めんどくせぇことばかり 本 日本史
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『治水の名言』 竹林征三

江戸時代後期の秋田に渡部斧松という人がいて、治水開拓に、大きな事績を残したという。水路工事の落盤事故で犠牲者を出し、誰もが工事に腰が引けた常態になったとき、斧松は自分の身体に縄を結び、「もし万一のことがあったら、この縄で私を引揚げてくれ」と言い残して土砂崩れと必死に戦い、水路トンネルを完成させたそうだ。

長野県佐久市の五郎兵衛用水は、市川五郎兵衛という武士が自費で築造したものだそうだ。その心意気を知った家康が士官を進めると、「志はすでに武士にあらず、殖産振興、水を引くことである」と言って断わったそうだ。

江戸時代後期の富山県高岡市に沢田清兵衛という人がいて、新田開発や治水に功労があったそうだ。その人の言葉で、川を上流から河口まで通して把握しなければならないとする言葉。「川は水源から河口までの一体の生物である」

家康によって付け替えられた利根川は、昭和22年9月16日のカスリーン台風による大雨で氾濫し、昔の旧利根川に戻ってしまったという。そんなとき、こんな言葉が残された。「河川も生き物で遺伝子をもっている。昔の記憶をたどる」

たびたび水害を起こした熊野川の上流、奈良県十津川村には、こんな言葉が残されているという。「谷の水温はなんぼ大きゅうてもいいが、石が転げる音がしたら、逃げなあかん」

長野県南木曽村には《蛇ぬけの碑》というのがあるそうだ。蛇ぬけとは土石流のことで、「蛇ぬけの前にはきな臭い臭いがする」と警告があるそうだ。

そう言えば、平成26年8月の、広島における豪雨災害で、大きな被害の出た安佐南区の八木地区にも、祖先からの言い伝えで、蛇ぬけの伝承があり、土石流の前には生臭い匂いが漂ったとニュース番組で報道していた。

明治35年に、新潟県妙高市で大きな土石流が起こり、酷い被害が出たそうだ。その時、住民の先頭に立って復興に奮闘したのが丸山善助という人だったそうだ。その方はその後の生涯を、治山治水に捧げたそうだ。その人の言葉。「平野を納めんと欲すれば、山と川を治めよ」

災害からの復興は、人の心を晴れ晴れとさせなければ成し遂げられない。それが、とても大切な治水技術でもあるんだそうだ。江戸時代の八代将軍徳川吉宗の頃、大飢饉や疫病の流行で多くの死者が出たそうだ。隅田川の花火大会は、その死者の霊を弔う川施餓鬼の法会が始まりだそうだ。さらに、その堤に桜の苗を受けたのが、隅田川の花見の始まりになるそうだ。

大相撲は、明暦の大火や安政地震で多くの人が犠牲になったとき、その供養のために回向院が作られ、経大で勧進相撲が興行されたのが始まりだという。

今の、感染症流行に際し、全国各地で花火の自粛、まつりの自粛が相次ぐ中、人の心を晴れ晴れとさせる一工夫というのが、是非欲しいところだな。


『治水の名言』    竹林征三

鹿島出版会  ¥ 2,420

水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ
第一部 日本の治水史に見る名言
第一章 従事した仕事より見えてきたこと
第二章 治水意識の芽生え
第三章 戦国時代の武将の治水・治水事業の発展期
第四章 明治維新の治水・治水事業の成熟期
第五章 大正・昭和・平成の治水・治水事業のこれから
第六章 被災直後から復旧・復興の知恵
第二部 治水の名言に秘められた教訓
第一章 日本は水害大国
第二章 河川に関する名言に秘められた教訓
第三章 災害に関する名言に秘められた教訓
第四章 治水は讒言と地獄の世界
第五章 治水技術に関する名言に秘められた教訓
第六章 堤防に関する名言に秘められた教訓
第七章 ダムに関する名言に秘められた教訓
第八章 先人が遺した治水に関する名言
第九章 政治家・マスコミの迷言
第十章 神髄をついた警告としての名言
第十一章 求められている風土工学と環境防災学の視座と展開






治山治水のために、この国土と奮闘してきた先人たちの言葉の、ほんのさわりだけ取り上げてみた。

ついこの間も、日本の近くを台風が通り抜けていった。梅雨のシーズンには、九州、四国、中国地方に、線上降水帯という雲の帯がかかって、同じ場所に何日にもわたってもの凄い雨を降らせる。台風に加えて、それも年中行事のようになっている。

まさに日本は水害大国。先人たちも、ずっと状況と戦ってきた。

日本列島は、4大プレートの継ぎ目にあることから海溝型の巨大地震が発生する。その地震に伴って、巨大津波に襲われる。プレートの継ぎ目には火山帯が配列し、列島の多くで火山災害が発生する。

また、大陸型の気流と海洋型の気流がぶつかる位置にあり、そこに南北に長い脊梁山脈があるため、積乱雲が発生し豪雨災害を起こしやすい。日本海側は世界指折りの豪雪地帯である。毎年、いくつかの台風が列島に上陸、または近くを通過する、台風の通り道に当たる。

国土の70パーセントが山地で、人が住みやすい平地は10パーセントしかない。そこに50パーセントの人々がひしめくように生活する。しかし、10パーセントの平地は、もともと河川の氾濫原野で、反乱が作り出した平地である。

平野部を流れる河川は天井川になっており、氾濫時の水位は、人々の居住地よりもはるかに高く、昨年の台風19号の時の氾濫でも、二階まで氾濫の濁流が浸水した家屋も少なくない。

浸水は日本の平地の宿命である。日本の河川はいずれも急流で短いため、降った雨は一気に海へ流れ下る。雨が降らなければ水不足となる。平地をのぞく国土の大半は山岳地帯の斜面であり、残る50パーセントの人々は、そこにわずかな平地を見つけて居住する。しかしそこには、豪雨による山地崩壊の危険がつきまとう。

そんなところに、私たちは住んでいる。

「天災は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の言葉だという。・・・一説にはね。

だけど、最近の天災は、忘れないうちにやってきている。昨年の苦い経験を、今年の災害シーズンに生かそうとしている。じゃあ、寺田寅彦の頃は、忘れた頃にやってきていたのかというと、案外そうでもない。そうでもないけど、情報が日本列島全体で共有されていなかったに過ぎないんじゃないかな。

さらに、明治11年生まれで昭和10年になくなるから、いくたの戦争を経験しているはずだ。戦争と災害で、日本人はなんども酷い被害に遭っている。

天災と戦争のことをよく知ることは、日本人にとって、とっても大事なことのはずなのに、私たちはそれを知らなすぎるんじゃないか。天災について、しっかり知る努力は、最近行なわれるようになった。じゃあ、もう一つの酷い被害を生み出している戦争についてはどうか。

まったく何もない。



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義民『治水の名言』 竹林征三

《お手とお足はお江戸に御座る、首は多治井の野沼塚》

大阪府羽曳野市の共同墓地入り口に高さ1.8メートルのお地蔵さんがいらっしゃるそうだ。上の言葉は、そのお地蔵さまの後輩部に刻まれたものだそうだ。・・・いかにも訳ありそうなこの言葉、やはり治水に関するものだそうだ。

