めんどくせぇことばかり 本 キリスト教
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『謎解き 聖書物語』 長谷川修一

新型コロナウイルスに感染すると、高齢者ほど重症化しやすいそうだ。古い方からいなくなるのは順番通りではあるが、弱いものいじめのようにも感じる。

古い人たちは、昔のことを知っているというだけですばらしい。聞けば、私が入居する前の、この町のことをよく話してくれる。伝えておきたいことがある。十字路の、交差する大きな道を斜めにつなげる小さな道がある。左折車が、正面が赤信号に変わりそうだと、その斜めの道に入って、信号待ちを回避するのに使ったりする。ところが、この自治会が始まった頃は、その小さな道こそが本来の通りだったんだという。小さな道しかなかった当時は、駅に出るのも大変だったとか。

知ってることは、あとから来る者に伝えておきたいものだ。小さな自治会でも、そんな記憶はいくらでもある。人類の記憶となると、それは計り知れない。

最古の物語の一つに『アトラ・ハシース』というのがある。紀元前一八世紀に記されたもので、アッカド語が楔形文字で書かれている。「最高の賢者」という意味がある。神々による宇宙と人間の創造、人口を減らすための干ばつや飢饉、そして洪水の物語が記される。

数が増えすぎて騒々しくなった人間を減らそうとする神々、中でも最高の力を持った神エンリルは、洪水を起こして人間を滅ぼそうとした。しかし、知恵の神エアは、このことをアトラ・ハシースに教え、方舟を作らせる。アトラ・ハシースはできあがった方舟に家族と動物たちを乗せる。洪水は七日間続き、水が引いたあとに、アトラ・ハシースは生け贄を神々に捧げる。



『謎解き 聖書物語』   長谷川修一

ちくまプリマー新書  ¥ 929

旧約聖書につづられた物語は史実なのか、それともフィクションなのか?
第1章 アダムとイブ―人類誕生の謎
第2章 ノアの方舟―試行錯誤する神
第3章 バベルの塔―文明へのまなざし
第4章 出エジプト―それは本当に起こったのか?
第5章 ダビデとゴリアテ―永遠のヒーロー誕生


『アトラ・ハシース』よりもさらによく知られる最古の物語に『ギルガメッシュ叙事詩』がある。ギルガメッシュはウルクという都市国家の王で、三分の二が神、三分の一が人間という英雄として描かれる。物語はギルガメッシュと親友エンキドゥの出会い、二人の冒険、そしてエンキドゥの死へと続く。

エンキドゥの死に衝撃を受けたギルガメッシュは永遠の命を探す旅に出る。その旅でギルガメッシュは、大昔に起きた大洪水を生き残り、神々のように不死の存在になったウタ・ナピシュティのところにたどり着く。

ウタ・ナピシュティは大昔に自分が体験した大洪水のことを話す。その話は、『アトラ・ハシース』で語られる洪水の話とほぼ同じ。洪水の水は七日目に引き、方舟は山に漂着する。ウタ・ナピシュティはハトを飛ばすが、ハトは戻ってきてしまう。次にツバメを、ツバメが戻ってくると、次はカラスを飛ばす。カラスは戻ってこない。ウタ・ナピシュティは神々に捧げ物をする。

ギルガメッシュは洪水の話の後で、ウタ・ナピシュティから若返りの草の話を聞き、その草を手に入れる。しかし、ギルガメッシュが水浴びをしている間に、一匹の蛇にその草を奪われてしまう。

旧約聖書のノアの方舟の話は、古くから西アジアに伝わっていた物語を基礎として、それを自分たちの物語として書き直したものと思われる。

紀元前一二世紀以降に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』が最もよく知られると書いたが、これを標準版と読んでいる。最初に標準版が記された粘土板が発見されたのは、紀元前七世紀に西アジアの広い地域を収めていたアッシリア王アッシュール・バニパルが首都ニネヴェに建設した図書館の遺跡であるという。

アルファベットと違い数百の文字からなる楔形文字に習熟するのは大変なことで、正確に読み書きするには長い時間をかけて学習する必要があった。その習熟のために、メソポタミアの古典文学が教材として使われていたと考えられている。メギドという古代遺跡からは、紀元前二〇〇〇年記の『ギルガメッシュ叙事詩』の刻まれた粘土板が発見されている。

メソポタミアという言葉には、二つの川の間の土地という意味がある。ティグリス川とユーフラテス川である。ともに今日のトルコ東方の山岳地帯に源流がある。この山岳地帯は三〇〇〇メートルを越え、冬には雪が積もる。それが春になると解け、川は水量を増し、時には洪水となってメソポタミア地方を襲った。当時の都市国家は、両河川の流域にあり、これらの洪水の影響を受けていたものと考えられ、同時に洪水は、上流の森林地帯の肥沃な土を運んだ。しかし、現在までのところ、メソポタミア地方全体に影響を与えるような大洪水が発生した証拠は見つかっていないそうだ。

二〇〇〇年記に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』の中に書かれた洪水伝説も、遠い昔の大災害の記憶として語られている。研究者の中には、これを氷河時代の終わりの海面上昇と結びつける人もいるという。

