めんどくせぇことばかり 本 日本史

『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』 山田雄司

『東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』と菅原道真が読んだ2月は901年。失意の中で亡くなったのは2年後の903年。道真を追い落とす陰謀ののち、時平は同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させた。また宇多法皇との関係も改善し、902年には最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また、時平の治世は延喜の治と呼ばれている。

そんな中、最初の異変は、すでに904年に起こっている。雷雨が続き、内裏清涼殿のすぐそばにも雷が落ちた。夏には雹まで降った。賀茂川があふれ、濁流となって平安京を襲った。異変が人に及んだのは、しばらく後の908年のこと。道真追い落としに加担した藤原菅根が変死する。まだこの時点では、資料上、菅根の死を怨霊の仕業に結びつけるものはない様だ。

しかし、異変が張本人に及んでは、話が違う。909年に左大臣正二位の藤原時平が39歳の若さで亡くなっては、人々も道真の怨霊の登場を意識せざるを得なかったろう。

923年、醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳で夭逝。保明の母は時平の妹であった。いよいよ、道真の怨霊の祟りが身内に及んで、醍醐天皇は、相次いで怨霊鎮魂の手を打っていく。道真を右大臣に復し、一階加えて正二位を贈り、左遷の命令を取り消した。延喜から延長への改元も、怨霊を慰撫するためだろう。

しかし、道真の怨霊は鎮まらない。

925年、保明親王の皇子で時平の娘を母とする慶頼王(よしよりおう)がわずか5歳で夭逝。930年には内裏に落雷があり、大納言藤原清貫は袍に火がついて死亡。右中弁平希世(まれよ)は顔が焼けただれて死亡。右兵衛佐美努忠包(ただかね)は髪が焼けて死亡。紀陰連(かげつら)は腹部が焼けただれて悶乱。安曇宗仁は膝を焼かれて倒れ伏す。

内裏への落雷と、その大きな被害に衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、930年に46歳で死んでいる。

もしもこれらのすべてを怨霊の仕業と意識したなら、醍醐天皇でなくても“死”に取り付かれるだろう。そう思わせるだけの激しい祟り方だ。だけど、亡くなる前の道真は、決して醍醐天皇を怨んだりせずに、仏教に帰依していったという。その道真がなぜここまで祟るのか。

おもしろい解釈がある。

道真は優しい人物であった。それだけに恨みつらみを表に出さず、すべてを腹の中に飲み込んだ。しかし、道真が死ぬと、肉体が滅び、器が亡くなったことによって、それまで秘められていた恨みつらみのすべたが爆発するようにあふれ出て、もはやだれにも止められないほど激しく暴れだした。

納得。


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怨霊はいかに恐れられたのか。霊魂の行方から怨霊の祟りとその鎮魂
第1章 霊魂とは何か
第2章 怨霊の誕生
第3章 善神へ転化した菅原道真
第4章 関東で猛威をふるう平将門
第5章 日本史上最大の怨霊・崇徳院
第6章 怨霊から霊魂文化へ


だとすれば、将門は、生きながらにけっこう吐き出したはず。首が恨みつらみを訴えたとか、もうひと戦するために、体を求めて関東に飛び去ったとかの伝説は、おどろおどろしくはあるものの、あっさりしている。

神田明神に祀られたいわれは、俵藤太秀郷が、将門への勝利を祈願して、のちに社を新造し、将門の霊を祀ったとか。あるいは、将門の首が京にさらされたのち、天変地異が続いたことから、神田明神に神として祀ったとか。

だけど、道真の怨霊ように、誰彼を取り殺したという話ではない。

やはり、そのへんは恨みつらみを腹の中に飲み込んで死んでいった道真との違いかな。

ただし、この坂東の親皇は、道真のように分かりが良くないのかもしれない。いまだに、神に祭り上げられっぱなしになるつもりはない様だ。

京から飛んできた将門の首がたどり着いたとされる場所にある“将門の首塚”。ここに手を入れようとするたびに問題が起きる。1923年の関東大震災による被災があり、首塚周辺は、調査ののち埋め戻され、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたという。しばらくすると、大蔵官僚の中に病気になるものが続出。工事関係者にもけが人や死亡者が相次いだという。結局、塚の上の庁舎は取り壊され、1928年には盛大に将門鎮魂祭が行われたという。

アメリカによる空襲で、このあたりは焦土と化した。GHQが入って来てからは、モータープール建設用地として接収され、米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われた。ところが、そのさなか、ブルドーザーが石に躓いて横転し、二名がその下敷きになった。その後も労務者の事故が絶えず、調べたところ、石は将門の首塚の石標であったという。近隣町会の嘆願でGHQも了承し、首塚は残されることになったという。




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『異人たちが見た日本史』 内藤孝宏

《マルコ・ポーロ》
チパングは東海にある大きな島で、大陸から2400キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物質に恵まれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまり訪れず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。

《ウィリアム・アダムス》
この日本は一大島国にして、北緯四十八度にあり、地形は東北より西南に延び、二百二十リーグ(里)にわたります。日本島の住民は、性質温良にして礼儀を重んずること甚だしく、戦いに鑑みては勇敢、国法は厳かにして、これを犯した者は仮借なく罰せられます。今や国内は平和です。内政の行き届いていること、他国と比べ物にならないほどです。 (1611)

