めんどくせぇことばかり 本 日本 思想
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『うたかたの国』 松岡正剛

すごい!

「世の中は三日見ぬま“に”桜かな」ならいつの間にか咲いていた桜が、「世の中は三日見ぬま“の”桜かな」と、“に”を“の”に変えるだけで桜を散らしてしまうことができるのか。さらにそこに、人生観まで乗せてきている。それも、まったく同じリズムだけに変化の大きさが、さらに際立つようだ。

「やつし」というと、本来の姿を変えて正体を隠していることなんだそうだ。ただ、「やつし」というと、どうしようもなく疲れ果ててしまったり、みすぼらしくなってしまう方に姿を変えているように受け取れる。

よく、「身をやつす」なんて言い方をする。たとえば、「恋に身をやつす」なんて言うと、恋をして、痩せこけてしまうほど夢中になってしまった様子をを現わす。これは、痩せこけた姿で正体を隠している状態ということになる。

「ひょっとこ・おかめ」のひょっとこは、「火男」が訛ったんだという。口を突き出しているのは、火でも吹いているんだろうか。そのルーツは、とことん行きつめればイザナギ・イザナミまでさかのぼる。「ひょっとこ・おかめ」は、イザナギ・イザナミのやつしヴァージョンか。

「整いきっているのは、やりきれない」と言う思いが日本人にあり、だからこそ日本文化は型から外れていく。それが「くずし」であり、「やつし」なのだそうだ。ただ、型を身につけているからこその「くずし」や「やつし」。型に至らない「くずし」や「やつし」は、ただの恥知らず。

36年間、教員をしていたが、その最終盤にアクティブ・ラーニングというのが取り入れられつつあった。教育委員会は、若い教員連中に、まずそれをやらせていた。学ぶ側の主体性を尊重し、能動的に学ぶよう導くらしい。それが教育の進化なんだそうだ。まったく、分からない。

その人たちに言わせれば、言葉からして、勉強は強いるものだからダメらしいが、もともと勉強というのは、自分でするものだ。型もできないのに、最初から“くずし”に逃がしてどうするんだ。

型がなければ「やつしの美」は生まれず、型があるから型破りが芸になる。やつしを芸の域に高めるのは「もどく」ことによる。漢字では擬くと書く。擬態、疑似の擬は擬するの擬。それを真似て似せること。

世阿弥は芸能の本質を、ものまねにあると見なしたという。世阿弥の芸能は、神や翁のもどき芸として、今日に伝わった。

高校山岳部で山に出かけるとき、弁当が必要なときは、母に“むすび”を作ってもらった。大きめのやつを5個、お米にして2合食べた。“むすび”がすんなり来る。“おにぎり”は、なんだかいやらしく聞こえてしまう。

「むすび」は、「むす・ひ」。「むす」の意味は産す。産み出すこと。「ひ」は霊。だから、「むすひ」は産霊。産まれ出る霊力という意味を持つ。そこから生まれたのが、結びという言葉。結ぶというと、締めて、閉じてしまうようなイメージがあるが、状態としては何かがいよいよ生まれ出る状態になっていることを指す。やはり、おにぎりよりも、おむすびがいい。

ただ、日本はそれを伏せてしまうんだそうだ。熨斗をつけて、結び目をつくって、何かが生まれ出ることを暗示するんだそうだ。

どうも日本文化の根源的な部分というのは、見えそうで見えない。それでいて、確実に根底を支えている。


『うたかたの国』    松岡正剛

工作舎  ¥ 1,980

物語も、日記も、茶の湯も、屏風絵も、信心も、国学も、日本はいつも歌とともにあった
ひい うたの苗床ー音と声と霊
ふう 記紀万葉のモダリティー●古代
みい 仮名とあわせと無常観ー●平安
よ  百月一首ー●うたの幕間
いつ 数寄の周辺ー●中世
むう 道行三百年ー●近世
なな 封印された言葉ー●近現代


時々しかやってこない神が里に来臨することを、おとずれと言った。おとずれは「訪れ」であるが、おとづれは「音連れ」である。神さまがやってくるとき、音をともなってやってきたんだそうだ。どんな音だろう。

神は依代に下りてくる。榊の木は、神を依らすための代表的な木。そこに神が到来することをよ影向(ようごう)と言う。それはかすかな気配の動向。かすかな神の気配を感じさせてくれるのが、依代である、たとえば榊と言うことになる。たとえば、風は目に見えない。写真家はたなびく旗を撮って、風を写す。・・・風が吹くのだろうか。葉が揺れるのだろうか。その音を連れて、神が訪れるのだろうか。

山に入ろうとするとき、町を抜け、集落が薄くなり、里山を経て、山となる。その山に唐突に墓地が現れる。山中他界。人は死ぬと、魂が山に飛んでいき、そこで往生を遂げる。

人が死んだら魂だけが山に帰るという話が書かれている。私は、祖母から、よくそう言われていた。だから、子どもの頃、山は怖いところだと思っていた。私の家は武甲山という山の麓にあった。だから、子どもの頃に聞いた昔話の世界が、すぐそこにあった。

里に対峙するのが山。里芋があって、山芋がある。山芋には、里芋にはない力が感じられる。縄文の人々は、山の力を借りて生きてきた。稲作が発達して里に定住した人々は、山で生きる人々に畏怖をともなう脅威を抱いていた。その思いが、いつか山の人々を意識の上から遠ざけ、自分たちの情緒や条理を解さないものとして、低く見るようになる。

しかし、里人の情緒の根底にある花鳥風月の舞台装置は、山を抜きにして考えられるものではない。「山はさまざまなイメージの母型」、「花鳥風月の舞台装置となるべき分母」と、著者は言っている。

分母が貧弱になり、どんどん小さくなったとき、いったい何が起こるんだろう。想像したくもないな。

さてこの本は、松岡正剛さんが今まで、日本の詩歌について書いてきた文章を、松岡正剛さんの教え子である編集学校師範の米山拓矢さんが編集したもの。日本がまだ文字を持たない時代の詩歌に対する類推から、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎にまで及ぶ。さらには、『古語拾遺」や『古事記伝』と、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎らの歌を一緒に見たいと書いている。

松岡さんの文章自体膨大なもののようだが、それを目次にあるようなテーマに沿って編集し直したことによって、松岡さんの言葉によれば、「ハイパー複式夢幻能になっていた。長良川どころではない。木曽川も揖斐川も組み合わさっての木曽三川の夢幻能組曲」に生まれ変わったそうだ。

