めんどくせぇことばかり 本 日本史
FC2ブログ

『日本はこうしてつくられた』 安部龍太郎

安部龍太郎さんは、月刊誌『サライ』で、「半島をゆく」というコラムを書いているんだそうだ。

大陸レベルの大きな話で言うと、半島というのは、その出入り口において、どのような勢力が力を持つかによって、その影響をもろに受けることになる。その勢力が強大であれば、生き残るには、従うしかない。事大主義という。語源は『孟子』に「以小事大」という言葉があるという。「小を以って大に事える」ことで、生き残りを図る、小国のしたたかな外交政策ということになる。

バルカン半島は、それに輪をかけていろいろな民族が混在している。出入り口付近でローマであるとか、ベネチアであるとか、オーストリアであるとか、オスマン帝国であるとか、ロシアであるとかが力を持つと、それと駆け引きしつつ、民族同士が争いあう。今でも、収まりの悪い場所だな。

朝鮮半島は、“中国”に統一王朝があろうがなかろうが、出入り口を塞いだ勢力に従うことになる。典型的な事大主義で、“中国”は大だから、どんな理不尽なことをされても仕方がない。だけど、日本は小だから許しちゃおけない。しかも、理不尽を受け入れることで歪んじゃってるから、そのすべてを、小である日本にぶつけてくる。

この間のサッカー日韓戦、“親善試合”なんて名ばかりの場外乱闘。韓国選手が、歯が欠けるほどの肘打ちを、ボールのないところで不意に喰らわしてきた。やはり、関わりあっちゃいけない国だな。日本にだったら何をやっても許されると思ってるんだから。

そんな朝鮮のハチャメチャも、バルカン諸民族のハチャメチャも、はやり半島人というのはハチャメチャになる。

しかし、日本列島レベルで考えると、そういう話ではなくなる。北西は日本海を隔てて大陸、朝鮮半島と向き合い、南東は太平洋を列島に沿って黒潮が流れる。日本列島における半島は、「海からの入り口」と、これは著者の安倍さんの言葉。

そこで、半島に残る日本人の原点にテーマを絞って探ってみようということで、本書にまとめた6つの半島をめぐることになったんだそうだ。

奈良を半島というのは、どうにも苦しい気がする。「奈良も紀伊半島ではないか」と言い過ぎな気がするが、『日本はこうしてつくられた』という題名の本で、奈良に触れないのはもっと苦しいことになる。

奈良に始まる“半島”巡りの中で、日本がどのようにつくられたのかについて、どこまで書かれているものか、楽しみにしつつ読んでみた。



小学館  ¥ 1,320

古代日本人はなぜ大和の地を中央集権的な都として選んだのか
第一章 大和王権誕生編(奈良)
第二章 謎の丹後王国偏(丹後半島)
第三章 出雲国譲り編(島根半島)
第四章 宇佐八幡と対隼人戦争編(国東半島)
第五章 聖地・熊野と神武天皇編(紀伊半島)
第六章 関東とヤマト政権編(房総半島)

この6つの半島めぐりは、常にもっともふさわしいと思われる案内人がついている。

国東半島をめぐる旅には、同行者の三重大学教授藤田達生先生が、「まるでシルクロード取材班のようですね」と言い出すほどの一行となっている。

そういった方々から、最新の研究成果であるとか、伝承であるとかを聞き、それを紹介する形で構成されているのがこの本と言うことになる。

たとえば奈良では、“3世紀の明治維新”という説が紹介される。黄巾の乱で後漢が滅亡に向かう中、遼東太守の公孫度が独立し、朝鮮半島に帯方郡を設置したことから、『魏志』にあるように「倭韓遂に帯方に属す」という状況になった。

後漢に従っていた北九州の伊都国は、倭での主導権を失い、東アジアの動乱の中で連合政権を結成する方向に向かった。そうして作られたのが纏向政権で、その時、リーダーに選ばれたのが卑弥呼だという説である。

また一方、東国の力を背景に、大和朝廷は北九州を従えていったという説も紹介している。纏向遺跡からは東国の土器が多数発見されている。これは纏向の都作りのために、東国から役夫が送り込まれていたことを意味する。大和朝廷は、東国の勢力と強く結びついていたという。

さらには、聖徳太子は実在しなかったという論を展開している人の説も紹介している。すべては藤原不比等の仕組んだことで、不比等は記紀の編纂に際し、藤原氏の外戚としての地位を正当化するために、それまで語り継がれてきた歴史を改編したというものである。

そのために、実在した厩戸王に数々の虚構を施し、推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子という架空の人物に作りかえたという説である。

藤原氏は後の天智天皇に肩入れして、当時の権力者である蘇我入鹿を暗殺して蘇我本家を滅亡させたことをきっかけに、朝廷における藤原氏の独占的な地位を確立していく。通常、国の正史は、その王統の正当性を確立するために書かれるものだが、記紀は、藤原氏の地位を正当化するために書かれたものとする。

奈良をめぐる旅の中でも、このように、相反する説が次々と掲げられて、それに対する著者の思いが綴られていく。他の半島をめぐる旅の中でも同様で、著者は『日本はこうしてつくられた』という結論を語っているのではない。

急激に進みつつある考古学的知見をもとに、“日本誕生”に関する最新の研究を紹介しつつ、著者の思いを綴られているのがこの本である。そこには独善に落ちず、真摯に歴史に向き合おうとする姿勢が感じられる。

ただ、作家さんだから仕方ないこととは承知しながら、少々ロマンチックに過ぎないかと感じさせられる向きある。特に、実際に行なわれたであろう藤原氏による歴史の改編は、『日本はこうしてつくられた』 ことを後世の人間に隠してしまった。そのことに関する追求は、もっと激しくあっていいとおもう。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『くそじじいとくそばばあの日本史』 大塚ひかり

この本を読んでいたら、連れ合いから、「え、そんな本読んでるの」って、いや~な目で見られた。

題名が嫌なんだそうだ。たしかに、私も躊躇した。

若い頃は電車に乗る機会が多かったし、喫茶店で読んだりしてたから、本にはカバーを掛けていた。今でも、もう少しいい気候になれば、公園のベンチで本を読むのもいい。だけど今は、人からどう思われてもいいので、本にカバーは掛けていない。それでも、この本を読んでいるところが、仮に人目に触れることがあるなら、やっぱりカバーを掛けたいな。

人目を引く赤い表紙、斜め上を指さすアクの強そうな老爺と老婆の絵、なにより「くそじじいとくそばばあ」って言う言葉。人に読んでいるところを見られたら、恥ずかしい。

高校の頃、口うるさい自分の母親に対して、「うるせえな、くそばばあ」って言っていた。そんな私にしてみれば、この本の中で《くそ爺婆》という言葉が繰り返されるたびに、今の私とさほど変わらない歳で亡くなった母に、申し訳なくて、申し訳なくて。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

だけど、そんな常識的なことを言っていては、この本で紹介されているくそ爺婆と、対等にやり合っていくことなんて到底できない。

この間、森喜朗さんの女性蔑視発言して居直って、二階さんが森さんをかばって“世間”から老害と叩かれた。「差別するなよ」って差別している人が多くいた。森さんが83歳で、二階さんが82歳、それでいて権力を握っているのだから、老害って言いたい気持ちも分からないではない。だけど、人の影から老害なんて差別してないで、同じ選挙区から立候補して、引きずり下ろせばいい。

だいたい陰口くらい叩かれたって、そんなことであの人たちが引っ込むと思う?平気の平左だよ。森さんは組織委員会会長を辞めたって、いくらでも影響力を行使できる。人の行動を、時には人生をも左右できる地位にあった彼らは、死ぬまでそうであろうとする。その力を失うことを、もっとも恐れる。彼らを退場させるのは、彼らの上をいくことしかない。