《オランダ商館長 フランソワ・カロン 1619年来日》
数人で一つの悪事を犯し、その一人が捕縛せられた場合、彼は自分の仲間に迷惑をかけるよりも寧ろ死の苦痛を受く。苦痛がいかに強くまた恐ろしくとも、決して白状せず、その苦痛から終に死んでしまう。彼はかくの如き信仰を有し、これを破って近親者を死に陥れるは、名誉を傷つくるものとし、一大決心を以て自己の被る種々の苦痛に対し、郷上と頑固を守り通すのだ。

勘定は正確で、売買を記帳し、一切が整然として明白である。彼らの計算は細い棒の上に丸い小玉を刺した板の上で行われる。加減乗除比例まで整数分数ともにでき、そうしてオランダにおけるよりも、また速算家でない尋常のオランダ人が計算するよりも、一層迅速正確である。



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ユニークだとされる日本人の気質、宗教観、自然観など浮き彫りする、もう一つの日本史。
【PART1】『中世に来日した外国人─宣教師と商人の時代』
フランシスコ・ザビエル(スペイン)が見た日本
フランシスコ・カブラル(ポルトガル)が見た日本
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア)が見た日本
アビラ・ヒロン(スペイン)が見た日本
【PART2】『江戸前期に来日した外国人─朱印船とオランダ商館の時代』
ウィリアム・アダムズ(イギリス)が見た日本
ジョン・セーリス(イギリス)が見た日本
フランソワ・カロン(オランダ)が見た日本
【PART3】『江戸後期に来日した外国人─研究者と侵略者の時代』
エンゲルベルト・ケンペル(ドイツ)が見た日本
ヴァーシリー・ゴローニン(ロシア)が見た日本
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(ドイツ)が見た日本
マシュー・ペリー(アメリカ)、が見た日本


《シーボルトからペリーにあてた書簡》
願わくば堪忍の尾を絶つなかれ。日本政府の異議を静かに聞き入れよ。しかして、断固として、アメリカは日本の現宗教と政治とを乱さんとせざるものなることを声明せざるべからず。アメリカはそれらのものに抵触せず、平和なる協商によりて通商条約を結ぶことを主張せよ。おそらく提案は聴かざらんも、ペリー提督よ、願わくば日本の善良にして誠実無智なる人民に対して敵対的示威をなすなかれ。
シーボルトは、日本社会を高く評価していた。日本人の能力の高さもおそらく正当に認識し、西洋の進んだ諸学に触れて、それが本格的に開花する前に潰されてしまうことを恐れた。

19世紀、西洋諸国は実際に、幾つもの民族を潰した。そのほとんどは、西洋文明を理解することもできず、その姿勢さえ示すことなく潰れていった。しかし、日本は違う。日本が違うことを、シーボルトは体感していた。ヨーロッパ諸国に蹂躙されるアフリカの諸民族のように、イギリスのほしいままにされる南アジア諸地域のように、日本民族の高い潜在能力を失うことを、シーボルトは心の底から恐れたのだろう。

追放処分となったものの、日蘭修好通称条約が締結され、追放も解除されて、シーボルトは1859年に再来日を果たしている。その後の活動においても、シーボルトの功績は、日本に関わる認識を西洋に広めたことに尽きる。数多くの収集品を西洋に持ち帰り、日本のことを伝えた。

ドイツに帰ったシーボルトは、日本から持ち帰ったあじさいを庭に植え、日本の日々を偲んだという。




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『名字でわかるあなたのルーツ』 森岡浩

NHKの番組《人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ! 》が面白くて、よく見てる。姓氏研究家の著者は、その番組のレギュラーでもある。著者ら研究者のお陰で、“おまなえ”は、確実に歴史をたどる一つの強力な視点になってるんだな。名前は時空を超えて現れる。場所を超えて現れる。時間を超えて現れる。つまり、それを追うことで、人の動きがわかる。いつ頃動いたかがわかる。

おもしろい。おもしろすぎる。

ネタバレになるけど、面白さを伝えるために、展開の一つを紹介する。これは、日本人の名字が地名からつけられていることが多いということで、その地名はどんないわれでつけられたかを明らかにした部分。
平野の少ない日本では、山の中腹まで開墾することが多く、ここに住んだのが「山中」や「山内」。通常は田よりも高いところに住んで「田上」。棚田の場合はその下に住んで「田下」。山の麓には道が通り薪を撮るのに便利で水も得やすいので多くの人が住んだ。「山下」、「山本」、関西では「山根」が多い。山の稜線の張り出したところが「山崎」で、神社がある「崎」は「宮崎」、寺なら「寺崎」となる。この「崎」がそのまま海に落ち込んでいれば「岬」。

道が山を越える一番高いところが「峠」で、中国地方では「田尾・垰」。山を越えるにしても、鳥が山を超えるところが「鳥越」。道が交差するところが「辻」。農民の集落を「村」。商人の集落を「町」。漁村は「浦」とも呼ばれ、村は「郷」とも呼んだ。