野沼某は村人を救うために、御法度の直訴をして首をはねられた。江戸で処刑された野沼某の首を地元に人々がもらい受けて、多治井に首塚を作った。いつの頃からか首塚がなくなり、代わってお地蔵さまが祀られるようになったんだそうだ。

《水を得んと欲すれば、即ち死を免れず、死せずば水を得ず》

「水を求めれば死ぬ、死ななければ水は得られない」とは、これもすごい言葉だ。西宮市の鳴尾にある“義民碑”に刻まれた言葉だそうだ。ある年の大干魃で、隣村と水争いの大乱闘が発生し、関係者51名が大坂で磔刑に処せられて命を落とした。そのうち25人が鳴尾の人々で、この人たちは義民として慰霊されたということだ。

25人は命よりも水を選んだ。

竹林さんの調査では、全国各地に、驚くほど多くの治水に関する義人・義民の話が伝わっているんだそうだ。それらに共通して言えることは、そのほとんどは地元の庄屋などの世話人で、村人からの人望厚い人たちだったと言うこと。

それらの人々は、治水事業の許可を得るべく何度も何度もお上に陳情を繰り返した。そして、ついに許可される見込みがないと観念するや、死を覚悟して堰や樋を無許可で作っている。

その結果、お上の裁きを受け、家族全員が死罪、家財すべて没収という厳しい処分が下される。なお、作った堰や樋等は、役に立つので破壊せず、そのまま据え置くことが許される。

中には、その義民を慰霊することも許されないケースもあったようだ。地元の百姓らが自分たちのために犠牲になった庄屋さんを慰霊供養したくても、墓作ることも、塚を築くことも許されず、一切禁止されてしまう。百姓らは役人の目を逃れ、内密に、隠れて百年、二百年と何代にもわたり慰霊供養を続けてきたケースもあるそうだ。

明治になり、ようやく墓や頌徳碑を建てて慰霊、感謝、報恩の祭を始めているんだそうだ。

私たちが、水道一つひねって水を得られているのも、実は背景に、そういった人々の犠牲があるってことだな。


『治水の名言』    竹林征三

鹿島出版会  ¥ 2,420

水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ
第一部 日本の治水史に見る名言
第一章 従事した仕事より見えてきたこと
第二章 治水意識の芽生え
第三章 戦国時代の武将の治水・治水事業の発展期
第四章 明治維新の治水・治水事業の成熟期
第五章 大正・昭和・平成の治水・治水事業のこれから
第六章 被災直後から復旧・復興の知恵
第二部 治水の名言に秘められた教訓
第一章 日本は水害大国
第二章 河川に関する名言に秘められた教訓
第三章 災害に関する名言に秘められた教訓
第四章 治水は讒言と地獄の世界
第五章 治水技術に関する名言に秘められた教訓
第六章 堤防に関する名言に秘められた教訓
第七章 ダムに関する名言に秘められた教訓
第八章 先人が遺した治水に関する名言
第九章 政治家・マスコミの迷言
第十章 神髄をついた警告としての名言
第十一章 求められている風土工学と環境防災学の視座と展開






まったく、なんだって江戸幕府は、そんなえげつないことをしたもんだか。

そう、誰でも思うよね。農民が、死ぬほど水害で困窮してるっていうのに、本来はお上が面倒を見るのが本筋だろうに。それを農村が、自助によって切り抜けようとするのを妨害し、切羽詰まった行いを咎めて処罰するなんてね。ちょっと、あんまり酷すぎる。

実際、水害で困窮して、洪水軽減の治水事業を、命がけ手お上に対し、御法度の駕籠訴をしようが、幕府としては一切受け付けない。実施なんかしない。させない。

なぜか?

どうやら、幕府側にも事情があったようだ。

治水というのは、左岸がよければ右岸が悪くなる。上流がよければ、下流が困る。関係するすべての地域の同意がなければ、幕府といえども動くに動けない。

幕藩体制をとっているだけに、全関係者の同意をとると言うことが、絶対的に難しいわけだな。かりに限定的な合意が取れたとしても、金は出さない。自普請でやらせる。もちろん、責任はそっち持ち。

結局、農民が水害でいくら困ろうが、幕府は一切動かない。

だけど、徳川家康の河川対策はすさまじく、伊那氏に命じて、《利根川東遷、荒川西遷》と呼ばれる事業を行なっている。

この河川の付け替えは、川を使った船による物資輸送を充実させることと、新田開発を目的とするものであった。

川は一番低いところを流れている。それをわざわざ、より高いところに遷すのは、洪水の危険を高めることになる。その危険を高めてまで、低いところを広い新田として開発したかったわけだ。河川をやや高いところに付け替えることで、新しく生まれた新田に用水を自然流下で補給しやすくなる。一番低いところは、さらに幅を大幅に狭めて排水路とする。

洪水被害軽減のための治水とはまったく正反対のことをしておいて、治水には一切責任を負わないというのは、やはり問題がある。

熊沢蕃山は、「諸国の川堤の普請は、飯上の蠅を逐うが如し」と泥縄式の河川行政を非難したそうだけど、同時に、新田開発が進めば、さらに洪水被害が増すと、「新田開発は治水の敵」と、強く反対したそうだ。

八ッ場ダムのことを思い浮かべたし。木を伐採した山の斜面に太陽光パネルが並べられた光景を、思い浮かべてしまった。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『平城京のごみ図鑑』 奈良文化財研究所

ずいぶん長い間、奈良に行ってないな。

教員をやっていたから、修学旅行という機会があったんだ。30代半ばまでは踏ん張って、京都奈良の修学旅行に生徒を連れて行った。だけど、京都奈良への修学旅行は、もう私が教員になった時分から、徐々に少なくなってきていた。

なにしろ教員になって最初に行った修学旅行が、四国だったからな。23歳の時か。25歳の時なんて、北陸だよ。その頃はまったく主張できる立場になくてね。そのあと、何とか主張して、京都奈良の修学旅行を3回くらい続けたかな。

学年の担当っていうのは、1,2,3年と担任で持ち上がって、翌年は副担任に下りて、また次の年から1,2,3年と持ち上がる。その副担の時に2年に入れば、修学旅行の機会が増える。副担で2年に入ったとしに、女の担任が産休に入ったりしたら、あるいは担任が転勤したら、そのまま3年の担任をやって、翌年、2年の副担に下りれば、また修学旅行に行ける。

一般的に教員は、修学旅行の引率は好きじゃない。ずっと以前は、旅行社からのいろいろ、・・・いろいろいろなサービスがあって、サービス目当ての人もいたようだけどね。私も教員になった最初の頃は、そういうのがあったけど、すぐに社会的に許されなくなった。そうなると、修学旅行の引率なんて、面倒なだけと考える人が一気に増えた。その分、修学旅行の引率を嫌がらない私にとっては、行く機会が増えたと言うことだ。