洪水は、人類を滅ぼしてもおかしくなかった。しかし、ごくわずかに神に認められた者がいて、その者だけが神の恩恵にあずかって助かった。そこからまた、新しい人類の歩が始まった。だから語られるのは、神に認められたという自分たちの正当性であって、災害への注意喚起とは違う。

基本的に神話は、そのようにして語られる。



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創世記『謎解き 聖書物語』 長谷川修一

『旧約聖書』は、イスラエルの人たちがある時代に征服したといわれる都市の名を列挙してるけど、それらの都市の遺跡を発掘したという。ある都市では確かに破壊された痕跡があったけど、多くの都市では破壊の痕跡はまったく見つからなかったそうだ。ときには、その時代には、そこには人が住んでいなかった場所もあったそうだ。つまり、聖書に書かれたことは、必ずしも過去に実際に起ったことではないということ。

聖書に書かれた史実ではないできごとは、史実ではなくても、書いた人にとっては、そこに書いておくことが必要だった。聖書の研究っていうのは、そういう見地でやっていくもんなんですね。

旧約聖書においては、まず“創世記”が冒頭にある。私たちは、そこで神によって創造された世界の成り立ちをしり、まるで歴史を追いかけるようにして、人類がこの世界に広がっていく様子を見る。

でも、本当はそうじゃない。旧約聖書のなかで創世記が最古の書物であるわけではない。そんなことを言われると困ってしまう。いったん、旧約聖書の物語を歴史を追いかけるように理解してしまうと、「最初の話はあとから書かれた」なんて言われると、「“最初”がなければ“あと”が生じるはずがない」なんて、頭が混乱してしまう。

つまりは、「出エジプト記」が古い時代に書かれていて、新しい時代、なんかしらイスラエルの人々に大きな出来事があって、その出エジプト記よりも前に、出エジプト記以降の内容に食い違いが出ないように、創世記を付け足すことになった。・・・そういうことか。
この世界と人間は神様が作ったんだよ。

でも、人間は悪いことばっかりやってたので、神様は一度、ノアの家族以外の人間を滅ぼしたんだ。

かつて人間は広く世界に広がらず、協力してバベルの塔を作ろうとしたが、神様が人々の言葉を乱し、お互いの言葉が通じないようにしたので、広く世界に広がることになったんだよ。

人々の中でもずっと神への信仰を忘れなかったアブラハムから、また新しい神と人との関係が作られていったんだよ。

そして、イサク、ヤコブ、ヨセフと神と人との物語が続けられていったんだよ。
・・・とした上で、第二章《出エジプト記》に続くってことになるんだけど、実は上記の創世記は、出エジプト記やその後の話に矛盾を来さないように、あとから書かれて一番最初に置かれたと。


『謎解き 聖書物語』   長谷川修一

ちくまプリマー新書  ¥ 929

旧約聖書につづられた物語は史実なのか、それともフィクションなのか?
第1章 アダムとイブ―人類誕生の謎
第2章 ノアの方舟―試行錯誤する神
第3章 バベルの塔―文明へのまなざし
第4章 出エジプト―それは本当に起こったのか?
第5章 ダビデとゴリアテ―永遠のヒーロー誕生


なんでそんな、めんどくさいことになったのか。その景気になったのは、《バビロン捕囚》っていう出来事のようですね。

紀元前五八六、強国新バビロニアのネブカドネザル二世によりエルサレムを破壊され、支配層は軒並み新バビロニアの首都バビロニアに連行された。幽囚生活は紀元前五三九にアケメネス朝ペルシャが新バビロニアを滅ぼすまで続くんだけど、バビロニアで幽囚生活を送るユダヤ人はビックリしちゃったわけだ。なにしろそこは、メソポタミア文明の中心地だからね。

自分たちは異なる、思いもよらない高度な文明が、そこには展開されているわけだ。自分たちの故郷であるエルサレムなんか比べ物にならないくらい物にあふれている。人々は都会人で、立ち居振る舞い、物の考え方もスマートで、いかにも自分たちがみすぼらしい。宗教だってそう。自分たちの信仰が煤けて見えてくる。

あまりに高度な文明に圧倒されて、すっかりバビロニアの色に染められて、ユダヤ人がユダヤ人でなくなっていく。どうやら一部の人たちが、そのことを恐れたようだ。

これまでユダ王国の人々が信仰してきたのは、自分たちの民族の神。昔から自分たちの神だったヤハウェという神。この時点で、ヤハウェは唯一神ではない。ユダ王国の、イスラエル人の神であるに過ぎない。

国が負けて滅びるというのは、神の敗北も意味した。ヤハウェという神を消滅させないためには、ヤハウェは自分たち民族だけの神ではなく民族を超えた神と昇華させなければならない。そうすればヤハウェへの信仰を守れるし、ヤハウェがバビロニアの神であるマルドゥクに負けたと考えなくても済むようになる。

ただそれだと、ヤハウェへの信仰を維持しているイスラエル人の国が異教の神を信仰するバビロニア人に負けたのか、説明がつかない。そこで導き出されたのが、自分たちがヤハウェの教えを守らなかったから罰を下した。バビロン捕囚の苦難は、これを乗り越えて本来に信仰を取り戻すまで、イスラエル人にヤハウェから与えられた試練である。そういう考えだな。

