めんどくせぇことばかり 本 日本 思想
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すべてを失った山本坊の墓石群

『日本人と山の宗教』という本で、“越生山本坊”のことを知り、越生周辺の山の中に、いくつかの、その面影を訪ねた。

山本坊は京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示した。

慶長8年、1603年だから、江戸幕府が開かれた年だな。その年、山本坊が、本坊を越生の黒山から、現在の毛呂山町に含まれる西戸村に移している。こちらにも熊野神社を勧請したんだな。その上で、越生山本坊と合わせて、坊領50石の朱印状を得ている。

修験の寺が領土を持った。京都聖護院本山派修験の先達を務めつつ、領主として近在の農民たちを支配し、ずいぶん農地の開拓もしたようなのだ。

それだけの影響力を持ちながら、越生でも思ったのだが、この西戸においてはさらに、その痕跡が少なすぎる。その原因は、明治初年の“神仏分離令”に原因があるらしい。

神仏分離令で神仏習合を禁じられたことで、神社と寺が明確に分離される。僧侶と神主もはっきり分かれる。山本坊の当主は、神主になり相馬姓を名乗ったそうだ。それだけじゃ終わらない。明治5年には“修験廃止令”が出され、山本坊も息の根を止められる。政治上、宗教上の一切の権益を失ってしまったそうだ。熊野神社は、その後、現在の国津神神社に名前を替えた。

修験はその後、明治時代に雨後の竹の子の如くに現れる、新興神道教団に流れ込んだんだそうだ。明治政府は天皇を現人神とする神社神道を国民の信仰の柱に育て上げていくが、それを保管するものとして、教派神道12派を公認した。

中でも、富士信仰の実行教、扶桑教、御岳信仰の御嶽教は元々修験道系の信仰で、他にも修験道との関係から出発した教派神道もあるという。

神仏分離令によって、廃仏毀釈という途方もない文化の途絶があったが、文化の途絶は、それだけじゃなかったんだな。

晴れた日の午前中、運動公園の駐車場から、いくつかの史跡を廻りつつ、山本坊歴代当主の墓石の立ち並ぶ墓所を探した。




講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


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〈延慶の板碑〉と呼ばれるもの。延慶3年(1310年)のものだそうだ。もうすう鎌倉幕府が滅亡する頃だな。もとは、次の写真の崇徳寺跡に立っていたもの。崇徳寺跡あたりに住んだ行真と朝妻氏の娘を供養したもの。供養されるべき、どんな事情があったのかは分からない。

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「すとく」ではなく、「すうとく」なのか。苦林野の合戦で消失したらしい。苦林野の合戦は足利基氏が関与する。6キロほど離れた高坂の岩殿は、足利も当時の館のものとされる土塁跡がある。

IMG_7597.jpg道ばたの、小さな馬頭観音。

IMG_7598.jpg川角八幡神社。手前に“道祖神”という石碑が建つ。この神社から坂を下り、越辺川を渡ると西戸(さいど)という地区になる。“道祖土”も「さいど」と読むが、それと関係があるんだろうか。

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立派な本殿と、かたわらに立つ芭蕉の句碑。文字は判別できないが、「道傍の むくげは馬に 喰われけり」だそうだ。

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左の宝篋印塔は、南蔵寺の境内に置かれていたが、南蔵寺が廃仏毀釈により廃寺となり、八幡神社の境内に移動されたという。ここでも廃仏毀釈が激しかったようなのだが、山本坊があったからこそ激しさが増した可能性も考えられる。右の石碑には「月山・羽黒山・湯殿山・立山・金峯山・金華山・浅間山 霊場」と、修験がみられる。

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越辺川にかかる宮下橋の途中で振り返る。あの坂の上、右手の林の向こうに八幡神社がある。越辺川が溢れても、あそこなら大丈夫。宮下橋を渡りきると、右の写真のように、西戸地区の開拓農地が広がる。山本坊が絡んだものかもしれない。

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国津神神社までやってきた。もとは山本坊が勧請した熊野神社だった。周囲は畑に囲まれている。ここにも芭蕉の句碑がある。私には読み取れないが、「山さとは 万歳おそし うめの花」とあるそうだ。

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ようやく、歴代当主の墓石の立ち並ぶ場所までたどりつく。地図で見てもらうと分かるが、この背景には丘陵地帯を削った上に立つ新興住宅地やゴルフ場がある。つまり山本坊は、それらの丘陵地帯の終わった場所に、丘陵を背景にして南面していたことになる。

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「いったい、なんの写真だ」と思われるだろう。ごもっとも。しかし、上の墓石群は、この薮の中にあるのだ。薮の中に入るべき道はない。落ち葉で隠されているのではない。道はない。道路を歩いていても、なかに上の墓石群があることなど、想像もつかない。木々が葉を落とす1月下旬でこの状態。春から秋にかけては、もっと見つけにくくなるだろう。それを目的に来ても、たどり着けるとは限らない。

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国津神神社に戻り、墓石群があった方角を見る。青い屋根の家が見えるが、その裏手のやぶの中に墓石群がある。その家の方にお話を聞いたら、「教育委員会が動いたんだが、民地なのでどうにもならない」とのことで、手を引いてしまったようだ。今では、往事の山本坊の隆盛を示すものは、これをおいて他にないんじゃないかと思うんだけど、・・・残念だ。

この日歩いたのは、以下のようなコース。

地図




テーマ : 散策・自然観察
ジャンル : 趣味・実用

秩父弁『オオカミは大神』 青柳健二

方言では、苦労した。

もちろんテレビやラジオで共通語に触れていたが、それはあくまでテレビやラジオに出てる人がしゃべる言葉だった。自分たちには、自分たちの言葉があった。特に、足が悪くて祖父母にいろいろ面倒を見てもらった私は、祖父母の秩父弁こそが母語となった。祖父母の言葉は、方言というだけじゃなくて、その言い回しが秩父弁だった。

高校を出て、大学のある東京で、私の前には無限の前途が広がっているかのように思っていた。ところが、言葉を馬鹿にされて、ただそれだけのことで、ふくらんでいた前途が一気に縮んでしまった。残念なことだった。