詩歌に造詣のない私には、「後ろを向け」と言われて後ろを向いたら、いつの間にかその相手がいなくなってしまったかのような、上げられて、下げられて、ぐるんぐるんと引っ張り回されたような読後感。「歌や歌謡は日本語の苗床、表記システムの起源、多くの歌物語であって、かつまた日本人の感情の襞」と言うことであれば、理解するより感じるもの。知識の不足は感じることさえ難しくするが、でも、決していやじゃない。むしろ詩歌における、言葉の深みにもっと浸かっていたい。そう思わせてくれる本だった。


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『道教の世界』 菊地章太

時価の本だな。

古本屋で買ってきた。古本屋って言うのもいいね。何年か前に同じ古本屋に売った私の本、売れたのかな。いくらにもならなかったけどな。

先日、山を歩くのに、二十二夜塔前の駐車スペースに、車を置かせてもらった。月待ちという信仰があった。集落の者たちが集まって、飲食を共にしながら月の出を待つ。経などを唱えて悪いものが集落に入ってこないように、月に願う。十三夜に始まり、十五夜、十六夜、十八夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などがあり、この集まりを講と言った。塔は、講に集まる人々が建てたもの。

背景には庚申信仰があったようだ。そのことが、この本に書かれていた。

それは道教に由来するもののようだ。だけど、この道教って言うのが、そもそも厄介なもの。

道教ほどつかみ所のない信仰も珍しい。“中国”に発生した民族的宗教と言っても、“中国”に一言で表せる民族なんてない。言葉も、習俗も、顔の形も、目の色まで違う人たちの寄せ集め。集散離合、興隆と絶滅を繰り返す中で、いろいろな者たちが持ち寄った神話、伝統、伝説、占い、禁忌が混ざり合い、そこに生まれた新しい混沌こそが道教ではなかったか。

人間の体の中には、虫がいるらしい。実際、死んだ母が保管していた、私の小学校以来の通信簿を見ると、ギョウ虫検査の結果欄はいつも陽性と書いてある。今はもうギョウ虫を飼っていないけど、虫の居所の虫はいる。虫の知らせの虫もいるかもしれない。虫唾が走る。虫が好かない。虫のいい話。疳の虫。

その他にも虫がいる。三尸の虫は少し厄介な虫。なにしろ宿主である人間が死ぬことを望んでいる。干支の庚申の日に、人間が眠ったすきに体から這い出し、人間の寿命を司る神さまのところに行って、その人間の犯した罪科を告げ口する。神さまは罪科の軽重を測って、重ければ300日、軽ければ3日の寿命を縮めてしまう。

だから、長生きしたければ庚申の日に眠ってはいけないんだそうだ。三尸の虫が体から這い出せないように、起きていなければならない。道教では、これを守庚申と呼ぶそうだ。

そうそう、干支も道教が由来でしょ。十干と十二支の組み合わせで、甲子で始まって癸亥で終わるまで60通りの組み合わせ。だいたいふた月に一度、庚申の日が訪れる。

ふた月に一度訪れる庚申の晩に、男衆、女衆、別々の家に集まって夜を徹する。これを月待ちと呼んだ。庚申の日の月待ちをするために講を組織する。講は宗教的な集団で、庚申講を組織して、つながりを保つ日本人の習慣が培われた。

そこにあるのは、もはや、日本の習俗と言っていいだろう。



『道教の世界』    菊地章太

選書メチエ  ¥ 時価

高度な哲学的思弁と卑俗な民俗信仰の入り交じる、矛盾と混沌に充ち満ちた不可思議な思想
第一章 しいたげられた心の救い
第二章 転変する世界の肯定
第三章 その喧噪のただ中で
第四章 陰気が陽気を犯すとき
第五章 体の中は虫だらけ
第六章 十中八九でたらめでも


庚申塔というのをあちらこちらで見かけることがある。小川町にある山の中には、百庚申というのがあった。
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青面金剛を刻んだ庚申塔が多いそうだ。青面金剛法は西南に座して修法するそうだが、それが庚申の方角とされることから結びついた。女衆の講では如意輪観音を刻んだそうだ。

もとは道教由来で始まった庚申信仰であろうけど、神道と習合し、仏教とも習合して。その信仰はさまざまな形を取ってきた。日本でも長い間、三尸の虫のことなんか意識していないだろうが、悪い病気が集落に入らないように、元気で長生きできるありがたい風習として残ってきたのだろう。

先祖を思って心と体を清め、一夜を神前に参籠する。そうすることで、集落の安楽がもたらされる。

祖母の生家は“滝”という小字にあったが、母の代まではそこで月待ちが行なわれていた。お菓子が出るからと、連れて行かれたことがあった。何でもない、おばさんたちの寄り合いだった。その時は、夜を徹するやり方は取られていなかったが、年に一度はそうしたらしい。

祖母の妹から聞いたことだけど、夜通し、念仏をするんだそうだ。

高校の時、そう、私は勉強をしていたから、受験勉強の頃か。

私は高校から帰ったら一度寝て、夜の9時に起きて朝まで勉強した。夜中は起きていた。夜通し勉強して、そのまま学校に行った。

当時、秩父の夜は暗かった。誰も起きているはずの無い時刻、山の方から木魚だか太鼓だか鉦だかを叩く音が聞こえて来たことがある。もう、怖くて、怖くてね。朝になって祖母に聞いたら、「庚申さまで十三仏の念仏講をやってたんだんべ」って言ってた。後に、祖父の葬式の終わったあと、祖母の妹の音頭でこれをやった。

♬ 不動 釈迦 文殊 普賢 地蔵 弥勒 薬師 観音 勢至 阿弥陀 阿閦 大日 虚空蔵 ♬ これを夜通し繰り返した。

今でも、それをやってるところ、まだまだあるんだろうな。



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『オオカミは大神』 青柳健二

昔、名栗が秩父郡に属していた頃のこと、妻坂峠は秩父への近道として、多くの人が往来した。

しかし、道中、山犬や狼に襲われる事故が絶えなかったという。

そこで、山中の一兵衞という人が、かみ殺された人のことを供養したいと思い、地蔵を作った。

名栗村の集落に新井亀次郎という人が住んでいた。

ある時、秩父からの帰りに妻坂峠にさしかかると、「亀次郎、気をつけろ」という声が聞こえた。

そこで、オオカミに気をつけながら急いで峠を下ると、無事、家に帰ることができた。

亀次郎は、お地蔵さまが危険を知らせてくれたと思い、峠の地蔵に屋根を作った。

今、妻坂峠に行ってみても、お地蔵さまに屋根はない。

ニホンオオカミは、人間を襲ったのか。絶対とは言い切れないが、人を襲うのは、きわめて稀なことらしい。ならば、なぜ、絶滅するまでに駆除、捕獲の対象にされたのか。

江戸時代中期、交易が盛んになると共に、まずは長崎に狂犬病が持ち込まれたようだ。ほんの30年ほどの間に全国に広まり、山間のオオカミにも伝播したらしい。

狂犬病にかかった犬やオオカミは、物事に極めて過敏になり、狂躁状態となって目の前にあるもの全てに噛みつく。その後、全身麻痺が起こり、最後は昏睡状態になって死亡する。

