めんどくせぇことばかり 欧米
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アメリカにとっての大東亜戦争 日米諒解案

緊迫の度を増してきた日米間の外交交渉は、昭和16(1941)年4月より政府間交渉へと移行していた。アメリカのコーデル・ハル米国務長官と野村吉三郎大使との間で1941(昭和16)年4月16日に日米諒解案が取りまとめられました。
《日米諒解案》
日本国政府及米国政府両国間の伝統的友好関係の回復を目的とする全般的協定を交渉し且之を締結せんか為此に共同の責任を受諾す
(中略)
両国政府間の関係は左記の諸点に付事態を明瞭にし又は之を改善し得るに於ては著しく調整し得べしと認めらる
 1.日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念
 2.欧州戦争に対する両国政府の態度
 3.支那事変に対する両国政府の関係
 4.太平洋に於ける海軍兵力及航空兵力並に海運関係
 5.両国間の通商及金融提携
 6.南西太平洋方面に於ける両国政府の経済的活動
 7.太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針

前述の事情より此に左記の了解に到達したり右了解は米国政府の修正を経たる後日本国政府の最後的且公式の決定に俟つべきものとする

1.日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念
 日米両国政府は相互に其の対等の独立国にして相近接する太平洋強国たることを承認す。
 両国政府は恒久の平和を確立し両国間に相互の尊敬に基く信頼と協力の新時代を画さんことを希望する事実に於て両国の国策の一致することを闡明せんとす。
 両国政府は各国並に各人種は相拠りて八紘一宇を為し等しく権利を享有し相互に利益は之を平和的方法に依り調節し精神的並に物質的の福祉を追求し之を自ら擁護すると共に之を破壊せざるべき責任を容認することは両国政府の伝統的確信なることを声明す。
 両国政府は相互に両国固有の伝統に基く国家観念及社会的秩序並に国家生活の基礎たる道義的原則を保持すべく之に反する外来思想の跳梁を許容せざるの鞏固なる決意を有す


2.欧州戦争に対する両国政府の態度
 日本国政府は枢軸同盟の目的は防御的にして現に欧州戦争に参入し居らざる国家に軍事的連衡関係の拡大することを防止するに在るものなることを闡明す。
 日本国政府其の現在の条約上の義務を免れんとするか如き意志を有せず尤も枢軸同盟に基く軍事上の義務は該同盟締約国独逸か現に欧州戦争に参入し居らざる国に依り積極的に攻撃せられたる場合に於てのみ発動するものなることを声明す。
 米国政府は其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に於て一方の国を援助して他方を攻撃せんとするか如き攻撃的同盟に依り支配せらるべきことを闡明す米国政府は戦争を嫌悪することに於て牢固たるものあり従って其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に亙り専ら自国の福祉と安全とを防衛するの考慮に依りてのみ決せらるべきものなることを声明す。

3.支那事変に対する両国政府の関係
 米国大統領が左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし
  1. 支那の独立
  2. 日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
  3. 支那領土の非併合
  4. 非賠償
  5. 門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議されるべきものとす
  6. 蒋政権と汪政権との合流
  7. 支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
  1. 満洲国の承認                                              
蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接に和平交渉を開始するものとす。日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及び経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に掲示すべし。

4.太平洋に於ける海軍兵力及航空兵力並に海運関係
  1. 日米両国は太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及航空兵力の配備は之を採らざるものとす右に関する具体的な細目は之を日米間の協議に譲るものとす
  2. 日米会談妥結に当りては領国は相互に艦隊を派遣し儀礼的に他方を訪問せしめ以て太平洋に平和の到来したることを寿ぐものとす
  3. 支那事変解決の緒に着きたるときは日本国政府は米国政府の希望に応じ現に就役中の自国船舶にして解役し得るものを速かに米国との契約に依り主として太平洋に於て就役せしむる様斡旋することを承諾す但し其の屯数等は日米会談に於て之を決定するものとす
5.両国間の通商及金融提携
 今次の了解成立し両国政府之を承認したるときは日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障せらるるものとす又両国政府は嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き正常の通商関係への復帰の為適当なる方法を講ずるものとす尚両国政府は新通商条約の締結を欲するときは日米会談に於て之を考究し通常の慣例に従い之を締結するものとす。
 両国間の経済提携促進の為米国は日本に対し東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及日米経済提携を実現するに足る金クレジットを供給するものとす。

6.南西太平洋方面に於ける両国政府の経済的活動
 日本の南西太平洋方面に於ける発展は武力に訴うることなく平和的手段に依るものなることの保障せられたるに鑑み日本の欲する同方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、ニッケル等の物資の生産及獲得に関し米国側の協力及支持を得るものとす。


7.太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針
  1. 日米両国政府は欧州諸国が将来東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等を為すことを容認せざるべし
  2. 日米両国政府は比島の独立を共同に保障し之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法に付考慮するものとす
  3. 米国及南西太平洋に対する日本移民は友好的に考慮せられ他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

この日米諒解案には、同時に「ハル四原則」が提示されている。
  1. すべての国家の主権尊重、領土不可侵
  2. 内政不干渉
  3. 機会均等を含む平等原則
  4. 太平洋秩序の維持
これをふまえた上でこれまでの日米非公式交渉を正式交渉ルートに乗せることを認めたのである。

日本は陸海軍ともに、日米諒解案に賛意を示した。しかし、近衛は決断できなかった。日独伊三国軍事同盟の立役者松岡洋右をはばかってのことである。案の定、松岡は諒解案に難色を示した。またハル四原則が正式に外務省に伝達されていなかったことから齟齬を来たし、諒解案は難航した。近衛が松岡排除のために総辞職し、第三次近衛内閣を組織した直後、日本軍の南部仏印への進駐が行われた。ハルは「日米交渉の基礎は失われた」として石油の対日禁輸に踏み切り、日米諒解案は完全に流れてしまったのである。

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アメリカにとっての大東亜戦争 ハル・ノート

ハル・ノート (1941/11/26)

日米交渉十一月二十六日米側提案 [ウィキソースより]
合衆国及日本国間協定ノ基礎概略

第一項政策ニ関スル相互宣言案

 合衆国政府及日本国政府ハ共ニ太平洋ノ平和ヲ欲シ其ノ国策ハ太平洋地域全般ニ亙ル永続的且廣汎ナル平和ヲ目的トシ、両国ハ、右地域ニ於テ何等領土的企図ヲ有セス、他国ヲ脅威シ又ハ隣接国ニ対シ侵略的ニ武力ヲ行使スルノ意図ナク又其ノ国策ニ於テハ相互間及一切ノ他国政府トノ間ノ関係ノ基礎タル左記根本諸原則ヲ積極的ニ支持シ且之ヲ実際的ニ適用スヘキ旨闡明ス

  1. 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  2. 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  3. 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
  4. 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則

 日本国政府及合衆国政府ハ慢性的政治不安定ノ根絶、頻繁ナル経済的崩壊ノ防止及平和ノ基礎設定ノ為メ相互間並ニ他国家及他国民トノ間ノ経済関係ニ於テ左記諸原則ヲ積極的ニ支持シ且実際的ニ適用スヘキコトニ合意セリ

  1. 国際通商関係ニ於ケル無差別待遇ノ原則
  2. 国際的経済協力及過度ノ通称制限ニ現ハレタル極端ナル国家主義撤廃ノ原則
  3. 一切ノ国家ニ依ル無差別的ナル原料物資獲得ノ原則
  4. 国際的商品協定ノ運用ニ関シ消費国家及民衆ノ利益ノ充分ナル保護ノ原則
  5. 一切ノ国家ノ主要企業及連続的発展ニ資シ且一切ノ国家ノ福祉ニ合致スル貿易手続ニ依ル支払ヲ許容セシムルカ如キ国際金融機構及取極樹立ノ原則