「なにを言っているのか、分からないよ」と言われた。いくつかの言葉で、東京の坊ちゃんたちに跳ね返された。

「けえる」、「へえる」、「せやねぇ」、「ちょうきゅう」、「あんき」あたりだったろうか。左から、「帰る」、「入る」、「大丈夫」、「正確」、「安心」ということになる。いずれも、坊ちゃんたちに跳ね返されるまで、それが秩父弁で、よその人たちには通じない言葉だなんて、考えたこともなかった。

「けえる」、「へえる」、「せやねぇ」はいいとして、「ちょうきゅう」、「あんき」について、使い方を紹介しておく。

「ちょうきゅう」は「正確」といっても、数をそろえるっていう意味合いがあって、「おつりがなくても済むように、会費はちょうきゅうに持ってきて」って感じ。「あんき」は、胸につかえていた心配事が解消したようなときに使う。「息子さんが仕事に就いたんじゃあ、もうあんきだねぇ」って感じ。

そりゃもう、しゃべるのが怖くなっちゃってねぇ。相手が地方出身者だと、ホッとしたもんだった。

秩父の方言だと、「か」が「け」、「が」が「げ」に転化する場合が多い。

「やるのか」→「やるんけ」
「帰るのか」→「けえるんけ」
「水をかい出す」→「水うけえだす」
「外聞が悪い」→「げぇーぶんなわりぃ」

龍勢祭で有名な吉田の椋神社という神社がある。この、「むく」のアクセントに注意して欲しい。強く発音するのは「む」。「む」が大きくて、「く」が小さい。その椋神社のお祭りに、「オイヌゲエ」というのがある。「げ」は「が」の転化だから、訛りを戻すと「オイヌガエ」、漢字を使えば「お犬替え」になる。

犬を替える。この本の題名にあるように、犬は狼。替えるのは、狼だな。オオカミのお札を替えるんだ。




『オオカミは大神』    青柳健二


天夢人  ¥ 1,650

ニホンオオカミに対する関心が高まる昨今、各地に残る狼像を追ったフォト・ルポルタージュ
1 オオカミとの出会い
椋神社のオイヌゲエとは?
狼の棲む秩父桃源
オイヌゲエをハシゴする
お犬さま信仰の三峯神社と武蔵御嶽神社
2 狼像の聖地へ
「ニホンオオカミ」から「お犬さま」へ
関東平野の狼像
奥多摩のユニークな狼像
七ツ石神社の再建プロジェクト
3 大神への祈り
岐阜県と静岡県の狼信仰
東北地方の狼信仰
西日本の狼信仰




さて、秩父に伝わるオオカミの出てくる民話。
昔、小前というところに、駒井某という強者がいました。

ある晩、この男が下吉田で用を済ませた帰り道、山中で一匹のオオカミに出くわしました。

そのオオカミは、大きく口を開き、「口の中を見てくれ」というように近寄ってくるのです。

男がよく見ると、のどに大きな骨が刺さっているのが見えたので、口の中に手を入れて骨を抜いてやりました。

数日経ったある晩のこと、庭で「ドサッ」と大きな音。

次の日、早起きして庭を見ると、大きなイノシシが投げ込まれていたのです。

「ははあ、これはこの間のオオカミからのお礼だな」と、家族を起したということです。

さて、次は、この本に掲載されている、山梨県北杜市増富温泉郷に伝わるお話。
江戸の昔、増富温泉から信州峠を経由して佐久へと抜ける道は、重要な往還として人の往来も多かった。

しかし、夜は真っ暗闇。

夜道を歩いていると、必ず誰かが後からつけてくる。

こっちが止まると、その気配も止まる。

振り返っても、そこには誰もいない。

人は気味悪がって、妖怪かもしれないと、坊さんや行者に頼んだが、一向に収まらない。

そのうち猟師が仕掛けた罠に、一匹の大きなオオカミがかかった。

そして、「人を喰おうとして後をつけたんだろう」と言って殺してしまった。

それからは、夜道に後をつける気配はなくなったが、反対に、熊や猪に襲われるようになった。

「あのオオカミは、人の安全を守ってくれていたに違いない」

皆ははじめて、送りオオカミノ行為を理解して、手厚く葬ったとさ。

増富温泉と言えば、三峰から続く、大きな山塊の向こう側。

テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『いつもの明日』 熊谷達也

『邂逅の森』と『荒蝦夷』を読んで以来、ずいぶん長いこと熊谷達也さんの本を読んでなかったんだな。

自分に合わなかったとか、嫌いだとか、そういうことではまったくない。むしろ、どちらもすごく興奮しながら読んだ記憶がある。理由を探すのは、時間の無駄でしかない。何事にせよ、“たまたま”だ。

平成28年から、毎週火曜日、河北新報の夕刊に、177回にわたって書いてきたエッセーから厳選して、一冊の本にしたものだそうだ。

この方は仙台に住んでおられる。書いている新聞が仙台の河北新報。さらには、連載が始まったのが平成28年という、東日本大震災からの復興途上にあった年であることから考えても分かる。『いつもの明日』という題名は、もう、“明日が来ない”たくさんの人たち、残されたご家族はじめ、周辺の人たちに寄り添ってつけたもののようだ。

しかも、この本が日の目を見たのが、昨年2020年10月、まもなく、あの日から10年目を迎えるというタイミングで出された本でもある。その前に読んでおく意義は、決して小さくはない。

毎週火曜日、下の目次にあるような、さまざまなテーマで、本にしてみれば、見開きの2ページくらいの分量で書かれている。新聞掲載時には、同じテーマが続いたとしても週に1回、途中に違うテーマが入れば、またそのテーマに戻るのが2週間目かもしれないし、1ヶ月以上、間が空くこともあり得るだろう。

しかし、それを本にして、同じテーマごとにまとめれば、・・・なにをごちゃごちゃ言っているのかって、思うでしょ。そりゃ仕方がない。こういうことだ。

第1章に、《震災と復興》というテーマのエッセイがまとめられている。週に1回、このテーマについて考える、あるいは2週に1回、3週に1回、震災のことを考える貴重な時間を得ることができるだろう。だけど、第1章には、それが15本まとめられている。