私が主張できるようになった頃から、北海道や沖縄の修学旅行が、急激に強くなってくる。その学年を担当する教員の構成にもよるんだけど、京都奈良に関心を示さない教員が、急激に増え始めたんだな。京都奈良の修学旅行3回以降は、もうまわりの教員が言うことを聞かない。

京都奈良なら、移動に金をかけずに、腰をすえて文化財を見ることが出来る。北海道や沖縄は自然体験か。沖縄なら平和学習を組み込めるけど、沖縄の場合はイデオロギーが絡んでくる場合があるんで、私はあまり良いとは思ってない。それに北海道や沖縄は、旅費がかかるので、1泊減るし、宿が落ちる。

もちろん他にも興味深いところは、日本国中どこにでも、たくさんある。だけど、見学しては移動して宿泊、見学しては移動して宿泊となる。無駄が多い。何日間も滞在して、じっくり腰を落ち着けて文化財に触れることができる場所は、やはり京都奈良しかない。

それ以外の場所は、大人になってから、個人の旅行で行けばいい。今でも私、そう思います。



『平城京のごみ図鑑』    奈良文化財研究所

河出書房新社  ¥ 1,760

考古学の最新手法が奈良時代人のプライベートに肉薄、ごみが語る奈良時代
第1章 奈良時代のごみと出会う
第2章 ごみ捨て場をのぞいてみよう
第3章 木簡は奈良時代からの手紙
第4章 ウンチで分かる食生活
第5章 ごみは宝物


仕方がないから、それ以降は、家族旅行で2度行った。

修学旅行だと京都中心になるが、家族旅行では奈良に絞った。京都は行き帰りに寄っただけ。いずれも3泊4日の激安パックだけど、激安とはいえ、家族4人で行けばそれなりにお金がかかる。本当だったら、3度4度と行きたいところだったんだけど。

もちろん平城京跡にも行った。当時私は、そこにあまり興味を持っていなかった。この本を読んでいれば、打って変わって、非常に興味深く見学できたに違いない。

なんていっても面白いのは、木簡のごみだな。いや、木簡には限らないか。書かれたものが面白い。面白すぎる。

平城京の人口は5万から10万ほど。住民の多くは平城京内の各所で肉体労働・下働き・雑務に従事する人たちとその家族。さらに、労役・兵役で地方からやってきた人たち。中でも、およそ1万ほどいたという官僚・役人、寺院の僧侶が、木簡やその他に、文字やその他をかき込んだ人たちだったろう。

大事なものはごみにならなかっただろうから、ごみとして出てくるのは、大事ではないから捨てられたものだな。“書かれたもの”もそうだけど、何せモノの少ない時代だから、なんでもかんでも、本当に大事に使ったんだな。書くにしたって、なんにだって書いた。

日本最古の猿の絵は、土師器の皿の底面に落書きされたものだったそうだ。それが、うまい。専門の絵師がが本格的な絵を描く前の下書きじゃないかってことだ。

木簡は役人たちが使ったものでしょう。一度書いて、入らないものは削り取って、また書いたんだって。削り取られたものは、ごみにされたんだろうけど、それが面白い。

役人たちは、仕事中に、けっこう落書きをしている。似顔絵がたくさん描かれている。恐ーい顔は、かぶっている冠から役人と分かる。ということは、この絵を描いている役人の上司ということか。目をつり上げて、いかにも怒っている。

もちろん落書きではない、ちゃんとした事が書かれたものもある。

《長屋親王宮鮑大贄 十編》

うおー!長屋王だ。長屋王のところに干し鮑が送られてきたんだ。この木簡が、長屋王の屋敷がここだという決め手になったんだそうだ。

《此所不得小便》

「ここで小便をするな」という、立ち小便禁止の札だそうだ。・・・おそらく日本最古の。・・・だけど、この時代、文字を操るのは、上層階級の役人くらいのものだったんじゃ、・・・いや、そうでもないのか。

少なくとも平城京で暮らす者たちに関しては、ある程度は読めたのか。そういうになると、この日本最古の“立ち小便禁止”は一大発見ということになるのかも。



テーマ : 料理の本
ジャンル : 本・雑誌

『日本神話の迷宮』 藤井勝彦

《続 幾千年の時空の彼方へ》という副題がついている。

同じテーマで、前に出ている本があるようだ。・・・調べてみた。『日本神話の「謎」を歩く 幾千年の時空の彼方へ』という本だった。本書は今年の8月に出たばかりの本だけど、前のは2018年の11月に出ている。まだ2年経ってない。“あとがき”に、「この原稿を書き始めたのは、今から1年も前のこと」とあるので、2018年11月に前の本が出て、半年ちょっとしてからこの本の原稿を書き始めたことになる。

もの凄いフィールドワークを必要とすると思われる内容で、短い期間に準備できるものじゃない。前の本は、淡路島、出雲、諏訪、高千穂という風に、場所を対象にして“時空の彼方”の旅に出ている。そして本書は、伊弉諾尊・伊弉冉尊、蛭子、軻遇突智命、菊理媛神、天照大神、月読尊という風に、神々を対象にして“幾千年の時空”へと旅に出ることになる。

日本神話を前にすると、いつも思うんだ。

「ああ、私たちは、自分の国がどのようにしてできあがったのかを、知らない国民なんだ」と言うことを。

日本書紀は、この国の起こりをあやふやにした。分からないようにした。分かってしまっては、都合の悪いことがあった。国史である日本書紀を編纂する中で、そんな酷いことが出来るのは、当時、完全に権力を掌握していた藤原氏しかいない。

だけど、この国は万世一系の天皇の治める国であって、それを古くから豪族たちが支えてきたということを崩さずに、国の起こりをあやふやにし、藤原氏が権力を握るにいたった過程は改竄しなければならない。これは難しい。

しかし、一旦成し遂げられてしまえば、それに合わせて世の中に都合を合わせることを強制すればいい。各地に祀られていた祭神が、日本書紀にするされた神に由来する神であることが求められる。だいたい、違うことが書かれている書物が存在しては、日本書紀の嘘がばれてしまう。徹底的な焚書も行なわれたはずだ。

その結果、本書の著者が言うように、「そこに記された神様を、史実として存在した人物あるいは事象の投影した姿であると見なせば、その真の姿が見えないことで、寝の歴史さえ見えなくなってしまった」わけだな。

おかげで、日本神話は分からないことだらけ。日本という国の起こりは謎だらけ。ただ、いろいろな方の謎解きが、とてつもなく面白いという一面があることも、実はたしか。

そして、著者は最後にこう叫ぶ。

「神様、あなたはいったい誰なのですか?」


『日本神話の迷宮』    藤井勝彦

天夢人  ¥ 1,980

1年の過半を取材に費やす旅行作家が、10年以上をかけて実感した「神々の諸相」
プロローグ 神様のルーツ
第1章 天津神
第2章 国津神
第3章 人物神
第4章 神話の世界へ


建御名方神に興味がある。

「恐し、我をな殺したまいそ。この地を除きては他所に行かじ」・・・なんと恐ろしい。どうか殺さないで下さい。ここ以外、どこにも行きませんから。

事代主神、大国主神を殺された上、天津神である武甕槌神との戦いに敗れたからって、そこまで情けなく命乞いをして天津神に下った建御名方神。結局、諏訪大社に祀られることになるが、どこにも行かないと言いながら、建御名方神を祀る神社は全国に2万5000社にのぼる。

さらには、武田信玄や徳川家康という名だたる戦国武将が、まずはこの建御名方神を軍神としてあがめてきた。あそこまで卑屈に命乞いをして、・・・いったいどうして?