狂犬病の蔓延を原因に、人間との間にトラブルが発生したことで、オオカミは駆除されることになり、絶滅したという。また、魔除けのため、オオカミの骨を祭る信仰が江戸から明治にかけて流行し、大量に捕獲されたという話もある。

しかし、実際に、妻坂峠に残るお地蔵さまの伝説もある。


『オオカミは大神』    青柳健二


天夢人  ¥ 1,650

ニホンオオカミに対する関心が高まる昨今、各地に残る狼像を追ったフォト・ルポルタージュ
1 オオカミとの出会い
椋神社のオイヌゲエとは?
狼の棲む秩父桃源
オイヌゲエをハシゴする
お犬さま信仰の三峯神社と武蔵御嶽神社
2 狼像の聖地へ
「ニホンオオカミ」から「お犬さま」へ
関東平野の狼像
奥多摩のユニークな狼像
七ツ石神社の再建プロジェクト
3 大神への祈り
岐阜県と静岡県の狼信仰
東北地方の狼信仰
西日本の狼信仰




妻坂峠のお地蔵さまの伝説には、“山犬や狼”とある。

日本では、この“山犬”と“狼”を、明確に使い分けているわけではない。実際、“山犬”という生き物を、動物園で飼育しているという話は、聞いたことがない。

山犬とは、「山にいる犬」程度の理解で、真正のニホンオオカミを指す場合もあれば、野犬、野犬と狼の雑種もいたようだ。野犬なら、人間を襲うだろうか。

実は、野犬3匹に、行く手を塞がれたことがある。たまたま、秩父の実家に帰ったとき、おそらくその時はもう塞がれていたはずの武甲山の北側の斜面を登る道に向かい、手前から西に連なる尾根を歩く金毘羅ハイキングコースを歩いたときのことだ。

山の神を過ぎて、しばらく行ったあたりで、10メートルほど先に野犬3匹が道を塞いでいた。危険を感じて、下に落ちていた木や石ころを拾い、向かい合った。1匹が、こちら見たまま左右に身体を振っていたのを憶えている。

しばらくして、身体を振っていた犬が、私から見て左手の薮の中に駆け出すと、残る2頭もその後についていった。その後、熊を目撃したり、イノシシとすれ違ったり、カモシカとあわやぶつかりそうになったことはあるが、その野犬との遭遇が一番怖かった。

飼われたいた大型犬が、人を襲って死なせてしまった例はある。エサとするためかどうかは分からないが、襲うことはあるようだ。野犬なら、「なおのこと」ということになるだろう。妻坂峠の“山犬や狼”は、そういった野犬を指したのかもしれない。

送り狼の民話は紹介したが、狼は自分のテリトリーに入った人間についていく習性があったようだ。監視対象ということかもしれないが、それでも人間から手を出さなければ、襲いかかってくることはないようだ。

海外の牧羊をする国々では、家畜を襲う狼は害獣として恐怖の対象になった。しかし、日本では田畑を荒らす鹿やイノシシを駆除してくれる、ありがたい山の動物だった。

江戸時代に、秩父でお犬さま信仰が高まったのは、三峯神社に入山した大僧都が、境内にひしめく狼に神託を感じ、御眷属と称して、狼のお札を配付してからだそうだ。

もともとの、益獣としての信仰に加え、“犬”は火事がボヤのうちに気づいてくれる、侵入した泥棒に吠えかかってくれることが加味されて、お札は火防・盗賊除けの霊験も発揮するようになる。さらに、「老いぬ」に通じて健康・長寿、戌は安産・多産で安産・子授けの霊験も加わって、人々の信仰を集めた。

さらに、もう一つの背景があると、私は感じている。

三峰神社や御嶽神社のある奥秩父や奥多摩は、関東地方の水源である。水、材木、それら山の恵みを受けて、里の生活があることを、人々は良く理解していたのだろう。

今の私たちは、どうだろうか。

“犬”に象徴される山の信仰を、もう一度、取りもどすべきだと私は感じるのだが。



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すべてを失った山本坊の墓石群

『日本人と山の宗教』という本で、“越生山本坊”のことを知り、越生周辺の山の中に、いくつかの、その面影を訪ねた。

山本坊は京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示した。

慶長8年、1603年だから、江戸幕府が開かれた年だな。その年、山本坊が、本坊を越生の黒山から、現在の毛呂山町に含まれる西戸村に移している。こちらにも熊野神社を勧請したんだな。その上で、越生山本坊と合わせて、坊領50石の朱印状を得ている。

修験の寺が領土を持った。京都聖護院本山派修験の先達を務めつつ、領主として近在の農民たちを支配し、ずいぶん農地の開拓もしたようなのだ。

それだけの影響力を持ちながら、越生でも思ったのだが、この西戸においてはさらに、その痕跡が少なすぎる。その原因は、明治初年の“神仏分離令”に原因があるらしい。

神仏分離令で神仏習合を禁じられたことで、神社と寺が明確に分離される。僧侶と神主もはっきり分かれる。山本坊の当主は、神主になり相馬姓を名乗ったそうだ。それだけじゃ終わらない。明治5年には“修験廃止令”が出され、山本坊も息の根を止められる。政治上、宗教上の一切の権益を失ってしまったそうだ。熊野神社は、その後、現在の国津神神社に名前を替えた。

修験はその後、明治時代に雨後の竹の子の如くに現れる、新興神道教団に流れ込んだんだそうだ。明治政府は天皇を現人神とする神社神道を国民の信仰の柱に育て上げていくが、それを保管するものとして、教派神道12派を公認した。

中でも、富士信仰の実行教、扶桑教、御岳信仰の御嶽教は元々修験道系の信仰で、他にも修験道との関係から出発した教派神道もあるという。

神仏分離令によって、廃仏毀釈という途方もない文化の途絶があったが、文化の途絶は、それだけじゃなかったんだな。

晴れた日の午前中、運動公園の駐車場から、いくつかの史跡を廻りつつ、山本坊歴代当主の墓石の立ち並ぶ墓所を探した。




講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


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〈延慶の板碑〉と呼ばれるもの。延慶3年(1310年)のものだそうだ。もうすう鎌倉幕府が滅亡する頃だな。もとは、次の写真の崇徳寺跡に立っていたもの。崇徳寺跡あたりに住んだ行真と朝妻氏の娘を供養したもの。供養されるべき、どんな事情があったのかは分からない。