天邪鬼なもんだから、《第3章 歴史の中の東北》を読んでから、第1章に取りかかったが、こう言うと語弊があるかもしれないが、5本ほど読んだところで息苦しさを感じ、1度本を閉じた。

10年間、ずっと直視せざるを得ない人たちもいることを思えば申し訳ない。だけど、その続きは他のページに立ち寄ってからまた開くという、私はそういう立場で被災地のことを考えていくことになるだろう。



河北新報出版センター  ¥ 1,760

直木賞作家がつづるエッセー集。今日と同じように、また明日がやってくる幸せ
第1章 震災と復興
第2章 サイクリストのまなざし
第3章 歴史の中の東北
第4章 文学・創作を語る
第5章 科学・美術・映画
第6章 物書きの日常
第7章 世相を読む 


だけど、震災の話題は、第1章だけじゃなくて、他の話題の中でも取り上げられている。

《第3章 歴史の中の東北》を先に読んだとさっき書いたけど、ここでは主に、明治維新が取り上げられている。ということになれば、当然、奥羽越列藩同盟の話となり、東北戦争の話となる。

そうなりゃもう、官軍と朝敵だ。「白河以北一山百文」などという言葉も発せられた。

そうそう、今村雅弘復興大臣が、「これは、まだ東北で、あっちの方だったから良かった」って言っちゃった話が書かれていた。東大法学部卒業ってくらいだから、頭が悪いんじゃないんだ。あくまでも、“人間”がそうできているってことで、“一山百文”だと思ってるから、つい、「あっちで良かった」って口をついちゃったんだ。

ちなみにこの人、佐賀県だから、肥前、官軍の側だな。はーん、・・・だからだな。

趣味というわけではない。ものの見方というか、関心の傾向と言えばいいかな。著者は、〈CO2の排出による地球温暖化〉という、国も、マスコミも、常識のように温暖化対策を国民に求めるやり方に、なんだか釈然としないものを感じているようだ。

私もそう。こと、環境問題に関して偉そうなことを言う人を、私は信じない。

天気予報をやたらとチェックするというのも、私も同様。そして、「それにしても近年の天候は・・・」と言いながら、また温暖化の話を始める。

「これはやっぱりCO2の温室効果がもたらす地球温暖化が原因に違いない。誰しもそう思うのが普通だろう。だが、・・・」となれば、もう疑っているとしか思えない。強い味方を得た思いだ。

あれはもはや、政治であり、経済の話だから、誰も本当のことなんか語らない。だらしないのは、気象予報士だな。

熊谷さんは1958年生まれ。私の2年先輩だ。ほぼ、同じ時代を生きてきた。コロナ流行後、マスクが街から姿を消したのを見て、オイルショックのことを思い出すなんてところも、まったく同じ。

「もの心ついた頃にはテレビがあり、前回の東京オリンピックと歩調を合わせて高度経済成長が始まり、やがてモータリゼーションの波がやってきて、明日は今日よりも豊かになるという、実はたいした根拠もない神話を疑うことなく信じていた。今の若者から見たら、羨ましいを通り越して、まったくもって能天気なまま大人になって社会に出た。どうしようもなくお気楽な人々の集団が、私の世代だと言って間違いなさそうだ」

まったくもって、その通り。後のことは、一生懸命生きる道を模索している若い人たちに任せた方がいい。ただし、私は熊谷さんと違って、「未来が不透明な時代に生きる若者たちに、ごめんなさいと」謝るつもりはさらさらない。

《第3章 歴史の中の東北》で、明治維新について勉強して、『我は景祐』という話を書いたという。とりあえず、これを読んでみよう。





テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

黒山山本坊『日本人と山の宗教』 菊地大樹

なんというか、越生の黒山が、かつてはそれほどまでに影響力を持った場所だったとは、まさに意外と言うほかはない。(枝野みたい?)

まあ、私の勉強不足と言えば、それまでなんだけど。・・・とりあえず、ちょっと部分的に要約。

本来、山の宗教において、山中のことはすべて、秘中の秘であった。里の人々は、その様子をうかがい知ることはおろか、聖なる領域に踏み入ることなど許されるはずもなかった。

しかし、山と里をつなぐ宗教者によって、その領域においても神仏習合が進んでいる様子などが、徐々に語られるようになる。すると、平安京においても、聖なる山林への関心が急速に高まっていく。

軌を一にして、山林修行者の集団化が進んでいく。さらに、その内部において共通の由来が語られるようになり、儀式が統一されていく。その経験や記憶は、古参から新参に受け継がれるようになり、そこに導く者と導かれる者の関係が生じる。

院政期、導く者と導かれる者との関係が、山に生きる者と里に生きる者の間にも確立していく。院の主催者が盛んに参詣したのが、熊野だった。白河院は9回、鳥羽院は21回、後白河院は34回と、盛んに熊野を参詣した。

院の熊野信仰は、瞬く間に辺境にまで浸透していった。

熊野の修験者、つまり山伏は、地方に赴いて檀那と呼ばれる信者たちを組織し、熊野へと導く。この導き役を先達という。先達に導かれてやってきた檀那衆の現地における宿泊の世話や宗教指導を行なう役割を御師という。

一般の信者は先達や御師との間に特別な関係を結び、特定の先達に導かれた檀那衆は、熊野において特定の御師の世話を受けるように決められていた。

道中における、先達の檀那に対する宗教的指導権や、特定の檀那衆を独占する御師の権利は、やがて「識」として物件化し、売買の対象にまでなっていく。

室町時代には、地方においても数々の霊山信仰が成立発展していき、人々の間にそれに対する信仰心が広く根付いていったようだ。しかし、先達や御師にとって、檀那の独占は大きな利益を生み出す権利であり、人々は、霊山を自由に参詣することはできなかったわけだ。





講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


私が頻繁に訪れる埼玉県越生町にある黒山三滝は、15世紀に開かれた霊場だったそうだ。

この15世紀というのが、山の宗教にダイナミックな変化が生じた時期だったそうだ。里山のあり方に、山の宗教が積極的に関与し始めたことだ。

里と山の境界は、萱などの生活物資、肥料や薪炭、木材生産の場であった。越生の黒山のように、比較的新しく開かれた霊場においては、霊場がその開発の拠点としての役割を果たした。そこに活動した山伏たちは、開発においても先達の役割を果たした。