藤原道長・頼通の時代が、摂関政治の最盛期だと言われる。道長の遺言で、頼通は、いずれその座を弟の教通に譲ることになっていた。ところが頼通は、自分の子の師実に譲りたがっていた。それを教通に譲らせたのが、二人の姉である彰子であったという。

道長の娘である彰子は一条天皇の皇后であり、後一条天皇・後朱雀天皇の生母、さらには後冷泉天皇の祖母にあたる。当時は後冷泉天皇の代で、お婆ちゃんの影響力を駆使したわけだ。

で、ようやく頼通が教通に権力の地位を譲ったのが76歳の時。孫の代まで影響力を及ぼした彰子が亡くなったとき、教通は、政治を決定していく上で、「これからは誰に相談すればいいんだろう」と嘆いたそうだが、そのとき教通は79歳だったという。・・・彰子は87歳。やっぱり、“くそばばあ”かな。

天海僧正の政界デビューは81歳だそうだ。金地院崇伝との論争で表舞台に立ち、以降、崇伝に変わって幕政に関わっていく。108歳で死ぬまで宗教界のみならず、政界にも重きをなしたようだ。

108歳は、稀中の稀だろうが、この本に出てくる“くそ爺婆”は聖路加病院の日野原重明先生みたいな人がたくさん出てくる。藤原貞子は、歴史の中で言えば、南北朝分裂のもととなった後深草と亀山の、母方の祖母だそうだ。『増鏡』には貞子お婆ちゃんの“九十の賀”に関わる記述があるそうだ。この人は、そのあと17年も生きている。

昔から“くそ爺婆”は、確実にいたわけだ。




ポプラ新書  ¥ 946

貪欲に、したたかに、歴史を生き抜いた老人たち
はじめに くそ爺婆はかっこいい!
1 正史に残る最高齢者は「くそじじい」だった 
2 「ルポライターばばあ」が歴史を作る 
3 爺婆は最高の「歴史の証人」だ 
4 凄まじきは老人の権勢欲 
5 八十一で政界デビュー!! 百歳過ぎても政界に君臨 
6 一休さんはエロじじいだった 
7 平安・鎌倉時代のアンチエイジングばばあ 
8 戦国時代に「老人科」を作った老医師がいた 
9 昔もいた「迷惑じじい」 
10 西鶴の見たくそばばあたち 
11 昔話のおじいさんとおばあさんは意外と「いい人」が少ない
12 「鬼婆」の正体
13 前近代の8050問題? 『浦島太郎』の真実 
14 昔の人は短命はウソ!



本当かな。そんなに生きたのか。ちょっと、平均寿命の移り変わりを調べてみた。

縄文時代 15歳
弥生時代~古墳 30歳手前
飛鳥~平安 30歳くらい
鎌倉 24歳
室町 15歳
安土桃山 30代
江戸~大正 40歳くらい
昭和 31歳
平成 83歳

これを見ると、100歳を越える者が政治の場に影響してくるのは、平成で十分な気がするんだけどな。本当に100歳を超える人が、そんなにも歴史の中に出てくるんだろうか。

決定的な歴史的な文献が紹介されている。大宝律令の『令』には、「百歳以上の者に五人の介護者を与えよ」とされているんだそうだ。律令が定められた段階で、百歳を令に規定しなければならない状況にあったってことだ。

「なおいい国に」大宝律令は701年。「なんとりっぱな」平城京遷都が710年だから、律令ができたのは、まだ飛鳥時代。飛鳥時代の平均寿命が30歳くらいの時に100歳越えが本当にいたのかな。

江戸時代、成人の平均寿命は、すでにかなり高かったんだそうだ。ずっと昭和まで平均寿命が低いのは、乳幼児の死亡率が異常に高かったんだそうだ。
20歳過ぎまで生き延びた人の平均寿命は60歳近く、60過ぎまで生きた人になると、男女とも75歳くらいまでは行くんだそうだ。

私は昭和35年生まれだが、たしかに、自分が子どもだった頃、60くらいまで仕事をして、仕事を辞めてまもなく死ぬおじさんたちが近所にいたな。背戸のお婆ちゃんは88歳まで生きた。その葬式の時に家がボヤになって、葬儀の列席者に火を消してもらったんで憶えている。

だけど、皇族だったり、摂関家だったりするわけではない人々にとって、人生を生き抜くのは大変な事だった。知恵を尽くさなければ、まともな暮らしなんかできるわけはない。

「むかしむかし、あるところにおじいさんと、おばあさんがいました」と昔話が始まる。なぜ、“おじいさん、おばあさん”が主人公なんだろう。しかも、いい“おじいさん、おばあさん”はかえって稀で、あまりいいとは思えない“おじいさん、おばあさん”が多い。いい“おじいさん、おばあさん”は、悪い“おじいさん、おばあさん”の対照として出てくるくらいのもの。

一寸法師の“おじいさん、おばあさん”はいつまで経っても小さいままの一寸法師を、“化物風情”と疎ましがり、家から追い出す。竹取物語の“おじいさん”は「竹から生まれた“変化の人”でも身体は女」と、自分たちに楽をさせろと結婚を促す。

何とか子どもを育て上げても、貧しい時代にあっては身体の利かなくなる年寄りは足手まとい。ともすれば子や孫に邪魔にされる爺婆が生き抜くには財産を作らねばならず、それを子や孫からさえ守り通す必要がある。なによりも知恵が必要。人を疑う猜疑心を持ち、いいことはできる限り独り占めし、自分と財産を守るためには嘘だってつく。

そうやって、一所懸命に生きてきた爺婆への共感が、「むかしむかし、あるところにおじいさんと、おばあさんがいました」と語られるようになったのか。よく分かった。

ただ、本の装丁と、題名は変えてもらいたい。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『武蔵の武士団』 安田元久

《本書の原本は、一九八四年に有隣堂より刊行されました》と言うことです。

37年前の本か。いや~、面白かった。なにしろ、地元の武蔵国が、もっとも熱かった頃の話だからね。

6月の中旬を過ぎた頃だ。今は埼玉県北部の深谷市に編入された旧岡部町にある道の駅に行くんだ。毎年だ。岡部の農家が栽培している“味来”という品種のトウモロコシを買いに行く。よく、「生のまま食べてもおいしい」と言われている、あれだ。

たしかに、生のままでも十分食べられる。だけど、これで炊き込みごはんを作るんだ。ほんの少し、塩かしょうゆをきかせて炊き込んで、炊き上がりに黒胡椒をかけて食べる。もう、たまらない。その帰りに、ウナギを食べるのも定番だ。1年に何度もない贅沢だな。

12世紀に活躍した武蔵の武士団に、猪俣党がある。この猪俣氏から庶子が別れて岡部に住み、岡部氏を名乗る。有名なのが岡部六弥太忠澄で、保元の乱、平治の乱でも活躍している。

頼朝挙兵にいち早く参向して、御家人に列した。義仲追討においては義経軍に従じて宇治川に戦い、一ノ谷の合戦では薩摩守忠度を討ち取った。

道の駅岡部から、それ程遠くないところに古刹普済寺があり、これが岡部氏の菩提寺だという。寺の近くには、岡部忠済及びその夫人(夫人は畠山重忠の妹)の墓とされる五輪塔が残っている・・・という。

“・・・という”案内板を毎年見ながら、見に行ったことがなかった。恥ずかしながら、案内板に書かれた岡部六弥太のことを、私は何も知らなかった。

著者である安田元久さんの言葉を借りれば、岡部は「猪俣党諸氏の分布圏である広大な武蔵野台地東北地域の一角に位置し、その西・北側に小山川の流れをめぐらし、中世初期の在地武士の開発私領にふさわしい地勢と景観をそなえ」ている。たしかにその通り。