川は山間部の細い流れのところでは「沢」。“そのあたり”という意味で「沢辺」、「沢部」と書いても意味は同じ。さらに上流では「滝」が多く、「滝川」や「滝沢」の名字が多い。その下に住むものが多いので「滝下」、「滝本」は多いが、滝上に済むものはあまり多くない。
・・・こんな調子なんだ。面白いでしょ。


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NHK《人名探求バラエティー 日本人のおなまえっ!》コメンテーターがおくる“ご先祖様の真実”
序章 名字のルーツを探る
第1章  由来でさぐるルーツ
第2章  先祖でさぐるルーツ
第3章  分布でさぐるルーツ
第4章  ルーツ探しの彼方に
韓国は5000万人今日の人口に対して、名字の数は300程だそうだ。チャイナはというと、漢民族だけで10億もいるのに、名字の数は数千だそうだ。日本の名字はどれくらいだと思う。・・・・・・・・

1億3000万弱の人口に対して、10万種類以上の名字があるんだそうだ。

名字から自分のルーツを知ろうとしたときに、この10万種類というのはどうだろうか。数は多いけど、特定しやすいというところもあるよね。ルーツ調べの方法も書かれている。

まずは図書館で姓氏辞典のたぐいを調べる。有名な名字なら、出自、発祥地が明らかになり、場合によっては系図も明らかになる。ここで注意したのは、出自、発祥地、系図が明らかにされている名字は、大名・旗本・公家・神官などの著名な一族。江戸時代の武士や公家は人口の1割。著名な一族はこの1割の内と考えればいい。


残り9割の場合どうするか。一つには、下から調べる方法。自分を起点として両親、その両親と歴史をさかのぼる。もう一つは、上から調べる方法。自分の名字がいつどこで生まれたかを調べ、そこから一族がどのような歴史をたどったかを調べる。一族の系統が多すぎると手に負えないが、それほどでもなければ調べられる。

まずは地名調査から。それが終わったら、分布を調べる。それなりの本もあるそうだし、電話帳も活用できるそうだ。自分の名字のもとになった地名と名字の分布を検討する。両方の一致と名前の分布の規模から名前のルーツを類推し、地元の郷土史を当たってみる。

私の名字の起こりは栃木県。新田氏の流れの中に、この名字が見受けられる。それが、なにがどうして埼玉県の山奥に移り住んだことやら。

・・・あと数年で定年。そしたら本腰を入れてみるかな。




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その前に・・・『名字でわかるあなたのルーツ』 森岡浩

そうだな。テストや資格試験なんかでは、そこには《氏名》と書かれているな。でも、《姓名》っていう言い方もある。公式の場では、《姓・名前》になってるかな。いつも、あまり気にしてないけど、この本によれば、“姓”と“名字”と“氏”は、本来はまったく別物だったんだそうだ。

歴史的に、日本社会の上層部には、“姓”と“名字”の両方を持ってる人がいた。そして、“姓”は公式なもので、“名字”は史的なものだったということだ。

たしか、日本史で氏姓制度ってのを習った。古代には、氏族の称号としての姓として、臣・連・宿禰・君・首・村主などが多数あり、氏族の地位をも表した。・・・おっとっと、その場合、姓は“かばね”と読むのか。氏も“うじ”だしね。それぞれ、今の姓・氏とは「ぜんぜん別物」って書かれてるけど、それなりの連続性はあって、別物ではあるけど、まったく関係がないってわけでもないと思うんだけどな。

とりあえず、大和政権は、成立当初の氏族連合時代からの氏族に加えて、あとから加わった地方氏族をも「氏」で管理した。大和政権が中央集権の形を整えていくに従って「氏(うじ)」と「姓(かばね)」は「姓(せい)」に統合されていった。天皇家は、分家した一族に「姓(せい)」を与えて臣下とし、各氏族と同列においた。

その段階でも、姓はいろいろなものを表していて、中臣氏は祭祀関係、物部氏は軍事関係、土師氏は埴輪の制作などの専門職を持っていた。やがて中央集権制に移行していく中で、かつて大和政権を支えた氏族も、もともとの氏族の専門職を離れていくことになる。おそらくその変化の過程で、あるいは巨大氏族が細分化していく過程で、名字を必要とするようになった行ったのか。

本来、氏族から朝廷に出資するのは氏の上一人のところ、不比等は藤原家だけズルして四人の息子を独立させて、藤原四家として四人とも出資させた。その時、南家・北家・式家・京家と呼ばれるようになるけど、そのあたりが名字の起こりでもあるか。

土師氏なんかは、古墳を作らなくなって出番がなくなり、氏族としての体制を立て直すために天皇の許可を得て、「菅原」、「大枝」という姓を賜って再出発したんだそうだ。「大枝」は、のちに「大江」と改められ、「菅原」とともに学問を担当する氏族と認識されるようになるんだそうだ。おお、それで菅原道真、大江広元か。



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NHK《人名探求バラエティー 日本人のおなまえっ!》コメンテーターがおくる“ご先祖様の真実”
序章 名字のルーツを探る
第1章  由来でさぐるルーツ
第2章  先祖でさぐるルーツ
第3章  分布でさぐるルーツ
第4章  ルーツ探しの彼方に

平安時代の中頃、朝廷は藤原氏に席巻され、貴族の大半は藤原さんになってしまう。役人を呼んで、みてもみんな藤原さん。いずれ、藤原姓を用いず、自らの家があった場所で“家号”を名乗りとし、藤原姓の中での差別化を図るようになる。