15世紀前半、この地には修験者たちが活動する拠点があり、山本坊と呼ばれたそうだ。山本坊は檀那を組織し、地域社会にも影響力を持った。

山本坊における先達としての檀那への支配権は、16世紀初頭には秩父にまで拡大している。山本坊は先達識を聖護院門跡から安堵され、その地位を確立していったようだ。聖護院門跡の威光を背負った山本坊の、地域社会への影響力は、信仰だけにとどまらなかった。

山林や村落の開発にも山本坊が主導的な役割を果たした。16世紀後半、秩父郡を領していた北条氏は、山本坊を修験を統括する年行事という役職として公認し、近隣の西戸村の開発と年貢の納入を請け負わせた。その後、江戸幕府からは西戸村・黒山村を寺領として、朱印地を安堵された。加えて、常陸国にも年行事識を許された。

黒山や西戸村を拠点とした修験山本坊の勢力は、他郡、他国にまで及ぶほど発展していった。

どうやら、江戸時代、山本坊は幕藩体制の枠組みの中に組み込まれていたわけだ。

しかし、それにしては、黒山三滝周辺に、往事の勢威を思わせるような賑わいはない。たしかに、県内外から観光に訪れる人はそれなりにいるが、かつての勢力を見せつけるような施設はない。

三滝の一つ、天狗滝が流れ落ちる川を藤沢入という、一昨年、この藤沢入を遡行した。そのまま詰めると、傘杉峠から南に伸びる尾根の途上に這い上がる。藤沢入に途中で合流する沢の側に登っていくと、大平山を経て、前述の傘杉峠から南に延びる尾根の先に出る。大平山の目前に平坦な場所が広がり、そこに役行者、前鬼、後鬼の石像がある。

ずっと唐突な感じがしていたのだが、この本を読んでみれば唐突でも何でもない。現在の黒山の様子の方が、変わり果ててしまったわけだ。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『日本人と山の宗教』 菊地大樹

私の生まれた家は、武甲山という山の北側の山麓にある。

駅から離れているが、庭先を登山者が、山に向かうことも憶えている。日曜日の午前中に、山に正対する日当たりのいい縁側で武甲山を見ていると、登っている人が見えた。壁のようにしか見えない斜面を、アリのようにゆっくり登っていく登山者を見つけるのが、なんだか面白かった。武甲山

登山道は山頂の西側で尾根を越えて南側に回り込み、直下にトラバースして最後の急登となる。 何十回も登ったから、今でも時々夢に見る。 大学2年の時に山頂が崩された。 それ以来、一度も登っていない。

薮という小字から武甲山に向かって、滝という小字を過ぎると、河原を渡り、やがて山道になる。 さらに進むと、そこに山の神さまが祀られていた。 子どもの頃、神さまよりも先に行っちゃいけないと言われていた。

じつは一度、山の神の先に行って、帰れなくなって、山狩りをされたことがあるらしい。 自分の記憶にはないんだけど、「お前は、そういう子だから」と、母から何度も言われた。

山の中には、生活もあるし、信仰もあった。 うちは、結局、そういうものの権利を、すべて秩父セメントに譲り渡すことになった。

国土の7割が山っていう国だから、日本人は山と共に生きてきた。 だから、そこに生活があるのも、信仰があるのも、むしろ当然。 なにしろ山は、大きな恵みであった。 薪を拾い、材木を切り出し、炭を焼く。 また、狩猟や、栗や胡桃を拾ったりといった食料の採集の場であった。

ただし、それは、山の神さまのお許しがあるあたりまで。 そこから先は、異界。 そこから先に入るのは、特別な力を持った者たちだった。 なにしろそこは、通常の生活圏とは違う、自然の秩序に支配されている場所だった。 その秩序は、時に人には、生存すらままならないほど過酷なものだった。

しかし、人々が、その先の“山”を意識しなかったわけではない。 火山の噴火、土石流に土砂崩れといった災害は、人々の目を山の高見に向けさせた。 それ故に山は、恵みと共に、畏怖の対象でもあった。

恵みと畏れ、まさに、「山の宗教の発生モデル」と著者は言っている。



講談社現代新書  ¥ 1,100

日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の定着と近代化
終章


古代社会が成長し、人々の生活圏が拡大すると、生活圏と山の領域は近接し、摩擦を頻発させるようになっていく。 やがて仏教が伝わると、恵みと畏怖の対象である山に、彼らは目を向けるようになる。

そして、そこに進んで入っていく者たちが現れる。 時には人の生存すら許されない、自然の秩序の支配する山という領域に自らの身をさらす。 そうすることで、その先にある大きな力に触れることで、自らの精神性を高めようとする者たちだった。

仏教が取り入れられた当時、日本には古来からの八百万の神々による導きがあった。 人々は、古来からの神々の導きに、仏の教えを重ね合わせて、独自の信仰を成立させていった。

それは国の信仰であり、あるいは有力貴族の私物であり、あるいは武人の拠り所であり、庶民の救いであり、さまざまに姿を変えながら人々の心を支配した。

それは、日本の歴史そのものでもある。 その、時代に合わせて形を変えていった信仰のすべてが、里との境界を越えて、山にも持ち込まれた。

この本は、前半の三章までで、“山の宗教”の成立の過程を概念化、あるいは類型化することによって説明している。 当初、私は、この本の内容を、近代までの人々と山の関わりについて述べたものと勘違いしていた。 そこにいきなり、“基層信仰論”だの、“梵網教”に見られる戒律の大乗的特性だの、“化他の時代”だのと抽象的な説明が続く。

正直なところ、あっけにとられた。 気を取り直して食らいつこうと努力したが、ノックダウン寸前まで追い込まれた。 ようやく四章から展開が変わる。 中世における山の宗教の成立期を以て、ここからは事例を追って、山の宗教のリアルな姿が描き出されていく。

ここからは面白い。期待以上だった。そして、私自身の勉強不足を恥じた。

第五章には、具体的な事例として、自分の生活圏の“山の宗教”が取り上げられている。《黒山・山本坊》は埼玉県越生町にある、黒山三滝で有名な場所である。昨年夏の暑い日に、孫1号2号を連れて訪れた。参道の茶店によって、かき氷を食べた。