それ以上に、私が興味を感じているのは、その名前。建御名方、「建き御名の方」とはいったい誰のこと?それこそ私も叫びたい。「あなたはいったい誰なのですか?」

そこまで言いながらも、その名前を出すわけにはいかなかった人物。その名前を出してしまっては、祭りあげることが禁じられてしまう。・・・いったい誰に?

それは、力を持ったものに。つまり権力を有するものに。

ということは、この「建き御名の方」とは、大きな力を有しながら、なぜか葬り去られた。そして、「建き御名の方」を葬り去ったものが、その後権力の地位に就いたと、そういうことか。

・・・あの人かな。

面白い説が紹介されている。天孫族は九州勢で、出雲に進出して大国主の国を乗っ取りにかかる。息子の事代主は抗議の自殺を遂げ、もう一人の息子の建御名方は武甕槌との戦いに敗れて敗走。信濃に撤退して第二次出雲王朝を築く。大国主は天孫族に殺される。

日本の起こりについては、こんな説も紹介されている。オロチ族を退治して出雲を制覇したスサノオは、いよいよ全国制覇に乗り出す。息子のニギハヤヒとともに瀬戸内海を掌握し、北九州を手中にしたスサノオは、ニギハヤヒに大和制圧を命じた上で、日向への進出を計画する。勝ち目がないと悟ったイザナギは、娘のアマテラスを差し出して軍門に降る。九州全体を制覇したスサノオは宇佐に拠点を置いた。これが邪馬台国となる。

さらに続くんだけど、今はここまで・・・。

「神様、あなたはいったい誰なのですか?」


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ジャンル : 本・雑誌

『外国人にささる日本史12のツボ』 山中俊之

これまでの人生で、外国人と絡んだことがなかったわけじゃない。

だけど、定時制高校に入学してきた外国人の子どもたちだからな。中国人、ペルー人、フィリピン人、ブラジル人あたりが主なところかな。日本の歴史のツボを語るどころじゃないよ。その子たちに、その子たちの国の歴史を教えてあげていた。

面白かったよ。世界史が専門だからね。それなりに、世界の一回りするくらいなら、なんとかね。

そのあと、その定時制高校が廃校になってしまって、やむを得ず、全日制の高校に移ることになった。昼のお仕事から夜のお仕事に移るときはさほどでもなかったんだけど、逆に、夜のお仕事から昼のお仕事に移るのは大変だった。

定時制高校は、ある意味ギリギリのところにいる生徒たちなので、正味のところで仕事が出来た。定時制高校生としてやって良いこととやってはいけないことは、人間としてやって良いこととやってはいけないことと一致していた。だけど、全日制高校って、そうじゃないから。人間としてはやっても良いんだけど、高校生としてはやってはいけない。これがおかしなことだとは、学校の先生方も分かってないからね。

子どもじゃないから、まあ、それなりに何とかしたけどね。全日では、ちゃんと世界史を教えたよ。“ちゃんと”って言っても、ほとんど教科書通りに進めてないけどね。1学期は、大半を宗教の話に費やす。ギルガメッシュ叙事詩、エジプト神話、ギリシャ神話、旧約聖書、ニーベルンゲンの歌、日本神話、いくらでもあるからね。

それから一神教に入っていく。旧約の創世記を話しているから、けっこうスムーズに進むんだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ね。そこからは、まったく今日的な問題をどんどん出していく。

ユダヤ人の迫害だって、アウシュビッツだって、ペストだって、十字軍だって、イスラム国だって、ルネサンスだって、宗教戦争だって、大航海時代だって、宗教に関わるそれなりの下地があれば、だいたい分かる。

逆に、宗教をやらずに教科書使って、“はい、世界史の授業”って、「どうやるんだろう」と思ってしまう。



朝日新聞出版  ¥ 1,760

外国人に関心の高い日本史のテーマは、日本人が好むそれとは大きく異なる
第1部 “共生”を生んだ宗教観
第1章 深く自然を崇拝する心
第2章 無駄を省く禅の思想
第3章 世界最古のロイヤルファミリー
第2部 日本経済飛躍の原点 創意工夫の江戸時代
第4章 世界最先端の先物取引・物流
第5章 ハイレベルな江戸庶民の教育水準
第6章 サステナブルな江戸の暮らし
第7章 世界の美意識を変えた葛飾北斎
第8章 ユニークに進化した日本の古典芸能
第3部 ダイバーシティな日本文化
第9章 吸収と融合とオリジナリティが同居する文化大国
第10章 キリスト教と日本人
第11章 地方の多様性・独自性
第12章 室町以前の女性の活躍





その点、日本史は難しい。

一神教みたいな分かりやすい何かがない。神様って言ったって、ヤハウェも、ゴッドも、アッラーもない。「殺す勿れ」も、「盗む勿れ」もない。仏教なんて葬式の時くらいしか関わらないし、神道にしたって初詣くらいのものって人も多いだろう。自分が仏教徒であるとか、神道を信仰しているという意識の人は、そうそういない。

お寺や神社の身近さは、クリスマスほどではないって人が大半だろう。

それでも日本人には、その言動を支配する、ただならぬ信仰心がある。日本人の信仰心に関しては、第1章で触れている。

・・・

「日本人が好む日本の歴史・文化のテーマと、外国人が面白みを感じるテーマはずいぶん違う」

これがこの本のテーマ。

英雄たちの興亡っていうのは、どの地域、どの国の歴史にもそれなりにある。外国人が興味を持つのは、唯一性・独自性のある歴史や文化なんだそうだ。

ふん、それは分かるな。今の日本は、世界の中でもそれなりの影響力のある国だからね。その日本が、世界最古の王朝を持っているのはなぜ。欧米列強が世界を席巻しようとしていたとき、なぜ日本だけが西洋式の近代化に成功できたのか。江戸時代という鎖国の時期に、浮世絵や伊万里焼のような、西洋をうならせる文化を築き上げることが出来たのはなぜか。

だけど、これに応えるのって、案外簡単なことではない。

それはやはり、今の日本の歴史教育に、問題があるんだろうな。日本史っていうのは、じつはそれに応えられるようにするものじゃなきゃいけない。

日本人が持っているただならぬ信仰心っていうものを、そろそろ日本人自身が考えなきゃいけないんじゃないかな。

ちょっと気になるところもあった。“中国”や朝鮮との、歴史的な交わりに関わる部分。それから、宣教使の時代に関する認識。ちょっと捉え方が一面的に感じられた。

(朝鮮通信使のやりとりにあったような)「平和な関係を打ち破ったのが、明治以降の日本の帝国主義的な侵略」



「ローマ帝国を除くともっとも厳しいキリスト教の弾圧のなされた国」

“日本の帝国主義的侵略”なんて、朝日新聞出版だからな。キリスト教の弾圧って言ったって、じゃあ、キリシタン大名や宣教師によって、海外に売り飛ばされた日本人奴隷は、どうしてくれるんだ。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