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「すとく」ではなく、「すうとく」なのか。苦林野の合戦で消失したらしい。苦林野の合戦は足利基氏が関与する。6キロほど離れた高坂の岩殿は、足利も当時の館のものとされる土塁跡がある。

IMG_7597.jpg道ばたの、小さな馬頭観音。

IMG_7598.jpg川角八幡神社。手前に“道祖神”という石碑が建つ。この神社から坂を下り、越辺川を渡ると西戸(さいど)という地区になる。“道祖土”も「さいど」と読むが、それと関係があるんだろうか。

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立派な本殿と、かたわらに立つ芭蕉の句碑。文字は判別できないが、「道傍の むくげは馬に 喰われけり」だそうだ。

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左の宝篋印塔は、南蔵寺の境内に置かれていたが、南蔵寺が廃仏毀釈により廃寺となり、八幡神社の境内に移動されたという。ここでも廃仏毀釈が激しかったようなのだが、山本坊があったからこそ激しさが増した可能性も考えられる。右の石碑には「月山・羽黒山・湯殿山・立山・金峯山・金華山・浅間山 霊場」と、修験がみられる。

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越辺川にかかる宮下橋の途中で振り返る。あの坂の上、右手の林の向こうに八幡神社がある。越辺川が溢れても、あそこなら大丈夫。宮下橋を渡りきると、右の写真のように、西戸地区の開拓農地が広がる。山本坊が絡んだものかもしれない。

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国津神神社までやってきた。もとは山本坊が勧請した熊野神社だった。周囲は畑に囲まれている。ここにも芭蕉の句碑がある。私には読み取れないが、「山さとは 万歳おそし うめの花」とあるそうだ。

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ようやく、歴代当主の墓石の立ち並ぶ場所までたどりつく。地図で見てもらうと分かるが、この背景には丘陵地帯を削った上に立つ新興住宅地やゴルフ場がある。つまり山本坊は、それらの丘陵地帯の終わった場所に、丘陵を背景にして南面していたことになる。

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「いったい、なんの写真だ」と思われるだろう。ごもっとも。しかし、上の墓石群は、この薮の中にあるのだ。薮の中に入るべき道はない。落ち葉で隠されているのではない。道はない。道路を歩いていても、なかに上の墓石群があることなど、想像もつかない。木々が葉を落とす1月下旬でこの状態。春から秋にかけては、もっと見つけにくくなるだろう。それを目的に来ても、たどり着けるとは限らない。

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国津神神社に戻り、墓石群があった方角を見る。青い屋根の家が見えるが、その裏手のやぶの中に墓石群がある。その家の方にお話を聞いたら、「教育委員会が動いたんだが、民地なのでどうにもならない」とのことで、手を引いてしまったようだ。今では、往事の山本坊の隆盛を示すものは、これをおいて他にないんじゃないかと思うんだけど、・・・残念だ。

この日歩いたのは、以下のようなコース。

地図



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秩父弁『オオカミは大神』 青柳健二

方言では、苦労した。

もちろんテレビやラジオで共通語に触れていたが、それはあくまでテレビやラジオに出てる人がしゃべる言葉だった。自分たちには、自分たちの言葉があった。特に、足が悪くて祖父母にいろいろ面倒を見てもらった私は、祖父母の秩父弁こそが母語となった。祖父母の言葉は、方言というだけじゃなくて、その言い回しが秩父弁だった。

高校を出て、大学のある東京で、私の前には無限の前途が広がっているかのように思っていた。ところが、言葉を馬鹿にされて、ただそれだけのことで、ふくらんでいた前途が一気に縮んでしまった。残念なことだった。

「なにを言っているのか、分からないよ」と言われた。いくつかの言葉で、東京の坊ちゃんたちに跳ね返された。

「けえる」、「へえる」、「せやねぇ」、「ちょうきゅう」、「あんき」あたりだったろうか。左から、「帰る」、「入る」、「大丈夫」、「正確」、「安心」ということになる。いずれも、坊ちゃんたちに跳ね返されるまで、それが秩父弁で、よその人たちには通じない言葉だなんて、考えたこともなかった。

「けえる」、「へえる」、「せやねぇ」はいいとして、「ちょうきゅう」、「あんき」について、使い方を紹介しておく。

「ちょうきゅう」は「正確」といっても、数をそろえるっていう意味合いがあって、「おつりがなくても済むように、会費はちょうきゅうに持ってきて」って感じ。「あんき」は、胸につかえていた心配事が解消したようなときに使う。「息子さんが仕事に就いたんじゃあ、もうあんきだねぇ」って感じ。

そりゃもう、しゃべるのが怖くなっちゃってねぇ。相手が地方出身者だと、ホッとしたもんだった。

秩父の方言だと、「か」が「け」、「が」が「げ」に転化する場合が多い。

「やるのか」→「やるんけ」
「帰るのか」→「けえるんけ」
「水をかい出す」→「水うけえだす」
「外聞が悪い」→「げぇーぶんなわりぃ」

龍勢祭で有名な吉田の椋神社という神社がある。この、「むく」のアクセントに注意して欲しい。強く発音するのは「む」。「む」が大きくて、「く」が小さい。その椋神社のお祭りに、「オイヌゲエ」というのがある。「げ」は「が」の転化だから、訛りを戻すと「オイヌガエ」、漢字を使えば「お犬替え」になる。

犬を替える。この本の題名にあるように、犬は狼。替えるのは、狼だな。オオカミのお札を替えるんだ。




『オオカミは大神』    青柳健二


天夢人  ¥ 1,650

ニホンオオカミに対する関心が高まる昨今、各地に残る狼像を追ったフォト・ルポルタージュ
1 オオカミとの出会い
椋神社のオイヌゲエとは?
狼の棲む秩父桃源
オイヌゲエをハシゴする
お犬さま信仰の三峯神社と武蔵御嶽神社
2 狼像の聖地へ
「ニホンオオカミ」から「お犬さま」へ
関東平野の狼像
奥多摩のユニークな狼像
七ツ石神社の再建プロジェクト
3 大神への祈り
岐阜県と静岡県の狼信仰
東北地方の狼信仰
西日本の狼信仰




