『うたかたの国』 松岡正剛
すごい!
「世の中は三日見ぬま“に”桜かな」ならいつの間にか咲いていた桜が、「世の中は三日見ぬま“の”桜かな」と、“に”を“の”に変えるだけで桜を散らしてしまうことができるのか。さらにそこに、人生観まで乗せてきている。それも、まったく同じリズムだけに変化の大きさが、さらに際立つようだ。
「やつし」というと、本来の姿を変えて正体を隠していることなんだそうだ。ただ、「やつし」というと、どうしようもなく疲れ果ててしまったり、みすぼらしくなってしまう方に姿を変えているように受け取れる。
よく、「身をやつす」なんて言い方をする。たとえば、「恋に身をやつす」なんて言うと、恋をして、痩せこけてしまうほど夢中になってしまった様子をを現わす。これは、痩せこけた姿で正体を隠している状態ということになる。
「ひょっとこ・おかめ」のひょっとこは、「火男」が訛ったんだという。口を突き出しているのは、火でも吹いているんだろうか。そのルーツは、とことん行きつめればイザナギ・イザナミまでさかのぼる。「ひょっとこ・おかめ」は、イザナギ・イザナミのやつしヴァージョンか。
「整いきっているのは、やりきれない」と言う思いが日本人にあり、だからこそ日本文化は型から外れていく。それが「くずし」であり、「やつし」なのだそうだ。ただ、型を身につけているからこその「くずし」や「やつし」。型に至らない「くずし」や「やつし」は、ただの恥知らず。
36年間、教員をしていたが、その最終盤にアクティブ・ラーニングというのが取り入れられつつあった。教育委員会は、若い教員連中に、まずそれをやらせていた。学ぶ側の主体性を尊重し、能動的に学ぶよう導くらしい。それが教育の進化なんだそうだ。まったく、分からない。
その人たちに言わせれば、言葉からして、勉強は強いるものだからダメらしいが、もともと勉強というのは、自分でするものだ。型もできないのに、最初から“くずし”に逃がしてどうするんだ。
型がなければ「やつしの美」は生まれず、型があるから型破りが芸になる。やつしを芸の域に高めるのは「もどく」ことによる。漢字では擬くと書く。擬態、疑似の擬は擬するの擬。それを真似て似せること。
世阿弥は芸能の本質を、ものまねにあると見なしたという。世阿弥の芸能は、神や翁のもどき芸として、今日に伝わった。
高校山岳部で山に出かけるとき、弁当が必要なときは、母に“むすび”を作ってもらった。大きめのやつを5個、お米にして2合食べた。“むすび”がすんなり来る。“おにぎり”は、なんだかいやらしく聞こえてしまう。
「むすび」は、「むす・ひ」。「むす」の意味は産す。産み出すこと。「ひ」は霊。だから、「むすひ」は産霊。産まれ出る霊力という意味を持つ。そこから生まれたのが、結びという言葉。結ぶというと、締めて、閉じてしまうようなイメージがあるが、状態としては何かがいよいよ生まれ出る状態になっていることを指す。やはり、おにぎりよりも、おむすびがいい。
ただ、日本はそれを伏せてしまうんだそうだ。熨斗をつけて、結び目をつくって、何かが生まれ出ることを暗示するんだそうだ。
どうも日本文化の根源的な部分というのは、見えそうで見えない。それでいて、確実に根底を支えている。
時々しかやってこない神が里に来臨することを、おとずれと言った。おとずれは「訪れ」であるが、おとづれは「音連れ」である。神さまがやってくるとき、音をともなってやってきたんだそうだ。どんな音だろう。
神は依代に下りてくる。榊の木は、神を依らすための代表的な木。そこに神が到来することをよ影向(ようごう)と言う。それはかすかな気配の動向。かすかな神の気配を感じさせてくれるのが、依代である、たとえば榊と言うことになる。たとえば、風は目に見えない。写真家はたなびく旗を撮って、風を写す。・・・風が吹くのだろうか。葉が揺れるのだろうか。その音を連れて、神が訪れるのだろうか。
山に入ろうとするとき、町を抜け、集落が薄くなり、里山を経て、山となる。その山に唐突に墓地が現れる。山中他界。人は死ぬと、魂が山に飛んでいき、そこで往生を遂げる。
人が死んだら魂だけが山に帰るという話が書かれている。私は、祖母から、よくそう言われていた。だから、子どもの頃、山は怖いところだと思っていた。私の家は武甲山という山の麓にあった。だから、子どもの頃に聞いた昔話の世界が、すぐそこにあった。