《大宮大明神社(高麗神社)》もおなじみの神社で、毎年、初詣に出かけて家内安全のお札をいただいている。今年の初詣に関しては、幸先詣でと言うことで、12月のうちにお参りを済ませた。参道の脇からちょっとした山道を登ると、そちらには水天宮が祀られている。息子のところの必要があって、そちらにもお参りをした。

そちらの“山の宗教”に関しては、いつか別に紹介させてもらおうと思う。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『もっと知りたい やきもの』 柏木麻里

世界最古の土器は、約1万6300年前のもので、東京都の御殿山遺跡から出土している。

後出しじゃんけんで、平成21年に、“中国”でそれより古い約1万8000年前の土器が発見されたという報道があったが、“中国”は検証を拒み続け、その間に盗難に遭って、今はもうないという。

日本に戻って、約1万6300年前に作られたものが発見されてから、それ以降の古い時代の土器があちこちから発見され、日本列島では、急速に土器文化が拡散していったようだ。

“中国”やシベリアでも、古い時代の土器が発見されているが、最初期の土器から、土器文化が継続して発展しているのは日本列島だけで、つまりそれは、今に生きる私たちまでつながっていると言うことになるわけだ。

久し振りに、“焼き物”の本を買った。

国宝、重要文化財、重要美術品のオンパレードのような本だ。その始まりは、縄文の火焔型土器。教科書なんかでも見かけることのある、炎が燃え上がるような形をしたもの。もう、縄文時代から、人の目を引くような良いものを作ろうとしていたんだな。

解説にあるんだけど、紹介されているような鑑賞ポイントから焼き物を判断するというのは、私のようなせっかちで慌て者の人間には、どうもできそうもない。最初からそれを言っては身もふたもないので、ここで紹介されていることを、かいつまんで挙げてみよう。

まずは、素材。土と釉薬。粗い土には素朴さと自然の息吹のちから強さ、きめ細かい土には肌触りと精製された上質さが感じられれば良い。釉薬には筋をなして流れるような様子の美しさや、全体を均質に包む透明釉のきらめき。

その素材が形に生かされないといけない。大きさ、作りに重みも個性になる。文様・色彩は目を楽しませる。全体に託された意味は何か。

ふん、どうも、そこまで踏み込んで考えるのは、どうもまどろっこしい。



東京美術  ¥ 2,200

縄文から近代までの名品を辿りながら、やきものの見どころと味わい方を平易に解説
第1部 やきもの日本史―縄文から近代まで
1 縄文・弥生・古墳時代
2 奈良・平安時代
3 鎌倉・室町時代
4 桃山時代
5 江戸時代
6 近代
第2部 やきもの文化とは何か―身体・精神・言葉・季節
1 「きよしとみゆるもの」とかわらけ
2 和漢
3 不定形の美しさ
4 負の要素が美となる
5 生命のやきもの
6 言葉とやきもの―隠す・遊ぶ・豊かにする
7 旧暦の季節とやきもの
8 ファッションとやきもの
9 世界を駆ける伝言ゲーム







私の湯飲みは、何十年か前、よく通っていた居酒屋の、開店5周年記念で配ってたものだ。

こだわるのなら、こんなものを使ってちゃいけないんだろうな。でも、私、こだわらない。焼酎を飲むときは、銅のマグカップ。これも、何十年使ってるだろう。日本酒をお燗して飲むなら、猪口はいろいろあるな。その時の気分次第だ。冷やで飲むなら、そば猪口だね。

焼き物を買うことがあるとすれば、やはり酒器だろうな。

この本を読んでいて思った。解説を読んでみても、その鑑賞法で焼き物の善し悪しを判断しても、それを美術品として手元に置けるわけじゃない。「その傾向のものを」ってだけでも、私には分不相応。

だいたい、縄文土器以来続いてきた日本の器の文化って言うのは、・・・器文化に造詣が深いわけじゃないけど、美術品じゃなくて、普段使いの文化でしょ。神事に使うために手間暇かかったものを作ることがあったかも知れないけど、器って言うのは、使ってなんぼでしょ。

ただ、かわらけの清らかさとか、不定形の美しさってところには、惹かれるものがある。歪んだところ、整わないところに、独特の存在感があったりする。重要文化財じゃ話にならないけど、それでごはんを食べてみたい。

まあ、そういうところも含めて、鑑賞ポイントの細かいところは無理でも、全体を見て、じぶんが「いいなあ」と思えば、それでいい。ただ、数多く見ることは大切みたいだな。

今はこんなご時世だから無理だけど、時間だけはある隠居だから、一区切りついたら美術館巡りでもしてみるかな。

あと、文様もおもしろい。なすだの、大根だの、瓜だのといったやさいの文様。今年は「鬼滅の刃」で注目された市松模様みたいに、日本独特の文様もあるしね。

あのマンガの、緑と黒の市松模様の生地を連れ合いが買ってきた。マスクにして、孫にあげるんだそうだ。

それはともかく、「これで酒が飲みたい」っていう明確な基準で、酒器を増やしてみようかな。それなら、死んだら、子どもにもらってもらえば良いしな。




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『骸骨巡礼』 養老孟司

昨日の調べでは、新型コロナウイルスで、新たに8人死んだ。

そんな報道を見て、なんだかおかしな気持ちになる。今日は何人死んだ。昨日は何人で、明日は何人。そんな風に、この感染症で死んだ人の数を数えていく毎日に、なんだか不思議なものを感じる。

昨年1年間で、137万6000人死んでいる。1日平均にすると、3770人。毎日3770人が死んでいる。「そのうち、新型コロナウイルスで死んだ人は8人でした」という報道なら分かる。

それが、「新型コロナウイルスで8人死にました」と言われても、おかしな気持ちになるばかり。「オレは言った。言ったからな。もう、伝えたからには、オレには責任はない」と突っぱねられているようで、感じるのは・・・、そうだ。寂しさだ。放り出されたような、寂しさだ。もともと守られてもいないのに、放り出されるはずはないのに、それなのに放り出され角は理不尽だ。

