ。ただ一握の小帝国、それも過去三十年の苦惨によって僅かに購い得た独立と平和とを守らんことをのみ願うほかには余念もなき弱小の中立国に、銃火の暴力を加えてこれを圧伏しつつ、しかもなおチャーチルは敢えてみづからを「少数民族の保護者」と称するか。鉄蹄その中立の意志を蹂躙し、剣尖にかけてそのもてる物を強掠することが、彼のいわゆる「被圧迫民族を圧迫より解放して、自由と正義とに復帰せしめる」所以なのであるか。
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【アメリカの台頭】
この前後、の米合衆国は、米州の東海岸にわずかに南北に延びた一連の小連邦であって、いまだ一片の海岸線をも太平洋の岸には所有していなかったのだ。西部太平洋岸の広漠たる天地は、ただ荒涼たる沙漠とインディアンの世界であった。まして一八二二年には、ヨーロッパの海を拒まれて遠く太平洋への出口を求めつつ東に突進してきたロマノフ王家のロシア帝国が、カリフォルニアの野を占領してここにその植民地を建設さえした。
そのロシア帝国の勢力をようやく追うて、カリフォルニア一帯の沃土をメキシコから強奪したのは一八四八年のことである。わが嘉永元年― いまを去るわづかに九十三年の昔にすぎぬ。
しかしながらこの頃には、アジアとそれをめぐる海とは、すでにヨーロッパ諸強の凄惨な帝国主義的狩猟戦の狩り場であった。太平洋の海心に浮かぶハワイの珊瑚島群は、はやくも彼らの争奪の目標になっていた。わが小笠原諸島も、琉球列島も、またこの前後から彼らの捕鯨船の注意をひきはじめた。イギリスと、フランスと、ロシアと、そして新参のアメリカとが、これらの島々を間にして息詰まる対立を演じた。一八四七年には、フランスはついにハワイ諸島中の主島オアフの占領をさえ試みた。このような海上の闘争は、立ち後れた米合衆国を焦燥に駆って、ついにさきにいう日本列島侵略の冒険に突進せしめたのである。
やがて米合衆国は、アラスカをロシアから購い取った。一八九三年にはハワイ女王リリオカラを王位より逐うて国土を強奪し、九七年には公式にこれを合衆国に併合した。あくる一八九八年には、キューバ島のハバナにおける軍艦メイン号の爆沈を口実として、スペインを干戈によって制圧した。フィリピン群島は、この戦いの結果米合衆国の所有に期したのだ。
渺茫たる太平洋の海心に、米合衆国はすでに二つの重要な戦略要点を把握した。更にこの二つの前進根拠地を結び列ねる鎖の環として、一八九八年にはグアム島を、そして一九〇〇年にはサモア諸島のツツイラを手中に収めた。太平洋制握の基礎工事はこうして出来上がったのである。わづかに一両年の間に、米合衆国は、広大な版図を波濤の上に擁する海洋国歌に飛躍した。日清戦争勃発の四年前― いまより数えて四十一年前のことである。
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日本はそのありあまる人口の捌け口を、断じて西半球に求めてはならぬ。だが、アジアは米合衆国のために残された唯一つの市場であるがゆえに、ここに日本がほしいままに縄張りするを許さぬ。
南北両米大陸は、米合衆国と境を接するがゆえに、合衆国の特殊利益圏である。だが、日本とただちに壌(ツチ)を接するアジアの諸地域は、これは断じて日本の特殊利益圏であってはならぬ。日本はみづからがアジアにおいて享有する利益を、必ず米合衆国に分かち与えねばならぬという。世にこれほど勝手至極な、自家撞着の主張がまたと存在するか。
米大陸、オーストラリア、蘭領東印度― 物豊かに人乏しき広大な陸は、悉く日本人に対して厳にその扉を閉ざした。これは白人のみの楽土である。その入り口には到るところに「日本人入るを禁ず」と厳めしい制札が立てられているのだ。