児玉党からは、今私の住んでいる東松山市に活躍した小代氏が出た。今は“正代”と表わされている。その正代にある青蓮寺と悪源太義平を祀る御霊神社あたりが小代氏の館跡らしい。

私の家はそこから3キロほど西にある。この一体は比企丘陵と呼ばれる地域で、私の家も含め、その尾根の一つが東に延びて、その突端が正代である。山鼻は平野地に接して、都幾川と越辺川の合流地点まで沃野が広がる。その地勢と景観は、岡部によく似ているような気がする。


『武蔵の武士団』    安田元久

吉川弘文堂  ¥ 2,420

源頼朝による武家政権創設の鍵となったのが、武蔵の武士団の動向だった
1 鎌倉幕府成立と武蔵武士
武蔵国―坂東諸国の要衝 武士団の発生と勢力関係 
頼朝挙兵と武蔵武士
2 秩父武士団の人々
畠山重忠とその一族 小山田有重の一門 
河越重頼と江戸重長 豊島清光と葛西清重
3 源家譜代の武士たち
足立遠元とその一族 大河戸氏と大河土御厨 
比企籐四郎能員 熊谷次郎直実
4 武蔵七党
武蔵の「党」的武士団
横山党 猪俣党 児玉党 野与党と村山党 その他の諸党


教員として仕事を始めた頃や、職場を変わったとき、私が秩父の生まれであることを告げると、「秩父の人は頑固だからな」と、なんとなく付き合いにくそうに言われたもんだ。端っから、そんな言い方しなくてもいいのにね。だけど、それは秩父以外の埼玉県では、秩父に関する一般的な捉え方のようだ。

若い頃は、「そんなこと、ないのにな」と思ってたんだけどね。36年も仕事をしてやめた今、振り返ってみれば、私は頑固だ。それで人が遠ざかっていくなら、一人でいいと思って仕事をやってきた。

そうは言っても、秩父を奥座敷とする武蔵国自体、重畳する丘陵とその間の多くの小河川流域ごとに、各所に隔絶された狭小地域を作り出し、多くの者がそこに住んでいる。その分、小武士団の独立維持を容易にした反面、武士団を大きく統合する上での困難さが付きまとった。

さらに困難な問題が、武蔵国の武士団に覆い被さる。周囲に隣接する国が7カ国あり、その分政治的複雑性が付きまとう。もともとは東山道に含まれた武蔵国は、その後、東海道に編入された。軍団が鎌倉から西に向かえば、武蔵国は北に備えなければならない。北に向かえば、武蔵国は最前線となる。

こういった自然環境、政治的環境は、武蔵の武士団に、特異な性格を与えたんだろう。

ほらね、秩父を除く武蔵国だって、結局、大きくはまとまれない性癖を持ってるじゃないか。

とは言うものの、秩父はどうか。秩父の人間同士なら気があうのかと言うと、そうはいかない。頑固者が二人になるだけで、結局、小武士団すら形成できない。

ただ、平氏が秩父に入って、秩父平氏が大きな勢力を形成するからね。桓武平氏の流れ、望月王の曾孫にあたる平将常だ。秩父で力を蓄え、盆地を出て、丘陵地帯から平野部を開拓し、諸氏が武蔵国に広がっていく。

その秩父平氏の動向が、武士政権の確立に、大きな意味を持ったわけだ。

NHKの次の大河ドラマは、渋沢栄一を扱った《青天を衝け》。埼玉関連で、見なきゃいけない。さらにその次は、《鎌倉殿の13人》だという。詳しく見てないが、頼朝独裁が、その死によって終わり、頼家が跡を継ぐ。その時、御家人衆が、その独裁を止めるために、有力ご家人13人による合議制を取り入れる。その13人のことか。

これはまた、武蔵国が舞台の話になりそうだ。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『天皇の国史』 竹田恒泰

昭和35年の生まれ。

今上陛下と、そして私も。

陛下は昭和35年2月23日。私はちょうど一ヶ月遅れの3月23日。陛下は当時皇太子であった現上皇陛下の長男として生まれたわけだから、当たり前ながら、なにかとニュースに取り上げられることが多かった。今でも、悠仁親王の成長の様子が、事あるごとにニュースで取り上げられるのと一緒だ。

陛下の成長の過程がニュースで報道されるたび、母はそれを私に話した。勝手ながら、なんとなく陛下には親しみを覚えていた。

なにしろ同じ年の4月に小学校に入学し、それ以降、同じ年の4月に同じ学年に進級し、同じ年の3月に小学校を卒業するのだ。新しい学生服を着て、私のは先々の成長を考えて、ずいぶん大きめの学生服だったが、同じ年の4月に中学校に入学した。

お調子者の私だから、誕生日が、ちょうど1ヶ月違いであることを、ネタにしていたこともあったが、私にとっての陛下は、名によりも時代の同行者であったように思える。

田舎の高校から東京の大学への進学は、私には大きな出来事だった。受験勉強に苦しんだときも、記憶にはないが、おそらく陛下のことを羨んでいたに違いない。皇室に、しかも長男として生まれた人の重圧は、それなりに理解しつつもね。

私は、大学を卒業し、一年間、私学で講師をしながら、公立高校の教員試験を目指した。翌年、何とか滑り込みで採用され、教員としての人生をはじめ、数年後に結婚して二人の子どもの親になった。

陛下は大学を卒業後、オクスフォード大学に留学した。陛下が日本に帰ってきたときには、私はもう結婚してたな。陛下と雅子さまの結婚は1993年か。いろいろと難しいこともあるんだろうけど、失礼ながら、ホッとする思いだった。

それから四半世紀が過ぎて、天皇位に即位され、今年はお嬢さまの愛子さまも大学入学だという。雅子さまの健康面のことも合わせて、いろいろあった。子育てという点だけは、先行させてもらったが、結局今年、一緒に還暦を迎えた。

どこまで行っても、私にとっての陛下は、時代の同行者だ。



PHP研究所  ¥ 1,980

元皇族が「これまでの研究活動と執筆活動の集大成となった」と自ら語る渾身の1冊
第1章 日本の神代・先史
第2章 日本の古代
第3章 日本の中世
第4章 日本の近世
第5章 日本の近代
第6章 日本の現代


『天皇の国史』という題名である。

“国史”であるから、日本の歴史を語る本である。しかし、話は、人類の起源から始まる。もちろん、日本の歴史を語るためである。日本人とは何か。どこから来たか。それを語るためである。

600ページを越えて、この国のことを語る本だが、冒頭、《第一章 日本の神代・先史》、つまり文字のない時代に102ページを使っている。昭和から現在までに211ページ使っているのだが、その半分を文字のない時代の話に使っている。

著者が、この時代を重視しているからこそだろう。その時代に、現在の私たちにまで続く、日本の特質、日本人の特質が形成されてきた。だからこそ、その時代のできる限り正確に理解しないと、それに続く時代に対する理解が、すべて不正確なものになってしまいかねない。

たしかに、かつての歴史認識にはそういう点が少なくなかった。騎馬民族説であるとか、朝鮮系渡来人によって日本が作られたと言われていて、それを前提にのちの時代を考えていくことになるから、当然、日本史全般に対して不正確な理解になる。それを土台をにして、私たちはどうあるべきかを考えるのが歴史の役割であるから、私たちは、正しい道を歩むことができない。

しかし、近年の発掘調査の進展と、科学技術の進歩によって、多くの学説が修正を余儀なくされたり、否定されたりしている。つまり、新説、真説により、歴史が語られるようになってきているわけだ。だから、著者は、文字による記録のない《神代・先史》に、それだけのページを割いたわけだ。