さて、秩父に伝わるオオカミの出てくる民話。
昔、小前というところに、駒井某という強者がいました。

ある晩、この男が下吉田で用を済ませた帰り道、山中で一匹のオオカミに出くわしました。

そのオオカミは、大きく口を開き、「口の中を見てくれ」というように近寄ってくるのです。

男がよく見ると、のどに大きな骨が刺さっているのが見えたので、口の中に手を入れて骨を抜いてやりました。

数日経ったある晩のこと、庭で「ドサッ」と大きな音。

次の日、早起きして庭を見ると、大きなイノシシが投げ込まれていたのです。

「ははあ、これはこの間のオオカミからのお礼だな」と、家族を起したということです。

さて、次は、この本に掲載されている、山梨県北杜市増富温泉郷に伝わるお話。
江戸の昔、増富温泉から信州峠を経由して佐久へと抜ける道は、重要な往還として人の往来も多かった。

しかし、夜は真っ暗闇。

夜道を歩いていると、必ず誰かが後からつけてくる。

こっちが止まると、その気配も止まる。

振り返っても、そこには誰もいない。

人は気味悪がって、妖怪かもしれないと、坊さんや行者に頼んだが、一向に収まらない。

そのうち猟師が仕掛けた罠に、一匹の大きなオオカミがかかった。

そして、「人を喰おうとして後をつけたんだろう」と言って殺してしまった。

それからは、夜道に後をつける気配はなくなったが、反対に、熊や猪に襲われるようになった。

「あのオオカミは、人の安全を守ってくれていたに違いない」

皆ははじめて、送りオオカミノ行為を理解して、手厚く葬ったとさ。

増富温泉と言えば、三峰から続く、大きな山塊の向こう側。

テーマ : 読んだ本
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『いつもの明日』 熊谷達也

『邂逅の森』と『荒蝦夷』を読んで以来、ずいぶん長いこと熊谷達也さんの本を読んでなかったんだな。

自分に合わなかったとか、嫌いだとか、そういうことではまったくない。むしろ、どちらもすごく興奮しながら読んだ記憶がある。理由を探すのは、時間の無駄でしかない。何事にせよ、“たまたま”だ。

平成28年から、毎週火曜日、河北新報の夕刊に、177回にわたって書いてきたエッセーから厳選して、一冊の本にしたものだそうだ。

この方は仙台に住んでおられる。書いている新聞が仙台の河北新報。さらには、連載が始まったのが平成28年という、東日本大震災からの復興途上にあった年であることから考えても分かる。『いつもの明日』という題名は、もう、“明日が来ない”たくさんの人たち、残されたご家族はじめ、周辺の人たちに寄り添ってつけたもののようだ。

しかも、この本が日の目を見たのが、昨年2020年10月、まもなく、あの日から10年目を迎えるというタイミングで出された本でもある。その前に読んでおく意義は、決して小さくはない。

毎週火曜日、下の目次にあるような、さまざまなテーマで、本にしてみれば、見開きの2ページくらいの分量で書かれている。新聞掲載時には、同じテーマが続いたとしても週に1回、途中に違うテーマが入れば、またそのテーマに戻るのが2週間目かもしれないし、1ヶ月以上、間が空くこともあり得るだろう。

しかし、それを本にして、同じテーマごとにまとめれば、・・・なにをごちゃごちゃ言っているのかって、思うでしょ。そりゃ仕方がない。こういうことだ。

第1章に、《震災と復興》というテーマのエッセイがまとめられている。週に1回、このテーマについて考える、あるいは2週に1回、3週に1回、震災のことを考える貴重な時間を得ることができるだろう。だけど、第1章には、それが15本まとめられている。

天邪鬼なもんだから、《第3章 歴史の中の東北》を読んでから、第1章に取りかかったが、こう言うと語弊があるかもしれないが、5本ほど読んだところで息苦しさを感じ、1度本を閉じた。

10年間、ずっと直視せざるを得ない人たちもいることを思えば申し訳ない。だけど、その続きは他のページに立ち寄ってからまた開くという、私はそういう立場で被災地のことを考えていくことになるだろう。



河北新報出版センター  ¥ 1,760

直木賞作家がつづるエッセー集。今日と同じように、また明日がやってくる幸せ
第1章 震災と復興
第2章 サイクリストのまなざし
第3章 歴史の中の東北
第4章 文学・創作を語る
第5章 科学・美術・映画
第6章 物書きの日常
第7章 世相を読む 


だけど、震災の話題は、第1章だけじゃなくて、他の話題の中でも取り上げられている。

《第3章 歴史の中の東北》を先に読んだとさっき書いたけど、ここでは主に、明治維新が取り上げられている。ということになれば、当然、奥羽越列藩同盟の話となり、東北戦争の話となる。

そうなりゃもう、官軍と朝敵だ。「白河以北一山百文」などという言葉も発せられた。

そうそう、今村雅弘復興大臣が、「これは、まだ東北で、あっちの方だったから良かった」って言っちゃった話が書かれていた。東大法学部卒業ってくらいだから、頭が悪いんじゃないんだ。あくまでも、“人間”がそうできているってことで、“一山百文”だと思ってるから、つい、「あっちで良かった」って口をついちゃったんだ。

ちなみにこの人、佐賀県だから、肥前、官軍の側だな。はーん、・・・だからだな。

趣味というわけではない。ものの見方というか、関心の傾向と言えばいいかな。著者は、〈CO2の排出による地球温暖化〉という、国も、マスコミも、常識のように温暖化対策を国民に求めるやり方に、なんだか釈然としないものを感じているようだ。

私もそう。こと、環境問題に関して偉そうなことを言う人を、私は信じない。

天気予報をやたらとチェックするというのも、私も同様。そして、「それにしても近年の天候は・・・」と言いながら、また温暖化の話を始める。

「これはやっぱりCO2の温室効果がもたらす地球温暖化が原因に違いない。誰しもそう思うのが普通だろう。だが、・・・」となれば、もう疑っているとしか思えない。強い味方を得た思いだ。

あれはもはや、政治であり、経済の話だから、誰も本当のことなんか語らない。だらしないのは、気象予報士だな。

熊谷さんは1958年生まれ。私の2年先輩だ。ほぼ、同じ時代を生きてきた。コロナ流行後、マスクが街から姿を消したのを見て、オイルショックのことを思い出すなんてところも、まったく同じ。

「もの心ついた頃にはテレビがあり、前回の東京オリンピックと歩調を合わせて高度経済成長が始まり、やがてモータリゼーションの波がやってきて、明日は今日よりも豊かになるという、実はたいした根拠もない神話を疑うことなく信じていた。今の若者から見たら、羨ましいを通り越して、まったくもって能天気なまま大人になって社会に出た。どうしようもなくお気楽な人々の集団が、私の世代だと言って間違いなさそうだ」

まったくもって、その通り。後のことは、一生懸命生きる道を模索している若い人たちに任せた方がいい。ただし、私は熊谷さんと違って、「未来が不透明な時代に生きる若者たちに、ごめんなさいと」謝るつもりはさらさらない。

《第3章 歴史の中の東北》で、明治維新について勉強して、『我は景祐』という話を書いたという。とりあえず、これを読んでみよう。





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黒山山本坊『日本人と山の宗教』 菊地大樹

なんというか、越生の黒山が、かつてはそれほどまでに影響力を持った場所だったとは、まさに意外と言うほかはない。(枝野みたい?)