第二項合衆国政府及日本国政府ノ採ルヘキ措置

 合衆国政府及日本国政府ハ左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス

  1. 合衆国政府及日本国政府ハ英帝国支那日本国和蘭蘇連邦泰国及合衆国間多邊的不可侵条約ノ締結ニ努ムヘシ
  2. 当国政府ハ、米、英、支、日、蘭及泰政府間ニ各国政府カ仏領印度支那ノ領土主権ヲ尊重シ且印度支那ノ領土保全ニ対スル脅威発生スルカ如キ場合斯ル脅威ニ対処スルニ必要且適当ナリト看做サルヘキ措置ヲ講スルノ目的ヲ以テ即時協議スル旨誓約スヘキ協定ノ締結ニ努ムヘシ。斯ル協定ハ又協定締約国タル各国政府カ印度支那トノ貿易若ハ経済関係ニ於テ特恵的待遇ヲ求メ又ハ之ヲ受ケサルヘク且各締約国ノ為メ仏領印度支那トノ貿易及通商ニ於ケル平等待遇ヲ確保スルカ為メ尽力スヘキ旨規定スヘキモノトス
  3. 日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スヘシ
  4. 合衆国政府及日本国政府ハ臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、経済的ニ支持セサルヘシ
  5. 両国政府ハ外国租界及居留地内及之ニ関連セル諸権益並ニ一九○一年ノ団匪事件議定書ニ依ル諸権利ヲモ含ム支那ニ在ル一切ノ治外法権ヲ抛棄方ニ付英国政府及其他ノ諸政府ノ同意ヲ取付クヘク努力スヘシ
  6. 合衆国政府及日本国政府ハ互恵的最恵国待遇及通商障壁ノ低減並ニ生糸ヲ自由品目トシテ据置カントスル米側企図ニ基キ合衆国及日本国間ニ通商協定締結ノ為メ協議ヲ開始スヘシ
  7. 合衆国政府及日本国政府ハ夫々合衆国ニ在ル日本資金及日本国ニアル米国資金ニ対スル凍結措置ヲ撤廃スヘシ
  8. 両国政府ハ円弗為替ノ安定ニ関スル案ニ付協定シ右目的ノ為メ適当ナル資金ノ割当ハ半額ヲ日本国ヨリ半額ヲ合衆国ヨリ供与セラルヘキコトニ同意スヘシ
  9. 両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ同国ニ依リ本協定ノ根本目的即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルカ如ク解釈セラレサルヘキコトヲ同意スヘシ
  10. 両国政府ハ他国政府ヲシテ本協定ニ規定セル基本的ナル政治的経済的原則ヲ遵守シ且之ヲ実際的ニ適用セシムル為メ其ノ勢力ヲ行使スヘシ

第二項概略 
  1. アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する
  2. 日本の仏印からの撤兵
  3. 日本の支那からの撤兵
  4. 日米がアメリカの支援する中国国民党政府以外のいかなる政府を認めない
  5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
  6. 通商条約再締結のための交渉の開始
  7. アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
  8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
  9. 第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 (日独伊三国軍事同盟の廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである)
  10. 本協定内容の両国による推進


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アメリカにとっての大東亜戦争 フランクリン・ルーズベルトの公約

フランクリン・ルーズベルトの公約

1940(昭和15)年大統領選挙中の民主党の公約
私たちは外国の戦争に加わることはしません。私たちは攻撃を受けた場合を除いて、アメリカ国外での戦闘に、陸、海、空軍を派遣しません。・・・私たちの外交政策の目指す方向性と狙いは、これまでも、そしてこれからも、国土の安全と防衛ならびに平和の維持です。

1940(昭和15)年大統領選挙中のフランクリン・ルーズベルト個人の公約
10月23日 フィラデルフィア
「この政権はこの国を戦争に導こうとしている」という共和党の非難を誤りだと断言し、自分は平和への道筋をたどっていると主張。

10月30日 ボストン
「これはかつて述べたことだが、何度でも何度でも言おう。―皆さんの息子が外国のいかなる戦争にも送り込まれることはない。・・・我々の防衛の目的はあくまで防衛なのだ。

11月2日 バファロー
「この国の大統領がこの国は戦争に突き進まないと言っているのだ。」

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アメリカのアジア戦略 フィリピン併合

 フィリピン併合
参考『日米衝突の根源』

1898年 7月 3日 サンチアゴ・デ・クーパ沖でスペイン艦隊潰滅
1898年 7月15日 スペイン守備隊降伏
1898年 8月12日 講和条約仮調印 フィリピンでもマニラ占領完了
1898年12月10日 パリ条約調印
         スペインはキューバにおけるすべての権利を放棄
         プエルトリコを含むスペイン領西インド諸島及びグアムをアメリカに割譲
         フィリピンを2000万ドルでアメリカに金銭譲渡

アメリカ海軍がマニラ湾を制圧した段階では、まだマニラ周辺ではスペイン軍と民族独立派の激しい戦闘が繰り広げられていた。
アメリカ軍のデューイ提督は、フィリピン独立闘争のリーダーエミリオ・アギナルドに目をつけた。
1869年生まれの独立派の青年リーダーアギナルドは、スペイン軍との激しい戦いのなかで、民主的改革の実施の約束を取り付け、その条件として一時香港に出国していた。
デューイ提督はこのアギナルドを香港から連れ出し、アメリカ軍との連携を呼びかけた。
デューイ提督の「アメリカは人道的な国であって、フィリピン人がスペインからの独立を勝ち取るための支援に艦隊を送り込んだ」という言葉に、アギナルドは文書による保障を望むんだ。
しかしデューイ提督は、「アメリカ人の名誉にかけて、私が約束したことは単なる文書よりも思い意味を持つ」とはぐらかした。
アメリカのこういった発言には何の意味もないのだ。
アギナルドは6月12日に独立宣言をしている。
さらにハワイ経由でやってきたアメリカ陸軍部隊がマニラ市街に突入し、8月13日(アメリカ時間8月12日)にマニラを制圧した。
スペイン軍総督がアメリカに降伏の打診をしたのが8月7日。
つまり、最後の市街戦は形ばかりのでき試合で、休戦仮条約の締結に合わせたものである。
スペインがフィリピンをアメリカに2000万ドルで金銭譲渡することは、11月の半ばには話し合いがついていた。
しかしこれに反対する者もいた。
鉄鋼王カーネギーは、自らの個人資産から2000万ドルを拠出してフィリピンを買い上げ、それをフィリピン人に譲渡するとまで言い出した。
「領土拡張によって大きな軍隊が必要となり、その維持のために一層の税金が必要となる。さらに、アメリカは極東や太平洋地域の紛争に巻き込まれざるを得なくなる」というのがその主張である。

パリ条約は、1899年2月6日にアメリカ議会により批准されている。
しかし、この段階ではもう問題が発生していた。
2月4日、小さな諍いから米兵とフィリピン人の間に銃撃戦が起こり、米兵59人、フィリピン人3000人が死亡している。

アメリカの歴史では、外交案件で議会の賛否が拮抗すると、必ずアメリカ兵が死亡する事件が起こる。
米墨戦争開戦時には、斥候に出た騎兵部隊がメキシコ軍に襲撃され16名が死亡した(トーントン事件)。
後の真珠湾攻撃も、その線上にある。

さてフィリピンでは、この事件を契機にアメリカ軍とフィリピン独立派とが完全に敵対することになった。
このあとわずか2ヶ月の間に500人の米兵が死亡或いは重傷を負った。
8月にはデューイ提督が本国に6万人の増派を要求している。
圧倒的な米軍に、アギナルドはゲリラ戦を展開した。
ゲリラ戦はアメリカ兵に未体験の恐怖を与え、フィリピン人に対する憎しみが増幅された。

1899年2月4日からルーズベルト大統領が終戦宣言をする1902年7月4日までに動員されたアメリカ兵は12万6000にのぼった。
戦死4234人、負傷2800人、さらに数千人が病に倒れた。
フィリピン独立派の戦死はおよそ2万人、民間人も飢えや病で20万人死んだと推定されている。
アメリカの戦費は、総額で6億ドルに上った。

軍政長官を務めたダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー少将は、ゲリラ戦に悩まされたことからフィリピン独立派に対して厳しい態度で臨んだ人物である。

1900年1月、マッキンレー政権の外交政策を支持する共和党議員アルバート・ベヴァリッジ議員の演説
『我々はそろそろ本音を語るときである。はっきり言おう。フィリピンは永遠に我が領土である。フィリピンの向こうには無限の可能性を持つ支那市場が待っている。(中略)我々は東洋に広がるこの絶好の機会を逃してはならない。我が人種は世界の啓蒙を神から託されているのだ。その使命を決して忘れてはならない。』
『支那は我々にとってアプリオリにとるべき市場である。支那市場はイギリスよりもドイツよりもロシアよりも我がアメリカに近い位置にあるのだ。こうした列強は清国内に影響力を行使できる地域を持つことで、支那市場に接近を図っている。アメリカもフィリピンの獲得で極東市場のどこにでも対応できる橋頭堡を持ったのである。』

アメリカで日本人排斥運動が激しさを増すのは、ちょうどこの前後の話である。
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アメリカのアジア戦略 ハワイ併合


ハワイ併合

1778年
イギリス海軍探検家ジェームズ・クックがこの島にやってきた。
彼自身は、原住民との誤解にもとづく構想で殺されてしまう。
クックや、それを引きついだジョージ・バンクーバーの航海は、大西洋から北西に向かい北極海を抜けて支那に向かうルートを開拓することを目的としたものだった。
それらの船員のなかに、この島で暮らしたいと希望するものがあり、バンクーバーはそれを許すとともに、ハワイ島の一族長に過ぎなかったカメハメハに軍事のノウハウを伝授させた。