藤原姓でも力を持つ北家の本筋から遠い藤原さん、皇族出身でも藤原氏よりも上にはいけない源さんや平さん。朝廷での栄達が望めないものも、地方に行けばわけが違った。朝廷での栄達に見切りをつけた貴族の多くが、地方で実力を蓄えていった。彼らもやがて、天皇から与えられた姓とはべつに、支配地の地名を名乗るようになった。使ってみればこれは便利で、分家した子どもたちは、分家先でまたその地名を名乗るようになった。

この本によれば、室町時代には、農民たちも名字を名乗っていたようだ。だいたいこの時代、武士は農民から完全に分化していないのだから当たり前のこと。

江戸時代、武士以外は、公式には名字を名乗れないことになる。でも、農民も名字を持っていた。ただし、生活上の必要に応じて、名字を使わなくなるケースや、姓を使わなくなるケースなど、いろいろな場合があったろう。いわば、都合による。

都合と言えば、応仁の乱以降、本来、姓を持たないはずの連中が下克上でのし上がったりした。かっこ悪いので、彼らは源平藤など、通りの良い生をでっち上げる場合もあった。

いずれにしろ、今のような“名乗り”は、明治5年の壬申戸籍が元になる。明治政府はこの時、新たに「氏(し)」という概念を設定して戸籍への登録を勧めたんだそうだ。姓と名字のどちらも明らかだった人たちも、どちらかを「氏」として登録した。どちらもない人は、新たに考えて登録した。そんな流れで、私たちは名字を名乗っているらしい。

そんなことを踏まえて、さてそれじゃあ、第1章に進んでみましょう。




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『呪われた明治維新』 星亮一

錦江湾で溺れかけたことがある。いい気になって浮かんでたら潮に流されて、どうにも困っていたら、小さな漁船のお兄さんに救われた。何度も何度も繰り返し頭を下げて、お礼したいと言ったら、「お礼なんていらないから一緒に飲もう」ということになって、行きつけの店を教えてもらった。いったん宿に戻って身支度をし、言われた時間に店に入ると、すでに盛り上がっていた。大した金額のお礼にはならなかったけど、焼酎を一本入れさせてもらって、とにかく楽しく飲んだ。

ひとしきり盛り上がった後、「どこから来た」という問いかけに、「会津です」と答えた。
小単元でいえば、長くて2ページ。コラムにしたって短めの文章を、章ごとのテーマに合わせてつなげて行った感じ。“コラム”なんて言ってしまうと軽すぎるかな。なんせ、いくら短くたって、そこにはいちいち会津戦争の恨みがしみ込んでいる。だけど、これまでの“会津もの”に比べて、格段に読みやすい事ともたしか。

福島出身者であろうとなかろうと、山口県出身者であろうとなかろうと、鹿児島だろうが、高知だろうが、どこの出身であっても関係なく、“会津”の一言で、すべてをおもんばかることができる人が、どれだけいるだろうか。この本は、その歴史の味方を問題にしている。

会津を背景に持つということは、それは一つの史観を持つことにもつながる。たとえば、この間も、少し触っておいたが、会津を背景に持つことによって、靖国に対する捉え方だって、ものすごく違うものになる。つまり、大東亜戦争の捉え方もにも影響を与える重要な視点を持つことにつながることになる。



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長州はいったい、会津の地でどんな蛮行を働いたのか。なぜ会津は長州を許せないのか。
1  会津に残る薩長の略奪暴行の記録
2  会津人・宮崎十三八の魂の叫び
3  会津は怖い
4  吉田松陰と高杉晋作の実像
5  京都守護職という罰ゲーム
6  長州人は会津で何をしたか
7  戊辰戦争の真実
8  会津人の長州批判
9  明治維新余話

シナや韓国が、《日本人にやられた》と言っていることの多くはただのプロパガンダで、根拠もないことばかりである。だけど、会津では、女を犯し、子どもや無垢の民人を手にかけ、多くを奪い去った。戦いが終わった後でも、なにかを守るために命を懸けた相手に敬意を払うこともなく、侮蔑をつくした。

日本軍がシナや朝鮮で本当はやってもいないことを、長州は会津に対してやったのだ。

斗南藩へのところ替えは、それこそ藩を挙げての島流しに他ならない。そんなのありか。いや、もっとひどいか。会津の武家の娘が女郎になって客を取り、家族の飢えを助けたなんてね。『会津の女ごは尻までしゃっこい』なんて言われるんだそうだ。あわれだなぁ。

そこまで貶めた長州が悪い。
私怨をはらすための全く大義も名分もない戦を仕掛け、会津城下において我が国の歴史に消すことのできない残虐非道な行為の傷をつけた薩摩、長州、そして土佐。指揮を執った長州山県有朋、薩摩伊地知正治、土佐板垣退助の戦争犯罪人としての始末は、まだ済んでない。言うまでもなく、このことに関する岩倉・大久保の戦争犯罪も無視することはできないのである。
本書p224
これは、『明治維新という過ち』の原田伊織さんの弁だそうだ。実際、明治維新再検討の話は全国で取り上げられているんだそうだ。そのとき、なにが行われたのか。女たちがどんな目に合わされたかも含めてね。