別に、自分の死に方を、謂われもなく誰かのせいにしようとは思わない。だから、毎日毎日、さほど取り立てて多いとも思えない感染症の死者数を、まるで天気予報でも伝えるかのようにニュースに載せるのはやめてもらえないか。

先日、叔母が亡くなった。

埼玉大学で行なわれた教員採用試験を受けるとき、秩父からでは朝が忙しいと、父の弟夫婦、叔父叔母の家に厄介になった。父は7人兄弟で、一番下の弟で、夫婦で若々しく、きれいな叔母だった。叔父はすでに10年ほど前に亡くなり、この秋、叔母も逝った。残念なことに、感染症流行の折から、長男に代表してもらい、自ら見送ることは出来なかった。

父母に兄弟が多かったこともあって、すでにずいぶん見送った。祖父母、父母の時も合わせて、見送るたびに教えられた。ここまで来れば、後は身内の者に、死んでみせればいいってことが。

『フランス史』を著したジュール・ミシュレが、死について、次のように述べているという。

「信仰が活発であった初期キリスト教徒の時代には、人々は苦しみに対して忍耐強かった。死は短い別離であって、再びまみえるために人と人との別れさせるのだと思われていた。霊魂とその再会に対するこのような信仰の証しとして、12世紀までは肉体ー遺骸ーは今ほど重要性を持っていなかった。それはまだ、壮麗な墓を要求してはいなかった。教会の一隅に埋められ、一枚の敷石がそれをおおっていただけである。復活のためには、次のように記すだけで十分だった。《此処から彼女は甦り・・・》。」


『骸骨巡礼』    養老孟司


新潮文庫  ¥ 781

骨と墓だけの欧州旅行!死体と格闘する修行を通じて、辿りついた解剖学者の新境地
第1章 死者は時間を超越する
第2章 イタリア式納骨堂
第3章 ウソ学入門
第4章 フィレンツェと人体標本
第5章 ポルトガルの納骨堂
第6章 王の最後の姿
第7章 墓とはなにか
第8章 感覚の優位


さらに、ジュール・ミシュレの弁を続ける。

我々がその歴史を書いている時代(15世紀)には、明言されないものの、それだけ一層奥深いところで変化がすでに始まっていた。見た目の形式は同じでも、信仰は活気を失いつつあった。意識はされないものの、心の奥深くにおいて希望は弱まっていた。苦しみが未来の約束によって癒やされることはもはやなかったのである。敬虔なる慰めに代えて、苦しみはヴァレンティナ(オルレアン公未亡人)の言葉を対置する。《つと敵の大将を殺し私にはもはや何もなく、来世も私には無でしかない》。

彼女になにかが残されていたとすれば、それは悲しき遺骸を飾り立て、その亡骸を褒め称え、その墓を礼拝堂に、教会に変え、死者を神として祀るくらいであろう」

死をどう受け入れるかは、時代により変遷する。それにしても、「死は短い別離」という慰めが、儚い希望に過ぎなかったと、心の奥底で受け入れ始めたとき、人は死を特別なものとして扱わざるを得なくなっていったわけだな。

個人的なものとしての死が意識されたのは近代のことで、そもそも“個人”はルネッサンスによって発生した。そういうものがなければ、死は別に何でもない。自分にとっては、死はそもそも存在しない。自分の死を、自分の死後に確認することは出来ないからである。

生きているうちに成し遂げたい仕事があるかも知れないが、自分が死んでも、それが必要なものであるならば、やがて誰から成し遂げる。死は、いつか成し遂げられるべき業績の障害にはならない。

日本では、このような状態がさらに長く続いた。死が、明確に個人的なものとして捉えられないまま、日本は近大に突入した。75年前までは、日本人の間に暗黙の了解があった。「人生は自分のためのものではない」。だから、神風特攻隊だった。戦後はそれが逆転した。アメリカから、“個人”という考え方が流れ込んできた。自己実現、本当の自分、個性を追求するようになった。

多くの日本人が、個人や個性、自分探しに勤しむようになった。自分探しという以上、現存する自分は仮の自分ということになる。本当の自分ではない自分が、自分として生きている。そして、もっと価値の高い本当の自分を探しながら生きている。そのように“仮の自分”を設定すると、人生そのものが仮のものとなってしまう。そして、本当の自分ではない自分が、本当に送るべき人生ではなかった価値の低い人生を送って、年老いて、死んでいく。

このようにして人を訪れる死は、かなり残酷なものになるな。


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学校『学問』 西部邁

学校は今、おそらく自信を失っている。

知育は、適切な書物があれば、独学でも可能である。学校の教育は、特に知的能力のある子どもにとって、知育を遅らせる原因にすらなりかねない。ただし、それは独学をなす気力がその子に備わっている場合のことで、その気力を養う徳育は、独学だけでは不可能である。

なぜなら、“徳”、つまり「精神の力強さ」は社会関係の中で養われるものであるから、級友の存在が必要となる。また、“徳”は歴史的なものであるのみならず、人格に具体化されるものなので、教師の存在がなければならない。

“徳”とは、葛藤の中で平衡を持す精神の力強さのことだが、その平衡感覚を具体的にどう示すかは、「時と所と場合」による。偉大な先人が、どういう「時と所と場合」において、いかに平衡の気力を発揮したかについて、知育として紹介し解説することは出来る。それは知育であって、徳育ではない。

だったら教師には何が出来るのか。

すぐれた教師は、知育の“教え方”のなかで、自分は道徳を目指しているが、それをまだしっかりと手にしていないということを、児童、生徒、学生たちに伝えることが出来る。彼らがのちに振り返って、学校で何を学んだかを思い出すとき、記憶にもっとも強く残っているのは、教師の“完成をめざす不完全さ”ということであるに違いない。

西部邁さんの言葉である。



『学問』    西部邁


講談社  ¥ 時価

人生に必要なもの、一人の女性、一人の親友、一つの思い出、一冊の本。その一冊。
第1章 政治を問う
第2章 国際関係を観る
第3章 道徳を学ぶ
第4章 社交を察する
第5章 「生きる」を考える
第6章 歴史を想う
第7章 哲学を思う
第8章 実利を計る