里に対峙するのが山。里芋があって、山芋がある。山芋には、里芋にはない力が感じられる。縄文の人々は、山の力を借りて生きてきた。稲作が発達して里に定住した人々は、山で生きる人々に畏怖をともなう脅威を抱いていた。その思いが、いつか山の人々を意識の上から遠ざけ、自分たちの情緒や条理を解さないものとして、低く見るようになる。
しかし、里人の情緒の根底にある花鳥風月の舞台装置は、山を抜きにして考えられるものではない。「山はさまざまなイメージの母型」、「花鳥風月の舞台装置となるべき分母」と、著者は言っている。
分母が貧弱になり、どんどん小さくなったとき、いったい何が起こるんだろう。想像したくもないな。
さてこの本は、松岡正剛さんが今まで、日本の詩歌について書いてきた文章を、松岡正剛さんの教え子である編集学校師範の米山拓矢さんが編集したもの。日本がまだ文字を持たない時代の詩歌に対する類推から、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎にまで及ぶ。さらには、『古語拾遺」や『古事記伝』と、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎らの歌を一緒に見たいと書いている。
松岡さんの文章自体膨大なもののようだが、それを目次にあるようなテーマに沿って編集し直したことによって、松岡さんの言葉によれば、「ハイパー複式夢幻能になっていた。長良川どころではない。木曽川も揖斐川も組み合わさっての木曽三川の夢幻能組曲」に生まれ変わったそうだ。
詩歌に造詣のない私には、「後ろを向け」と言われて後ろを向いたら、いつの間にかその相手がいなくなってしまったかのような、上げられて、下げられて、ぐるんぐるんと引っ張り回されたような読後感。「歌や歌謡は日本語の苗床、表記システムの起源、多くの歌物語であって、かつまた日本人の感情の襞」と言うことであれば、理解するより感じるもの。知識の不足は感じることさえ難しくするが、でも、決していやじゃない。むしろ詩歌における、言葉の深みにもっと浸かっていたい。そう思わせてくれる本だった。
「世の中は三日見ぬま“に”桜かな」ならいつの間にか咲いていた桜が、「世の中は三日見ぬま“の”桜かな」と、“に”を“の”に変えるだけで桜を散らしてしまうことができるのか。さらにそこに、人生観まで乗せてきている。それも、まったく同じリズムだけに変化の大きさが、さらに際立つようだ。
「やつし」というと、本来の姿を変えて正体を隠していることなんだそうだ。ただ、「やつし」というと、どうしようもなく疲れ果ててしまったり、みすぼらしくなってしまう方に姿を変えているように受け取れる。
よく、「身をやつす」なんて言い方をする。たとえば、「恋に身をやつす」なんて言うと、恋をして、痩せこけてしまうほど夢中になってしまった様子をを現わす。これは、痩せこけた姿で正体を隠している状態ということになる。
「ひょっとこ・おかめ」のひょっとこは、「火男」が訛ったんだという。口を突き出しているのは、火でも吹いているんだろうか。そのルーツは、とことん行きつめればイザナギ・イザナミまでさかのぼる。「ひょっとこ・おかめ」は、イザナギ・イザナミのやつしヴァージョンか。
「整いきっているのは、やりきれない」と言う思いが日本人にあり、だからこそ日本文化は型から外れていく。それが「くずし」であり、「やつし」なのだそうだ。ただ、型を身につけているからこその「くずし」や「やつし」。型に至らない「くずし」や「やつし」は、ただの恥知らず。
36年間、教員をしていたが、その最終盤にアクティブ・ラーニングというのが取り入れられつつあった。教育委員会は、若い教員連中に、まずそれをやらせていた。学ぶ側の主体性を尊重し、能動的に学ぶよう導くらしい。それが教育の進化なんだそうだ。まったく、分からない。
その人たちに言わせれば、言葉からして、勉強は強いるものだからダメらしいが、もともと勉強というのは、自分でするものだ。型もできないのに、最初から“くずし”に逃がしてどうするんだ。
型がなければ「やつしの美」は生まれず、型があるから型破りが芸になる。やつしを芸の域に高めるのは「もどく」ことによる。漢字では擬くと書く。擬態、疑似の擬は擬するの擬。それを真似て似せること。
世阿弥は芸能の本質を、ものまねにあると見なしたという。世阿弥の芸能は、神や翁のもどき芸として、今日に伝わった。