神に選ばれて、祝福されるが、未熟ゆえに神の教えに背き罰を与えられる。《これまでもそうだった》って話が、創世記として、前に付け加えられたわけだ。「今度の試練も、選ばれた民だからこそ、ヤハウェから与えられた」ってね。





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『謎解き 聖書物語』 長谷川修一

連れ合いと一緒になって三十五年もたっちゃった。子どもは二人。女の子と男の子。娘は結婚して、今は二人のこのお母さん。一時間ほどのところに住んでいる。息子は滋賀県の会社に就職して、家を出た。家は埼玉なんだから、なにも滋賀県まで行かなくてもいい会社はいくらでもあったろうに。・・・まあ、そこに行きたいっていうんだから仕方がない。向こうで大阪のいい娘を見つけて、今度一緒になるらしい。

誰でもがそうだったように、私たちは歳をとった。父母も、祖父母も、・・・なにも、アダムとイブまで逆上ることもないんだけど、せっかくこんな本を読んだんだからね。

私は父と母によって作られたんだけど、アダムは土から作られた。土のことをヘブライ語でアダーマーというらしい。アダーマーから作られたアダムには、英語のtheに当たる定冠詞がつくという。I am Adam.ではなく、I am the Adam.であれば、アダムは《アダムちゃん》とか《アダムくん》といった名前、固有名詞ではない。アダムは一般名詞、「ひと」と訳すべき言葉だって。

《うめよ、ふえよ、地に満ちよ》そして、“大地を従わせる”のが、神が人に与えた指名。これを自然を支配して好きに使っていいと取ることも可能である。ただこの本では、同時に、《ヤハウェは彼をエデンの園から追い出し、彼がそこから取られた土に従わせた》とあるそうです。人は大地を従え、同時に、大地に使える存在なんだな。

聖書にはいろいろなことが、いろいろな方角から書かれているから、部分を取り出して、自分の好きなように解釈することもできるわけだ。

では、イブは。イブはどうか。

イブは、アダムのあばら骨から作られた。男と女はやっぱり違うんだな。西アジアの古代において、男と女ってそう捉えられていたんだ。つまり、男のために女が作られた。イブはヘブライ語でハヴァー。意味は命だそうです。女にふさわしいと思う。

イブは賢い蛇にそそのかされて、善と悪とのを知る樹からその実をとって食べた。アダムもイブから実をもらって食べた。神に知られると、アダムは「あなたが私と一緒にいるようにと与えた女が私にその樹からくれたので食べた」と言い訳をする。

この言い訳、見苦しいね。女が悪い。もとはと言えば、その女を私に与えたあなたが悪いって言ってるんだから。なんだか最近、そんな見苦しい言い逃れを、いくらでも聞いているような気がする。

これが、彼らがエデンを追放される理由になるわけだけど、この物語を書いた人は、人間っていうのはそういうもんだっている認識を、ここに書き記す必要があると考えたんだね。


『謎解き 聖書物語』   長谷川修一

ちくまプリマー新書  ¥ 929

旧約聖書につづられた物語は史実なのか、それともフィクションなのか?
第1章 アダムとイブ―人類誕生の謎
第2章 ノアの方舟―試行錯誤する神
第3章 バベルの塔―文明へのまなざし
第4章 出エジプト―それは本当に起こったのか?
第5章 ダビデとゴリアテ―永遠のヒーロー誕生


アダムとイブの出会いのあと、聖書には、《男はその父と母とを捨てて、彼の女と結びつき、ひとつの肉となる》とあるそうです。そう、あえて「捨てる」という強い表現は、まさしく“あえて”使われたものだろう。私もかつて、今の連れ合いと一緒になって、新しい世帯を持って、親から離れたんだ。

ただ、完全に捨てられるわけじゃない。適度な距離を保ちつつ捨てたんだな。そして捨てつつも、関係を保ち、彼らが死ぬまでその関係を続けていく。最後の面倒を見るのがけっこうきついこともあるけど、家の場合は、なんとか面倒を見切った。もう、彼らはいなくなった。

娘も、そして今度は息子も、私たちを捨てていけばいい。どんな捨て方になるかは、その時代によるだろう。何でも受け入れるよ。

アダムとイブ、人と命は人類の代表。この本の著者も言ってるけど、彼らの行動、彼らの思考は、人類が誰でもそうである可能性があるということ。

仲間とあって喜ぶ
他人から誘惑されるとそれに屈してしまう
それが露見すると人のせいにしようとする

そんな存在だけど、人は神に祝福され、パートナーとともに日々自然の世話をしながら自然の産物を食べ、子どもを生み、そして人生を全うして死んでいく。

いいじゃないか。私は大半の役割は果たし、あとは人生をまっとうするのみだな。
 



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『ゼロからわかるキリスト教』 佐藤優

《フランダースの犬》で、ネロがアントワープ聖母大聖堂で、どうしても見たかったルーベンスの絵を見ることができたとき、彼は神の愛に満たされていることを実感していたろう。神を信じてるわけでもないのに、ネロがそういう状態にあることは、疑えなかった。