山県有朋を中心とする長州勢が地道を上げたように、会津が浮かび上がる機会をことごとくつぶし、歴史の襞の中に葬り去ろうとするやり方は、“戦後”150年にして通用しなくなりつつあるようだ。

その上で、あえてつけ加えるけど、それでも、やはり会津には、“新たな時代”を開くことはできなかった。朱子学の呪縛は会津を去らなかった。朱子学に囚われていては、日本の将来は見えてこなかった。
「会津です。会津から来ました」と答えた瞬間、それまでの店の空気が一瞬で変わった。薩摩は心に傷を抱えているのがよくわかった。・・・ちなみに、私、会津とはなんの関係ありません。




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小梅塚『呪われた明治維新』 星亮一

ああ、・・・8月が終わってしまった。心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような、喪失感。私はこの隙間を、どうやって埋めていけばいいのか。

四捨五入で還暦になろうというのに、秋の予感はなぜか寂しい。遠い過去のことだが、高校三年の時もそうだった。8月20日を過ぎ、受験勉強に耐えきれなくなった私は、逃げた。涸沢にテントを張って、時のたつのを忘れた。いつしか秋風が吹き、雲が細く飛ぶのを見て気が付いた。9月3日だった。・・・これはまずい。

寂しさの背景には、どこかほっとしたような思いがある。8月はやはり特別なのだ。戦争と向き合わなければならない月だから。テレビやラジオの人がよく、「忘れちゃいけないことですね」とか言う。かといって、向かい合うのはつらいことでもある。そのつらさとは全く無関係に、チャイナや韓国の声は、いつも大きい。

チャイナや韓国の反日には、ほとほとあきれ果てる。いつもは静かな靖国も、この日は耐えられなくなるほど喧しい。チャイナや韓国が靖国のことに文句をつけるのはまったくのお門違い。靖国に関して異議申し立てができるのは、会津だけ。



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長州はいったい、会津の地でどんな蛮行を働いたのか。なぜ会津は長州を許せないのか。
1  会津に残る薩長の略奪暴行の記録
2  会津人・宮崎十三八の魂の叫び
3  会津は怖い
4  吉田松陰と高杉晋作の実像
5  京都守護職という罰ゲーム
6  長州人は会津で何をしたか
7  戊辰戦争の真実
8  会津人の長州批判
9  明治維新余話

戦争が近づくと、庶民は家財道具を地下に埋めて、山中に逃れた。敵兵は、集落に入るとまず家探しをし、食糧・鍋釜・家畜なんでも盗み、庭に水を撒いて、しみこむ速さで、たちまち隠した穴を見つけ出し、残らず持ち去った。兵士たちは戦利品をできるだけ多く集め、新潟や白河に運び、泥棒市場で換金した。

婦女子への暴行・監禁・拉致に関しては、“小梅塚物語”という哀話がある。

長州の奇兵隊やならず者たちは、山狩りと称して、村人たちがのがれた山々をめぐり、強盗や婦女暴行を繰り返した。若い娘を見つけると、誘拐して5・6人で押さえつけて順番に強姦する。ときには家族の見ている前で娘や妻を犯した。家族が抵抗すれば、鉄砲で撃ち殺した。

泣き叫ぶ娘や妻の声に家族は何もできず、後ろを向いて耳をふさぎ、嵐が去るのを待つしかなかった。やったのが長州人、やられたのが会津人である。

薩長藩士が若松城下に去り、村々には平穏が訪れた。時が過ぎ、侵された女たちの多くは妊娠していた。堕胎が間に合わず、つき満ちて生まれた誰の子かわからない赤子を、村人はお寺の隅に穴を掘り、生きたまま埋めた。

村人は小さな塚を作り、石を載せて目印にした。子を埋めた塚であるから、“小梅塚”と呼ばれた。自分の子を埋められた女たちは、乳が張ってくると小梅塚までやってきて、塚に乳を搾り与えたという。

会津兵だってやっていたということも、本の中に書かれているんだけど、まあ、規模が違う。官軍の中でも、とりわけ奇兵隊がたちが悪かった。それでも、日本人が日本人にやったことだ。日本人もそうなりえるということは自覚しよう。やった連中はどんな日本人だった?

阿弖流為の時代から踏みつけられた東北。その頃と同じように、「白川以北一山百文」と言い放たれた。言い放った薩長軍閥勢力は明治以降の日本を主導した。日本っていう国は、あらかた上が悪い。下は極めて優秀で、基盤はしっかりしているにもかかわらず、上が悪すぎて、根こそぎ崩れたことがある。

今、上に立っている安倍首相も長州の人。歴史を修正してもらおう。間違ってるものを修正して何が悪い。立派な歴史修正主義者になってもらいたい。チャイナや韓国に文句を言われる筋合いではない。

ただし、会津の立場からは言いたいことはいくらでもある。そういう思いが鞘に収められていることを、忘れないでほしい。




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『水壁』 高橋克彦

たまたま本屋で見つけたのよ。よかった、よかった。もう、東北を書くのはやめたのかと思っちゃった。そんなわけないよね。だけど、読み終わって本の最後の方のページ見てわかった。あの新聞に書いてたんだ。私は、あの新聞は読まないからなぁ。職場には読んでる人も多いんだけどなぁ。そうそう、《しんぶん赤旗 日曜版》。・・・それじゃあ、わかんないよ。

