すべてを失った山本坊の墓石群
『日本人と山の宗教』という本で、“越生山本坊”のことを知り、越生周辺の山の中に、いくつかの、その面影を訪ねた。
山本坊は京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示した。
慶長8年、1603年だから、江戸幕府が開かれた年だな。その年、山本坊が、本坊を越生の黒山から、現在の毛呂山町に含まれる西戸村に移している。こちらにも熊野神社を勧請したんだな。その上で、越生山本坊と合わせて、坊領50石の朱印状を得ている。
修験の寺が領土を持った。京都聖護院本山派修験の先達を務めつつ、領主として近在の農民たちを支配し、ずいぶん農地の開拓もしたようなのだ。
それだけの影響力を持ちながら、越生でも思ったのだが、この西戸においてはさらに、その痕跡が少なすぎる。その原因は、明治初年の“神仏分離令”に原因があるらしい。
神仏分離令で神仏習合を禁じられたことで、神社と寺が明確に分離される。僧侶と神主もはっきり分かれる。山本坊の当主は、神主になり相馬姓を名乗ったそうだ。それだけじゃ終わらない。明治5年には“修験廃止令”が出され、山本坊も息の根を止められる。政治上、宗教上の一切の権益を失ってしまったそうだ。熊野神社は、その後、現在の国津神神社に名前を替えた。
修験はその後、明治時代に雨後の竹の子の如くに現れる、新興神道教団に流れ込んだんだそうだ。明治政府は天皇を現人神とする神社神道を国民の信仰の柱に育て上げていくが、それを保管するものとして、教派神道12派を公認した。
中でも、富士信仰の実行教、扶桑教、御岳信仰の御嶽教は元々修験道系の信仰で、他にも修験道との関係から出発した教派神道もあるという。
神仏分離令によって、廃仏毀釈という途方もない文化の途絶があったが、文化の途絶は、それだけじゃなかったんだな。
晴れた日の午前中、運動公園の駐車場から、いくつかの史跡を廻りつつ、山本坊歴代当主の墓石の立ち並ぶ墓所を探した。

〈延慶の板碑〉と呼ばれるもの。延慶3年(1310年)のものだそうだ。もうすう鎌倉幕府が滅亡する頃だな。もとは、次の写真の崇徳寺跡に立っていたもの。崇徳寺跡あたりに住んだ行真と朝妻氏の娘を供養したもの。供養されるべき、どんな事情があったのかは分からない。

「すとく」ではなく、「すうとく」なのか。苦林野の合戦で消失したらしい。苦林野の合戦は足利基氏が関与する。6キロほど離れた高坂の岩殿は、足利も当時の館のものとされる土塁跡がある。
道ばたの、小さな馬頭観音。
川角八幡神社。手前に“道祖神”という石碑が建つ。この神社から坂を下り、越辺川を渡ると西戸(さいど)という地区になる。“道祖土”も「さいど」と読むが、それと関係があるんだろうか。

立派な本殿と、かたわらに立つ芭蕉の句碑。文字は判別できないが、「道傍の むくげは馬に 喰われけり」だそうだ。

左の宝篋印塔は、南蔵寺の境内に置かれていたが、南蔵寺が廃仏毀釈により廃寺となり、八幡神社の境内に移動されたという。ここでも廃仏毀釈が激しかったようなのだが、山本坊があったからこそ激しさが増した可能性も考えられる。右の石碑には「月山・羽黒山・湯殿山・立山・金峯山・金華山・浅間山 霊場」と、修験がみられる。

越辺川にかかる宮下橋の途中で振り返る。あの坂の上、右手の林の向こうに八幡神社がある。越辺川が溢れても、あそこなら大丈夫。宮下橋を渡りきると、右の写真のように、西戸地区の開拓農地が広がる。山本坊が絡んだものかもしれない。
国津神神社までやってきた。もとは山本坊が勧請した熊野神社だった。周囲は畑に囲まれている。ここにも芭蕉の句碑がある。私には読み取れないが、「山さとは 万歳おそし うめの花」とあるそうだ。

ようやく、歴代当主の墓石の立ち並ぶ場所までたどりつく。地図で見てもらうと分かるが、この背景には丘陵地帯を削った上に立つ新興住宅地やゴルフ場がある。つまり山本坊は、それらの丘陵地帯の終わった場所に、丘陵を背景にして南面していたことになる。



「いったい、なんの写真だ」と思われるだろう。ごもっとも。しかし、上の墓石群は、この薮の中にあるのだ。薮の中に入るべき道はない。落ち葉で隠されているのではない。道はない。道路を歩いていても、なかに上の墓石群があることなど、想像もつかない。木々が葉を落とす1月下旬でこの状態。春から秋にかけては、もっと見つけにくくなるだろう。それを目的に来ても、たどり着けるとは限らない。

国津神神社に戻り、墓石群があった方角を見る。青い屋根の家が見えるが、その裏手のやぶの中に墓石群がある。その家の方にお話を聞いたら、「教育委員会が動いたんだが、民地なのでどうにもならない」とのことで、手を引いてしまったようだ。今では、往事の山本坊の隆盛を示すものは、これをおいて他にないんじゃないかと思うんだけど、・・・残念だ。
この日歩いたのは、以下のようなコース。