言うまでもなく、著者の竹田恒泰さんは、旧皇族である竹田家の生まれ。恒泰さん自身、明治天皇の玄孫と言うことなので、今上陛下と同じ血筋と言うことだ。

この国は、“万世一系の天皇の治す所なり”なわけだから、《国史》、つまり日本史は、竹田さんの家の歴史でもあったわけだ。壬申の乱では、竹田さんのご先祖さまは叔父と甥で内戦をやったわけだ。竹田さんのご先祖さまの白河上皇は、孫の妻に手を出して自分の子どもを産ませ、結果として武士の時代の幕を開けてしまうことになる。

竹田さんのご先祖さまの後鳥羽上皇は、鎌倉幕府に喧嘩を売って敗れ、隠岐に流されて、以後、江戸時代が終わるまで武士の時代が続いたんだな。一時、後醍醐天皇が個性を発揮したけど、それと前後して皇統が二つに割れてしまい、南北朝時代を招くことになる。それがまとまったは良いが、その直後、足利義満には、ほとんどその皇統そのものを奪われかけた。

まあ、竹田さんにしてみれば、《国史》はそう見えるわけだ。

私は、戦前の教育を受けた父母とは違い、歴史の大きな節目を生きた天皇くらいしか名前を挙げることはできない。でも、歴代の天皇は、すべてがこの国のために祈る存在であり、その役割を果たしてきた。その時々の判断に首をかしげる人もいるが、祈り続けてきた人たちであることは間違いない。

疫病が流行しては祈り、飢饉になっては祈り、戦いに祈り、災害に祈った。その一つ一つを、実は私はよく知らない。そういうことを教えてくれる本でもある。つまり、あの大きな出来事があったときも、天皇は祈ったと言うことを。

つまり、天皇は、常に、その時代に生きている人に同行しているのである。

私はどこまで、陛下と一緒に歩いて行けるだろうか。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

竹取物語『おとぎ話に隠された古代史の謎』

『竹取物語』のクライマックスシーン、かぐや姫を迎えに来た月の都の天人たちが、かぐや姫に向かって言う言葉。

「いざ、かぐや姫、穢きところにいかでは久しくおはせん」

かぐや姫に言い寄った五人の貴公子たちは、いずれも実在の人物だという。それは8世紀初頭の朝堂を牛耳っていた高級官僚たち。

石つくりの御子、右大臣あべのみむらじ、大納言大伴のみゆき、中納言いそのかみのまろたり、くらもちの皇子。それがそれぞれ、文武5年(701)の政府高官、左大臣多治比嶋、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御幸、大納言石上麻呂、大納言藤原不比等。

この“くらもちの皇子”については、「心たばかりある人にて(謀略好き)」と書いている。実際、くらもちの皇子はかぐや姫から与えられた課題である「蓬莱の玉の枝」を、蓬莱山に行くように見せかけて職人を雇い、それを作らせておいて報酬を払わなかった。

くらもちの皇子が、できあがった見事な「蓬莱の玉の枝」をもってかぐや姫に結婚を迫る。かぐや姫は嫌で嫌でたまらなかったのだが、くらもちの皇子の雇った職人たちがかぐや姫に報酬を要求したことから、くらもちの皇子の嘘がばれる。かぐや姫は「愉快でたまらない」と叫んで職人たちに褒美を与える。腹を立てたくらもちの皇子は職人を待ち伏せして血の出るほど打ちのめし、報酬を巻き上げた。

他の4人は、こんなにも酷い書かれ方はしていない。くらもちの皇子だけが悪人として描かれている。

『竹取物語』の作者は、時の権力者藤原氏を深く恨み、“くらもちの皇子”という偽名を使って、平安朝廷を「穢きところ」とののしらせた。

紀氏は紀州に地盤を持った一族で、古くからヤマト朝廷に影響を与えた名門氏族。その祖は、武内宿禰の子、紀角宿禰とされるから、蘇我氏の遠縁に当たる。

紀氏は蘇我本宗家滅亡後、この穴を埋めるように中央政界に参画してくる。特に奈良時代末に即位した光仁天皇の母が紀氏出身であったことから力をつけ、平安時代になると藤原氏最大のライバルとなる。




PHP文庫  ¥ 524

おとぎ話を手がかりに古代史の謎を探る新たな関ワールドを作り出した意欲作
おとぎ話と古代史の奇妙きてれつな関係の巻
浦島太郎と武内宿禰の謎の巻
『竹取物語』に隠された古代史の闇の巻
金太郎伝説と酒呑童子説話の裏側の巻
一寸法師と崇る水の神の巻
ヤマト建国とおとぎ話の不思議な関係の巻
因幡の白兎に隠された邪馬台国の巻
桃太郎と謎の吉備の巻
ヤマトタケルとヤマトの謎の巻
鶴の恩返し(鶴女房)の謎の巻
天の羽衣伝承に残された謎の巻
カゴメ歌の謎の巻
伊勢神宮とトヨの秘密の巻


『竹取物語』の幕切れでかぐや姫が付きに帰るとき、天人がかぐや姫に羽衣を着せようとすると、かぐや姫はそれを遮り「羽衣を着れば人ではなくなってしまう」と言ってそのその前に、帝への手紙をしたため、不老不死の薬を残す。ところが、のちに帝は、かぐや姫のいないこの世で不死は無用と、薬を焼いてしまう。

この古事から富士山は不老不死と結びつき、不死山=不二山から、鎌倉時代に富士山と表記されるようになる。

藤原氏と対決した聖武天皇が敗れ去り、その娘の称徳天皇が、「藤原氏のための天皇ならいっそ」と、物部氏の系列に属する弓削氏出身で、志貴皇子の落胤という噂のある道鏡を、新たな天皇として擁立しようとした。

あえて不老不死の薬を飲むことをやめて焼いてしまうという行為は、連綿と続いた天皇の血筋を放棄する称徳天皇の決断を連想させる。

『竹取物語』は、その話の中に、強烈な藤原氏への反発と、藤原氏が支配する世を唾棄するかのような嫌悪感を感じさせる。

平群氏、葛城氏、物部氏、大伴氏、巨勢氏と、さまざまな豪族がいた。

ヤマト朝廷成立前後の古代史を考えるとき、やはり大きいのは、隋・唐王朝との関係で、焦点は律令の導入。

かつて、中大兄皇子と中臣鎌足は、反対勢力であった蘇我氏を乙巳の変で倒し、律令を日本に導入したと考えられていた。しかし、最近は、蘇我氏は律令導入に積極的であったと言われるようになった。そうなると、乙巳の変は単なるクーデターに過ぎなくなる。

律令の根幹は公地公民。すべては隋王朝の皇帝のもの。隋は、あまたの戦いを制して“中国”を統一した。皇帝は絶対的な存在となった。それくらいの力がなければ、豪族たち持つ土地を、そして豪族たちの抱える民を、国のために差し出させるなんてことは出来るわけがない。

その苦難を、蘇我氏は引き受けた。それ以前に行なわれた蘇我馬子と物部守屋戦争も、その大変革をめぐる対立が関係するだろう。一般には仏教導入をめぐる対立が原因とされるが、律令導入は、それ以上の大問題だったはず。あえて、それを前に出さないのは、当時の豪族たちに、そういう合意があったからだろう。

豪族たちは、表向きはどうだったかはともかくとして、出来れば土地を手放したくなかったはず。結果として、乙巳の変を容認したんだろう。

このあと、日本でも大きな戦いが起こっている。壬申の乱。それに勝った天武天皇は絶大な力を持った。蘇我入鹿の成し遂げられなかった律令を、天武は成し遂げた。

しかし、その直後、権力は藤原不比等に掌握され、律令は藤原家のための制度となり、古代豪族の力は、すべて藤原氏に吸い上げられた。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『逆説の日本史 25明治風雲編』 井沢元彦