歴史の改竄『逆説の日本史 25』 井沢元彦

『逆説の日本史 24』で、すでに、なぜ明治維新が成功したのか。欧米以外で、なぜ日本が唯一、西洋型の近代化に成功したのか。そのことに触れた。

欧米には、キリスト教という2000年に及ぶ体系があって、それが彼らの精神的な基軸になっている。それが国民統合の原理であって、神の前には万人の平等が保障されている。そのような役割を果たす存在を、この逆説の日本史シリーズでは“平等化推進体”と呼んでいる。

日本には、キリスト教のゴッド、絶対神みたいのはない。それがないと、つまり《平等化推進体》がないと、欧米並みの、人々の平等を前提とした民主的国家は作れない。

明治政府は、その役割を天皇に背負わせることにしたわけだ。明治に入る以前、幕末、江戸時代以降の朱子学の影響の中で、一君万民、草莽崛起の思想が湧きたつように登場し、それが大きな力となって明治維新を成し遂げた。朱子学による天皇の絶対化をそのまま推し進めて、つまり天皇という存在に《平等化推進体》としての役割を背負わせようとしたわけだ。

『逆説の日本史 25』では、天皇という存在に平等化推進体としての役割を背負わせることで西欧型近代化を成功させた日本に、その影響下に発生した負の側面を紹介している。

最終的には、アメリカという相手のある話とはいえ、結局は日本を破滅させることになったわけだ。

天皇を絶対化することによって成功した明治維新であるが、キリスト教が数々の神の奇跡、イエスの奇跡に裏打ちされているのと同じように、“天皇神話”がすべて歴史的な事実として認識されることになってしまう。

この本の中では、ロシア戦争に勝利したあとの、日本の歴史が改竄されてしまった一例を紹介している。それは、ロシア戦争における日本の勝利を確定させた日本海海戦に参謀として参加し、連合艦隊司令長官東郷平八郎を補佐した秋山真之少佐が起草したある文章に見出されるという。

それは、「聯合艦隊解散之辞」と呼ばれるもので、秋山が起草して東郷が読み上げた式辞の中にある一節である。

《神代の昔、神功皇后が三韓を征伐されて後、韓半島は四百余念間、わが日本の支配下にあった》と、海軍切手の頭脳と言われた秋山真之がそれを歴史的事実と認識し、後に神格化される東郷平八郎の言葉として読み上げられたことで、これは歴史的事実として国民の間に広まった。


小学館  ¥ 1,870

西洋化の中で進んだ文化大改革と、ロシアとの開戦へ傾いていった明治政府
第1章 明治の文化大変革1
日本語改造計画の悲喜劇―闇に葬られた「日本語廃止計画」
第2章 明治の文化大変革2
演劇そして芸術一般の変革―演劇改良運動と「女優」の復活
第3章 日露戦争への道1
ロシア帝国の横暴と満洲―日英同盟に狂喜乱舞した日本国民
第4章 特別編
   『逆説の日本史』は“評論の必要は無い”。
   井沢元彦は“推理小説家に戻る”べきか?


豊臣秀吉は、死後、豊国大明神の神号が贈られ、遺体の埋葬地には豊国神社が建立されて、一時は隆盛を極めたという。しかし、1615(慶長20)年に徳川家康によって豊臣家が滅ぼされると、徳川家は朝廷に手を回して豊国大明神の神号を廃止し、豊国神社への参道も塞いでしまった。江戸時代を通じ、家康は東照大権現という神だったが、秀吉はただの人だった。

幕末となり、風向きが変わる。徳川家を敵としたい新政府にとって、“敵の敵”である秀吉は“味方”となった。しかも、失敗に終わったとはいえ、“中国”を征服しようとした英雄であった。この点において、欧米列強に並んでアジアに進出しようとする政府にとって、秀吉は手本にすべき先人となった。

明治天皇によって豊国大明神の神号が復活され、秀吉ゆかりの地に豊国神社が建立された。日清戦争で清国に勝利した日本が、英雄秀吉の姿に重ねられた。1898(明治31)年には、没後300年祭が行なわれ、《兵威を異域の水に振い恩沢を卒土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)》と刻まれた記念碑も建てられた。

秀吉の“唐入り”と呼ばれる“中国征討”は、失敗に終わった。失敗の原因は、敵地の情報もろくに集めもしないまま、遠征に打って出たことにある。討ち入った朝鮮半島の冬は想像を超えて厳しく、食糧供給もままならず、多くの餓死者、病死者を出した。そんな戦いを、明治政府は《兵威を異域の水に振い恩沢を卒土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)》と顕彰した。

秀吉は、足軽から関白という最高の地位にのし上がった、大出世の先達でもあった。秀吉を持ち上げることが公式には禁じられていた江戸時代でも、彼は庶民に人気があった。それを明治政府が利用したところもあった。

神として祭りあげた以上、“唐入り”の中身を性格に分析し、把握することで、秀吉の落ち度を暴くわけにはいかなくなる。歴史がねじ曲げられた。

アメリカとの戦争においても、帝国陸軍は当初、南方のガダルカナルが決戦地になるなどまったく想定しておらず、基本情報の不足で補給にも失敗し、しかも兵力の漸次投入という愚を繰り返し、多くの兵士が戦わずして餓死するという結果を招いた。。秀吉の“唐入り”を、日本の歴史上の大失敗として検証してあったなら、つまり、日本人が歴史から学ぶということを知っていれば、ガダルカナルの失敗はなかったかも知れない。

明治政府は、西洋型の近代化を成し遂げなければならない、徳川という巨大な力を打ち倒さなければならないという時代的な要請の前で、自分たちの都合に合わせて日本の歴史を改竄してしまった。

アメリカに戦争で敗れ、国土を焼かれ、占領され、国のかたちや人の考え方まで変えられてしまったのは、その結果であった。

いかに国民的課題の達成が重要であっても、そのために都合に良いように歴史の真実を変えてしまうような教育をすれば、必ずそのしっぺ返しが来る。これも、歴史の教訓である。

このことを、韓国人にも伝えた方がいい。・・・姜尚中にでも、伝えてもらおう。・・・絶対無理か?