私は36年間、高校教師を続けて、定年まで1年残して早期退職をした。最後の1年を我慢しきることは、どうも出来そうもないと考えたからだ。

学生と正面から向き合って、自分をさらけ出し、いまだに道徳にたどり着けない自分が、もがくようにして徳を求めている姿を見せる以外に、学生に前に進むことを促すことは出来ない。

教員生活の半分くらいは、それを、ある程度は出来ていた。しかし、ふと冷静に周囲を見ると、いつの間にか、それが職を賭さなければならないほどの、危険な行為になっていた。

気がついたら、社会が、親が、だけではない。学生がそれを求めていなかった。

西部さんの言うとおり、児童、生徒の徳育にとって決定的なのは、教師の道徳的な資質、さらにはそれを目ざす姿勢もさりながら、教育行政、家族や地域共同体の環境である。学生の徳育にあっては、国家の理念や国策体系に、自分が得た知育がどう貢献できるかという展望が重要である。

今そこにある展望は、それが自分の利益につながるかどうかが関の山。これで若者の、心が共鳴するか。

家族から国家に至る共同体を、特にその道徳的な基盤を荒れるがままに任せているような国民に、教育を論じる資格はないのではないか。

そこまで手厳しい。

最後の数年間に強く感じたのは、家庭環境が大きく変わってしまったこと、文科省が教育をねじったりひねったりで、なにかと仕事がやりづらくなってしまったのはその通りなんだけど、それだけならまだ良かった。

それ以上に唖然とさせられたのは、学生が変わったことだ。周りの環境がここまで変わったのだから、学生が変わってくるのも当然ではある。どう変わったのかと言えば、短絡的になった。10年後、20年後を考えるのではなく、目先のことしか考えなくなった。地道な努力よりも、目に見える成果を求めるようになった。身体を張ろうとすると、揚げ足を取られそうになった。

やっぱり、あと1年は無理だったな。



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『ニッポンの浮世絵』 日野原健司 渡邉晃

現在の価格で言えば、500円前後という安い値段で売られていたんだそうだ。

そう、この浮世絵が。

美しい自然や風景、人々の暮らし、憧れの美人や歌舞伎役者など、江戸時代の庶民がぜひ手元に置いて楽しみたいと思うような絵画が、たったの500円前後。なんて豊かな時代だったんだろう。

富士山では《神奈川沖浪裏》もいいけど、私はなんと言っても《凱風快晴》がいいな。日に焼けた、夏の富士山の圧倒的な富士山だ。

先日、埼玉県と東京都の境界に連なる長沢背稜と呼ばれる稜線を歩いてきた。少し南側の景色が開けると、そこには必ず富士山の姿がある。

それはまるで、こっちが富士山を見ていると言うよりも、そこを歩く私を、ずっと富士山が見ているかのような錯覚を起こさせる。『富嶽三十六景』とは、結局そういうことであったかも知れない。

富士山に並んで、浮世絵には筑波山が描かれていることも多い。『名所江戸百景』の《隅田川水神の森真崎》には、咲き誇るや桜の背景に水神の森と筑波山が描かれている。

私が住む、関東平野の西の果てからは、ちょっと丘陵地帯に登れば、どこからでも筑波山が見える。富士山を見ようとすると、奥武蔵や長沢背稜が邪魔をすることもあるが、筑波山を見ることを邪魔する山は、どこにもない。

江戸の町からであれば、富士山を見ることを邪魔するや間もなかったはず。富士と筑波は、それぞれ西と東のなじみだったんだろう。

江戸の町の人たちというのは、そういう意味でも豊かで、贅沢な生活をしていたわけだ。幕末や明治に日本を訪れた外国人は、日本人のことを、世界で一番幸せな民族と感じたそうだ。決して経済的に豊かなわけでもない日本人を、外国人はなぜそんな風に思ったんだろう。

何にも邪魔されず富士山でも筑波山でも見て、花を見て、自然を感じて喜べる日本人の、そこ感性にこそ、彼らは大きな価値を感じ取ったんじゃないだろうか。



『ニッポンの浮世絵』    日野原健司 渡邉晃

小学館  ¥ 2,640

富士山、桜、雨、風、雪。浮世絵に感じる「日本らしさ」とは一体
第1章 今も昔も、ニッポン三大モティーフ
富士山 桜 美人
第2章 世界が驚いた絵師たちのまなざし
雨 風 雪 天候と人々 月
第3章 絶対行きたい!ニッポンお楽しみガイド
風呂 花火 グルメ 神社・名城
第4章 庶民のヒーロー、見参!
力士 武士 役者


美人画も役者絵もいいけど、やっぱり私は、自然の描き方に一番大きな浮世絵の価値を感じる。

良く言われるところだけど、“雨”の描き方はすごいよね。なんと言っても強烈なのが、『名所江戸百景』の《大はしあたけの夕立》。激しい雨脚に右往左往する橋上の人々の様子が、なんだか手に取るようだ。葛飾北斎の《すほうの国きんたいばし》もいいな。あれ、橋に雨っていうのは絵になるものなのか。 

西洋の絵画には、雨を描いたものがほとんどなかったんだそうだ。こんなにも激しく、はっきりと描かれた雨を見て、西洋の画家の方々も驚いたことでしょうね。

風はやっぱり、『富嶽三十六景』の《駿州江尻》に見られる突風か。風を描くっていったい何だと思うけど、まさにそこには突風が吹き荒れている。『東海道五十三次』の《四日市 三重川》にも強い風が吹いている。飛ばされて土手を転げる菅笠を懸命に追いかける旅人のあわてようが面白く、裾を風に煽られる道中がっぱの襟を懸命に抑えている旅人も必死さも伝わってくる。

雪にしろ、月にしろ、やはり当時の日本人の持っていた鋭敏な感性は、人々の毎日をより楽しいものにしていたかも知れない。もしも私にもそれが残っているなら、私は今からでも、今よりもっと幸せになれるかも知れない。

とりあえず、もう少し山を歩いて、自然を吸収してみよう。

そう言えば、山に行くとき、私は早く家を出る。連れ合いが寝ているうちに起き出して、途中で食べるおむすびを作り、ごはんを食べて、静か~に出かける。朝ごはんのおかずに何か作る時間がもったいないので、永谷園のお茶漬けを食べる。