『逆説の日本史』も、この第25巻は〈明治風雲編〉と銘打って、“日英同盟と黄禍論の謎”という副題のもと、日露戦争前夜というところまでやってきた。

ここで語られている《大日本帝国陸海軍》、そして《国民》こそが、大東亜戦争で米・英・蘭・豪・中・露といった国々の軍と戦い、敗れ去った軍であり、日本国民であった。私たちはその経験を現代に、さらにはこれからに生かし、よりよい未来を切り開かなければいけないわけだ。

というわけで、もうすでに、現在の私たちが、直接参考にしなければならない具体的現象が、さまざまな形で顔を出すようになって来ている。

《この国ではつい最近と言える時代まで「北朝鮮は労働者の天国だ」「理想の国家だ」などというデタラメを声高に主張する人々が、知識人や大学教授あるいはジャーナリストの中にきわめて大勢いた、いや、それが多数はであったという事実である。2019年にNHKは戦後の「北朝鮮への帰国事業」に関する特集番組を放映したが、若い人にはぜひ「帰国事業」というものがどんなものであったか認識して欲しいと思う。一言で言えば、「左翼マスコミの陰謀」である。その残党がまだまだマスコミ界をはじめあらゆるところに巣くっているが、幸いにも日本人は彼らの悪影響から脱しつつある。もし彼らが国民を洗脳することに成功していたら、いったいどんなことになっていただろうか。》

こんな風に、場合によっては、戦後の日本社会の“危機”にまで言及しているのだ。これは、資本主義の欠陥を正すべく生まれ出た共産主義思想、その真の姿を言い表わす関連から言及されている。

それにしても、共産主義国家の人っていうのは、基本的にやせている。その中にあって、独裁者だけがでっぷり太っている。終戦直後の食糧メーデーで共産党員が《朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね》というプラカードを掲げたと言うけど、「タラフク食ってる」のは、共産主義国家の独裁者。

金正恩なんか、見ればいい。あの腹は、ちっとやそっとではない。

さて、「左翼マスコミの陰謀」により、国民がみんな洗脳されちゃったら、どんなことになっていたかというと、これは分かりやすい。そうなっちゃったのが、韓国だから、韓国を見ればいい。

韓国では、日本を評価するような言論は、反日政策で北朝鮮よりになったマスコミに、徹底的に叩かれる。日本の悪を誇張する反日政策を進めれば、その日本と戦って独立したという神話を持つ北朝鮮が、韓国人の間で理想化される。その北朝鮮が悪魔小用に忌み嫌うアメリカのもとに独立した韓国にすれば、どうしても道徳的優位を北朝鮮に譲ることになる。

独裁者がタラフク食って腹をふくらませ、国民を飢えて痩せこけさせている北朝鮮に、韓国がすり寄るという状況になっているようだ。



小学館  ¥ 1,870

明治の「文化大改革」と、大英帝国と同盟してロシアとの開戦へ傾いていった日本
第一章 日本語改造計画の悲喜劇
闇に葬られた「日本語廃止計画」
第二章 演劇そして芸術一般の変革
演劇改良運動と「女優」の復活
第三章 ロシア帝国の横暴と満洲
日英同盟に狂喜乱舞した日本国民
第四章 『逆説の日本史』は〈評論の必要はない〉
井沢元彦は〈推理小説家に戻る〉べきか?


だからこそ、《愛の不時着》なんだな。

《ある日、突風によるパラグライダーの事故で、北朝鮮に不時着した財閥の跡取り娘と、彼女を隠して守るうちに愛するようになる北朝鮮の将校の絶対極秘ラブストーリーを描いたドラマ。韓国の上位1%に当たる財閥の跡取り娘ユン・セリ役を女優ソン・イェジンが、完璧な業務遂行能力と優れた容姿を兼ね備えた北朝鮮の将校リ・ジョンヒョク役を俳優ヒョンビンが演じる。(ワウコリアより)》

ほらね、北朝鮮に道徳的優位を奪われている。左翼マスコミが勝利すると、こう言うような倒錯した事態が発生する。

日本も危なかった。朝日新聞は戦後、北朝鮮を「労働者の天国」として礼讃した。それにだまされた多くの人たちが「帰国」したころから北朝鮮の国民は飢えていた。あの頃は、金正恩のおじいさんの金日成の時代だったけど、彼も腹が前に突き出していた。タラフク食っていたんだろう。

北朝鮮では多くの国民が餓死しているという。どうも、兵士の間でも飢餓が進行していると言うから、けっこう深刻だ。

ちょっと、朝鮮に深入りしすぎた。まだ、この25巻では日露戦争にまで深入りしていないんだけど、日露戦争後の事にまで触れている。その結果として、《満洲は日本の生命線》という意識が生まれる。日本の生命線である満洲を守るために犠牲になった何十万という英霊の尊い犠牲を思えば、アメリカにせまられてそれを放棄するなんてことは出来ない。

そして、300万を超える死者を出して、日本は戦争に負けた。日本はアメリカ軍の占領を受け、その中で大日本帝国憲法を廃して、日本国憲法をアメリカに押しつけられた。

その憲法は、平和主義と立憲主義に基づくもので、中でも、戦争の放棄、戦力の不保持を大きな特徴とした。そしてアメリカの洗脳のもと、戦前の軍国主義を反省するところから成り立って憲法であると考えるに至った。

300万の犠牲の上に成り立った憲法は、何十万という犠牲の上に守られた満洲と同じ、決して放棄できないものだというなら、戦争を決断したのと同じ理由で、憲法9条を変えられないでいるようだ。

マスコミと学問の世界は、まだまだ「北朝鮮は労働者の天国」と言っていた人たちの残党が残っているらしい。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

世間の常識『逆説の日本史 25明治風雲編』 井沢元彦

NHKの、朝のドラマを見てる。

古関裕二・金子夫妻を題材とした『エール』というドラマ。もちろん、一番の魅力は古関裕二の作曲した歌。ここのところ、一週間の物語が、一曲の歌を題材にして展開されている。『とんがり帽子』、『長崎の鐘』、今週は『栄冠は君に輝く』だった。ちゃんと作曲された年を調べると、順番に並べられているわけではないようだ。

戦争中、作曲で戦争政策に協力してきたという意識の強い主人公が、その自責の念から解放されて自らを取りもどし、人々に寄り添う曲を作り続けていく。そんな物語の展開には、順番の入れ替えが必要だったようだ。

「本当はあんな戦争には、最初から反対だった」

軍国主義に取り憑かれた一部の人を除いて、誰も戦争なんか望んでいなかった。ドラマの中のあちこちに、それを臭わせることで、主人公の背負った苦悩を浮き彫りにしているかのようだ。NHKにとっては、それが戦前・線虫の真実であったようだ。

“戦争の歴史的評価を、冷静かつ論理的に考えることの困難さ”が、本書の中でも取り上げられている。率直に自分のミスを認めることの出来る人間は、きわめて少ない。とくに、国民が多数犠牲になった“敗戦”については、誰もが自分の責任を逃れたがるし、他人に責任を押しつけようとするということだ。

最初から戦争遂行に大賛成していたのに、負けた瞬間に、「本当はあんな戦争には、最初から反対だった」と言い出すのは、決して珍しいことではない、ごく当たり前のことだというのだ。

この話題は、『逆説の日本史』の中でも、豊臣秀吉の〈唐入り〉、その一環としての朝鮮遠征のところでも取り上げられた話題だな。

まず、大半が反対しているような戦争は、その為政者がどんなに強権を持つ独裁者でも行えることではない。まずは、さまざまな政策を通して国民の心をつかみ、教育や情報操作によって国民の意思を統一することで、ようやくそれが為し得ることとなる。