1810年
カメハメハによるハワイ統一。
治安の安定と欧米人によるハワイ認知により、ハワイは商船の寄港地として賑わいを見せる。
主に北米北西部で仕入れた毛皮を支那に運ぶ商船であった。

1819年
カメハメハを継いだリホリホ王が、ハワイ固有の宗教行事を廃止。

1820年4月
宗教的空白地帯となったハワイに、多くのプロテスタント系宣教師が来島。
宣教師の独善
虚飾や華美を嫌い、何より王政を嫌悪。
カルビン派の教条通り金儲けは神の御心に合致する行為。
ハワイの伝統や文化に一切の関心を示さず。
西洋的ビジネスシステムを持ち込み、土地所有の自由化をめざす。
西洋的学校システムを持ち込み、英語教育を行き届かせる。
後にハワイの主要産業となるサトウキビプランテーションは、これらの宣教師の子孫によって経営される。
ハワイ経済を握るこれらの宣教師の子孫たちは、後に王国の要職の殆どを独占し、内外政を壟断した。
1820年頃
ハワイの山々に繁茂する白檀に目をつけた商人があり、その需要は最盛期を迎える。
日本に近い海を漁場とするアメリカの捕鯨船がハワイに寄港するようになる。

1835年
カウアイ島で、ラッド・カンパニーがサトウキビプランテーション経営を開始。

1840年頃
乱伐により白檀の輸出が衰退。
それを穴埋めするように捕鯨船が増え、船員を客として賑わう。

1844年
ハワイの土地が、政府、王族、部族長、一般人に分配される。

1850年
外国人の土地所有が認められる。
外国人による土地の買い占めが可能になり、プランテーション経営に道が開かれる。

1850年頃
捕鯨船の寄港は最盛期を迎えるが、60年代に入ると、南北戦争と石油の発見で捕鯨事業事態が衰退。

1860年
カメハメハ4世が、日本に移民要請の親書を寄せる。

1867年
カメハメハ5世が日本に移民養成の親書を寄せる。

1868年
アメリカ人貿易商で在日ハワイ国総領事を兼ねていたユージン・バン・リードが幕府と交渉し、出稼ぎ人300人を集める。
幕府に変わり明治維新政府が交渉相手に変わると、新政府は一転これを中止させるが、出向準備を整えていたバン・リードは無許可のまま153人を移民させる。

1869年
明治政府は使節団を派遣してハワイ政府と交渉し、契約と過酷な労働を不満とする40名を帰国させ、残留者の待遇改善を約束させる。


1870年頃
捕鯨船寄港、ほぼ消滅。
西洋人の持ち込んだ風疹、インフルエンザ、百日咳で死亡率上昇、性病の蔓延で出生率低下により、このころまでに人口半減。

1872年
真珠湾の軍事的意味に目をつけたアメリカが、ハワイ政府に真珠湾の割譲を要求するも、島民の反対で交渉は失敗。

1873年
ルナリロ国王即位。
国王は有力なアメリカ人を閣僚に据えることで、アメリカからの政治的経済的援助を期待した。

1874年
ルナリロ国王急死。
カラカウア国王即位。

1875年
米布互恵条約締結(グラント大統領時代)。
ハワイの佐藤に対知るアメリカの関税が撤廃される。
以後、クラウス・スプレッケルスらにより、サトウキビプランテーション経営本格化。
第4条「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」とあるように、ハワイのアメリカ依存が強まる。

1881年
ハワイ、カラカウア国王が来日し、明治天皇に謁見。
白人にハワイを強奪されることを懸念し、日本に助けを求めた。
具体的には、王位を継がせるつもりの姪カイウラニと山階宮定麿親王との結婚を要望し、日本の力を背景にアメリカの圧力に抗しようとする。
明治天皇は、諸情勢からこれを拒否。

1885年
日布移民条約締結。
第一回移民船で946名の日本人が東京市号でハワイに渡る。
1 渡航費用はハワイ側が負担
2 三カ年の契約でハワイの砂糖耕地での労働。
  ただし労働選択の自由なし。
   日給  男 九弗+食費六弗
           妻 六弗+食費四弗
3 一ヶ月の労働日数  二十六日
  一日の労働時間  耕地十時間 工場十二時間
4 移民とその家族を無料で治療する
5 移民の給料の二割五分を天引き貯金する

1887年
銃剣憲法
アメリカによるハワイ併合をめざすアメリカ系サトウキビプランテーション経営者たちは、すでにハワイの経済ばかりではなく、経済にも大きな影響力を誇っていた。
彼らの組織したハワイ連合がこの年に武装蜂起し、カラカウア国王に銅憲法を受け入れさせた。
アジア系移民から投票権剥奪。(日本人移民から投票権を奪う)
投票権に、収入、財産の規準を設ける。(ハワイ現地人から投票権を奪う)
国王の権限を弱める。
枢密院、内閣の権限を強化する。(白人系ハワイ人の権限強化)
1890年にはすでに、日系移民は12,360名を数え、現住ハワイ人と併せれば、その数は人口の50%を超えていた。

1891年
カラカウア国王、サンフランシスコで客死。
妹のリリウオカラニ国王即位。

1893年
リリウオカラニ女王は銃剣憲法とハワイ人の復権をめざし新憲法の制定を計画するが、これが白人プランテーション経営者のグループに察知される。
白人グループは安全委員会を立ち上げ、アメリカによるハワイ併合を計画し、ホノルルの治安悪化を理由にアメリカ海兵隊に出動を要請する。
ホノルル港に停泊していた米巡洋艦ボストン号から海兵隊が出動し王宮を占拠、リリウオカラニ女王は退位させ王政の廃止、さらにサンフォード・ドールを大統領に暫定政府の樹立を宣言する。
サンフォードを追ってハワイに移った後ドール・フード・カンパニーを創業したハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは従弟にあたる。

日本は急遽、在留邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)と「金剛」の2隻をハワイに派遣し、ホノルル港に停泊中の米艦ボストンの両側を挟んで真横に投錨してクーデター勢力を威嚇した。
東郷は新政権を完全に無視し、リリウオカラニ女王の側近とのみ接触。
アメリカのクリーブランド大統領はハワイ併合を見送った。
巡洋艦浪速

1894年
前年以来、両陣営からアメリカ議会工作が行われたが、暫定政府はこの年の7月、ハワイ共和国の樹立を宣言。

1895年
王政派による武力蜂起がおこされるがまもなく鎮圧。
ハワイ軍人ウィルコックスら反乱首謀者らは内乱罪で死刑を求刑されたが、約200人の命と引き換えにリリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。

1898年
ウィリアム・マッキンリー大統領時代、ハワイは正式にアメリカに併合され、アメリカ合衆国ハワイ準州となる。

ハワイ併合法案を審議する本会議に参考人として招かれたアルフレッド・マハンの証言
『我が国はより強力な海軍力を必要としています。一度戦争が(太平洋方面で)起こるようなことがあれば、(いまの海軍力では)太平洋岸の領土を防衛することはできません。それだけではありません。ハワイ諸島を他国が占領することを阻止することさえもできません。しかし我が国がこの島をさきに占領し、要塞化しておきさえすれば、(我が国よりも強力な艦隊を所有する国でさえも)アメリカ太平洋岸を侵略することは難しくなります。ハワイに海軍基地を保有せずして我が国を攻撃することはまず不可能なのです。』
1959年
アメリカ合衆国50番目の州に昇格。
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ルールの変更 ノルディック複合、スキージャンプ

ノルディック複合団体、日本は1992年のアルベールビルオリンピック(三ヶ田礼一、河野孝典、荻原健司)、1994年のリレハンメルオリンピック(阿部雅司・河野孝典・荻原健司)と、二大会連続で金メダルに輝いた。
その作戦は、得意の前半ジャンプで圧倒的な大差をつけ、後半の距離で粘りきるというスタイルだった。
個人としても、荻原健司は1992年から3シーズン連続総合優勝を果たし、リレハンメルでは河野孝典が銀メダルを獲得した。
代表チームの総合力は圧倒的で、今後も日本チームの活躍が望まれる種目だった。

ところが、国際スキー連盟は、あからさまにルールを改正した。
複合では前半のジャンプのポイントを時間に換算し、後半の距離では時差スタートをして勝負を決する。
改正は、前半ジャンプのポイントの比重を下げ、後半距離の比重を上げる方向性で行われ、連盟は十分な満足が得られるまで複数回にわたってこれを行った。

残念ながら長野オリンピックで日本チームは団体戦で5位入賞にとどまった。
日本チームは、もともと定められたルールのなかで自分たちの適性を生かす戦法を練り、ジャンプを重視した。
日本の躍進はその結果だった。