まあ、私の勉強不足と言えば、それまでなんだけど。・・・とりあえず、ちょっと部分的に要約。

本来、山の宗教において、山中のことはすべて、秘中の秘であった。里の人々は、その様子をうかがい知ることはおろか、聖なる領域に踏み入ることなど許されるはずもなかった。

しかし、山と里をつなぐ宗教者によって、その領域においても神仏習合が進んでいる様子などが、徐々に語られるようになる。すると、平安京においても、聖なる山林への関心が急速に高まっていく。

軌を一にして、山林修行者の集団化が進んでいく。さらに、その内部において共通の由来が語られるようになり、儀式が統一されていく。その経験や記憶は、古参から新参に受け継がれるようになり、そこに導く者と導かれる者の関係が生じる。

院政期、導く者と導かれる者との関係が、山に生きる者と里に生きる者の間にも確立していく。院の主催者が盛んに参詣したのが、熊野だった。白河院は9回、鳥羽院は21回、後白河院は34回と、盛んに熊野を参詣した。

院の熊野信仰は、瞬く間に辺境にまで浸透していった。

熊野の修験者、つまり山伏は、地方に赴いて檀那と呼ばれる信者たちを組織し、熊野へと導く。この導き役を先達という。先達に導かれてやってきた檀那衆の現地における宿泊の世話や宗教指導を行なう役割を御師という。

一般の信者は先達や御師との間に特別な関係を結び、特定の先達に導かれた檀那衆は、熊野において特定の御師の世話を受けるように決められていた。

道中における、先達の檀那に対する宗教的指導権や、特定の檀那衆を独占する御師の権利は、やがて「識」として物件化し、売買の対象にまでなっていく。

室町時代には、地方においても数々の霊山信仰が成立発展していき、人々の間にそれに対する信仰心が広く根付いていったようだ。しかし、先達や御師にとって、檀那の独占は大きな利益を生み出す権利であり、人々は、霊山を自由に参詣することはできなかったわけだ。





講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


私が頻繁に訪れる埼玉県越生町にある黒山三滝は、15世紀に開かれた霊場だったそうだ。

この15世紀というのが、山の宗教にダイナミックな変化が生じた時期だったそうだ。里山のあり方に、山の宗教が積極的に関与し始めたことだ。

里と山の境界は、萱などの生活物資、肥料や薪炭、木材生産の場であった。越生の黒山のように、比較的新しく開かれた霊場においては、霊場がその開発の拠点としての役割を果たした。そこに活動した山伏たちは、開発においても先達の役割を果たした。

15世紀前半、この地には修験者たちが活動する拠点があり、山本坊と呼ばれたそうだ。山本坊は檀那を組織し、地域社会にも影響力を持った。

山本坊における先達としての檀那への支配権は、16世紀初頭には秩父にまで拡大している。山本坊は先達識を聖護院門跡から安堵され、その地位を確立していったようだ。聖護院門跡の威光を背負った山本坊の、地域社会への影響力は、信仰だけにとどまらなかった。

山林や村落の開発にも山本坊が主導的な役割を果たした。16世紀後半、秩父郡を領していた北条氏は、山本坊を修験を統括する年行事という役職として公認し、近隣の西戸村の開発と年貢の納入を請け負わせた。その後、江戸幕府からは西戸村・黒山村を寺領として、朱印地を安堵された。加えて、常陸国にも年行事識を許された。

黒山や西戸村を拠点とした修験山本坊の勢力は、他郡、他国にまで及ぶほど発展していった。

どうやら、江戸時代、山本坊は幕藩体制の枠組みの中に組み込まれていたわけだ。

しかし、それにしては、黒山三滝周辺に、往事の勢威を思わせるような賑わいはない。たしかに、県内外から観光に訪れる人はそれなりにいるが、かつての勢力を見せつけるような施設はない。

三滝の一つ、天狗滝が流れ落ちる川を藤沢入という、一昨年、この藤沢入を遡行した。そのまま詰めると、傘杉峠から南に伸びる尾根の途上に這い上がる。藤沢入に途中で合流する沢の側に登っていくと、大平山を経て、前述の傘杉峠から南に延びる尾根の先に出る。大平山の目前に平坦な場所が広がり、そこに役行者、前鬼、後鬼の石像がある。

ずっと唐突な感じがしていたのだが、この本を読んでみれば唐突でも何でもない。現在の黒山の様子の方が、変わり果ててしまったわけだ。



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『日本人と山の宗教』 菊地大樹

私の生まれた家は、武甲山という山の北側の山麓にある。

駅から離れているが、庭先を登山者が、山に向かうことも憶えている。日曜日の午前中に、山に正対する日当たりのいい縁側で武甲山を見ていると、登っている人が見えた。壁のようにしか見えない斜面を、アリのようにゆっくり登っていく登山者を見つけるのが、なんだか面白かった。武甲山

登山道は山頂の西側で尾根を越えて南側に回り込み、直下にトラバースして最後の急登となる。 何十回も登ったから、今でも時々夢に見る。 大学2年の時に山頂が崩された。 それ以来、一度も登っていない。

薮という小字から武甲山に向かって、滝という小字を過ぎると、河原を渡り、やがて山道になる。 さらに進むと、そこに山の神さまが祀られていた。 子どもの頃、神さまよりも先に行っちゃいけないと言われていた。

じつは一度、山の神の先に行って、帰れなくなって、山狩りをされたことがあるらしい。 自分の記憶にはないんだけど、「お前は、そういう子だから」と、母から何度も言われた。

山の中には、生活もあるし、信仰もあった。 うちは、結局、そういうものの権利を、すべて秩父セメントに譲り渡すことになった。

国土の7割が山っていう国だから、日本人は山と共に生きてきた。 だから、そこに生活があるのも、信仰があるのも、むしろ当然。 なにしろ山は、大きな恵みであった。 薪を拾い、材木を切り出し、炭を焼く。 また、狩猟や、栗や胡桃を拾ったりといった食料の採集の場であった。