今、そんなことが出来るのは・・・? ということで、井沢さんは金正恩を、「一般的に考えられているよりずっと危険」と書いている。たしかにそうだな。

そういうことになると、開戦の段階では、日本国民の大半が、それに賛成していたということになる。そして、敗戦に終わった瞬間に、「最初から反対だった」と言い出すことになると。

近代以前では、この嘘を暴くのは難しかったという。そりゃそうだ。インターネットやテレビにラジオどころか、新聞も週刊誌もない。前言を翻すに障害となるものは、手描きの日記や文書しかない。印刷文化が始まる前なら、修正改竄は自由自在。

昭和の戦争に関してだって、NHKは軍部と一部の権威主義者に責任を押しつけて、「国民の大半は戦争に反対だった」という幻想を作り上げていく。

ドラマを見ていても、そういうところはちょっとね。目を背けてしまう。




小学館  ¥ 1,870

明治の「文化大改革」と、大英帝国と同盟してロシアとの開戦へ傾いていった日本
第一章 日本語改造計画の悲喜劇
闇に葬られた「日本語廃止計画」
第二章 演劇そして芸術一般の変革
演劇改良運動と「女優」の復活
第三章 ロシア帝国の横暴と満洲
日英同盟に狂喜乱舞した日本国民
第四章 『逆説の日本史』は〈評論の必要はない〉
井沢元彦は〈推理小説家に戻る〉べきか?


“人間界の常識”と井沢さんは言うんだけど、“人間界”というと、なんだか振りかぶりすぎのような気がする。だって、人間じゃなければなんだ。猿か。犬か。・・・“世間の常識”くらいでいいんじゃないかな。

第四章に“特別編”というのが設けられている。

井沢さんを厳しく批判した呉座勇一さんという歴史学者への反論が、この第四章特別編ということになっている。呉座勇一さん人は『応仁の乱』を書いた人だな。間が悪くて読んでないけど、機会があれば読もうと思ってた本だな。東京大学文学部歴史文化学科か。いかにも井沢さんとは相性が悪そうだ。

井沢さんが攻撃してきた日本の、プロの歴史学者が実行する歴史解明方法の欠陥の一つ、「社会的常識を無視した権威主義」巣窟みたいなところだろうからな。

呉座さんは、井沢さんが『日本史神髄』で展開した井沢さんの説を、〈論評の必要はない〉と決めつけたんだそうだ。井沢さんが、それは学者の態度としていかがなものかと反論すると、〈人生の大先輩である井沢さんにこれ以上恥をかかせては気の毒であるからと考えたからである〉と述べたんだそうだ。

呉座さんが、〈論評の必要はない〉と決めつけた井沢さんの説は、「いわゆる飛鳥時代には、天皇一代ごとに宮都が移転していた。それは天皇の死がケガレを嫌う、ケガレ忌避という宗教があったからだ」というもの。

呉座さんは、実際には宮都は一代ごとに移転せず建物を使い回していた、という最新の考古学の調査結果を示し、宮都が移転していた事実はなく、本来ならそういった調査結果をちゃんと〈勉強〉しておくべきなのに、それを怠っている。〈もし勉強するのが億劫で、推理だけしていたいというなら、推理小説家に戻られてはいかがだろうか〉ってことなんだそうだ。

学問の世界で求められるのは、真実の追究。自分の研究の結果、間違っていると思う説があれば、論拠を上げてそれを否定するのは学者として当たり前。だけど、否定するのは学説であって、人ではない。

呉座勇一さんは、なぜこんなにも、嫌らしい言い方をする必要があったんだろう。東京大学で歴史を“勉強”した人らしい言い分ということなのかな。

井沢さんがどう反論したかは、この本を読んでね。

実は、私のブログで、「いっぺん大学にでも入って、歴史学を勉強されてはいかがでしょうか。史料を前に、ちゃんと自分の頭で考えてみることが大事ですよ」という、なんだかいやらしいご意見をいただいたことがある。

きっと大学で、史料を前に歴史を勉強した人だったんだろうな。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

縄文弥生『天皇の国史』 竹田恒泰

朝、夜明け前に走ってる。

暗いうちに家を出て、空が、街が、徐々に明るくなるのを楽しみながら走る。歩道が痛んでいたり、街路樹の根で盛り上がっているところがあれば、フラットな車道を走る。もちろん、時々走ってくる自動車に注意しつつ。懐中電灯は、足下を照よりも、自動車に自分のいることを伝えるために点灯する。

私が、早出で山に向かうときは、逆の立場になる。夜明け前、歩道のしっかりしていない街の中の道を走ると、夜明け前の暗がりにヘッドライトに照らされて、ウォーキングをする老人たちが亡霊のように現れては消えていく。三途の川に向かっているようで、ドキドキしたりしてしまう。自動車からみれば、夜明け前に走っている私も、ヘッドライトに現れては消えていく亡霊のようなものだろう。

先日、そのトレーニングに、新しいメニューを取り入れた。もっと、身体全体を刺激できるように・・・。効果はてきめん、夕方から、脇腹の痛みで動けなくなった。翌日には腰にまで影響が及び、夜も痛みで眠れない。これでダメなら救急車のお世話もと、最後の手段で、医療用テニスボールで患部周辺をゴリゴリしたところ、いくぶん痛みが治まってきた。ようやく、うつらうつら出来るようになり、さらに翌日、一日静養したことで、本日、パソコンに向かうことが出来た。

医療用テニスボールは、4年前の手術で股関節の痛みから解放される前、毎晩のように使っていたもの。またこいつのお世話になるとは、・・・そう思ったら、思い出した。その頃使っていた座薬が、まだ冷蔵庫に入っているはず。確認したところ、やはり、あった。早くこいつを思い出していれば・・・。

静養に当てた一日、竹田恒泰さんの『天皇の国史』を読み始めてみた。ちょっと前に買って、すぐに何ページかめくってみたが、概略で進めていく内容ではなく、重要な部分では詳細な検討をそのまま文章化しているようなので、後回しにしておいた。

なにしろ、本編だけで600ページを超える。身動きできないときには向いているだろうと思ったが、寝ていても、本の重みが腰に来る。300ページ、300ページの上下巻にしてくれよと思いながら、休み休み読み始めてみた。

1年半前まで、高校の教員だった。

歴史の教員だけど、教員になってしばらくは、ほとんど教科書を使わずに授業をしていた。歴史好きの私からしても、歴史の教科書が面白いなんて思ったことはないし、新しい研究成果に徹底的に鈍感だから。教科書だったら、百科事典の方がよっぽど面白い。

竹田さんも書いているけど、今でも歴史教科書には、《猿人→原人→旧人→新人》という単一種で進化したとしか受け取れない書き方がされている。おそらくこれ、先輩の作り上げた学説に逆らえないまま踏襲してしまっているんだろう。

だから読書をするときに、生徒に話をする前提で本を選ぶことが多かった。研究者ではないから、この人の書いたものは信頼できるって思える人の本を読んで、その中から、「これは」というものがあれば、授業でも取り上げた。

教員をやめてから、それ以外のところから本を選らぶことも増えた。でも、久し振りに竹田さんの本を読んだら、特に、縄文・弥生の人の動きに関して、いつの間にやら、ずいぶん新しい知見が出てきているんだな。正直、ビックリした。




PHP研究所  ¥ 1,980

元皇族が「これまでの研究活動と執筆活動の集大成となった」と自ら語る渾身の1冊
第1章 日本の神代・先史
第2章 日本の古代
第3章 日本の中世
第4章 日本の近世
第5章 日本の近代
第6章 日本の現代


その原因は、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA、及び核ゲノムの解析精度が、近年、急激に上がってきたことにあるようだ。