実はリレハンメルオリンピックでは、ジャンプも健闘していた。
アルベールビル大会で団体4位に食い込んだ日本チームは、2本目ラストの原田雅彦選手を残して、金メダルに一番近い位置にいた。
原田がまともなジャンプをすればまちがいない状況だった。
ところが原田は失速し、失敗ジャンプ。
日本は銀メダルに終わった。
しかし、4年後の長野大会では見事に金メダル。
原田雅彦選手も見事なジャンプだった。
まさしく日の丸飛行隊の名にふさわしいものだった。

またしても国際スキー連盟は動いた。
板は長いほど風の抵抗を受けられるので滞空時間が長くなり、遠くに飛べるチャンスが増える。
長野までの身長+80cmというルールは、改定後は身長の146%というものに変わった。
これにより、身長の高い選手はより長いスキー板を使えるようになった。
もちろん、身長の低い日本人選手には不利な改定である。
そして2000年にはウエアに関するルール改正があり、日本に追いうちをかけた。
それまでは、ゆとりのあるウエアの着用が許されていたが、体にフィットするウエアの着用が義務付けられた。
ゆとりあるウエアは体とウエアの間に空気を取り込み、それによって揚力を得ることができる。
ところがフィットしたウエアで風を生かすことは到底できなくなった。
このルール改正は、風を生かした技術を得意とした日本人にまたも不利になるもので、パワーに勝る欧米選手に有利な改訂であった。

ここ数年、ノルディック種目でも、距離を得意とする日本人選手が国際大会で活躍しはじめている。
ジャンプでも、ルールの変更にようやく対応する日本人選手が現れている。
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アメリカのアジア戦略 「英米包囲陣と日本の進路」齋藤忠