ただし、それは、山の神さまのお許しがあるあたりまで。 そこから先は、異界。 そこから先に入るのは、特別な力を持った者たちだった。 なにしろそこは、通常の生活圏とは違う、自然の秩序に支配されている場所だった。 その秩序は、時に人には、生存すらままならないほど過酷なものだった。

しかし、人々が、その先の“山”を意識しなかったわけではない。 火山の噴火、土石流に土砂崩れといった災害は、人々の目を山の高見に向けさせた。 それ故に山は、恵みと共に、畏怖の対象でもあった。

恵みと畏れ、まさに、「山の宗教の発生モデル」と著者は言っている。



講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


古代社会が成長し、人々の生活圏が拡大すると、生活圏と山の領域は近接し、摩擦を頻発させるようになっていく。 やがて仏教が伝わると、恵みと畏怖の対象である山に、彼らは目を向けるようになる。

そして、そこに進んで入っていく者たちが現れる。 時には人の生存すら許されない、自然の秩序の支配する山という領域に自らの身をさらす。 そうすることで、その先にある大きな力に触れることで、自らの精神性を高めようとする者たちだった。

仏教が取り入れられた当時、日本には古来からの八百万の神々による導きがあった。 人々は、古来からの神々の導きに、仏の教えを重ね合わせて、独自の信仰を成立させていった。

それは国の信仰であり、あるいは有力貴族の私物であり、あるいは武人の拠り所であり、庶民の救いであり、さまざまに姿を変えながら人々の心を支配した。

それは、日本の歴史そのものでもある。 その、時代に合わせて形を変えていった信仰のすべてが、里との境界を越えて、山にも持ち込まれた。

この本は、前半の三章までで、“山の宗教”の成立の過程を概念化、あるいは類型化することによって説明している。 当初、私は、この本の内容を、近代までの人々と山の関わりについて述べたものと勘違いしていた。 そこにいきなり、“基層信仰論”だの、“梵網教”に見られる戒律の大乗的特性だの、“化他の時代”だのと抽象的な説明が続く。

正直なところ、あっけにとられた。 気を取り直して食らいつこうと努力したが、ノックダウン寸前まで追い込まれた。 ようやく四章から展開が変わる。 中世における山の宗教の成立期を以て、ここからは事例を追って、山の宗教のリアルな姿が描き出されていく。

ここからは面白い。期待以上だった。そして、私自身の勉強不足を恥じた。

第五章には、具体的な事例として、自分の生活圏の“山の宗教”が取り上げられている。《黒山・山本坊》は埼玉県越生町にある、黒山三滝で有名な場所である。昨年夏の暑い日に、孫1号2号を連れて訪れた。参道の茶店によって、かき氷を食べた。

《大宮大明神社(高麗神社)》もおなじみの神社で、毎年、初詣に出かけて家内安全のお札をいただいている。今年の初詣に関しては、幸先詣でと言うことで、12月のうちにお参りを済ませた。参道の脇からちょっとした山道を登ると、そちらには水天宮が祀られている。息子のところの必要があって、そちらにもお参りをした。

そちらの“山の宗教”に関しては、いつか別に紹介させてもらおうと思う。



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『もっと知りたい やきもの』 柏木麻里

世界最古の土器は、約1万6300年前のもので、東京都の御殿山遺跡から出土している。

後出しじゃんけんで、平成21年に、“中国”でそれより古い約1万8000年前の土器が発見されたという報道があったが、“中国”は検証を拒み続け、その間に盗難に遭って、今はもうないという。

日本に戻って、約1万6300年前に作られたものが発見されてから、それ以降の古い時代の土器があちこちから発見され、日本列島では、急速に土器文化が拡散していったようだ。

“中国”やシベリアでも、古い時代の土器が発見されているが、最初期の土器から、土器文化が継続して発展しているのは日本列島だけで、つまりそれは、今に生きる私たちまでつながっていると言うことになるわけだ。

久し振りに、“焼き物”の本を買った。

国宝、重要文化財、重要美術品のオンパレードのような本だ。その始まりは、縄文の火焔型土器。教科書なんかでも見かけることのある、炎が燃え上がるような形をしたもの。もう、縄文時代から、人の目を引くような良いものを作ろうとしていたんだな。

解説にあるんだけど、紹介されているような鑑賞ポイントから焼き物を判断するというのは、私のようなせっかちで慌て者の人間には、どうもできそうもない。最初からそれを言っては身もふたもないので、ここで紹介されていることを、かいつまんで挙げてみよう。

まずは、素材。土と釉薬。粗い土には素朴さと自然の息吹のちから強さ、きめ細かい土には肌触りと精製された上質さが感じられれば良い。釉薬には筋をなして流れるような様子の美しさや、全体を均質に包む透明釉のきらめき。

その素材が形に生かされないといけない。大きさ、作りに重みも個性になる。文様・色彩は目を楽しませる。全体に託された意味は何か。

ふん、どうも、そこまで踏み込んで考えるのは、どうもまどろっこしい。



東京美術  ¥ 2,200

縄文から近代までの名品を辿りながら、やきものの見どころと味わい方を平易に解説
第1部 やきもの日本史―縄文から近代まで
1 縄文・弥生・古墳時代
2 奈良・平安時代
3 鎌倉・室町時代
4 桃山時代
5 江戸時代
6 近代
第2部 やきもの文化とは何か―身体・精神・言葉・季節
1 「きよしとみゆるもの」とかわらけ
2 和漢
3 不定形の美しさ
4 負の要素が美となる
5 生命のやきもの
6 言葉とやきもの―隠す・遊ぶ・豊かにする
7 旧暦の季節とやきもの
8 ファッションとやきもの
9 世界を駆ける伝言ゲーム







私の湯飲みは、何十年か前、よく通っていた居酒屋の、開店5周年記念で配ってたものだ。

こだわるのなら、こんなものを使ってちゃいけないんだろうな。でも、私、こだわらない。焼酎を飲むときは、銅のマグカップ。これも、何十年使ってるだろう。日本酒をお燗して飲むなら、猪口はいろいろあるな。その時の気分次第だ。冷やで飲むなら、そば猪口だね。

焼き物を買うことがあるとすれば、やはり酒器だろうな。

この本を読んでいて思った。解説を読んでみても、その鑑賞法で焼き物の善し悪しを判断しても、それを美術品として手元に置けるわけじゃない。「その傾向のものを」ってだけでも、私には分不相応。