それからもう一つ、それと同時に、考古学的な発見の点においても、以前には不可能だった新しい方法が持ち込まれているようだ。

両者によってもたらされる新しい知見は、1年1年の単位で、どんどん更新されていっている状況だという。

今回、いろいろなことの驚かされたけど、中でも一番驚いたのは、朝鮮半島の先史時代の様子だった。日本列島に比べて著しく少ないながら、半島にも旧石器文化は確認されたそうだ。ところが、間氷期が到来し、徐々に温暖化が進む1万2000年前頃、朝鮮半島から人類の活動の痕跡がなくなっているんだそうだ。

この空白期間は、なんと5000年も続き、今から7000年前頃、ようやく朝鮮半島に人類の活動の痕跡が現れ始める。いくつもの遺跡が見つかり、それぞれの場所から、朝鮮半と最古の土器とされる隆起文土器が発見される。

この隆起文土器が、なんと縄文土器なのだそうだ。

“中国”には縄文土器を作る文化はないから、無人となった朝鮮半島に渡って隆起文土器を作ったのは、日本列島から移り住んだ縄文人だった。

これは、ミトコンドリア・DNAの解析からも、明らかなことだそうだ。

もう一つ、弥生時代の開始が500年遡ったこと。

これは、教員をやっている頃から、そう言われていた。それなのに、気がつかなかったのは、私が鈍いからだ。日本に伝えられた米は、長江中下流域のもの。それは、朝鮮半島を介さずに、直接日本列島に入ってきた。だったら、朝鮮半島南部の水稲稲作は、日本列島経由ということになる。

水稲稲作は、朝鮮半島から日本列島に伝えられたのではなくて、日本列島から朝鮮半島に伝えられたと言うことだ。その頃、朝鮮半島にいたのが、縄文半島人であったということを考えれば、列島に伝わったものは、半島に伝わるのが当然だな。

しかも、水稲稲作の開始時に、日本列島では大きな戦いの痕跡はない。ミトコンドリア・DNA、Y染色体DNAの研究も、大規模な人の移動を突き止めることは出来ない。

すると、水稲稲作の開始をはじまりとする弥生時代の主役、弥生人は、どう日本にやってきたのか。・・・それが、縄文人が、そのまま弥生人に変わっていったと言うんっだ。だけど、それこそ教科書に出てるけど、縄文人の骨格と弥生人の骨格って違うよね。違いの原因は、やっぱり食いもんだよね。

あっ、米だ。米を食って、縄文人の骨格も変わっていったんだ。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『治水の名言』 竹林征三

江戸時代後期の秋田に渡部斧松という人がいて、治水開拓に、大きな事績を残したという。水路工事の落盤事故で犠牲者を出し、誰もが工事に腰が引けた常態になったとき、斧松は自分の身体に縄を結び、「もし万一のことがあったら、この縄で私を引揚げてくれ」と言い残して土砂崩れと必死に戦い、水路トンネルを完成させたそうだ。

長野県佐久市の五郎兵衛用水は、市川五郎兵衛という武士が自費で築造したものだそうだ。その心意気を知った家康が士官を進めると、「志はすでに武士にあらず、殖産振興、水を引くことである」と言って断わったそうだ。

江戸時代後期の富山県高岡市に沢田清兵衛という人がいて、新田開発や治水に功労があったそうだ。その人の言葉で、川を上流から河口まで通して把握しなければならないとする言葉。「川は水源から河口までの一体の生物である」

家康によって付け替えられた利根川は、昭和22年9月16日のカスリーン台風による大雨で氾濫し、昔の旧利根川に戻ってしまったという。そんなとき、こんな言葉が残された。「河川も生き物で遺伝子をもっている。昔の記憶をたどる」

たびたび水害を起こした熊野川の上流、奈良県十津川村には、こんな言葉が残されているという。「谷の水温はなんぼ大きゅうてもいいが、石が転げる音がしたら、逃げなあかん」

長野県南木曽村には《蛇ぬけの碑》というのがあるそうだ。蛇ぬけとは土石流のことで、「蛇ぬけの前にはきな臭い臭いがする」と警告があるそうだ。

そう言えば、平成26年8月の、広島における豪雨災害で、大きな被害の出た安佐南区の八木地区にも、祖先からの言い伝えで、蛇ぬけの伝承があり、土石流の前には生臭い匂いが漂ったとニュース番組で報道していた。

明治35年に、新潟県妙高市で大きな土石流が起こり、酷い被害が出たそうだ。その時、住民の先頭に立って復興に奮闘したのが丸山善助という人だったそうだ。その方はその後の生涯を、治山治水に捧げたそうだ。その人の言葉。「平野を納めんと欲すれば、山と川を治めよ」

災害からの復興は、人の心を晴れ晴れとさせなければ成し遂げられない。それが、とても大切な治水技術でもあるんだそうだ。江戸時代の八代将軍徳川吉宗の頃、大飢饉や疫病の流行で多くの死者が出たそうだ。隅田川の花火大会は、その死者の霊を弔う川施餓鬼の法会が始まりだそうだ。さらに、その堤に桜の苗を受けたのが、隅田川の花見の始まりになるそうだ。

大相撲は、明暦の大火や安政地震で多くの人が犠牲になったとき、その供養のために回向院が作られ、経大で勧進相撲が興行されたのが始まりだという。

今の、感染症流行に際し、全国各地で花火の自粛、まつりの自粛が相次ぐ中、人の心を晴れ晴れとさせる一工夫というのが、是非欲しいところだな。


『治水の名言』    竹林征三

鹿島出版会  ¥ 2,420

水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ
第一部 日本の治水史に見る名言
第一章 従事した仕事より見えてきたこと
第二章 治水意識の芽生え
第三章 戦国時代の武将の治水・治水事業の発展期
第四章 明治維新の治水・治水事業の成熟期
第五章 大正・昭和・平成の治水・治水事業のこれから
第六章 被災直後から復旧・復興の知恵
第二部 治水の名言に秘められた教訓
第一章 日本は水害大国
第二章 河川に関する名言に秘められた教訓
第三章 災害に関する名言に秘められた教訓
第四章 治水は讒言と地獄の世界
第五章 治水技術に関する名言に秘められた教訓
第六章 堤防に関する名言に秘められた教訓
第七章 ダムに関する名言に秘められた教訓
第八章 先人が遺した治水に関する名言
第九章 政治家・マスコミの迷言
第十章 神髄をついた警告としての名言
第十一章 求められている風土工学と環境防災学の視座と展開






治山治水のために、この国土と奮闘してきた先人たちの言葉の、ほんのさわりだけ取り上げてみた。

ついこの間も、日本の近くを台風が通り抜けていった。梅雨のシーズンには、九州、四国、中国地方に、線上降水帯という雲の帯がかかって、同じ場所に何日にもわたってもの凄い雨を降らせる。台風に加えて、それも年中行事のようになっている。

まさに日本は水害大国。先人たちも、ずっと状況と戦ってきた。

日本列島は、4大プレートの継ぎ目にあることから海溝型の巨大地震が発生する。その地震に伴って、巨大津波に襲われる。プレートの継ぎ目には火山帯が配列し、列島の多くで火山災害が発生する。

また、大陸型の気流と海洋型の気流がぶつかる位置にあり、そこに南北に長い脊梁山脈があるため、積乱雲が発生し豪雨災害を起こしやすい。日本海側は世界指折りの豪雪地帯である。毎年、いくつかの台風が列島に上陸、または近くを通過する、台風の通り道に当たる。

国土の70パーセントが山地で、人が住みやすい平地は10パーセントしかない。そこに50パーセントの人々がひしめくように生活する。しかし、10パーセントの平地は、もともと河川の氾濫原野で、反乱が作り出した平地である。