丼一杯のごはんに永谷園のお茶漬けをかけ、梅干しを一個乗っけて、お湯を注いで食べるのだが、いくら朝早い出発でも、これを食べると食べないでは大違い。

それは置いといて、今でも永谷園のお茶漬けには、『東海道五十三次』の浮世絵のカードが一枚はいっている。今食べている6個入りの袋からは、《亀山 雪晴》のカードが出てきた。雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく様子を描いたもので、行列も朝早くから寒いのに大変そうだ。

これも、いいなあ。

浮世絵には、いろいろなものがある。深入りして勉強をしたことはないけど、時々こういう本を見て一通り読んでみると、少しは理解も進むかな。


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『先祖返りの国へ』 エバレット・ブラウン エンゾ・早川

ブッダガヤのとある村にある日本の寺で、日本庭園を前にして座禅を組み、はじめて日本の身体感覚に出逢ったというアメリカ人。

その後、エバット・ブラウンさんは、東北の小さな漁村を皮切りに日本を旅してまわり、禅寺を訪れ、鍼灸師や整体師に出会い、武術家、能楽師、茶人など、鋭敏な身体感覚を持つ人々と交わる。多くの経験や出会いを通して、彼は日本の身体感覚と伝統文化のつながりを、ありありと感じることができるようになっていったという。

やがて、言霊信仰、万葉集、東洋医学に関心を持ちつつ日本語を習得する過程で、彼は身体感覚を含む日本語に、とても敏感になっていった。

幕末から明治に日本を訪れた外国人は、日本人を世界一幸せな民族だと感じたという。物質的な豊かさや富の獲得からはほど遠かった日本人は、なぜそんなにも幸せそうに見えたのか。彼は、日本人の持つ自然を感じ取る豊かな感性が、それに大きく関係していると考える。

その感性は、あるいは身体感覚は、今でも日本人のからだの記憶に眠っているのか。つまり、先祖返りできるのか。

その解答への糸口を、和の履き物を通じて、人間本来の身体の使い方、食事の仕方などを探求している日本人、エンゾ・早川さんとの対談で探り当てようとする試みが、この一冊にまとめられた。

エンゾ・早川さんの作る和の履き物とは、足半(あしなか)と呼ばれるもので、わらじが前半分で終わっているような履き物。これにエバット・ブラウンさんが興味を持ったのが、二人を引き合わせることになったようだ。

この履き物だと、当然、かかとは地面につかずに、前のめりの感じで歩くことになる。前のめりになる分、膝が前に出て少し曲がり、その分だけ腰を引き、胴体は前掲していくぶん猫背になる。

これって、昔の絵に描かれている日本人の姿じゃないかな。


『先祖返りの国へ』    エバレット・ブラウン エンゾ・早川

晶文社  ¥ 1,980

本来の身体感覚とそこから派生する文化へ戻らんとする「先祖返り現象」とは?
第1章 足―なぜ和の履物を履くと“前向き”に歩けるのか
第2章 手―なぜヤクザは“小指”を詰めるのか
第3章 背―なぜ絵巻物に描かれた日本人はみな猫背なのか
第4章 尻―なぜふんどしは“えくぼ”のある尻に似合うのか
第5章 腹―なぜ大仏のお腹はふくれているのか
第6章 口―なぜ仙人は“霞を食う”のか
第7章 頭―なぜ現代は生きづらいのか


私は、かかとを地に着けて歩く。

だけど、平素はぞうりを履いている。仕事に行くのも、これで行っていた。車もこれで運転していた。群馬県では条例で、ぞうりで運転することは禁じられているという。

還暦を迎えた私の年代では、180cmを越える身長の私は、けっこう目立って背の高い方だった。秩父の冬はとても寒いんだけど、やがて私の足首から先は重たい掛け布団の外にはみ出すようになっていった。寒い冬でも、足首から先はふとんの外だった。

そのせいか、靴を履かなければいけない時を除き、靴下は履かない。家にいるときは、冬の寒い日でも靴下を履く必要はない。そうすると、足裏は、いろいろなものに触れることになる。当然、敏感になる。足裏に土の感覚を覚えさせたいところだけど、この時代ではなかなかそうも行かない。

山を歩くときは登山靴を履くことが多いが、夏の暑い時期は、地下足袋で歩く。足裏は薄いゴムだし、表も布一枚におおわれているに過ぎない。たしかに岩につま先をぶつければいたい、角張った石を踏んでも痛い。

人から見れば、良くそんなもんで登山が出来るものだという風に感じるらしいが、それが結構そうでもない。登山靴なら足首の高いものでも低いものでも、実際の足よりも前後左右にはみ出している。だから、実際の足感覚よりも、少し広めに足場を確保する必要が出てくる。しくじって、登山靴のかかと5mmを岩にでもかけようものなら、身体全体がバランスを失って、前に投げ出されてしまう。

地下足袋の場合、ほぼ、実際の足感覚で歩ける。さらに、足半を使った二人の対談にも出てくるんだけど、足元をよく見るようになる。つま先で岩を蹴ったり、岩角を踏んだりしないように、丁寧に歩くようになる。しかも、足半を履いたときのようにかかとを上げて身体を前傾させれば、身体全体がサスペンションになったようなもんで長く歩いても疲れないだろう。

身体の感覚からものを考えるって、心の中にすとんと落ちるような、そんな納得感がある。

子どもの頃、二人の兄たちと違って、私は畑仕事が好きだった。休みの日の午前中は畑仕事を手伝い、午後はごみだの、枯葉だの、端材だのを燃やして過ごした。

鍬を振るのは、下ろすときに力を入れると、あっという間に疲れてしまう。力を入れるのは鍬を上げるときだけ。それも腕の力で上げるのではなく、身体を後傾させつつ、背中の力で上げる。これは、祖父に教わった。長く農作業を続けるコツ。

日本人にあった身体の使い方は、農作業の方法と、この歩き方以外は何も知らない。そんな私にとっては、とても刺激的な一冊だった。


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極北の自然に見せられた写真家の旅を一冊に! 
大切なことは出発することだった
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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本
























































































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