千年前の大震災に苦しむ東北で、俘囚と呼ばれた蝦夷たちの生活は、完全崩壊の危機に瀕していた。この時平安政権は、アテルイ後に服属し、俘囚と呼ばれた蝦夷たちを、保護の対象としなかった。俘囚は耕作地を放棄せざるをえない状況に追い込まれ、耕作地は開墾の苦労もなく権力側のものとなり、毛野や常陸からの入植者に格安で下げ渡された。あちこちに山賊がはびこり、俘囚の村々を襲った。中には権力と結託し、あえて俘囚の村々を襲撃するものもあった。もはやこの年、俘囚にしろ、蝦夷にしろ、その歴史が閉じられんとしていた。

・・・アテルイの死から75年。その血を引き継ぐ一人の若者が、東北の未来を一身に引き受けて、決起しようとしていた。
そんな物語。歴史的には“元慶の乱”と呼ばれるものらしい。それは、追い詰められた蝦夷が蜂起して秋田城を衝撃したもの。ウィキペディアによれば、《寛政によって鎮撫して終息》ということになるが、蝦夷側にすれば要求を飲ませたということ。もちろん、それだけではすまない戦闘や、政治的駆け引きがあってのことだったろう。

蝦夷は、勝ち取ったのだ。


『水壁』    高橋克彦

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中央政権の容赦ないしうち。東北の英雄アテルイの血を引く若者が決起する
暗国
地熱
同魂
怒涛
水壁


高橋克彦さんの東北シリーズを時系列で並べれば、『風の陣』、『火怨』、『水壁』、『炎立つ』、『天を衝く』という並びになる。長編に変わりないものの、他の作品に比べれば小作品である『水壁』だが、この作品はかなり重要な位置を占める。

アテルイの乱を鎮圧したのち、平安政権は、なんと軍事を放棄する。その影響が本作の時代背景にある。東北・九州の軍団は残すもののそれ以外の軍団の兵制を廃止してしまうから兵の追加投入には支障があったはずだ。教科書的には、《郡司など地方豪族の子弟で弓馬に巧みなものを募って“健児”とし、国府や兵器庫の警備に当たらせた》ということになるが、「これからは自分のことは自分で守ってね」というに過ぎない。

こんな中から自主防衛武装農民が登場し、それが頭領のもとに統合されていって武士団となる。頭領には臣籍降下した“源”姓や“平”姓となっていくわけだ。時系列で次の作品となる『炎立つ』では武士の時代に突入するが、それにはまだ、だいぶ時間がかかる。

この間の話があっていいな。『炎立つ』では、まず陸奥国を統べる安倍氏の滅亡の話、前九年の役から始まる。だから、その安倍氏が陸奥国を統べるに至る話があっていい。・・・くる。きっとくる。高橋克彦さんは、きっと書いてくれる。

この物語の主人公天日子は、アテルイから数えて四代目の子孫。その物語では、その血筋にまた新たな英雄が登場するのだろうか。、貴種を設定してそれをありがたがるのでは、公家や源平の常識に習うばかりだけど、夢のある話ではある。

いずれにしても、取らぬ狸の皮算用には違いない。




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『さすらいの仏教語』 玄侑宗久

じつは、この本はずいぶん前に読んでいる。出版されたのが2014年1月。おそらくそれから間もない時期に読んでいる。もともと、“言葉”には興味があるし、この本も面白く読んだ記憶がある。それにもかかわらず、ブログにこの本の記事を書いた形跡がない。なんで書かなかったんだろう。特別なことは、なにも思い当たることはない。・・・まっ、たまたまだろう。
特別なことはなく、ブログにも記事を書かなかったこの本を、どうしてまた、たまたま取り上げることになったのか。じつはこっちには理由がある。その理由というのが、右の本。
*現在、本の写真が反映されてない。大丈夫かな?

これ、『さすらいの仏教語』の、-大活字シリーズー版です。いやー、偶然、最寄りの図書館に入っているのを見つけて、なつかしさに手に取りペラペラとめくって見るうちに読み始めてしまい、貸し出ししてもらいました。家に帰って読み始めると、読みやすいこと、読みやすいこと。・・・何がって、字がでかいからだよ。読んでいても、楽なんだよね。

内容が面白いこともあって、ほとんどストレスなく、面白く読むことができた。

さて、その内容だけど、長い時間の間にものごとは変わる。それは仏教の教えそのものでもある。時には、まったく違うものに変化する場合もある。まかり間違って、正反対の意味を持つようになるものもある。そうなると、もとはそのものの名を意味した言葉も変質していくしかなくなる。

言葉が、本来の意味していた本質を失って変質していく。変質しながらも、言葉は常に何らかの意味を持ったのだ。著者は、それを言葉の“さすらい”と呼ぶ。その間に、多くの言葉が失われたのかもしれない。でも生き残った者も少ないくない。それらは意味する内容を微妙に変化させ、荒波にもまれて変質し、分化したりしながら別の意味や思想と合流し、たくましく生き延びてきたのである。