平野部を流れる河川は天井川になっており、氾濫時の水位は、人々の居住地よりもはるかに高く、昨年の台風19号の時の氾濫でも、二階まで氾濫の濁流が浸水した家屋も少なくない。

浸水は日本の平地の宿命である。日本の河川はいずれも急流で短いため、降った雨は一気に海へ流れ下る。雨が降らなければ水不足となる。平地をのぞく国土の大半は山岳地帯の斜面であり、残る50パーセントの人々は、そこにわずかな平地を見つけて居住する。しかしそこには、豪雨による山地崩壊の危険がつきまとう。

そんなところに、私たちは住んでいる。

「天災は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の言葉だという。・・・一説にはね。

だけど、最近の天災は、忘れないうちにやってきている。昨年の苦い経験を、今年の災害シーズンに生かそうとしている。じゃあ、寺田寅彦の頃は、忘れた頃にやってきていたのかというと、案外そうでもない。そうでもないけど、情報が日本列島全体で共有されていなかったに過ぎないんじゃないかな。

さらに、明治11年生まれで昭和10年になくなるから、いくたの戦争を経験しているはずだ。戦争と災害で、日本人はなんども酷い被害に遭っている。

天災と戦争のことをよく知ることは、日本人にとって、とっても大事なことのはずなのに、私たちはそれを知らなすぎるんじゃないか。天災について、しっかり知る努力は、最近行なわれるようになった。じゃあ、もう一つの酷い被害を生み出している戦争についてはどうか。

まったく何もない。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

義民『治水の名言』 竹林征三

《お手とお足はお江戸に御座る、首は多治井の野沼塚》

大阪府羽曳野市の共同墓地入り口に高さ1.8メートルのお地蔵さんがいらっしゃるそうだ。上の言葉は、そのお地蔵さまの後輩部に刻まれたものだそうだ。・・・いかにも訳ありそうなこの言葉、やはり治水に関するものだそうだ。

野沼某は村人を救うために、御法度の直訴をして首をはねられた。江戸で処刑された野沼某の首を地元に人々がもらい受けて、多治井に首塚を作った。いつの頃からか首塚がなくなり、代わってお地蔵さまが祀られるようになったんだそうだ。

《水を得んと欲すれば、即ち死を免れず、死せずば水を得ず》

「水を求めれば死ぬ、死ななければ水は得られない」とは、これもすごい言葉だ。西宮市の鳴尾にある“義民碑”に刻まれた言葉だそうだ。ある年の大干魃で、隣村と水争いの大乱闘が発生し、関係者51名が大坂で磔刑に処せられて命を落とした。そのうち25人が鳴尾の人々で、この人たちは義民として慰霊されたということだ。

25人は命よりも水を選んだ。

竹林さんの調査では、全国各地に、驚くほど多くの治水に関する義人・義民の話が伝わっているんだそうだ。それらに共通して言えることは、そのほとんどは地元の庄屋などの世話人で、村人からの人望厚い人たちだったと言うこと。

それらの人々は、治水事業の許可を得るべく何度も何度もお上に陳情を繰り返した。そして、ついに許可される見込みがないと観念するや、死を覚悟して堰や樋を無許可で作っている。

その結果、お上の裁きを受け、家族全員が死罪、家財すべて没収という厳しい処分が下される。なお、作った堰や樋等は、役に立つので破壊せず、そのまま据え置くことが許される。

中には、その義民を慰霊することも許されないケースもあったようだ。地元の百姓らが自分たちのために犠牲になった庄屋さんを慰霊供養したくても、墓作ることも、塚を築くことも許されず、一切禁止されてしまう。百姓らは役人の目を逃れ、内密に、隠れて百年、二百年と何代にもわたり慰霊供養を続けてきたケースもあるそうだ。

明治になり、ようやく墓や頌徳碑を建てて慰霊、感謝、報恩の祭を始めているんだそうだ。

私たちが、水道一つひねって水を得られているのも、実は背景に、そういった人々の犠牲があるってことだな。


『治水の名言』    竹林征三

鹿島出版会  ¥ 2,420

水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ
第一部 日本の治水史に見る名言
第一章 従事した仕事より見えてきたこと
第二章 治水意識の芽生え
第三章 戦国時代の武将の治水・治水事業の発展期
第四章 明治維新の治水・治水事業の成熟期
第五章 大正・昭和・平成の治水・治水事業のこれから
第六章 被災直後から復旧・復興の知恵
第二部 治水の名言に秘められた教訓
第一章 日本は水害大国
第二章 河川に関する名言に秘められた教訓
第三章 災害に関する名言に秘められた教訓
第四章 治水は讒言と地獄の世界
第五章 治水技術に関する名言に秘められた教訓
第六章 堤防に関する名言に秘められた教訓
第七章 ダムに関する名言に秘められた教訓
第八章 先人が遺した治水に関する名言
第九章 政治家・マスコミの迷言
第十章 神髄をついた警告としての名言
第十一章 求められている風土工学と環境防災学の視座と展開






まったく、なんだって江戸幕府は、そんなえげつないことをしたもんだか。

そう、誰でも思うよね。農民が、死ぬほど水害で困窮してるっていうのに、本来はお上が面倒を見るのが本筋だろうに。それを農村が、自助によって切り抜けようとするのを妨害し、切羽詰まった行いを咎めて処罰するなんてね。ちょっと、あんまり酷すぎる。

実際、水害で困窮して、洪水軽減の治水事業を、命がけ手お上に対し、御法度の駕籠訴をしようが、幕府としては一切受け付けない。実施なんかしない。させない。

なぜか?

どうやら、幕府側にも事情があったようだ。

治水というのは、左岸がよければ右岸が悪くなる。上流がよければ、下流が困る。関係するすべての地域の同意がなければ、幕府といえども動くに動けない。

幕藩体制をとっているだけに、全関係者の同意をとると言うことが、絶対的に難しいわけだな。かりに限定的な合意が取れたとしても、金は出さない。自普請でやらせる。もちろん、責任はそっち持ち。

結局、農民が水害でいくら困ろうが、幕府は一切動かない。

だけど、徳川家康の河川対策はすさまじく、伊那氏に命じて、《利根川東遷、荒川西遷》と呼ばれる事業を行なっている。

この河川の付け替えは、川を使った船による物資輸送を充実させることと、新田開発を目的とするものであった。

川は一番低いところを流れている。それをわざわざ、より高いところに遷すのは、洪水の危険を高めることになる。その危険を高めてまで、低いところを広い新田として開発したかったわけだ。河川をやや高いところに付け替えることで、新しく生まれた新田に用水を自然流下で補給しやすくなる。一番低いところは、さらに幅を大幅に狭めて排水路とする。

洪水被害軽減のための治水とはまったく正反対のことをしておいて、治水には一切責任を負わないというのは、やはり問題がある。

熊沢蕃山は、「諸国の川堤の普請は、飯上の蠅を逐うが如し」と泥縄式の河川行政を非難したそうだけど、同時に、新田開発が進めば、さらに洪水被害が増すと、「新田開発は治水の敵」と、強く反対したそうだ。

八ッ場ダムのことを思い浮かべたし。木を伐採した山の斜面に太陽光パネルが並べられた光景を、思い浮かべてしまった。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

ありがとうございました



「《めんどくせぇことばかり》は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。」
よくお越し下さいました

イーグルス16

Author:イーグルス16

息も絶え絶えです、ぜひ応援してください


ポスト・コロナの新たな世界において日本の歴史と国民性を基盤とした「日本独自の戦略」とはなにか。
地政学的思考方法を基礎として提言する
カウンター
カテゴリ
こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本






























































































検索フォーム
RSSリンクの表示
最新記事