試みに太平洋上の地図の上に、アリューシャン列島の西端とハワイ諸島とを結ぶ一線を画してみよ。更にハワイ諸島よりフィリピン群島のマニラに連なり、マレー半島の突端シンガポールに終わる横の一線を描いて見よ。
これはアングロサクソンの両邦が、溢れ出でんとする日本民族の力を圧塞する海上の大堰堤だ。彼らのいわゆる「アングロサクソン平和」を保障するための万里の長城だ。
この内側には、寸尺の瘠土(セキド)に立錐の余地もなく爪先だった人間の洪水の、言語に絶した氾濫がある。そしてこの外側には、忘れたような静寂があり、悠々たる楽土の生活がある。これはアングロサクソンの手によって築かれたアジアの牢獄だ。しかもこの不自然を極めた障壁の内側においてすら、日本はみずからの血で購うた特殊権益圏から閉め出されようとする。かくては一億の日本民族は、いずこの真実に生くべき天地を求むればよいのであるか。― いわゆるABCDラインとはこの海上の大堰堤の別名であり、大東亜共栄圏確立の要望とは、アジア十億の囚われの民のために、この牢獄の鉄扉を破摧して、ともに自由なる大空の下に呼吸せんとする必死の念願にほかならぬのだ。
四十年前、英帝国の威圧は隈なくアジアの全土に及び、米合衆国はわづかにその鼻息をうかがいつつ、ただ彼が怒りを激発せざらんことにのみ汲々たる有様であった。三十年前のアジアにおいては、英帝国はすでにみづからに拮抗する大いなる勢力としての米合衆国の無遠慮なる進出を、少なからぬ警戒と困惑の眼をもって眺めつつあった。二十年前には米合衆国ははやくも太平洋の支配者をもって自ら任じ、イギリスはその王座を米合衆国のために譲って歩一歩アジアを退かんとしつつあった。そして十年前には、英帝国はわづかに中南支を死守するのみに全力をつくして、アジアの全土はすでに挙げて星条旗のもとに委ねんとしつつあったものの如くである。
かくてモンロー主義発展の歴史は、英帝国勢力の後退と米合衆国勢力のこれに対する追撃の歴史であったといって差し支えない。今日、アングロサクソンが太平洋上に結成しつつあるいわゆるABCD包囲陣も、その主体はいうまでもなく米合衆国である。イギリスは最早これに付随し、これに便乗する寄生的勢力にすぎぬ。
ワシントン軍縮会議は、米合衆国のアジア制圧に最大の障害をなしつつあった日本の海上武力を、樽俎(ソンソ)の謀略によって破摧した無血の戦いであった。ヴェルサイユ条約がヨーロッパにおいてドイツに課したるところを、ワシントン条約はアジアにおいて日本に加えようとした。これは米合衆国の公然たるアジア支配の宣言であったのだ。
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【南部仏印 風雲急】
六月半ば、すでに百機のカーチスP40戦闘機が重慶に入った。その上に合衆国政府は、五月三十一日以後、合衆国陸海軍に籍を置く飛行士の重慶空軍に参加することを、公然と許容さえしたのである。
フィリピン陸軍航空司令官陸軍大将クラゲットも、五月より六月にかけて重慶、成都の航空基地を巡察し、支那空軍の現状をつぶさに見て帰任した。これらはすべて、所詮は支那の全非占領地域を英米の基地と化して、支那空軍の仮面に隠れつつ、米合衆国極東空軍をアジアの心臓部に建設しようとする侵略の意図を示唆するのだ。
フィリピンの戦備もまた急速に進行していた。昨一九四〇年の初冬、ハマートン第二〇と、セルフリッヂ第一七の両追撃飛行中隊がマニラ郊外のニコルズ飛行場に増派を見てのち、相次ぐ海空勢力の増強はめまぐるしいばかりであったのだ。