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『埼玉の川を歩く』 飯野頼治

今年の春、すでに武漢発感染症は、日本社会に暗い影を投げかけていた。

それでも私は隠居の身、世のすったもんだに口出しする立場にあらず、せめて邪魔にならないようにと逼塞していた。まあ、ときどき出かけて、山を歩くくらいのことはしていたが・・・。

そんな山歩きの一つとして、奥武蔵の北部の低山を歩いたことがある。以下のようなコースである。
花桃の里地図

登谷山や皇鈴山を見上げる位置にあり、“花桃の郷”と記してあるのが、東秩父村の大内沢という集落である。大内沢川は登谷山や皇鈴山といった山懐から流れ指すいくつかの支流を集めて南に流れ、少し先の落合で槻川に合流する。

“花桃の郷”と記したとおり、花桃の時期のこの郷は見事である。ただ、個人が庭先を飾るのではなく、地域として斜面を花桃で飾ろうと取り組んでいるようだ。

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大内沢は、間に伸びる尾根によっていくつかに分かれるが、南側の集落に、私はなじみがあった。南側の集落は斜面を利用してみかんを栽培している農家が多く、その時期にはみかん狩りが楽しめる。その中の一つが、かつて私が担任を務めたお嬢さんのお宅なのである。

“花桃の郷”は、そこから一つ尾根を越えた北側の集落に広がる。この集落を上から、皇鈴山山頂付近から見たときは驚いた。春先の花の風景に“桃源郷”という言葉を使うことがあるが、まさにこの里のためにある言葉のように思われた。

IMG_6330.jpg
これだからね。

この本の中では、著者の飯野頼治先生は落合から大内沢川をさかのぼっている。まもなく左手に虎岩と呼ばれる巨岩が現れる。これは私も見た。その付近のチックビ山には落城した忍城の宝物が埋めてあり、掘ると血の雨が降るんだという。



『埼玉の川を歩く』    飯野頼治


埼玉出版会  ¥ 1,650

小中学校のころの夏休みは、毎日川遊びや魚取りで明け暮れていた
第一部 奥武蔵水源の渓流
一 入間川水系の渓流
二 高麗川水系の渓流
三 越辺川水系の渓流
四 土岐川水系の渓流
五 槻川水系の渓流
第二部 平地の里川と用水
一 入間川とその支流
二 新河岸川とその支流
三 荒川へと注ぐ里川と用水
四 見沼代用水と周辺の水路
五 利根川水系の河川と堀川


昔、桓武天皇の曾孫にあたる恒望王という方が、讒訴されて武蔵国へ左遷された。その居所が大内沢だったという。のちに身の潔白が認められ、武蔵権守となり、付近を恒望庄と呼んだそうだ。

著者の飯野頼治さんは高校の地理の先生で、長く秩父郡の小鹿野高校の先生をしていた。お目にかかったことはないが、私はすぐ近く秩父高校の山岳部だったんで、先生のお名前は聞いていた。その頃は百名山登頂ばかりに注目していたが、秩父の奥では、当時、いくつかのダム建設計画が進んでいて、水没地域の民俗調査にも従事していたんだそうだ。

私の友人の家は浦山ダムで沈んだ。おそらくそれには関与してないと思うんだけど、そのあと続けざまに作られた滝沢ダムや合角ダムの調査をしておられたんだろう。

他にもなにかと、秩父に尽力をされた方だな。

熊本はじめ、九州各地や岐阜、長野が水害にやられたが、それでも人は、川から離れて生きていくわけにはいかない。球磨川水系は、ダムを造らない治水に取り組んでいたそうだ。

素晴らしい取り組みだと、私も心底、そう思っていた。今回、球磨川流域では大きな被害を出すことになってしまったが、志が間違っていたとは思わない。

ダムを造らず、川幅の拡幅や堤防のかさ上げなどの案もあったそうだが、都市部の土地の買収でつまずいたそうだ。その点、ダム建設の対処となる地域は、正直なところ、山奥の僻地であって、人口も少なく、政治の介入で、たやすく土地を手放すことになる。弱い立場につけ込まないと、買収が進まない。日本は、土地に関する個人の権利が強すぎるような気がする。

埼玉は、特に奥武蔵周辺は、尾根筋と沢筋が細かく入り乱れ、それが関東平野につながっていく場所である。さらにその奥には、昔から秩父盆地が存在感を漂わせている。そのため往来が激しく、細かい沢筋まで人々にもすみかを求め、場所を選んで先祖や神を祀った。

高山不動、慈光寺、子の権現、龍穏寺など、要所要所に信仰の拠点が設けられ、自分の在所からそれらの拠点に向けて道を開いた。さらに、沢をあがり、尾根をたどってつけられた道に、人々は安寧を求めて塚を築いた。

“道”っていうのは、おそらくそれだけで、信仰の対象だったんだろう。そこを歩くということは、それだけで“祈り”だったんだろう。そこにあった人々の思いを、細かく拾い集めた、まさに労作といえる本だな。

今回の豪雨で山が崩れ、川が氾濫して、多くの道が閉ざされた。それだけで、どうにも心が痛い。



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『おとぎ話に隠された古代史の謎』 関裕二

どうやら、日本という国、その元となるヤマトという国だな。

そのヤマトの国が成立する前後で、大きな出来事があったらしい。どうやら、それで、それまでの支配勢力は完全に力を失った。ヤマトは、根こそぎその国を奪う事によって成立した。

古代日本史の正史である『日本書紀』は、なぜか、その様子を語らない。これがいけない。『日本書紀』は、建国の過程を、なぜかはぐらかす。

前政権を倒し、新たな支配を立ち上げたなら、その正当性を並べ立てればいい。平和的に禅譲されたでもいいし、政をないがしろにし、民を苦しめたので放伐したでもいい。

『日本書紀』は、なぜかそれさえ語らない。だから、日本人は、自分たちの国の起こりを知らない。

「まったく、ちゃんと書いてよ」ってのは、やはり藤原不比等に言うべきことなんだろうな。『日本書紀』成立時の最高責任者なんだから。

それを書くと、なんか都合の悪いことがあったって言うことみたいだ。だけど、それもおかしい。藤原不比等のご先祖は、まあ、関裕二さんは、百済王子の豊璋だって言ってるけど、まあ、順当に考えれば中臣氏ということになる。百済王子の豊璋であるとしても、藤原不比等が建国の課程をごまかさなきゃならない理由にはならない。それは中臣氏と考えても同様で、なにしろニニギと一緒に天下りしてきた天児屋命なんだから。

じゃあ、なんだって不比等は、建国の課程をごまかさなきゃいけないのか。不比等がごまかさなきゃいけないのは、父親の中臣鎌足が、中大兄皇子と一緒になって、蘇我入鹿を殺し、蘇我本家を滅ぼしたって事。

たしかに、それは成し遂げている。

そのために、蘇我入鹿をたぐいまれな独裁者で、帝位を狙う極悪人に仕立て上げた。東アジアが動乱の時代を迎える中で、改革を阻害する抵抗勢力で、これを倒さなければヤマトは国を誤る。殺されてあたりまえの存在で、その蘇我氏を倒し、改革を先に進めた中臣鎌足と中大兄皇子の側こそ正義であると、歴史を書き換えた