『GHQ焚書図書開封6』より、『英米包囲陣と日本の進路』齋藤忠著

これがあまりにすごい内容なので、本の紹介とは他に、抜きだしておきたいと思います。
著者は読売新聞の記者。
刊行は昭和16年10月1日、日米開戦の2ヶ月前。
「原稿は、同年8月22日から9月7日まで読売新聞に連載されたもの」ということなので、日本がアメリカとの戦いを覚悟せざるをえなくなる、ちょうどその時の国民意識が描かれている。
『GHQ焚書図書開封6』に掲載されているその内容のすべてを、長くなるけれども、ここに留めておくことにする。
【大西洋憲章】
 北大西洋の一隅××海岸の岩礁をわづかに距る半哩の地点、霏霏たる雨の海上に仮泊する合衆国重巡アウガスタの艦上に行われたルーズヴェルト、チャーチル会談が、何事を議し何事を決したかは、もとより我らの知り得るところではない。わづかに会談の成果として発表された八か条の共同宣言なるものは、空疎の文字をつらねた戦後秩序への得手勝手な希望の表白にすぎぬ。合衆国の元首と英帝国の運命を担う宰相とが、戦塵のヨーロッパをよそに、わざわざ軍艦に搭じて洋上に相会した芝居がかりの会談の成果としては、これはまたあまりといえば取りとめもない。だが、果たしてこれが英米両巨頭の洋上会談の真実の収穫であるか。
大西洋憲章
1 領土の不拡大
2 国民の合意なき領土変更の不承認
3 国民の政治体制選択の権利の尊重と、強奪された主権の回復
4 経済的繁栄に必要な世界の通商と原料の均等な解放
5 経済的分野における各国間の協力
6 ナチス暴政の最終的破壊と、恐怖と欠乏からの解放
7 海洋航行の自由
8 武力使用の放棄と、恒久的な一般的安全保障体制の確立
 八か条の共同宣言のなかには、明らかに「ナチ政権打倒の後」云々の辞句を発見する。だがこのなかには、いまだ一文字といえども極東の事態に触れず、日本との関係に言及してはいない。しかしこれをもって、ルーズヴェルトがなお日本に対する特別の考慮を用意せんとしつつあるもののごとく受け取らんとするものがあるとすれば、そは帝国千年の運命を米大統領の気まぐれなる慈悲に託さんとする者か。だがそれにしても、これは真実に米合衆国の極東に対する消極的態度を表明するのもであるか。
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 ワシントン会議以後、ひしひしと日本の身辺に感ぜられていた米合衆国の圧迫は、満州事変より支那事変へと加速度的に増大しつつ、日一日と再現もなく加重してゆくもののようであったが、ついに第二次大戦の勃発に至って、堰を切った奔流のように、一気に日本の存在を太平洋上から抹殺しようとする気勢さえ示すようになった。カナダを誘い、オーストラリアを引き入れ、英領マレーをつらね、蘭領東印度を拉し来って日本列島の四囲に築いた包囲封鎖の鉄壁は、すでに完全な形をなした。昨日までは、あらゆる手をつくしてもなお誘い得なかったソ連邦までも、今日は向こうから反枢軸陣営に転げ込んできたのだ。
 広袤七千萬方哩の太平洋は、こうして英、米、ソの池沼になった。アリューシャン列島、アラスカ、カナダ、米合衆国本土、パナマ地峡、サモア、ハワイ、フィージー、フィーニックス、ソロモン、ニューギニア、ニュージーランド、オーストラリア、蘭領および英領の東印度諸島、フィリピン群島、マレー半島、ビルマ、重慶政権下の支那、そしてカムチャツカ、沿海州、シベリアとアジアに広がるソ連の国土―静かに地図をのべて、日本列島の四周を封ずる敵性国家の鉄壁の連陣を見まもるとき、かかる重囲のなかに在ってなお毅然として弧剣アジアの運命を護らんとする祖国の姿に、人は熱き血のたぎるを覚えぬか。
 皇国はいま、文字通り生死存亡の関頭に立つ。日本の外交も、遂に来たるべきところまで来たのである。
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 七月七日アイスランド進駐が、行動によって米国参戦の意志を表明したものとするならば、八月十四日の英米共同宣言は、言辞によって明確に合衆国がすでに事実上の交戦国であることを世界に公言したものといえる。
 この八か条の宣言を静かに読み返してほしい。どの一条を取り上げてみても、米合衆国は英帝国と不離なる一体として、「英米両国は」という複数の形をもって発言していることに気づくはずだ。
 いわゆる「ナチの暴政」を打倒するために、そして世界のあらゆる地域における反民主主義国家を懲罰するために戦いつつあるものは、もはや孤影㷀然(ケイゼン)たるイギリスではない。そのイギリスの剣を執る手にぴったりと引添うて、いま米合衆国は誰憚るところなく、イギリスの戦争の分担者として戦場の名乗りをあげたのだ。米合衆国はすでに参戦した。戦闘旗は檣頭(ショウトウ)高く掲げられたのである。
 今日におよんで、米合衆国は一体何のために参戦する。アメリカは、独ソ戦争の勃発を機会としてイギリス帝国落日の悲運を昔に招き返し得るとでも信ずるようになったのか。イギリスの戦いに必勝の公算あって、ドイツの敗衂(ハイジク)とアングロサクソン平和確立の可能を確信するに至ったか。― われらはけっしてその然るを信じない。真実はむしろ、その正反対にこそあろう。
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 七月にいってやや衰えを見せたかと思われたドイツ潜水艦群のイギリス通商攻撃も、夏八月に入ってよりは、ふたたびすさまじい成果を示しはじめた。十五日までの前半期だけの犠牲の数字が三十九萬噸という。月の終わる日までには、戦果はおそらく八十萬噸の撃沈を示そう。
 搗てて加えて、相次ぐドイツ空軍の爆撃下にあるブリテン島は、殆どすべての海港を破壊しつくされ、重軽工業の機能も瀕死の状態にある。どのように希望的に眼前の戦勢を判断しようと努力しても、冷厳な数字はあからさまにドイツの必勝を示し、イギリスの壊滅の運命を指さす。
 米合衆国がいま猛然として起ち上がろうとするのは決してイギリスの勝利を信ずるがゆえではない。ルーズヴェルトはかえって、イギリスの離乱潰滅の日の必ず近かるべきをこそ信じ、また期待しているのである。
 この参戦によって米合衆国が期待するところは、英帝国起死回生の奇跡ではない。ただ心ひそかに期するものは、英帝国遺産相続権の獲得なのだ。欧亜の両大陸に渡り、世界の七つの海をおおう広大無辺の領土を、英帝国崩壊ののちにむなしく戦勝者の手に委することは、米合衆国の到底忍び得ることではない。だが、いまこの危機の瞬間において剣を抜かなければ、米合衆国はあるいはイギリス帝国の遺産を護り受くべき口実を永久に失うかも知れぬのだ。そうなっては百年の悔いもなお及ばぬことを恐れるのである。
 このようにして、すでに合衆国の参戦目的がイギリスの遺産に存するならば、その戦争が最後の目標として目指すものは、かならずアジアと太平洋におけるアングロサクソン永劫の支配権の確立にこそあらねばならぬ。英米共同宣言はかくてわれらに、いつの日かは必ず米合衆国の全圧力が、西太平洋と日本列島とに向かって焔の焦点のごとく集中さるることあるべきを予示するのだ。
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【大英帝国の覇権】
 三千四百四十一萬六千百三十八平方キロメートルという数字が、どのような広大な陸の展(ヒロ)がりを示すものであるか、考えてみた人があるであろうか。― これはイギリス帝国全版図の面積総計である。地球の陸の五分の一を占め、世界人口の四分の一を統治するという空前の大帝国は、七つの海をおおうて日の没する果てもないという。
 だがその覇業は、多くの被圧虐民族の犠牲の上に立つ。わけてもその帝国の根幹を養うものは、十億の人口を擁するアジアの沃土である。規模の壮大において古今に比を絶する大帝国の偉容を仰ぎ見る前に、われらはまづ眼をふせて、その帝国の柱軸を疲れた肩の上に支えて立つ、世界至るところの失われたる民族の存在を注視しなければならない。
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 一九一九年四月十三日のいわゆるパンジャブ虐殺事件は、そのもっとも悲惨なものの一例であった。パンジャブ州の一都市アムリッツァーに起こったこの大屠殺は、前年発布されたローラット法と呼ばれる悪法に対する民衆の反対示威運動を暴圧するために行われたものであるが、駐屯軍司令官ダイヤ―が、ただ一言の警告もなく、ジャリアン・ワラ・バタ公園に群集した二萬の市民の頭に機関銃火の雨をそそいで殺傷したことは、ガンディならずともまさに悪鬼の所行と断ずる他はない。これは永く英国暴虐の歴史の一項を飾るもの。アングロサクソンの残忍性を暴露することかくの如きも少ないといわねばならぬ。
 同じような侵略戦と詐謀とは、支那大衆に対しても用意された。そればかりではない。われわれの日本に対してすらも、同じような内容の侵略戦は幾たびか指向されたのだ。幕末の開国攘夷の論争の頃から明治初年前後へかけての日本歴史を読むものは、幾たびか現在の支那と同じうしようとする危機に逢着したわれらの祖国の姿を見て、膚(ハダエ)に粟を生ずるの思いを禁じ得まい。
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 英国が拭うべからざる醜名を千載にのこす圓明園離宮の未曽有の大掠奪事件も、またこの北京攻撃の副産物であった。北京城外に林泉の美を誇るこの清朝文化の記念塔に加えられた飽くなき却掠と破壊こそ文明の汚辱でなくて何であったろう。宮殿を飾る繍畫も、彫像も、陶器も、何もかも悉く、土足のままで乱入した英仏連合軍の士官の手で奪い去られてしまった有様は、面を背けしむるあさましさというほかはなかった。
 これらの掠奪品は、司令官の手で競売に付された。司令官認許の公然たる強盗行為である。そしてその利益のうちの十数万円を、司令官は、軍律によって掠奪に加わり得ず、士官の獲物を指をくわえて眺めている他はなかった下級兵士らのために割いた。しかるにこれに次ぐ日曜のこと、監視の弛緩に乗じた英国兵士らは先を争うて離宮に闖入し、手当たり次第に残品を漁って狼藉の限りをつくしたのだ。
 こうして二日にわたる大掠奪に一物をあまさぬ廃墟となった圓明宮は、一八六〇年十月十八日より十九日へかけて英軍の放つ火のために焼け落ちて、ただ一望の焦土となってしまった。
 その後において彼が漸く中原に植え、湖西に培った絶大の勢力については、ここに事新しく語ることを避けよう。その一方において、辺境における彼の侵略の手も留まるところを知らず北に延びつつあった。ビルマはこうして支那から奪われた。日露戦争のどさくさ紛れに、チベットもこうしていつの間にか彼の手に収まった。
 今日、英国はすでに支那より奪うべき何ものをも持たぬ。彼の支那大陸植民地化の野望は殆ど遂げられた。欲するほどのものがすでに悉くその手に期した今、恐るるところはただ現在持てるものを失わん一事のみである。イギリスの猛獅は、その両肢の間に支那の臠肉(レンニク)を抱いて右睥(ウヘイ)し、左睨(サゲイ)しつつ、ただその一片たりとも他の手に奪い去られんことを怖れ、且つ警戒しているのだ。唱えて支那領土保全という。
 その美名は、己が折角抑え得たる獲物を他人の手に渡すまじとする利己心のカムフラージュにほかならぬ九カ国条約とは、極言すれば英国が譎詐(キッサ)と暴力によってかすめ得たる贓品を、永く他人の手より保障せんとする強盗の仁義だ。
 好餌はすでに彼の肢(ウデ)の下にある。あますところはただその肉を貪り、その血を啜るの一事のみである。英国資本の力によって、中南支に縦横に布き列ねられた幾条かの鉄道は、すべてこれを支那大陸の精血を吸う脈管であったといって差し支えない。
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【日本の登場】
名づけて「東洋の番犬」という。過去四半世紀にわたって、英国は日本をその名に値するものたらしめんとして、籠絡至らざるなかった。日本もまた、一応は、日英同盟も存したる等の情誼よりして、表面強いて彼と事を構うるを避くるかの如きに見えた。だが、もとより彼が術策に乗って、彼がために火中の栗を拾うの愚を敢えてするものでは無かったのだ。かくて英国の朝野は、いま漸く、日本が夙(ツト)に英国の鎖を断ち切って、すでに彼らの番犬的存在ではなくなっていることに気がついたのである。忠実な犬とばかり思い込んでいたものは、まことは恐るべき猛獅であった。いまこの巨獅は、アジア解放の嵐に鬣(タテガミ)を鳴らしつつ、颯爽と、東亜の主への道へと歩を踏み出したのである。
 今にして思えば、日英の両国は、いつの日かは必ず支那大陸において剣花の間に相まみゆべき宿命にあった。
 しかも英帝国に対する日本の運命は、またそのままに米合衆国に対する日本の運命であらねばならぬ。英帝国の退陣は即座に米合衆国の猛進を結果した。アジアはいま前門の虎を追うて、かえって後門の狼を導き入れたのである。これら十億の救いなき魂のために、かくて日本は、あるいは再び剣を執って起つのやむなきに立ち至るかも知れぬ。
 それにしても、その日本の「おおみいくさ」を誹謗して、英首相チャーチルが二十四日夜の放送において放言するところこそ、まことに奇怪至極というほかはない。彼は皇軍の大陸における行動を毒罵して「ただ支那の広大な地域を無益に彷徨蹂躙しつつ、到るところに殺戮と破壊とをほしいままにするもの」という。
 だが、その二千載の久しい年月を互いに国を隣しつつ相倚り相親しんで来た皮膚の色をおなじうする二つの国民を、本意ならぬ戦いに駆って倶に相争わしめ、血を流さしめつつあるものはなにものであるか。
 さきには支那民衆に毒ある思想を与えて、これを益なき抗日の戦いに駆った。いまは瀕死の重慶に、あらゆる方法をつくして武器を給与し、借款を与え、声援を送りつつ、支那民衆の血の最後の一滴までもこれをイギリスのための戦いに濯ぎつくさしめようとする。
 彼らが四載にわたる抗戦の陰に終始ひそむ邪悪の傀儡師は、そもそも何ものなのであるか。
 彼は、彼自身の手をもって皇軍の剣尖に盾として抛った支那の骸を指さして、これを皇軍の「殺戮」と誣罔(ブモウ)し、「破壊」と欺瞞する。しかしながら、よく眼を見開いて見よ。破壊され、殺戮されつつあるものは、ただイギリス帝国の吸血的搾取機構のみである。あたらしく美しきアジアは、いまその廃墟の上にこそ、日支両国のたゆまざる協力によって不死鳥のごとく甦り来たらんとしつつあるではないか。
 しかも記憶すべきは、この讒誣誹謗(ザンブヒボウ)の大演説が、イギリス、インド軍の不法なるイラン侵入のまさしく前夜に行われたことである。
 このような暴言の舌の根も乾かぬに、彼は世界の眼前に、そのいわゆる「ほしいままなる殺戮と破壊」の標本をみづから演じて見せようというのだ。ただ一握の小帝国、それも過去三十年の苦惨によって僅かに購い得た独立と平和とを守らんことをのみ願うほかには余念もなき弱小の中立国に、銃火の暴力を加えてこれを圧伏しつつ、しかもなおチャーチルは敢えてみづからを「少数民族の保護者」と称するか。鉄蹄その中立の意志を蹂躙し、剣尖にかけてそのもてる物を強掠することが、彼のいわゆる「被圧迫民族を圧迫より解放して、自由と正義とに復帰せしめる」所以なのであるか。
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【アメリカの台頭】 