中央公論新社  ¥ 821

諸行無常、物事は変化する。内実が変わったのに言葉が変わらないと、言葉そのものの意味が変質する

はじめに
Ⅰ 師子身中の虫/莫 迦/ホラ吹き/魔 羅/どっこいしょ/皮 肉/貧者の一燈/観 念
   娑 婆/退 屈/大丈夫/分 別
Ⅱ 餓 鬼/素 性/阿弥陀クジ/油 断/うろうろ/ないしょ/工 夫/がたぴし/めっぽう
   ふしだら/ご開帳/祇 園
Ⅲ 三千大千世界/女 郎/お陀仏/砂 糖/台無し/つっけんどん/爪弾き/あまのじゃく
   けげん/おっくう/説 教/袈 裟
Ⅳ 利 益/藪と野暮/ゴタゴタ/ご馳走/出 世/自 由/一大事/老婆心/不思議/おぼん
   彼 岸/玄 関/後生と一蓮托生
Ⅴ えたい/微 塵/金輪際/有頂天/奈 落/功 徳/冥 利/愚 痴/閻 魔/般 若/微 妙
   檀那と坊主
Ⅵ 言語道断と自業自得/上 品/実 際/権 化/極 微/念 仏/挨 拶/講 堂/伽 藍/邪 見/徹 底
   啖 呵/中 有/瓦/閼 伽/補陀落
Ⅶ 南 無/七 難/荼 毘/聖/道 場/塔 婆/無 念/露 地/愛 嬌/方 丈/菩 提
仏教語索引

今でもそうだが、日本人には言葉を逆さにしてしまうことがよくある。六本木がギロッポン、寿司がシースーなんてのは“業界用語”なんて呼ばれるけど、“業界”ってなんだ?

もう、逆さにされた言葉の方が、今では当たり前に使われていることも少なくない、「ゲンを担ぐ」というが、その“ゲン”はもとは“ギエン”、逆さにすれば縁起になって、「縁起を担ぐ」がもともと。そういえば、“新しい”は“あたらしい”と読むが、もとは“あらたしい”が正しいらしい。“新た”な気持ちは、“あらた”と読むもんね。

「だらしない」という言葉がある。ないのは“だらし”であるが、これが逆さにされている。逆さにされる前は“しだら”。“しだら”は、“だらし”に等しいのだ。だから、「だらしない」と「ふしだら」は共通性を持つ。

“しだら”の本来の意味だが、インドではネックレスなどを貫く糸、シナでは織物の経糸をあらわし、漢字をあてると「修多羅」。本来の意味するところは《生活上の筋》、《規則正しさ》だそうだ。

「修多羅」って、もしかしたら、「スートラ」か? 「スートラ」といえば、「カーマ・スートラ」。「カーマ・スートラ」はインドの性愛論書。つまり、“正しい性愛”について書かれた本。正しい律動を感じる。

《規則正しさ》はリズムに乗って、「スーダララッタ、ホイホイっと」
そんなことはともかく、私の結論。・・・すべての本が、ー大活字本ーになるべきだ。・・・歳とったんだなあ、私も・・・。

歳だから、“三千代”なんていう名前出されると、新珠三千代を思い出してしまう。考えたこともなかったけど、その“三千代”というのも仏教語だそうだ。“三千大千世界”の“三千”なんだそうだ。“三千大千世界”とは、頭に思い浮かべることもできないくらいに大きな世界のこと。大きく深い愛で何でも受け入れてくれる女。私の新珠美千代像にぴったりだ。




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『日本一やさしい天皇の講座』 倉山満

最長の元号は昭和・六十四年、次は明治・四十五年、三番目が室町時代の応永・三十五年、平成はそれに次ぐ史上四番目に長い元号になるわけですね。もちろんそれは、昨年八月八日の陛下のお言葉と、それを受けた国民の支持を背景に、支持が決定したことによる。

あのお言葉の重みは、もしかすると、次の図を見ると少し変わるかもしれない。王朝

たまげるなぁ、日本の歴史は・・・。ちなみにこの図を参照するのは著者の倉山さんの推奨です。

《我が国は、公称二千六百七十七年、少なくとも千四百年の歴史を数える。この間一度も途切れることなく続いてきました。この数字は今の地球上に存在する国の中で最古です。世界最長不倒の記録です。(本書p18)》

そう、こんな国、他にないわけです。それこそが日本の強み。“中国”五千年?いえいえ、中華人民共和国の建国は1949年。「シャルルマーニュ以来、フランスは一貫して続いている」とフランス人は言うんだそうだが、少なくとも、国王と王妃の首をギロチンでちょん切った前のフランスと後のフランスは、もう何を言っても別物よ。

「どうしてそんなに・・・」と思うほど、ギリシャに肩入れするのも、その神話をヨーロッパ共通の故郷に組み入れたいんだろうけど、ギリシャ人自体が神話とは何の関係もないよそ者。神と直接つながる日本人とは、やはり全然違う。

扶桑社新書  ¥ 821

二百年に一度の大事件 日本人として、なにを知るべきか


第一章  天皇と先例
第二章  天皇と武家
第三章  天皇と近現代史
第四章  攘夷を論じる


日本は、“唯一”なんだよね。

「皇室は洗礼を尊ぶ」・・・そして新儀を不吉とする。なにか決めるときは前例による。時代の変化により、いつも伝統を守れるとは限らない。それでもご先祖様の選択のなかに「なにが正しいのか」を探し求めて皇統は維持されてきた。