だいたい、縄文土器以来続いてきた日本の器の文化って言うのは、・・・器文化に造詣が深いわけじゃないけど、美術品じゃなくて、普段使いの文化でしょ。神事に使うために手間暇かかったものを作ることがあったかも知れないけど、器って言うのは、使ってなんぼでしょ。

ただ、かわらけの清らかさとか、不定形の美しさってところには、惹かれるものがある。歪んだところ、整わないところに、独特の存在感があったりする。重要文化財じゃ話にならないけど、それでごはんを食べてみたい。

まあ、そういうところも含めて、鑑賞ポイントの細かいところは無理でも、全体を見て、じぶんが「いいなあ」と思えば、それでいい。ただ、数多く見ることは大切みたいだな。

今はこんなご時世だから無理だけど、時間だけはある隠居だから、一区切りついたら美術館巡りでもしてみるかな。

あと、文様もおもしろい。なすだの、大根だの、瓜だのといったやさいの文様。今年は「鬼滅の刃」で注目された市松模様みたいに、日本独特の文様もあるしね。

あのマンガの、緑と黒の市松模様の生地を連れ合いが買ってきた。マスクにして、孫にあげるんだそうだ。

それはともかく、「これで酒が飲みたい」っていう明確な基準で、酒器を増やしてみようかな。それなら、死んだら、子どもにもらってもらえば良いしな。




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『骸骨巡礼』 養老孟司

昨日の調べでは、新型コロナウイルスで、新たに8人死んだ。

そんな報道を見て、なんだかおかしな気持ちになる。今日は何人死んだ。昨日は何人で、明日は何人。そんな風に、この感染症で死んだ人の数を数えていく毎日に、なんだか不思議なものを感じる。

昨年1年間で、137万6000人死んでいる。1日平均にすると、3770人。毎日3770人が死んでいる。「そのうち、新型コロナウイルスで死んだ人は8人でした」という報道なら分かる。

それが、「新型コロナウイルスで8人死にました」と言われても、おかしな気持ちになるばかり。「オレは言った。言ったからな。もう、伝えたからには、オレには責任はない」と突っぱねられているようで、感じるのは・・・、そうだ。寂しさだ。放り出されたような、寂しさだ。もともと守られてもいないのに、放り出されるはずはないのに、それなのに放り出され角は理不尽だ。

別に、自分の死に方を、謂われもなく誰かのせいにしようとは思わない。だから、毎日毎日、さほど取り立てて多いとも思えない感染症の死者数を、まるで天気予報でも伝えるかのようにニュースに載せるのはやめてもらえないか。

先日、叔母が亡くなった。

埼玉大学で行なわれた教員採用試験を受けるとき、秩父からでは朝が忙しいと、父の弟夫婦、叔父叔母の家に厄介になった。父は7人兄弟で、一番下の弟で、夫婦で若々しく、きれいな叔母だった。叔父はすでに10年ほど前に亡くなり、この秋、叔母も逝った。残念なことに、感染症流行の折から、長男に代表してもらい、自ら見送ることは出来なかった。

父母に兄弟が多かったこともあって、すでにずいぶん見送った。祖父母、父母の時も合わせて、見送るたびに教えられた。ここまで来れば、後は身内の者に、死んでみせればいいってことが。

『フランス史』を著したジュール・ミシュレが、死について、次のように述べているという。

「信仰が活発であった初期キリスト教徒の時代には、人々は苦しみに対して忍耐強かった。死は短い別離であって、再びまみえるために人と人との別れさせるのだと思われていた。霊魂とその再会に対するこのような信仰の証しとして、12世紀までは肉体ー遺骸ーは今ほど重要性を持っていなかった。それはまだ、壮麗な墓を要求してはいなかった。教会の一隅に埋められ、一枚の敷石がそれをおおっていただけである。復活のためには、次のように記すだけで十分だった。《此処から彼女は甦り・・・》。」


『骸骨巡礼』    養老孟司


新潮文庫  ¥ 781

骨と墓だけの欧州旅行!死体と格闘する修行を通じて、辿りついた解剖学者の新境地
第1章 死者は時間を超越する
第2章 イタリア式納骨堂
第3章 ウソ学入門
第4章 フィレンツェと人体標本
第5章 ポルトガルの納骨堂
第6章 王の最後の姿
第7章 墓とはなにか
第8章 感覚の優位


さらに、ジュール・ミシュレの弁を続ける。

我々がその歴史を書いている時代(15世紀)には、明言されないものの、それだけ一層奥深いところで変化がすでに始まっていた。見た目の形式は同じでも、信仰は活気を失いつつあった。意識はされないものの、心の奥深くにおいて希望は弱まっていた。苦しみが未来の約束によって癒やされることはもはやなかったのである。敬虔なる慰めに代えて、苦しみはヴァレンティナ(オルレアン公未亡人)の言葉を対置する。《つと敵の大将を殺し私にはもはや何もなく、来世も私には無でしかない》。

彼女になにかが残されていたとすれば、それは悲しき遺骸を飾り立て、その亡骸を褒め称え、その墓を礼拝堂に、教会に変え、死者を神として祀るくらいであろう」

死をどう受け入れるかは、時代により変遷する。それにしても、「死は短い別離」という慰めが、儚い希望に過ぎなかったと、心の奥底で受け入れ始めたとき、人は死を特別なものとして扱わざるを得なくなっていったわけだな。

個人的なものとしての死が意識されたのは近代のことで、そもそも“個人”はルネッサンスによって発生した。そういうものがなければ、死は別に何でもない。自分にとっては、死はそもそも存在しない。自分の死を、自分の死後に確認することは出来ないからである。

生きているうちに成し遂げたい仕事があるかも知れないが、自分が死んでも、それが必要なものであるならば、やがて誰から成し遂げる。死は、いつか成し遂げられるべき業績の障害にはならない。

日本では、このような状態がさらに長く続いた。死が、明確に個人的なものとして捉えられないまま、日本は近大に突入した。75年前までは、日本人の間に暗黙の了解があった。「人生は自分のためのものではない」。だから、神風特攻隊だった。戦後はそれが逆転した。アメリカから、“個人”という考え方が流れ込んできた。自己実現、本当の自分、個性を追求するようになった。

多くの日本人が、個人や個性、自分探しに勤しむようになった。自分探しという以上、現存する自分は仮の自分ということになる。本当の自分ではない自分が、自分として生きている。そして、もっと価値の高い本当の自分を探しながら生きている。そのように“仮の自分”を設定すると、人生そのものが仮のものとなってしまう。そして、本当の自分ではない自分が、本当に送るべき人生ではなかった価値の低い人生を送って、年老いて、死んでいく。

このようにして人を訪れる死は、かなり残酷なものになるな。


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この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本






























































































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