 この前後、の米合衆国は、米州の東海岸にわずかに南北に延びた一連の小連邦であって、いまだ一片の海岸線をも太平洋の岸には所有していなかったのだ。西部太平洋岸の広漠たる天地は、ただ荒涼たる沙漠とインディアンの世界であった。まして一八二二年には、ヨーロッパの海を拒まれて遠く太平洋への出口を求めつつ東に突進してきたロマノフ王家のロシア帝国が、カリフォルニアの野を占領してここにその植民地を建設さえした。
 そのロシア帝国の勢力をようやく追うて、カリフォルニア一帯の沃土をメキシコから強奪したのは一八四八年のことである。わが嘉永元年― いまを去るわづかに九十三年の昔にすぎぬ。
 しかしながらこの頃には、アジアとそれをめぐる海とは、すでにヨーロッパ諸強の凄惨な帝国主義的狩猟戦の狩り場であった。太平洋の海心に浮かぶハワイの珊瑚島群は、はやくも彼らの争奪の目標になっていた。わが小笠原諸島も、琉球列島も、またこの前後から彼らの捕鯨船の注意をひきはじめた。イギリスと、フランスと、ロシアと、そして新参のアメリカとが、これらの島々を間にして息詰まる対立を演じた。一八四七年には、フランスはついにハワイ諸島中の主島オアフの占領をさえ試みた。このような海上の闘争は、立ち後れた米合衆国を焦燥に駆って、ついにさきにいう日本列島侵略の冒険に突進せしめたのである。
 やがて米合衆国は、アラスカをロシアから購い取った。一八九三年にはハワイ女王リリオカラを王位より逐うて国土を強奪し、九七年には公式にこれを合衆国に併合した。あくる一八九八年には、キューバ島のハバナにおける軍艦メイン号の爆沈を口実として、スペインを干戈によって制圧した。フィリピン群島は、この戦いの結果米合衆国の所有に期したのだ。
 渺茫たる太平洋の海心に、米合衆国はすでに二つの重要な戦略要点を把握した。更にこの二つの前進根拠地を結び列ねる鎖の環として、一八九八年にはグアム島を、そして一九〇〇年にはサモア諸島のツツイラを手中に収めた。太平洋制握の基礎工事はこうして出来上がったのである。わづかに一両年の間に、米合衆国は、広大な版図を波濤の上に擁する海洋国歌に飛躍した。日清戦争勃発の四年前― いまより数えて四十一年前のことである。
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 日本はそのありあまる人口の捌け口を、断じて西半球に求めてはならぬ。だが、アジアは米合衆国のために残された唯一つの市場であるがゆえに、ここに日本がほしいままに縄張りするを許さぬ。
 南北両米大陸は、米合衆国と境を接するがゆえに、合衆国の特殊利益圏である。だが、日本とただちに壌(ツチ)を接するアジアの諸地域は、これは断じて日本の特殊利益圏であってはならぬ。日本はみづからがアジアにおいて享有する利益を、必ず米合衆国に分かち与えねばならぬという。世にこれほど勝手至極な、自家撞着の主張がまたと存在するか。
 米大陸、オーストラリア、蘭領東印度― 物豊かに人乏しき広大な陸は、悉く日本人に対して厳にその扉を閉ざした。これは白人のみの楽土である。その入り口には到るところに「日本人入るを禁ず」と厳めしい制札が立てられているのだ。
 試みに太平洋上の地図の上に、アリューシャン列島の西端とハワイ諸島とを結ぶ一線を画してみよ。更にハワイ諸島よりフィリピン群島のマニラに連なり、マレー半島の突端シンガポールに終わる横の一線を描いて見よ。
 これはアングロサクソンの両邦が、溢れ出でんとする日本民族の力を圧塞する海上の大堰堤だ。彼らのいわゆる「アングロサクソン平和」を保障するための万里の長城だ。
 この内側には、寸尺の瘠土(セキド)に立錐の余地もなく爪先だった人間の洪水の、言語に絶した氾濫がある。そしてこの外側には、忘れたような静寂があり、悠々たる楽土の生活がある。これはアングロサクソンの手によって築かれたアジアの牢獄だ。しかもこの不自然を極めた障壁の内側においてすら、日本はみずからの血で購うた特殊権益圏から閉め出されようとする。かくては一億の日本民族は、いずこの真実に生くべき天地を求むればよいのであるか。― いわゆるABCDラインとはこの海上の大堰堤の別名であり、大東亜共栄圏確立の要望とは、アジア十億の囚われの民のために、この牢獄の鉄扉を破摧して、ともに自由なる大空の下に呼吸せんとする必死の念願にほかならぬのだ。
 四十年前、英帝国の威圧は隈なくアジアの全土に及び、米合衆国はわづかにその鼻息をうかがいつつ、ただ彼が怒りを激発せざらんことにのみ汲々たる有様であった。三十年前のアジアにおいては、英帝国はすでにみづからに拮抗する大いなる勢力としての米合衆国の無遠慮なる進出を、少なからぬ警戒と困惑の眼をもって眺めつつあった。二十年前には米合衆国ははやくも太平洋の支配者をもって自ら任じ、イギリスはその王座を米合衆国のために譲って歩一歩アジアを退かんとしつつあった。そして十年前には、英帝国はわづかに中南支を死守するのみに全力をつくして、アジアの全土はすでに挙げて星条旗のもとに委ねんとしつつあったものの如くである。
 かくてモンロー主義発展の歴史は、英帝国勢力の後退と米合衆国勢力のこれに対する追撃の歴史であったといって差し支えない。今日、アングロサクソンが太平洋上に結成しつつあるいわゆるABCD包囲陣も、その主体はいうまでもなく米合衆国である。イギリスは最早これに付随し、これに便乗する寄生的勢力にすぎぬ。
 ワシントン軍縮会議は、米合衆国のアジア制圧に最大の障害をなしつつあった日本の海上武力を、樽俎(ソンソ)の謀略によって破摧した無血の戦いであった。ヴェルサイユ条約がヨーロッパにおいてドイツに課したるところを、ワシントン条約はアジアにおいて日本に加えようとした。これは米合衆国の公然たるアジア支配の宣言であったのだ。
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【南部仏印 風雲急】
 六月半ば、すでに百機のカーチスP40戦闘機が重慶に入った。その上に合衆国政府は、五月三十一日以後、合衆国陸海軍に籍を置く飛行士の重慶空軍に参加することを、公然と許容さえしたのである。
 フィリピン陸軍航空司令官陸軍大将クラゲットも、五月より六月にかけて重慶、成都の航空基地を巡察し、支那空軍の現状をつぶさに見て帰任した。これらはすべて、所詮は支那の全非占領地域を英米の基地と化して、支那空軍の仮面に隠れつつ、米合衆国極東空軍をアジアの心臓部に建設しようとする侵略の意図を示唆するのだ。
 フィリピンの戦備もまた急速に進行していた。昨一九四〇年の初冬、ハマートン第二〇と、セルフリッヂ第一七の両追撃飛行中隊がマニラ郊外のニコルズ飛行場に増派を見てのち、相次ぐ海空勢力の増強はめまぐるしいばかりであったのだ。
 その二隊の戦闘飛行中隊増派のことがあってからわづかに一ヶ月の十二月には、十二隻の大型航洋潜水艦の一隊がまた新たにフィリピンの守りに加わった。かねてキャヴィテにあった十二隻の潜水艦に加えて、合衆国アジア艦隊に属する潜水艦勢力は全部で二十四隻になったわけである。泰国に売り渡されるはずであった十機の戦闘機も、またそのままマニラにとどまって、ついにバンコックの空には姿を現さなかった。
 本年に入ってからは、四月二十二日にも、合衆国陸軍輸送船リパブリックが十七名の士官を含む二千七十五名の陸兵をマニラに揚げた。このような慌ただしい東亜の空の雲行きは、ついに当然定年によって任を去るはずであったアジア艦隊司令長官ハート大将を、そのまま現職に引き留めることになったのである。
 七月二十六日には、その上に、大統領ルーズヴェルトの緊急措置によって、新たに十三萬のフィリピン陸軍が米合衆国陸軍の隷下に置かれた。それまでフィリピン陸軍最高顧問の地位にあった陸軍少将マッカーサーが、合衆国陸軍極東司令官として、比島駐在の米陸軍一萬五千の兵力と併せてこれを統括するのである。わづかに二隻のQシップを擁するに過ぎぬ取るに足らぬ勢力ながら、フィリピン海軍もまた合衆国第十六海軍区司令官海軍大佐ハロルド・ベミスの指揮下に編入された。
 シャンステートに一萬、マンダレーに二萬、ラングーンに二萬、ペナン付近に二萬五千、コタに一萬、英領マレー中部西海岸に一萬、同じ中部東海岸にも一萬、そしてシンガポールの守りには二萬― それはすでに三ヶ月以前の六月初旬におけるイギリス極東軍一部の配備であった。さらにマンダレー、ラングーン、モールメン、メルグイ、ヴィクトリア・ポイント、アロル・スター、スンゲイ・パタニ、コタバール・ポート、シンガポールと星羅のごとき空軍基地の数を連ねて、ビルマに二百機、マレーに五百機― 泰は重囲のなかに陥ったのである。
 このようにして一面武力の示威をもって泰を牽制し、他面在英米泰資産凍結の恐怖をもってこれを威嚇しつつ、泰をしてその米を、錫をまたゴムを、日本に対して供給することを拒絶せしめようとする。そしてまた泰の動揺は、ただちに仏領印度支那の危急を当然結果したのだ。
 支那事変発生以来終始重大な援蒋的役割を演じてきたこの連邦ではあったが、さきに松岡・アンリ会談による皇軍の北部印度支那進駐ののちは、この地方を通じて執拗に続けられてきた援蒋物資の輸送も全く跡を絶った。