イスラム国につかまって殺された後藤健二さん。佐藤さんと同じ、日本基督教団に属しているんだそうです。そういう立場で、佐藤さんが後藤さんに言及しているのね。

ジャーナリストとしての実績もあり、その前に拘束された湯川さんのことも前から知っている。日本政府も、NPOも助けに行けない。マスコミも世論も、どこか湯川さんを「しょうがねぇな」扱いにしている。

ちょっと変わったところのある人だけど、日本から遠く離れた砂漠の中で、一人殺されようとしている。放っておけば、誰からの手も差し伸べられないまま、間違いなく殺される。万が一の可能性しかないけど、自分が交渉に立てば、この人を助けられるかもしれない。だけど、自分が殺されたら残された妻や、生まれたばかりの子をどうする。

佐藤さんは、《後藤さんは召命を受けた》と言うんです。神に召し出されたと。召命は、《外部から、超越的な声が聞こえる》って言うんです。そして、召命に従うことは、《義務なのだ》と。

あの時の、後藤さんの、悲壮感にあふれながら、しかも堂々とした、・・・武士のような表情。ネロと同じく、後藤さんも、神とともにあったということか。

佐藤さんにも、聞こえたことがあるって。そうあの時、鈴木宗男さんとのできごとの時。



新潮社  ¥ 1,296

神の居場所を知っていますか? 全日本人の弱点・キリスト教の核心を早わかり!
第一夜  神はどこにいるか?
第二夜  神の声が聞こえるとき
附録  ヘーゲル法哲学批判序説 カール・マルクス


《宗教がアヘン》であるなら、宗教がある以上、人はそれに酔わせられ続けることになる。酔った人間は、自分が鎖につながれたことさえ気づくことができない。しかし、アヘンは取り上げられた。それは、鎖につながれた現実に絶望させるためではなく、鎖から解き放たれる希望に奮い立たせるため。

ガリレオ・ガリレイらの時代、神は居場所をなくしたんだって。カトリックは、新知識に圧力を加えて、見ないふりをしたけど、プロテスタントはフリードリヒ・シュライエルマッハーによって、神の居場所を外部から“人間の心の中”に転換することに成功した。

さらに、カール・マルクスは、神に対する観念の分水嶺になる。「宗教が人間を作ったのではなく、人間が宗教を作った」というマルクスの宗教批判は、現代の神学者が神を語るときの前提で、当たり前のことなんだって。
・・・どうも最近、読んでみると、「書かれていることが思ってたのと違う」ってことが多い。“神”に関して、いろいろな人の考えが引用されてくるんだけど、カール・バルト、ディートリヒ・ボンヘッファーなど、ほとんどの神学者は、名前さえ知らない。

もともと、佐藤さんはわかりやすく書ける人で、“セクハラ・パワハラ”へのたとえであるとか、“妖怪ウォッチ”のたとえであるとか、“アダムとイブの原罪”であるとか、おもしろく書いてくれるので何とかついていったって感じ。ただ、《キリスト教がゼロからわかった》っていう実感はない。これじゃあ、本の紹介になってないな。その点、題名が張ったりかまし過ぎ。 ・・・お前の方に原因があるんじゃないかって? ・・・ごもっともで。

カトリック世界という枠組み、共産主義社会という枠組み、そしてイスラム国という枠組み。その世界にはその世界特有のルールがあって、“民主主義社会”という枠組みのルールは、そこでは何の意味も持たない。ときには“独裁”が称賛され、異教徒の処刑は合法であり、異教徒の女を奴隷のするのは当たり前である。こういう考え方は、甘えを取り去ってくれるね。

「民主主義は嫌いだけど、ほかの方法よりも、まだまし」って、チャーチルがそんなこと言ってたっけ。




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『キリスト教と戦争』 石川明人

キリスト教の大きな転機は、やっぱりコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令と、テオドシウス帝による国教化だよね。変な話だけど、それ以前のキリスト教は、ローマ帝国の中で、時には迫害を受けながらも、だからこそキリスト教徒であることを貫くことができた。
キリスト教徒がローマの軍団にいたことを示す証拠のもっとも古いものは、一七三年のものだそうだ。危機に貧したマルクス・アウレリウス・アントニウス帝時代のローマ軍の中に、キリスト教徒がいた。そのキリスト教徒の祈りによる雨で軍団は危機を脱し、敵は稲妻によって敗走したという記録があるんだそうだ。
しかしその後、ローマの軍団の中での、キリスト教徒の殉死が問題になっていったようだ。それは、キリスト教徒の兵役の拒否という問題でもある。彼らがローマ軍兵士として戦うよりも殉死を選び、または兵役を拒否して死を選んだ理由は、けっしてキリスト教徒としての愛ゆえに、戦いを由としなかったということではなく、どうやら、「軍隊の誓い」によって神格化された皇帝を崇めることを拒否したらしい。
ところが、ミラノ勅令の翌年、三一四年になると、すでに兵役はキリスト教徒にとって何の違和感もないものになっていたようだ。逆に、キリスト教徒の兵士の脱走は非難の対象になったらしく、教会から破門の罰をくだされたらしい。
いずれにしろ、“愛の教え”は、キリスト教徒にとって、大したことではなかったようだ。