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おとぎ話は単なる童話ではなく、古代史の真相に行き着く「民族の記憶」である
第一章 おとぎ話と古代史の奇妙きてれつな関係の巻
第二章 浦島太郎と武内宿禰の謎の巻
第三章 『竹取物語』に隠された古代史の闇の巻
第四章 金太郎伝説と酒呑童子説話の裏側の巻
第五章 一寸法師と崇る水の神の巻
第六章 ヤマト建国とおとぎ話の不思議な関係の巻
第七章 因幡の白兎に隠された邪馬台国の巻
第八章 桃太郎と謎の吉備の巻
第九章 ヤマトタケルとヤマトの謎の巻
第十章 鶴の恩返し(鶴女房)の謎の巻
第十一章 天の羽衣伝承に残された謎の巻
第十二章 カゴメ歌の謎の巻
第十三章 伊勢神宮とトヨの秘密の巻





しかし、それなら、なぜ建国の課程まで、ごまかすようなことをするのか。そんなことをするから、建国の課程がわからない国になってしまった。

なぜ、鎌足や中大兄皇子の行為を正当化するために、その前後のなり行きだけを改竄するだけでは飽き足らず、ヤマト建国の課程までごまかすようなことをしたのか。

それはヤマト建国の課程において、彼らが卑劣な動機と手段で倒した蘇我入鹿、そして蘇我氏の祖先が重要な役割を果たしていたことを、隠さなければならなかったからのようだ。蘇我氏の祖先の名をあげずには、ヤマト建国は語ることもできなかったにもかかわらず、藤原不比等は蘇我氏の祖先を書かなかった。

しかし、冒頭に書いたように、ヤマトの国が成立する前後で、それまでの支配勢力は完全に力を失った。ヤマトは、根こそぎその国を奪う事によって成立した。

その課程に、『日本書紀』の言う《出雲の国譲り》があり、《天孫降臨》があり、《神武東征》があった。それらのすべてに、蘇我氏の祖先が不可分に関わっていた。

古代豪族は、訓読みの名を持つ。例外的に音読みの名を持つのが蘇我氏だという。これを訓読みで意味を考えれば「よみがえるわれ」になる。古代、ヤマト建国に関わって、力思っていた豪族が、6世紀に入り、再び勢力を拡張したのか。

蘇我の由来は「スガ」で、鉄に関わりのある名だという。「素鵞」で「スガ」と読む。しかし、「スサ」とも読む。各地に存在する素鵞神社の祭神は、スサノオである。蘇我氏はスサノオを氏神とする一族の可能性が高い。

スサノオは高天原で暴れ回り、放逐されて出雲の国を開く。スサノオの子孫が受け継ぎ広めた出雲は天孫族に国を譲り、ヤマトは建国し、出雲は力を失う。放浪して南九州に逼塞した出雲が、神武東征してヤマトに入る。この課程でよみがえった勢力を、藤原不比等の父親が卑劣な動機と手段で倒したなら、不比等はそれを隠さなければならなかった。

しかも、藤原氏は、その後もずっと権力の中枢にあり続けたため、滅ぼされた蘇我氏の側の人々は、改竄された歴史を修正する機会を失った。

だから、おとぎ話に託した。

浦島伝説、一寸法師、竹取物語、天の羽衣、金太郎、酒呑童子、因幡の白ウサギ、桃太郎、鶴の恩返し、山姥。みんな、本当の歴史を伝えようとしている。

そう言えば、女がやってきて、男を、そしてその家を励まし、豊かにし、やがて裏切られて去って行く話、間違いなく同じ事を伝えようとしているな。





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『オオクニヌシ 出雲に封じられた神』 戸矢学

神道の祭儀は千百年前に基本ができあがり、それを記したのが『延喜式』五十巻であるという。その第八巻には最古の祝詞があり、その全二十八編を『延喜式祝詞』という。その二十八編目が『出雲国神賀詞(かんよごと)』には、以下のような、面白いことが書かれているという。

これは、著者の戸矢さんが、解説してくれたものを紹介する。

オオナムチは自身の和魂を八咫鏡に託して、ヤマトの大物主と共に三輪山に祀らせた。のちの大神神社である。オオナムチは自身の子である阿遅鉏高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の御魂を葛城の鴨の山に祀らせた。のちの高鴨神社である。オオナムチは自身の子である事代主命を雲梯(うなで)に祀らせた。のちの高市御県巫(たかいちみあがたにいます)鴨事代主神社である。オオナムチは賀夜奈留美(かやなるみ)命の御魂を飛鳥坐神社に祀り、「近き守護神」とした。

カヤナルミ神は記紀に記載がなく、由緒不明な神で、その分、さらに古い神で国つ神・出雲神だろうという。このように、三輪、葛城、橿原とあげて、飛鳥が最も近いということであるから、守護する対象の宮殿は飛鳥にあったということになるだろう。

これらの祭祀差配をオオナムチが行なったのであれば、そこはオオナムチの支配エリアだろう。つまり、三輪、葛城、橿原、飛鳥を含む大和地方はオオナムチの領地である。

天皇は飛鳥に皇居を構え、そこでオオナムチから国譲りを受けた。譲られた国とは、大和を中心とした出雲国である。

出雲系の神を祀った神社の分布からすると、出雲国の勢力は、出雲を中心とする参院山陽、北東方面は北陸から信濃に及び、南は大和から紀伊に及ぶ。

それが国譲りの対象となった出雲国全体で、中でもその核心は、三輪、葛城、橿原、飛鳥を含む大和地方と言うことか。





河出書房新社  ¥ 1,980

出雲神話は何を隠蔽しているのか。最大の謎の神・オオクニヌシを解明する
第1章 「出雲の神社」に不思議な共通点―東の彼方に恋する神々
第2章 「出雲の地理」は今も昔も僻遠僻地―地の果てに流された大王
第3章 「出雲の祭祀」は特異なスタイル―封印された縄文信仰
第4章 「出雲神話」は、いずこの神話か―お伽噺の底深くに潜む史実


出雲国造家は、崇神天皇の御代に天穂日命の十一世孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)が国造に任命されて出雲氏を名乗り、出雲国造の称号と、出雲大社の祭祀権を、氏族の長が代々受け継いできた。

その後、出雲氏は南北朝期に兄弟間で世襲の争いがあり、千家氏と北島氏に分裂。以後、両家が共に出雲国造を名乗り、祭祀も分担してきた。その状態は幕末まで続き、明治に入ってからは千家氏が世襲で勤めるようになり、北島氏は出雲大社の祭祀には関与しない。

アメノホヒはアマテラスの第二子で、アメノオシホミミの弟神である。オシホミミは天皇の祖神であるから、出雲国造家は、天皇家とは兄弟の血統ということになる。

国の礎は、オオクニヌシが建設した国を奪うことによって成立したが、国を奪われ、命を奪われたオオクニヌシは、怨霊神、祟り神となるに十分すぎる理由を持っていると、誰もが考えた。

そこで杵築に壮大な社殿を建設し、その神霊を慰め、鎮め続けることにした。その重責を担うことになったのがアメノホヒの子孫たちである。

しかし、延喜式祝詞に見られる神賀詞(かんよごと)の奏上の文言は、出雲国造家が天皇の臣下であることを明確に示しているという。どうやら出雲国造家がアメノホヒの子孫で、天皇家と同一の血脈に連なるというのは、後付けの創作の可能性が高い。