 だが、なお交址支那(コーチシナ南部仏印)には今日も重慶政権の領事を駐め抗日華僑の諸団体も白日の下に公然と反日運動を展開しつつある。反日英米人もまた自由に往来出入して、この運動を支援し、操縦しているのだ。
 わけては、このような仏印敵性の策源地であった。サイゴン、シヨロン等の南方諸市は、第二の香港であり、またシンガポールであったといい得よう。ヴィシー政府に対して反旗を翻すド・ゴール派は、その本拠をこれらの諸市に置いた。
 重慶と策応してあらゆる反日行為に没頭する抗日華僑もまた、これら南方諸市を根拠と頼んだ。
 イギリスと重慶支那とは、そのド・ゴール派と共謀して、内外相応じて仏印侵略の体制を強化しつつあった。ビルマ国境に大軍を集結し、シンガポールの防備をこれ見よがしに強化する。七月、仏印北境モンカイ、ロンダンに集結した六萬の重慶軍は、このころしばしば越境をさえも伝えられたのである。
 しかもこの間に、近東における仏領シリアは、ウェーヴェルの率いるイギリス近東軍の鉄蹄下に蹂躙された。シンガポールにあるシャルル・ロバンの如き、即座にこの事件を取り上げて仏印に警告を発し、これを英米の陣営に引きずり込もうと試みた。― シリア敗戦の例に見よ。フランス植民地の防衛は英米の援助によってはじめて成り立ち得ることを、この敗衂(ハイジク)はあからさまにわれわれに証明するではないかというのである。あまつさえ米合衆国も、在米仏印資産凍結の威嚇をもって、あるいは石油、麻の供給断絶の脅迫をもって、手を代え品を代えてこれを支給する。仏領印度支那は危うかったのだ。
 さきに近東の死活問題を口にしてシリアを強奪したイギリス、西半球の防衛を口実にして、米州より海上二千海里の遠きにあるアイスランドに兵を進めた米合衆国は、何時どのような牽強付会の理由によって仏領印度支那に暴力を加え来たるやも測られなかった。彼らの仏印侵略のめざすところは、これによって、近来とみに帝国との国交を厚うして来た泰を隔離、孤立せしめんとするにある。さらにこれを力によって威嚇し、遮二無二英米の陣営に拉し去らんとするにある。かくて日本をアジアの一隅に封圧して、南アジアの戦略物資をアングロサクソンの独占下に置かんとする。
 情勢はまさに三十年前の日露戦争の前夜に彷彿たるに至った。帝国は、仏領印度支那が敵性諸国の連合勢力によって奪い去らるるを黙視し得なかった。皇軍の南部仏印増派は、この形勢に対して自ら衛らんとするに出でたものなのである。
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【南部仏印進駐】
 日仏両国間に締結された仏領印度支那共同防衛に関する議定書はまづ、日本は仏領印度支那の安全の脅威さるる場合、これをもって東亜ならびに日本の安全が危険にさらされたものと認めざるを得ぬことを規定する。これはフランスが、東亜における日本の優位をあらためて再確認したものである。
 第二には、かかる場合日本は、東亜におけるフランスの権益、特に仏領印度支那領土の保全と、仏領印度支那連邦に対するフランス主権の尊重とを約束する。これはまた仏領印度支那があきらかに日本の指導する東亜共栄圏内の一員たることを、仏領印度支那みづから確(シカ)と承認したことにほかならぬ。
 かくて二十六日ヴィシーにおける日・仏印共同防衛協定の成立は、二十九日議定書調印式の完了とともに、疾風の如き皇軍の南部印度支那前進となった。この平和的前進は、もとよりフランス政府との深き了解に出づるもの。その意味するところは、まさしく三十年前の日露戦争におけるとおなじく、やむを得ざるに出でたる緊急自衛の措置にほかならなかったのである
 畢竟、自衛の限度を出でぬ日・仏印共同防衛の取り決めを、英米はことさらに攻撃的なるものの如くに曲解した。かくてこれに対する報復手段として、即日、帝国在米資産の凍結を行うた。
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【戦雲近づく】
 昭和十七年七月、日英両国の東京会談が順調に進行し、英国がついに東亜に存在する大規模の戦争状態を確認して、日本に対する協力の方向に進み来たらんとしたとき、突如日米通商航海条約の破棄を通告し来って、これによって英国を牽制し、会談を爆砕したものは米合衆国であった。かくてもなお日本が日米両国の歴史的関係を思うて隠忍自重ついに作戦上の重大支障をも顧みず、揚子江下流の開放を約してまで、大陸の新事態に対する彼の認識の修正と協力とを希望したるにかかわらず、なお冷然としてこれを一蹴したものもまた米合衆国であった。
 かくてその艦隊の主力をハワイに集結して、太平洋上に武力の示威を敢えてするのみか、対日禁輸に次ぐに禁輸をもってして、現在の如き危機の醞釀(ウンジョウ)に、米合衆国こそはそのあらゆる手段と努力とを傾けつつあったのだ。ただわずかに少量の重油、屑鉄を昨日まで許容した所以は、完全禁輸によって必死の窮地に立つに至るべき日本が、憤然として剣を按じて起たんことを怖れたるがゆえにほかならぬ。
 今日、その雀の涙ほどの重油の供給をさえもついに全く禁絶するに至ったのは、米合衆国が、いまこそ包囲封鎖のこけ脅しによって、日本をたやすく屈服にもたらし得ると誤り信ずるがゆえにほかならぬ。
 日本はいま米大統領にわが首相より書簡を送って不壊の信念を披瀝、彼をしてわが所信への理解の上に立って反省せしめ、避け得べくんばアジアの過乱を未然に避けんがために、全幅の努力を傾注しつつある。しかもついに彼にして理解せざるにおいては、最早日本に残された道は二つよりないのである。一は妥協よりする屈服のそれ、他は勝利を通じての揺るぎなきアジアの平和に向かうそれ。
 しかしながら、ここに一日の妥協を思うことは、彼が戦備のためにさらに一日の余裕を与うることにほかならぬ。
 その上に日本の国力は、彼らが封鎖下にあって刻一刻と消耗しよう。われらはすでに入るものをもたぬのである。もはやわれらは歴史あって以来未曽有の戦いに無限にその力を消費しなければならないのだ。かくて彼が恫喝に屈し、彼が甘言に惑溺することは、みづから身を彼が投げ与うる鉄鎖の下に置くにことならぬ。妥協の路はただちに屈服と破滅とに通ずるのである。
 祖宗の大業を放棄し、幾多先覚の霊を地下に哭せしめて、アングロサクソン隷下の一属邦たるに甘んずるとならば、われらまた何をかいわんやである。しかしながら、もし近衛声明以後百たび千たび日本がアジアの諸民族に誓い、一億国民に訓(オシ)え来たりたることが誤りなき真実であるならば、日本の生くる道はただ一つ― アジアの平和を維持し、その過乱を防止せんがためにあらゆる努力をつくして、なお彼にして聴かずんば、猛然起ってこの重囲を撃砕し、東亜諸民族共栄の楽土を現実にアジアに創造するほかにない。妥協は、外、アジアの民をして日本に信を失わしむるものである。妥協は、内、忠誠なる国民をしてよるところに迷わしむるものである。
 われらがいま為しつつあるところは、文字通り最後の努力である。彼にしてわが言うところに聴いて翻然態度をあらため来たるならば、太平洋の平和のためにはまことに幸いである。しかしながら彼にしてついに省みるところ無くんば、われらは或いはアジア千年の光栄のために新しき建設の路に入るの止む無きに立ち至るやも測られぬ。これはおそらく、久しき年月にわたる国民営営の労苦と、金剛不壊の意力とを必要としよう。かかる長期の総力戦に日本のために不敗の地歩を保障するものは、いうまでもなく大東亜共栄圏のすみやかなる完成だ。
 大東亜共栄圏の確立は、アングロサクソンの桎梏を破摧して、アジアみづから無限の力の上に立つ所以であり、英米連合勢力の克服はまた、ひさしくアジアを毒しつつあった禍の根を絶って、東亜諸民族共栄の世界の揺るぎなき基礎を置くことにほかならぬ。この意味において、大東亜共栄圏の正否こそはただちに帝国死活のわかるるところなのである。
 日本がすでに四年にわたって大陸に戦いつつある聖戦を完遂するの道もまた、これをほかにしてはあり得ぬのだ。
 由来日本民族は、笑いを知らぬ民族である。悲しみあれば泣き、喜びあれば泣く。われらが先覚の歩んだ艱難の道に、つねに彼らの苦闘に伴うたものは、かかる悲喜をわかたぬ涙であった。彼らは清帝国を斃し得ては泣いた。彼らはロシア帝国の野望を北満の野に粉砕し得ては泣いた。ただ同胞相擁して泣かん悦びの日のために、彼らは切歯して十年の臥薪嘗胆に耐えた。勝利の前に泫然として泣く不思議な国民― それほどまでに日本の歩んできた路は余裕なく、険しかったのである。
 これは雨に打たれ、風に叩かれて、凛然と花咲出づる一樹の桜花。雨に打たるればこそその花の色はひとしお冴えて美しく、風に叩かるればこそその花の香もことさらに香ぐわしい。
 いまその梢に、嵐は三度咆え荒ぼうとする。いまわれらが手を携えつつ嵐の中に面を上げて、敢然と試練に突進する時だ。同胞を決意はいいか。覚悟はしっかりとできているか。― それもこれもみなやがてうららの春空に爛漫たる萬朶の花を咲き出でんがためには、暫しは忍ばねばならぬ風雪の苔(シモト)なのだ。
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アメリカのアジア戦略 アメリカの外交三原則