『キリスト教と戦争』    石川明人
中公新書  ¥ 886

アウグスティヌス、十字軍、ルター・・・、キリストの兵士よ 戦え❢
序章  キリスト教徒が抱える葛藤と矛盾
第一章  ローマ・カトリック教会のとく「正当防衛」
第二章  武装するプロテスタントたち
第三章  聖書における「戦争」と「平和」
第四章  初期キリスト教は平和主義だったのか
第五章  戦争・軍事との密接な関係
第六章  日本のキリスト教徒と戦争
終章  愛と宗教戦争


“キリスト教徒は、本質的に戦闘的である”というのは、たしかに、思い返してみれば著者の言うとおりだ。イスラム教もそうだしね。一神教であるということ自体が、戦闘的でなければならない原因になっているのだろう。
キリスト教社会が、信仰を盾に正義を主張し、残虐な振る舞いに及んだ事実を歴史に求めようとすれば、それこそきりがない。本書で具体的に取り上げられているのは十字軍だけだけど、キリスト教と暴力の問題を考えるなら、それだけでも十分ということか。たしかに、それはそうだ。
カタリ派や魔女狩りなどの異端審問、ユダヤ人の弾圧、レコンキスタ、インディオやインディアンの虐殺、奴隷貿易・・・。キリスト教社会の歴史は、いつも神の正義を貫いてきた。神の正義を貫くための戦いが信仰なら、信者の生活は様々な戦いに彩られている。

《信仰は精神的な闘争》
《キリスト教徒にとってこの世は、病気や死、そして悪魔から襲撃されている戦場》
《修道士はキリストに従う兵士》
《兵士が武器を捨て修道士や聖職者になることは、彼が戦死をやめるということではなく、より高いレベルの戦士となることを意味する》
《修道院の禁欲生活は軍務の一形式としてイメージされ、厳格なルールのもとで“共に闘う”ことにおいて、明らかに軍隊との類似性がある》
武器を捨て、暴力を禁止された聖職者においてすら、戦闘的精神は、信仰と全く矛盾することなく生き続けた。だからと言って、キリスト教だけがことさら血なまぐさいというわけでもない。一神教が対立の一因となりうるのは否定できないが、多くの場合、原因は他にある。人の都合で神さまの許可が偽造されるので、悪いの神さまではなく、その許可証を偽造した人間の方だ。
偽造した人間にしてみても、“信仰”にそれだけの価値がなければ、偽造すること自体なんの意味もなくなってしまう。だから、素晴らしい神さまでいてもらわなきゃいけないし、素晴らしい信仰であってもらわなきゃいけない。だから、《キリスト教は愛の宗教です》という看板は、おろすわけにはいかない。




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テーマ : 本の紹介
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聖別せよ(覚書)『キリスト教と戦争』 石川明人

直ちに、[敵の]子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
(民数記31:17)
ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。
(申命記7:1)
行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。
(サムエル記上15:3)
主が課せられた勤めを  おろそかにするものは呪われよ
主の剣をとどめて  流血を避けるものは呪われよ
(エレミア書48:10)

『キリスト教と戦争』    石川明人
中公新書  ¥ 886

アウグスティヌス、十字軍、ルター・・・、キリストの兵士よ 戦え❢
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに使えさせねばならない。しかし、もし降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に上げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のあるものは、一人も生かしておいてはならない。
(申命記20:10)
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声を上げた。民が角笛の音を聞いて、一斉に時の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
(ヨシュア記6:16)
五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼とともに戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して主はこのようになさる」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方まで晒しておいた。
(ヨシュア記10:24)

ここにあげてあるのは、本書第三章《聖書における戦争と平和》で紹介されている聖書の言葉。その前半部分には敵を根絶やしにするまで破壊することを命じる神の言葉が、後半には限りない愛を説くイエスの言葉が並ぶ。

しかし、イエスの愛も、戦争や暴力の完全否定に言及はしていない。つまり、キリスト教は、「愛」と「暴力」が矛盾するものとは考えていないのである。

読めば読むほど不愉快になるね。しかも、申命記(20:10)に至ってはさあ。これは、主の民が降伏を勧告し、攻め込もうとしているのは、“日本”じゃないか。これから主の民たちは日本に対してポツダム宣言を発表する。「男は皆殺しにし、女は慰みものにされる」っていうのは、昔からそうなんだな。インディアンに対してやフィリピンでやったのがはじめてじゃないんだな。そんな降伏を受け入れられるわけがない。