その二隊の戦闘飛行中隊増派のことがあってからわづかに一ヶ月の十二月には、十二隻の大型航洋潜水艦の一隊がまた新たにフィリピンの守りに加わった。かねてキャヴィテにあった十二隻の潜水艦に加えて、合衆国アジア艦隊に属する潜水艦勢力は全部で二十四隻になったわけである。泰国に売り渡されるはずであった十機の戦闘機も、またそのままマニラにとどまって、ついにバンコックの空には姿を現さなかった。
本年に入ってからは、四月二十二日にも、合衆国陸軍輸送船リパブリックが十七名の士官を含む二千七十五名の陸兵をマニラに揚げた。このような慌ただしい東亜の空の雲行きは、ついに当然定年によって任を去るはずであったアジア艦隊司令長官ハート大将を、そのまま現職に引き留めることになったのである。
七月二十六日には、その上に、大統領ルーズヴェルトの緊急措置によって、新たに十三萬のフィリピン陸軍が米合衆国陸軍の隷下に置かれた。それまでフィリピン陸軍最高顧問の地位にあった陸軍少将マッカーサーが、合衆国陸軍極東司令官として、比島駐在の米陸軍一萬五千の兵力と併せてこれを統括するのである。わづかに二隻のQシップを擁するに過ぎぬ取るに足らぬ勢力ながら、フィリピン海軍もまた合衆国第十六海軍区司令官海軍大佐ハロルド・ベミスの指揮下に編入された。
シャンステートに一萬、マンダレーに二萬、ラングーンに二萬、ペナン付近に二萬五千、コタに一萬、英領マレー中部西海岸に一萬、同じ中部東海岸にも一萬、そしてシンガポールの守りには二萬― それはすでに三ヶ月以前の六月初旬におけるイギリス極東軍一部の配備であった。さらにマンダレー、ラングーン、モールメン、メルグイ、ヴィクトリア・ポイント、アロル・スター、スンゲイ・パタニ、コタバール・ポート、シンガポールと星羅のごとき空軍基地の数を連ねて、ビルマに二百機、マレーに五百機― 泰は重囲のなかに陥ったのである。
このようにして一面武力の示威をもって泰を牽制し、他面在英米泰資産凍結の恐怖をもってこれを威嚇しつつ、泰をしてその米を、錫をまたゴムを、日本に対して供給することを拒絶せしめようとする。そしてまた泰の動揺は、ただちに仏領印度支那の危急を当然結果したのだ。
支那事変発生以来終始重大な援蒋的役割を演じてきたこの連邦ではあったが、さきに松岡・アンリ会談による皇軍の北部印度支那進駐ののちは、この地方を通じて執拗に続けられてきた援蒋物資の輸送も全く跡を絶った。
だが、なお交址支那(コーチシナ南部仏印)には今日も重慶政権の領事を駐め抗日華僑の諸団体も白日の下に公然と反日運動を展開しつつある。反日英米人もまた自由に往来出入して、この運動を支援し、操縦しているのだ。
わけては、このような仏印敵性の策源地であった。サイゴン、シヨロン等の南方諸市は、第二の香港であり、またシンガポールであったといい得よう。ヴィシー政府に対して反旗を翻すド・ゴール派は、その本拠をこれらの諸市に置いた。
重慶と策応してあらゆる反日行為に没頭する抗日華僑もまた、これら南方諸市を根拠と頼んだ。
イギリスと重慶支那とは、そのド・ゴール派と共謀して、内外相応じて仏印侵略の体制を強化しつつあった。ビルマ国境に大軍を集結し、シンガポールの防備をこれ見よがしに強化する。七月、仏印北境モンカイ、ロンダンに集結した六萬の重慶軍は、このころしばしば越境をさえも伝えられたのである。
しかもこの間に、近東における仏領シリアは、ウェーヴェルの率いるイギリス近東軍の鉄蹄下に蹂躙された。シンガポールにあるシャルル・ロバンの如き、即座にこの事件を取り上げて仏印に警告を発し、これを英米の陣営に引きずり込もうと試みた。― シリア敗戦の例に見よ。フランス植民地の防衛は英米の援助によってはじめて成り立ち得ることを、この敗衂(ハイジク)はあからさまにわれわれに証明するではないかというのである。あまつさえ米合衆国も、在米仏印資産凍結の威嚇をもって、あるいは石油、麻の供給断絶の脅迫をもって、手を代え品を代えてこれを支給する。仏領印度支那は危うかったのだ。