アメリカの三大外交戦略

第一 モンロー主義
アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したことを指す。第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会への7番目の年次教書演説で発表した。モンロー宣言と訳されることもあるが、実際に何らかの宣言があったわけではないので、モンロー教書と表記されることも多い。この教書で示された外交姿勢がその後のアメリカ外交の基本方針となった。原案は国務長官・ジョン・クィンシー・アダムズが起草した。(Wikipedia)

相互不干渉というが、この段階ではヨーロッパ諸国の勢力圏に手を伸ばす力を持たないアメリカにとって、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸へのさらなる勢力伸長に歯止めをかける為のもの。
特に、これ以上のアメリカ大陸の植民地化をアメリカは望まないこと。
独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することには、アメリカは、アメリカの平和に対する脅威として対処することが盛り込まれている。

第二 反米主義
1776年7月4日のアメリカ独立宣言発表以来、アメリカ合衆国はピルグリム・ファーザーズ以来のピューリタニズムを掲げ、新大陸に「神の国」の建設を標榜してきた。
それこそが「マニフェスト・デスティニー(明白なる運命・使命)」であると信じるようになった。
汎米主義とは、南北アメリカは一体であるという信念のもとに、「マニフェスト・デスティニーに突き動かされたアメリカ合衆国が新大陸を主導し、その秩序を構築すべきである」というアメリカ合衆国の国是である。

第三 機会均等主義
1899年、アメリカ国務長官ジョン・ヘイが中国に関して、門戸開放・機会均等・領土保全の三原則(ジョン・ヘイの三原則)を中国に進出しているヨーロッパ列強に対して示した。
機会均等主義とは、アジアにおいては他の諸国と同等の機会権利を主張するもので、貿易活動において中国市場に割り込むことが目的だった。


アメリカは、アメリカ大陸においては「モンロー主義」によってヨーロッパ諸国の勢力の侵入を防ぎ、「汎米主義」によってこれらの地域を自国の経済的、政治的勢力範囲に留めおき、アメリカ大陸全体をアメリカの独占的利益供給地として確保しようとした。
アメリカからは遠く離れ、既にヨーロッパ諸国、さらに日本にまで遅れを取ったアジア市場においては、しかも全力を投入する状況に恵まれていない状況にあって、「機会均等主義」という「モンロー主義」も「汎米主義」すっかり忘れ去られたかのような主張を持ちだして、アメリカのわがままを受け入れることを要求した。
「機会均等主義」という考え方を独立で見れば、それは『平等』を要求する批判の難しいものであり、しかも突出して支那の利害を損なう国があれば、アメリカは行き過ぎを是正する支那側の立場に立てる。
なにしろ、支那でアメリカが失うものは何もないのだから。

そんな中で、アメリカが最大のターゲットにしたのが、日本の勢力地域、つまり満洲である。
その理由は、ヨーロッパ諸国とことを構えれば、他地域においてまでヨーロッパ諸国との軋轢が高まる可能性がある。
また、満洲は広大であり、日本には十分な資本力を有していない。
多少の無理があったとしても、非白人国家、非キリスト教国家である日本が相手であれば、ヨーロッパ諸国からの批判は厳しいものとはならない。(*日英同盟を粉砕する必要性)
こういった考え方によるものであろう。

アメリカの外交三原則は、常に自国の利益を最大化することを狙ったもので、極めて利己的な外交方針である。
一部に惑わされることなく、アメリカ外交全体を見通しての戦略が必要となる。
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アメリカのアジア戦略 ジョン・ヘイの三原則

ジョン・ヘイの三原則

1899年、マッキンリー大統領時代の国務長官ジョン・ヘイにより英仏独伊露日の6カ国に対して発せられ、列国の承認を得る。

第一
各国はその支那において保有する一切の、所謂利益的範囲内、又は租借地のおける條約港既得の利益に何ら干渉せざるべし。

各国は互いに「他国の既得権益に干渉しない」

第二
右利益I範囲内の各港に於いて陸揚げし、又は船積せらるる一切の商品に対しては、その何れの国に属するを問わず、支那国暫行関税率を適用せらるべく、且つ其の税金は支那国政府において徴収すべきものとす。

支那は、列強に対して関税自主権を喪失していたわけだから、「関税による利益は支那に対して保証されなければならない」とはいっても、其の支那の利益はさして大きな利益になるわけではない。

第三
各国は右範囲内の何れの港に寄港する他国の船舶に対しても、自国内に対するよりも多額の港税を徴収せざるべく、・・・・
また該範囲内において施設、管理または経営せらるる鉄道線路上に於いては、他国の人民又は臣民に属する商品の右範囲内に於いて輸送せらるるものに対し、自国民に属する同種の商品の同距離間輸送せらるるものに対するより、多額の運賃を徴収せざるべし。

自国の勢力範囲においてではあっても、港税、鉄道運賃に関して、他国を差別してはならない。


ジョン・ヘイの三原則は一般に、アメリカが列強に認めさせる形で、支那の「門戸開放・機会均等・領土保全」が確保されたと考えられている。
しかし、上記の原則は、アメリカが列強に対して、支那における貿易上の平等待遇[関税、港税、鉄道運賃]を求めたものである。
「支那に勢力範囲を持たないアメリカの商品が支那に輸出されることを、勢力範囲を持つ国々が差別的に扱ってはならない」ことを主張するもので、「門戸開放・機会均等・領土保全」という言葉を前面に打ちだすような内容のものではない。
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アメリカのアジア戦略 パナマ運河

パナマ運河
セオドア・ルーズベルトは、アメリカの太平洋進出を主導した。

1914年開通。
パナマは当時、コロンビアに属していたが、コロンビアが運河の開削を急ぐアメリカに対して多額の保証を要求していた。
パナマ人はこの状況に乗じ、アメリカからの支援を期待してコロンビアからの独立運動を展開した。
目論見通りパナマは独立し、同時にアメリカのパナマ運河開削事業も進行した。

『日米戰う可きか』(昭和7年刊行)には、こう書かれている。
いうまでもなくパナマ運河は両大洋の鋭鑰(かなめ)であり、その所有の太平洋及び東洋に対する英国のスエズ運河の所有に比してさらに重要なものがある。而して米国のメキシコその他の諸国に対する活動は、新大陸における米国の覇権の樹立を意味するものであるが、パナマ運河の開鑿及びその支配は獨りそれのみに止まらず、東洋に対する米国の軍事的、政治的経済の発展を意味し、米国の帝国主義実行の一支柱をなすものである。
既にハワイ、ミッドウェイ、ウエーク、グアム、フィリピンと太平洋を横断する海洋ルートを手にいれながら、海軍力においては、ロシア海軍を壊滅に追い込んだ日本の海軍力に対してまったく劣っていた。
そんなアメリカにとって、パナマ運河の開通は、太平洋支配に向けての絶対条件であった。
前提となるカリブ海の支配は、キューバを支配下に入れたことによって確保されている。
ニューヨークからサンフランシスコへ向う船は南米大陸を回った場合2万900km、それがパナマ運河を利用した場合1万2500kmに短縮された。
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イーグルス16

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火山の噴火、土石流に土砂崩れといった災害は、人々の目を山の高見に向けさせた。
それ故に山は、恵みと共に、畏怖の対象でもあった。
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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本


























































































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