ヨシュア記にあるように、彼らの神には、的に対して敬意を払うなんて考えはさらさらない。日本ではそういうのこそ、野蛮と言うんだけどね。結局負けちゃったから、本当にその野蛮にさらされることになる。本音を言えば、神の言うとおりに“男は皆殺し”、“女は慰みもの”、“天皇はさらし首”にしたかったんだろうけどね。やっちゃったら、戦後世界をまとめられなくなるからね。
  1. われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。
  2. 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。この軍事力は、日本がその抵抗を止めるまで、戦争を完遂しようとする全ての連合国の決意によって鼓舞されかつ維持されている。
  3. 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。
  4. 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。
  5. これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。
  6. 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた。すべての影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。
  7. そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。
  8. カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。
  9. 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。
  10. われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。
  11. 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって賠償の支払いにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の、将来の 参加はこれを許すものとする。
  12. 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。
  13. われわれは日本政府に対しすべての日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。




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テーマ : 本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

正義の宗教(覚書)『キリスト教と戦争』 石川明人

平和とは、人間社会の創立者である神に寄って社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である。
現代世界憲章より
現代世界憲章っていうのは一九六五年に第二バチカン公会議で採択された、現代人および世界と教会との関係を述べたものだそうだ。上の文章は、その中の“平和”にかかわる文言で、バチカンによる“平和の定義”と言っていい。
彼らの神さまはとってももったいぶった方で、“本物の平和”は、すでに人間社会に刻みこんであるものの、簡単に人間にくれてやったわけじゃない。それは間違いなく人間社会に存在するんだけど、人間は神が定めた“完全な正義”を求めて行動した度合いによって、それにふさわしい程度の秩序としてその成果が示されるらしい。
こんなまどろっこしいやり方で神さまを免責することに、いったいどんな意味があるんだか、私にはまったくわからない。そんなめんどくせぇ神さまは、お払い箱にしちゃえば、ことは簡単だと思うんだけどな。

・・・そうは行かないか。彼らを野生に戻したら、もっと大変なことになるよな、きっと・・・。

『キリスト教と戦争』    石川明人
中公新書  ¥ 886

アウグスティヌス、十字軍、ルター・・・、キリストの兵士よ 戦え❢
ルターの『キリスト者の自由』は、神の前における「万人の平等」を謳った。おりから領主に対して立ち上がった農民たちは、ルターの教えに焚き付けられた。しかし、農民たちの攻撃対象である領主層の保護下にあるルターは、兵士たちに命じた。
誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。そのために死ぬのならば、あなたにとって幸いである。これ以上祝福された死はあなたにありえない。というのは、あなたは神の御言葉と命令に従い、また地獄と悪魔のきずなから、あなたの隣人を救い出す愛の奉仕のうちに死ぬのだからである。

・・・どうでしょうねぇ、これ・・・。若い連中を焚き付けて自爆テロに走らせる、イスラム原理主義のリーダーたちの言ってることとまったくおんなじだな。
ルターの時代から遡ること百年。すでに宗教改革の萌芽が見られた。コンスタンツ公会議の決定によって、火炙りで処刑されたヤン・フス。確かこの段階で名前の上がったお師匠さまのジョン・ウィクリフは、死後三〇年にして墓を暴かれ、遺体を火炙りにされた。フスの処刑から発生したフス戦争は、宗教戦争に民族戦争の色彩まで加わって激化した。双方ともに、神の正義を実現しようとすることで譲らなかった。

ルターと同じ時期にスイスで宗教改革を進めたフルドリヒ・ツヴィングリはどうか。「・・・ツヴィングリの改革が中途で終わるのは、彼が戦死したからじゃなかったっけ」って思ったら、やっぱりそうだ。一五三一年、プロテスタント諸州とカトリック諸州の緊張に、ツヴィングリは軍事力行使を強く主張し、軍旗を手にして戦闘に加わったんだそうだ。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」という言葉を、ツヴィングリはよく口にしたそうだ。チューリヒの教会にあるツヴィングリの銅像の手には、聖書だけでなく、大きな県も握られているんだそうだ。
カルヴァンは・・・?ってのは、もはや愚問だろうな。カルヴァン派の登場に至って、新旧の殺戮合戦は、いよいよ手がつけられなくなるんだからね。カトリック指揮官はプロテスタント住民を殺して川に投げ捨て、プロテスタントはカトリック司祭の耳を切り取り、繋いで首にかけたり、切り落とした首でボウリングのような遊びを楽しんだそうだ。おそらくこれは、ユグノー戦争や、サン・バルテルミの虐殺の一コマなんだろうな。

三十年戦争もまた、宗教戦争。ドイツ人口は一六〇〇万から六〇〇万に激減したというが。もとから残忍なカトリックに対し、プロテスタントもルターやツヴィングリのような連中がたくさんいた結果だろうね。

愛の宗教なんでしょう。わかりますよ。キリスト教の“愛”に、どれだけの人が慰められたか。寛容の宗教なんでしょう。もう、言われなくてもわかります。キリスト教の“寛容”に、どれだけの人が許されたか。そのことに、私はまったく疑問を持ちません。でもね、キリスト教が試された時、彼らは間違いなく神の正義を優先する。その時、彼らは愛しもしなければ、許しもしない。

・・・それだけのことなんじゃないかなぁ。・・・そういう言い方はないよね。じつはまだ、二章までしか読んでないのに、これを書いてるんだ。・・・ごめんなさい。ということで、先を読みます。