本書によれば、最近の最も不幸な“新儀”は玉音放送であろうという。しかし、昨年の今上陛下のお言葉も、東日本大震災における陛下のお言葉も、玉音放送という不幸な“新儀”を先例として行われた。

皇統は、何度も何度も危機に瀕したが、そのたびに先例をもとに、知恵を絞って乗り越えてきた。古事記や日本書紀に記された“歴史”はまさにその経緯が記されたわけだ。

本書にあるように、雄略や武烈天皇は、その名があらわす様にガタガタしてた時代のことも書かれているし、継体天皇のときなんか後継ぎがいなくなっちゃったんだから、本当に危機だったんだよね。そんな危機も、知恵を絞って乗り越えてきた。

そしてその時代、すでに万世一系の皇統を守り続けていこうという意志が、そこに存在したということだ。

私たちの時代が迎えた危機は、過去のいかなる時代の危機とも異質のものかもしれない。しかし、いかに異質なものであれ、“異質な危機を乗り越えた”先例は、山ほどある。いいなあ。過去を見つめて後ろ向きに生きていこうよ。




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『首都圏近郊:出雲系神社探索ガイド』 出川通

大国主系
神田明神、久伊豆神社、子神社、大国・国玉神社、金毘羅・金刀比羅神社、温泉神社、三輪・美和神社、大神神社、御岳・大嶽神社、出雲大社分社、杉山神社、杵築神社
事代主系
今宮神社、恵比寿神社
建御名方系
諏訪神社
スサノオ系
氷川神社、須賀・蘇我・曽我神社、八雲神社、磐井・岩井・祝神社、八坂神社、嶋神社、熊野神社、八重垣神社、子安神社

出雲系を国津神系と考えれば、その信仰の対象は山川草木であり、木火土金水ということですよね。仏教が入ってきて、それに合わせて神道と呼ばれ、お寺が建てられて、それに合わせて神社が建てられる。だから本来、本殿、拝殿はあと付けで、今でも本殿を持たない神社も少なくない。

私の地元、埼玉県の金鑚神社にも拝殿はあるが、本殿がない。ご神体は、拝殿の奥にある御室ヶ獄そのもの。ここに行くと、ご神体の御室ヶ獄山中を歩くことができる。一人がいい。一人でないと、いろいろな音が聞こえてこない。いろいろな気配が感じられない。

これが古くからの、日本の信仰なんだな。肌身にしっくり来る。

金鑚神社みたいに、古代の信仰を残したところは少ないだろ。だけど、出雲系の神社なら、基本的に、山川草木、木火土金水に無関心であるはずがない。本殿の横や裏にある、摂社、末社、塚、ご神木にも、進んで何かを感じよう。・・・これはこの本の受け売りです。


言視社  ¥ 1,728

なぜ東日本に「出雲系」の神々が、これほどたくさん鎮座しているのか。由来を探りながらの歴史散歩
第1章  出雲の神々は東国に多数鎮座する
第2章  関東・首都圏の出雲系神社の概要
第3章  首都圏における各県別出雲系の主要神社紹介
第4章  関東圏における出雲系主要神社
第5章  関東に近い中部圏の出雲系神々の一部の神社紹介
コラム  大国主命の凄さ 神々のルーツと神社の成り立ち 他

武蔵国の主要神社は出雲系が独占している状態なのだそうです。スサノオ系神社が氷川神社を中心に二六〇社と言うからずいぶんありますね。首都圏で一番多いのが千葉県の四〇四社で、それには熊野系も多く入っていて、実質的にはさいたまが一番多いと行っていい状態だそうです。その他の出雲系は上に書いたとおりで、それに対して天津神系のアマテラスを祀っている神社は八四社、フツヌシを祀っている香取神社系が七二社だそうです。

私の故郷の秩父神社は、たしか思兼命を祀っていたはず。だとすると、天津神系ということか?・・・子供の頃から聞かされたいろいろな話を思うと、ちょっと素直に受け止められないところがあるが・・・。

HPを見せてもらったら、最初の国造になった知知夫彦が祖先の思兼を祀ったが始まりで、加えて、知知夫彦、天御中主、秩父宮雍人親王、合わせて四柱が祀られているということ。

さっき少し頭にあった“子どものころから聞かされていた話”の一つは妙見様の信仰なんだけど、それは中世に入って秩父に力を張った秩父平氏の持ち込んで習合したものだという。

やはり、天津神系の神社なのかと思ったら、さらに古層に龍神信仰があると言う話が書かれている。だとすれば、それは武甲山の神様で、そこに山川草木、木火土金水を対象とした信仰を見ることができる。地元の人間としては、その方がはるかにしっくりくる。

春に里の田畑にお招きした龍神を、初冬に山にお送りするという古層の信仰に、妙見様の信仰が習合して、その日、龍神と妙見様は、年に一度の逢瀬をかわすという伝説を作り出した。妙見信仰に重なるのは、思兼よりも龍神の方がしっくりくる。




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この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
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