さきに近東の死活問題を口にしてシリアを強奪したイギリス、西半球の防衛を口実にして、米州より海上二千海里の遠きにあるアイスランドに兵を進めた米合衆国は、何時どのような牽強付会の理由によって仏領印度支那に暴力を加え来たるやも測られなかった。彼らの仏印侵略のめざすところは、これによって、近来とみに帝国との国交を厚うして来た泰を隔離、孤立せしめんとするにある。さらにこれを力によって威嚇し、遮二無二英米の陣営に拉し去らんとするにある。かくて日本をアジアの一隅に封圧して、南アジアの戦略物資をアングロサクソンの独占下に置かんとする。
情勢はまさに三十年前の日露戦争の前夜に彷彿たるに至った。帝国は、仏領印度支那が敵性諸国の連合勢力によって奪い去らるるを黙視し得なかった。皇軍の南部仏印増派は、この形勢に対して自ら衛らんとするに出でたものなのである。
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【南部仏印進駐】
日仏両国間に締結された仏領印度支那共同防衛に関する議定書はまづ、日本は仏領印度支那の安全の脅威さるる場合、これをもって東亜ならびに日本の安全が危険にさらされたものと認めざるを得ぬことを規定する。これはフランスが、東亜における日本の優位をあらためて再確認したものである。
第二には、かかる場合日本は、東亜におけるフランスの権益、特に仏領印度支那領土の保全と、仏領印度支那連邦に対するフランス主権の尊重とを約束する。これはまた仏領印度支那があきらかに日本の指導する東亜共栄圏内の一員たることを、仏領印度支那みづから確(シカ)と承認したことにほかならぬ。
かくて二十六日ヴィシーにおける日・仏印共同防衛協定の成立は、二十九日議定書調印式の完了とともに、疾風の如き皇軍の南部印度支那前進となった。この平和的前進は、もとよりフランス政府との深き了解に出づるもの。その意味するところは、まさしく三十年前の日露戦争におけるとおなじく、やむを得ざるに出でたる緊急自衛の措置にほかならなかったのである
畢竟、自衛の限度を出でぬ日・仏印共同防衛の取り決めを、英米はことさらに攻撃的なるものの如くに曲解した。かくてこれに対する報復手段として、即日、帝国在米資産の凍結を行うた。
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【戦雲近づく】
昭和十七年七月、日英両国の東京会談が順調に進行し、英国がついに東亜に存在する大規模の戦争状態を確認して、日本に対する協力の方向に進み来たらんとしたとき、突如日米通商航海条約の破棄を通告し来って、これによって英国を牽制し、会談を爆砕したものは米合衆国であった。かくてもなお日本が日米両国の歴史的関係を思うて隠忍自重ついに作戦上の重大支障をも顧みず、揚子江下流の開放を約してまで、大陸の新事態に対する彼の認識の修正と協力とを希望したるにかかわらず、なお冷然としてこれを一蹴したものもまた米合衆国であった。
かくてその艦隊の主力をハワイに集結して、太平洋上に武力の示威を敢えてするのみか、対日禁輸に次ぐに禁輸をもってして、現在の如き危機の醞釀(ウンジョウ)に、米合衆国こそはそのあらゆる手段と努力とを傾けつつあったのだ。ただわずかに少量の重油、屑鉄を昨日まで許容した所以は、完全禁輸によって必死の窮地に立つに至るべき日本が、憤然として剣を按じて起たんことを怖れたるがゆえにほかならぬ。
今日、その雀の涙ほどの重油の供給をさえもついに全く禁絶するに至ったのは、米合衆国が、いまこそ包囲封鎖のこけ脅しによって、日本をたやすく屈服にもたらし得ると誤り信ずるがゆえにほかならぬ。