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「食肉用の牛」論争・・・『クール・ジャパン』より

今日の記事を書くのは、この本の中にその題材が載っていたからなんだけど、まあ、この本がどうのと言う意味の記事じゃない。ただ、この間、この本の記事を書いたときにもすごく心に引っかかっていて、日増しにのどに引っかかった骨みたいに気になって、気になってね。・・・どうにも、仕方なくなったもんで、紹介しておこうかなってね。

この間の記事の中でもまったく触れなかったわけじゃないんだけどね。
そんでもって、「食肉用の牛」論争。これってまるっきり「捕鯨論争」だよ。自分が育てた牛が売りに出される時、涙を流す農業高校生を笑う西洋人には、おそらくなんにも分からない。・・・《cool japan》に出演される彼ら日本通外国人にも、やっぱりわからないみたい。「いただきます」って言葉の意味が・・・。
・・・って、この程度にね。

今日は、その点だけに主題を絞って、・・・まずは該当の本文を紹介してしまおう。・・・いいよね。
『クールジャパン!? 外国人が見たニッポン』  鴻上尚史

講談社現代新書  ¥ 821 

二〇〇六年四月からNHKで始まった《cool japan》も、ついに一〇年目に突入
「食肉用の牛」論争
 日本の高校の特集の時、農業高校の畜産科を取材しました。二年半、手塩にかけて育てた黒毛牛『相夢号』を出荷する風景でした。生徒たちはみんなで記念写真を撮って別れを惜しみました。
 「小さい頃は撫でてあげると舐めてくれることがありました」「トラックに乗せるとき私たち押したんですけど、なかなか乗ってくれなくて、もう涙があふれました」
 彼ら彼女らは相談して、出荷して食肉となった相夢号の革をもらいました。育てた牛の思い出に、その革でしおりかブックカバーを作ろうと決めたのです。
 というVTRを流した時、オランダ人男性が爆笑しました。釣られて、二人の外国人が笑いました。あとの二人は戸惑った顔をしました。残りの二人は理解できないという顔をしました。日本人と同じ反応をしたのは、韓国人だけでした。七人の西洋人は、笑うか、戸惑うか、理解できない顔をしました。
 オランダ人の男性は「食肉用の牛なんだよ。なぜ、牛の思い出を大切にする必要があるんだよ」とまったく理解できない顔で言いました。
「だって、子牛の時からずっと育ててきたんだよ。ずっと世話してきたんだから、食肉用なのはしようがないけど、育てた思い出を大切にしたいでしょう?」と言うと、「だって、牛ですよ」と笑ったほかの二人も言いました。「日本人らしいと思うけど理解できません」とアメリカ人女性は戸惑った顔で言いました。
本書P205~206
このあと本書は、なぜか“「食肉用の牛」論争”を放棄して、話を論理を重視する西洋と、調和や共有という感情を大切にする東洋という方向に持って行ってしまう。・・・いや、“「食肉用の牛」論争”を放棄したわけではないのか。その論争の根っこがそこにこそあるという判断なのか。だとしたら鴻上さん、ちょっと短絡的じゃないかな。さらにはキリスト教が禁じた自然信仰とかって話じゃあないと、私は思うんだけどな。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

高校生たちは、涙を流しながらも相夢号を売りに出すわけですよ。牛肉を食うわけだよね。涙流しながら・・・。それって、「ただかわいそうだから鯨は食べないで・・・」なんて話とは違うわけですよね。私たちは“自然崇拝” と言ってしまうと、なんだかかえって安っぽく思えるけど、自然と自分の間に明確な線引きなんてないわけだよね。肉だって、野菜だって、けっして自分たちの対極に存在するものじゃなくておんなじ自然の側に属するわけでしょ。おんなじ側にいるから泣く泣く食うんでしょ。

私は鯨の肉を食いますよ。いろんな生き物を食いますよ。植物にだって命があると思ってるよ。残酷というならベジタリアンもおんなじように残酷だと思うよ。でも、その“命” をいただく覚悟はあるよ。相夢号に涙を流す農業高校生を笑った西洋人は、その“命” をいただく覚悟を持って牛肉食ってないだろう。

私たちにしてみれば、それこそ野蛮に思えるんだけどね。





 


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『血の福音書 下』 ジェームズ・ロリンズ

上巻の時に書いたけど、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』を“私が”発見した時みたいに、キリスト教の謎解きものかなって手にとった本。最初っからバンパイヤが現れてびっくりしちゃったけど、考えてみれば、両者の違いは単なるフィクションの度合い。後半になると明らかに“光”が強調されるけど、・・・ということは、同時に“闇”も強調される。
“光”と“闇”
“善”と“悪”
そして最終戦争?・・・えっ、ハルマゲドン?
・・・えっ・・・それって・・・“アフラ・アズダ”に“アーリマン”?
・・・なに、なに、なに・・・
ツァラトゥストラ?