山本坊は京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示した。
慶長8年、1603年だから、江戸幕府が開かれた年だな。その年、山本坊が、本坊を越生の黒山から、現在の毛呂山町に含まれる西戸村に移している。こちらにも熊野神社を勧請したんだな。その上で、越生山本坊と合わせて、坊領50石の朱印状を得ている。
修験の寺が領土を持った。京都聖護院本山派修験の先達を務めつつ、領主として近在の農民たちを支配し、ずいぶん農地の開拓もしたようなのだ。
それだけの影響力を持ちながら、越生でも思ったのだが、この西戸においてはさらに、その痕跡が少なすぎる。その原因は、明治初年の“神仏分離令”に原因があるらしい。
神仏分離令で神仏習合を禁じられたことで、神社と寺が明確に分離される。僧侶と神主もはっきり分かれる。山本坊の当主は、神主になり相馬姓を名乗ったそうだ。それだけじゃ終わらない。明治5年には“修験廃止令”が出され、山本坊も息の根を止められる。政治上、宗教上の一切の権益を失ってしまったそうだ。熊野神社は、その後、現在の国津神神社に名前を替えた。
修験はその後、明治時代に雨後の竹の子の如くに現れる、新興神道教団に流れ込んだんだそうだ。明治政府は天皇を現人神とする神社神道を国民の信仰の柱に育て上げていくが、それを保管するものとして、教派神道12派を公認した。
中でも、富士信仰の実行教、扶桑教、御岳信仰の御嶽教は元々修験道系の信仰で、他にも修験道との関係から出発した教派神道もあるという。
神仏分離令によって、廃仏毀釈という途方もない文化の途絶があったが、文化の途絶は、それだけじゃなかったんだな。
晴れた日の午前中、運動公園の駐車場から、いくつかの史跡を廻りつつ、山本坊歴代当主の墓石の立ち並ぶ墓所を探した。
『日本人と山の宗教』 菊地大樹 講談社現代新書 ¥ 1,100 日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌 |
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〈延慶の板碑〉と呼ばれるもの。延慶3年(1310年)のものだそうだ。もうすう鎌倉幕府が滅亡する頃だな。もとは、次の写真の崇徳寺跡に立っていたもの。崇徳寺跡あたりに住んだ行真と朝妻氏の娘を供養したもの。供養されるべき、どんな事情があったのかは分からない。

「すとく」ではなく、「すうとく」なのか。苦林野の合戦で消失したらしい。苦林野の合戦は足利基氏が関与する。6キロほど離れた高坂の岩殿は、足利も当時の館のものとされる土塁跡がある。




立派な本殿と、かたわらに立つ芭蕉の句碑。文字は判別できないが、「道傍の むくげは馬に 喰われけり」だそうだ。


左の宝篋印塔は、南蔵寺の境内に置かれていたが、南蔵寺が廃仏毀釈により廃寺となり、八幡神社の境内に移動されたという。ここでも廃仏毀釈が激しかったようなのだが、山本坊があったからこそ激しさが増した可能性も考えられる。右の石碑には「月山・羽黒山・湯殿山・立山・金峯山・金華山・浅間山 霊場」と、修験がみられる。


越辺川にかかる宮下橋の途中で振り返る。あの坂の上、右手の林の向こうに八幡神社がある。越辺川が溢れても、あそこなら大丈夫。宮下橋を渡りきると、右の写真のように、西戸地区の開拓農地が広がる。山本坊が絡んだものかもしれない。


国津神神社までやってきた。もとは山本坊が勧請した熊野神社だった。周囲は畑に囲まれている。ここにも芭蕉の句碑がある。私には読み取れないが、「山さとは 万歳おそし うめの花」とあるそうだ。

ようやく、歴代当主の墓石の立ち並ぶ場所までたどりつく。地図で見てもらうと分かるが、この背景には丘陵地帯を削った上に立つ新興住宅地やゴルフ場がある。つまり山本坊は、それらの丘陵地帯の終わった場所に、丘陵を背景にして南面していたことになる。



「いったい、なんの写真だ」と思われるだろう。ごもっとも。しかし、上の墓石群は、この薮の中にあるのだ。薮の中に入るべき道はない。落ち葉で隠されているのではない。道はない。道路を歩いていても、なかに上の墓石群があることなど、想像もつかない。木々が葉を落とす1月下旬でこの状態。春から秋にかけては、もっと見つけにくくなるだろう。それを目的に来ても、たどり着けるとは限らない。

国津神神社に戻り、墓石群があった方角を見る。青い屋根の家が見えるが、その裏手のやぶの中に墓石群がある。その家の方にお話を聞いたら、「教育委員会が動いたんだが、民地なのでどうにもならない」とのことで、手を引いてしまったようだ。今では、往事の山本坊の隆盛を示すものは、これをおいて他にないんじゃないかと思うんだけど、・・・残念だ。
この日歩いたのは、以下のようなコース。