日本はいま米大統領にわが首相より書簡を送って不壊の信念を披瀝、彼をしてわが所信への理解の上に立って反省せしめ、避け得べくんばアジアの過乱を未然に避けんがために、全幅の努力を傾注しつつある。しかもついに彼にして理解せざるにおいては、最早日本に残された道は二つよりないのである。一は妥協よりする屈服のそれ、他は勝利を通じての揺るぎなきアジアの平和に向かうそれ。
しかしながら、ここに一日の妥協を思うことは、彼が戦備のためにさらに一日の余裕を与うることにほかならぬ。
その上に日本の国力は、彼らが封鎖下にあって刻一刻と消耗しよう。われらはすでに入るものをもたぬのである。もはやわれらは歴史あって以来未曽有の戦いに無限にその力を消費しなければならないのだ。かくて彼が恫喝に屈し、彼が甘言に惑溺することは、みづから身を彼が投げ与うる鉄鎖の下に置くにことならぬ。妥協の路はただちに屈服と破滅とに通ずるのである。
祖宗の大業を放棄し、幾多先覚の霊を地下に哭せしめて、アングロサクソン隷下の一属邦たるに甘んずるとならば、われらまた何をかいわんやである。しかしながら、もし近衛声明以後百たび千たび日本がアジアの諸民族に誓い、一億国民に訓(オシ)え来たりたることが誤りなき真実であるならば、日本の生くる道はただ一つ― アジアの平和を維持し、その過乱を防止せんがためにあらゆる努力をつくして、なお彼にして聴かずんば、猛然起ってこの重囲を撃砕し、東亜諸民族共栄の楽土を現実にアジアに創造するほかにない。妥協は、外、アジアの民をして日本に信を失わしむるものである。妥協は、内、忠誠なる国民をしてよるところに迷わしむるものである。
われらがいま為しつつあるところは、文字通り最後の努力である。彼にしてわが言うところに聴いて翻然態度をあらため来たるならば、太平洋の平和のためにはまことに幸いである。しかしながら彼にしてついに省みるところ無くんば、われらは或いはアジア千年の光栄のために新しき建設の路に入るの止む無きに立ち至るやも測られぬ。これはおそらく、久しき年月にわたる国民営営の労苦と、金剛不壊の意力とを必要としよう。かかる長期の総力戦に日本のために不敗の地歩を保障するものは、いうまでもなく大東亜共栄圏のすみやかなる完成だ。
大東亜共栄圏の確立は、アングロサクソンの桎梏を破摧して、アジアみづから無限の力の上に立つ所以であり、英米連合勢力の克服はまた、ひさしくアジアを毒しつつあった禍の根を絶って、東亜諸民族共栄の世界の揺るぎなき基礎を置くことにほかならぬ。この意味において、大東亜共栄圏の正否こそはただちに帝国死活のわかるるところなのである。
日本がすでに四年にわたって大陸に戦いつつある聖戦を完遂するの道もまた、これをほかにしてはあり得ぬのだ。
由来日本民族は、笑いを知らぬ民族である。悲しみあれば泣き、喜びあれば泣く。われらが先覚の歩んだ艱難の道に、つねに彼らの苦闘に伴うたものは、かかる悲喜をわかたぬ涙であった。彼らは清帝国を斃し得ては泣いた。彼らはロシア帝国の野望を北満の野に粉砕し得ては泣いた。ただ同胞相擁して泣かん悦びの日のために、彼らは切歯して十年の臥薪嘗胆に耐えた。勝利の前に泫然として泣く不思議な国民― それほどまでに日本の歩んできた路は余裕なく、険しかったのである。
これは雨に打たれ、風に叩かれて、凛然と花咲出づる一樹の桜花。雨に打たるればこそその花の色はひとしお冴えて美しく、風に叩かるればこそその花の香もことさらに香ぐわしい。
いまその梢に、嵐は三度咆え荒ぼうとする。いまわれらが手を携えつつ嵐の中に面を上げて、敢然と試練に突進する時だ。同胞を決意はいいか。覚悟はしっかりとできているか。― それもこれもみなやがてうららの春空に爛漫たる萬朶の花を咲き出でんがためには、暫しは忍ばねばならぬ風雪の苔(シモト)なのだ。

テーマ : アメリカ合衆国
ジャンル : 政治・経済