高校山岳部で山に出かけるとき、弁当が必要なときは、母に“むすび”を作ってもらった。大きめのやつを5個、お米にして2合食べた。“むすび”がすんなり来る。“おにぎり”は、なんだかいやらしく聞こえてしまう。
「むすび」は、「むす・ひ」。「むす」の意味は産す。産み出すこと。「ひ」は霊。だから、「むすひ」は産霊。産まれ出る霊力という意味を持つ。そこから生まれたのが、結びという言葉。結ぶというと、締めて、閉じてしまうようなイメージがあるが、状態としては何かがいよいよ生まれ出る状態になっていることを指す。やはり、おにぎりよりも、おむすびがいい。
ただ、日本はそれを伏せてしまうんだそうだ。熨斗をつけて、結び目をつくって、何かが生まれ出ることを暗示するんだそうだ。
どうも日本文化の根源的な部分というのは、見えそうで見えない。それでいて、確実に根底を支えている。
『うたかたの国』 松岡正剛 工作舎 ¥ 1,980 物語も、日記も、茶の湯も、屏風絵も、信心も、国学も、日本はいつも歌とともにあった |
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時々しかやってこない神が里に来臨することを、おとずれと言った。おとずれは「訪れ」であるが、おとづれは「音連れ」である。神さまがやってくるとき、音をともなってやってきたんだそうだ。どんな音だろう。
神は依代に下りてくる。榊の木は、神を依らすための代表的な木。そこに神が到来することをよ影向(ようごう)と言う。それはかすかな気配の動向。かすかな神の気配を感じさせてくれるのが、依代である、たとえば榊と言うことになる。たとえば、風は目に見えない。写真家はたなびく旗を撮って、風を写す。・・・風が吹くのだろうか。葉が揺れるのだろうか。その音を連れて、神が訪れるのだろうか。
山に入ろうとするとき、町を抜け、集落が薄くなり、里山を経て、山となる。その山に唐突に墓地が現れる。山中他界。人は死ぬと、魂が山に飛んでいき、そこで往生を遂げる。
人が死んだら魂だけが山に帰るという話が書かれている。私は、祖母から、よくそう言われていた。だから、子どもの頃、山は怖いところだと思っていた。私の家は武甲山という山の麓にあった。だから、子どもの頃に聞いた昔話の世界が、すぐそこにあった。
里に対峙するのが山。里芋があって、山芋がある。山芋には、里芋にはない力が感じられる。縄文の人々は、山の力を借りて生きてきた。稲作が発達して里に定住した人々は、山で生きる人々に畏怖をともなう脅威を抱いていた。その思いが、いつか山の人々を意識の上から遠ざけ、自分たちの情緒や条理を解さないものとして、低く見るようになる。
しかし、里人の情緒の根底にある花鳥風月の舞台装置は、山を抜きにして考えられるものではない。「山はさまざまなイメージの母型」、「花鳥風月の舞台装置となるべき分母」と、著者は言っている。
分母が貧弱になり、どんどん小さくなったとき、いったい何が起こるんだろう。想像したくもないな。
さてこの本は、松岡正剛さんが今まで、日本の詩歌について書いてきた文章を、松岡正剛さんの教え子である編集学校師範の米山拓矢さんが編集したもの。日本がまだ文字を持たない時代の詩歌に対する類推から、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎にまで及ぶ。さらには、『古語拾遺」や『古事記伝』と、モーニング娘「。」、桑田佳祐、椎名林檎らの歌を一緒に見たいと書いている。
松岡さんの文章自体膨大なもののようだが、それを目次にあるようなテーマに沿って編集し直したことによって、松岡さんの言葉によれば、「ハイパー複式夢幻能になっていた。長良川どころではない。木曽川も揖斐川も組み合わさっての木曽三川の夢幻能組曲」に生まれ変わったそうだ。
詩歌に造詣のない私には、「後ろを向け」と言われて後ろを向いたら、いつの間にかその相手がいなくなってしまったかのような、上げられて、下げられて、ぐるんぐるんと引っ張り回されたような読後感。「歌や歌謡は日本語の苗床、表記システムの起源、多くの歌物語であって、かつまた日本人の感情の襞」と言うことであれば、理解するより感じるもの。知識の不足は感じることさえ難しくするが、でも、決していやじゃない。むしろ詩歌における、言葉の深みにもっと浸かっていたい。そう思わせてくれる本だった。