『血の福音書 下』 ジェームズ・ロリンズ『血の福音書 下』 ジェームズ・ロリンズ
(2014/08/25)
ジェームズ・ロリンズ、レベッカ・キャントレル 他

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ーThe Blood Gospelー


いやいや、盛り込んでますねぇ。この手の本、あんまり読んでないもんだから、結構興奮しました。あんまり続けられると、早々に飽きがきそうな気もするけど、・・・まあ、今のうちは、面白く読みました。・・・はい、飯も食わずに・・

まあ、それにしても「血の伯爵夫人」ことバートリ・エルジェーベトは、この話の展開だからいいとして、ナチスに罪を着せるのもいいとして・・・。まさかねぇ、・・・怪僧ラスプーチンが登場するとはねぇ。思っても見なかった。そして彼の手によってあちらの世界の一員となったあの少年を登場させるとは・・・。アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフを・・・。

この手の本は、歴史の中から誰を登場させようが自由自在だからね。でも、ラスプーチンならラスプーチンで、そこんところを掘り下げて、十分、充実の一冊を成し遂げられるよね、絶対。そんだけにもったいない気がしてね。・・・♫ いいじゃ、ないの、幸せならば♫・・・まあ、いいでしょう。
右の絵は、レンブラントの『ラザロの復活』。ラザロは葬られて四日たったのちに、イエスによって復活する。この本は、このラザロをキリストの騎士の最初の人としてうまいこと物語の中に組み込んでいる。

んんん?死んでよみがえって、キリストの騎士?・・・? じゃぁ、死んでよみがえった“あの人”は?・・・どうなるの?

まさか、ねぇ。まさか、あの人まであちらの世界の一員、というより親分なの?
ラザロ
気になるんだよなぁ。だってさぁ、エピローグに不思議なことを言う人が現れるんだ。その人、こう言ってるんだよね。
『数千年も待ち続けて、ようやく私が運命を全うする時が来た。かつて、私はかのナザレ人をこの世から追いやってしまった。あの方と、あの方の王国を呼び戻すのが私の義務だ。たとえ、それがこの世の終わりを意味していようとも』

最後の一行にその名を晒すその人・・・。ああ、もう シリーズとして、次に続くのね。 それならそれで、ちっとやそっとの展開じゃ、もう我慢できないからね。・・・じゃ、またね。

っそうそう、“予言の三人組”・・・、《キリストの騎士》ことカトリック神父のルーン・コルザ、《学ぶ女》こと美人考古学者のエリン・グレンジャー・・・だから、美人ったら美人・・・、《戦う男》ことアメリカ人軍曹のジョーダン・ストーンの活躍は相変わらずだよ。まったく、人間離れしている。まあ、コルザは人間じゃないわけだけど・・・。



    


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『血の福音書 上』 ジェームズ・ロリンズ

『血の福音書』という題名から、キリスト教の謎解きモノかなって思って読んでみた。もしかして、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』の時みたいに、とんでもない掘り出し物にぶつかるかも・・・、なんてね。
始まりは、・・・“西暦七三年、春 イスラエル、マサダ” といえば、六六年に始まるユダヤ戦争の最終局面。千人に及ぼうとするユダヤ人が立てこもったマサダ要塞に、ローマ軍一万五千が突入する。ローマ兵は死に物狂いの抵抗を覚悟していたが・・・、ユダヤ人は、集団自決していた・・・というシーン。マサダ
と思ったら、あれあれ・・・、冒頭からなんともおどろおどろしい展開で・・・、この隠された記憶が現代に・・・、ってか?・・・えっペ・・・、ペテロなんで?・・・、ローマで死んだはずじゃ?
『血の福音書 上』 ジェームズ・ロリンズ『血の福音書 上』 ジェームズ・ロリンズ
(2014/08/25)
ジェームズ・ロリンズ、レベッカ・キャントレル 他

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ーThe Blood Gospelー

主人公は美人考古学者のエリン・グレンジャー、アメリカ人軍曹のジョーダン・ストーン、カトリック神父のルーン・コルザの三人。考古学者はともかくとして、なぜ “美人” かって?・・・うるさい❢ 美人と言ったら美人❢

この三人が、地震によって倒壊したユダヤ民族の歴史遺産でもあるマサダの要塞で運命的に出合う。この“運命的な出合い”というのが、極めて血なまぐさい。あんまり血なまぐさいのは好みじゃないんだけどな。・・・ねえっ、どうしてここまで血なまぐさくなきゃいけないの?

皆さんは、ご存知だったんでしょうか。私、半分くらいまで読んで、ようやく気づきました。この本、表紙をよく見ると、《血の騎士団》シリーズと書いてある。気づいていれば、少しは心構えもできたろうに・・・。
この本、“ヴァンパイヤもの”でした。血なまぐさいのも当たり前。あっさりしたヴァンパイヤなんてねぇ。私みたいに、トマトジュースが大好物なんて奴いるわけないから。
「もうダメだ」、「いくら主人公でも死ぬ」と思われるほどの危機を脱した三人、特にエリンとジョーダンはベルナルド枢機卿から隠された歴史の秘密を教えられ、ある使命を与えられる。そしてルーンと共に、ペテロがマサダ要塞に隠したとされる福音書、ある人の血で記されたという《血の福音書》を捜索するたびに出かける。

・・・下巻はどこだ?うわッ、下巻の前に読まなきゃいけない本が、まだこんなに・・・


    

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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本












































































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