国造とは、村々の君主の祀った神を、子孫として祀っているものに与えられた称号だったようだ。出雲族の氏神はスサノオであって、オオクニヌシではない。オオクニヌシは、ヤマトがヤマトのために出雲国造に祀らせた。だから、祀り方、神座の配置、向きがことなるのは当然で、ヤマトの監視下で設定されたはずだ。

オオクニヌシは、天孫ニニギに国を譲った。自ら開拓し経営してきた国を、突然降臨してきたニニギに譲り渡した。話の成り行きでは、息子二人は多少抵抗するものの、大きな抵抗もなく、なにしろオオクニヌシその人が、立派な隠居所を条件に完全に譲り渡すと決意した。

オオクニヌシはさまざまな呼称を持つ。オオナムチ、オオモノヌシ、アシハラシコオ、ヤチホコ、オオクニタマ、ウツシクニタマ。それに関する著者の推理が面白い。

オオクニヌシはヤマト朝廷が作り出した神名で、統合神として国つ神の象徴とされたのではないかと。ヤマト族は、出雲の核心である大和地方に盤踞する出雲族重鎮たちを征討し、合わせて大社に祀りあげることで政権を成立させた。オオクニヌシとは、彼ら征討された者たちの集合体としての神名ではないかと。

すごい壮大な話だな。





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八岐大蛇『オオクニヌシ』 戸矢学

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

半年ほど前、お隣の奥さんが脳溢血で倒れて救急車で運ばれた。症状はさほど重くはなく、リハビリもうまく行ったものの、以前のように一人で住むのは不安があるということで、少し離れたところに住む娘さん家族と同居することになった。お隣は空き家になってしまった。

今朝、ブロック越しに顔をのぞかせているあじさいが、色づき始めているのを見た。

梅雨入りも近い。


本来、神社ってのは、南を見てるんだそうだ。

9割が南向きって言うんだから、ほとんどと言っても良いだろう。太陽信仰に基づくという説、「天使は南面す」という周易由来の説、双方誤りではないと戸矢さんは言うが、それだけに“南向き”ってのは絶対的というわけでもない。つまり、それに勝る理由があれば、違う方向を向くこともある。

ところが出雲地方の主要な神社の多くは東を向いている。主要な神社の中で、南を向いている神社がある。それが出雲大社だそうだ。

出雲大社には、「オオクニヌシの霊異は京都亀岡の出雲大神宮から遷祀された」という伝承があるという。

出雲大社が正式な名称になったのは明治4年で、それ以前は杵築大社と呼ばれていたという。出雲神話では、オオクニヌシが国譲りを容認したのちに、その要望で建築された高楼が杵築大社ということになっている。社殿によれば32丈、97m。東大寺大仏殿がそのおよそ半分で、その後の立て替えで32丈が16丈に縮められ、現在はその半分になっているそうだ。あんまり高すぎて、何度も倒れたらしい。

その巨大さこそ、オオクニヌシの偉大さを表していたのだろう。

しかし、平安時代前期までは、出雲大社の祭神はオオクニヌシだったのだが、その後、1664年までスサノオが祭神だった。神仏習合で神宮寺となっていた寺が変更したらしい。江戸時代に出雲国造家が運動して、記紀の記述に従って、旧に復したという。

平安から江戸まで800年の間祭神だったスサノオは、大社本殿真後ろの素鵞社に祀られているそうだ。オオクニヌシはスサノオの娘スセリビメを妻としているので、オオクニヌシの出雲大社は、後からスサノオに見守られている。

出雲大社は巨大な注連縄が有名だ。注連縄は鎮座する神の偉大さを示すものではない。その神を祀る者たちの恐怖心、畏怖心の大きさを表すものだという。アマテラスは天岩戸に注連縄を張られてしまって、もう戻ることができなくなったそうだ。それが張られては入ることも出ることもできないという、封印の証し。




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出雲神話は何を隠蔽しているのか。最大の謎の神・オオクニヌシを解明する
第1章 「出雲の神社」に不思議な共通点―東の彼方に恋する神々
第2章 「出雲の地理」は今も昔も僻遠僻地―地の果てに流された大王
第3章 「出雲の祭祀」は特異なスタイル―封印された縄文信仰
第4章 「出雲神話」は、いずこの神話か―お伽噺の底深くに潜む史実


祀る側には、オオクニヌシは十分祟る可能性を持った神であるという意識があったということだ。「国譲り」という美名によって糊塗されているが、実際は「服属」であったろう。オオクニヌシを大社に祭りあげ、各地に盤踞したオオクニヌシの勢力を葬り去って、ヤマト政権は誕生した。

そこに生まれた恨みを鎮魂し、怨霊化を封じる社が出雲大社ということになる。

ヤマトタケルは父の景行天皇から熊襲討伐を命じられ、成し遂げて、戻るまもなく、今度は東征を命じられた。厳しい命令を嘆いて、伊勢神宮の斎宮を務める叔母の倭姫命を訪ねたヤマトタケルは、叔母から天叢雲剣を授けられる。この剣の名前は、ヤマトタケル東征の旅の中でのエピソードから、草薙剣と呼ばれるようになる。

第十代崇神天皇の時、八咫鏡と天叢雲剣が祟りをなしたので、皇居の外に祀ることにした。最初に檜原神社、さらには倭姫命によって伊勢神宮に祀られた。倭姫命は伊勢神宮における最初の斎宮となった。

斎宮となった倭姫命が仕えた神は誰か。八咫鏡はアマテラスの依り代。それでは天叢雲剣は誰の依り代か。天叢雲剣はスサノオがヤマタノオロチを倒したとき、その体内から現れたという。この時、スサノオは十握剣を以てオロチと戦った。十握剣が勝者スサノオの剣。天叢雲剣は敗者ヤマタノオロチの剣である。

記紀に、崇神天皇の時、ヤマトは流行病に悩まされ、なんと人口の半分が死んでしまったという。占ってみると、祟っているのはオオモノヌシでその子孫である大田田根子に祀らせれば、流行病は治まるという。その通り、オオモノヌシは三輪山を神体とする大神神社に祀られて鎮まった。そう言えば、オオモノヌシは百襲姫に小さな蛇の姿、つまりオロチとなって現れている。

ヤマタノオロチはオオモノヌシだったのか。多くの部族からなる賊衆の長か。ヤマタノオロチを部族連合と捉えれば、天叢雲剣はその首長の剣。連合体の中心地は大和。その元の首長はオオクニヌシ。後を引き継いだオオモノヌシがそのまま天叢雲剣を引き継いで、大和を切り開いた。

三輪山の神の姿は蛇。旧き神で、縄文の神で、祟る神。

まだ半分も読んでない段階。ものすごく面白いんだけど、話の展開が早く、めまぐるしく変わる。新たな内容に引き込まれる頃には、それまでに読んだことがどこかの置き忘れられてしまう。あとあと、戻ってこられるように、覚え書きに残した。

すでに関連が見い出せないような事が書かれているかも知れませんが、悪しからず。きっと、最後にはバラバラな事柄が、一つの結論に結びついていく。・・・と、いいんだけど。



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イーグルス16

Author:イーグルス16

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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本




















































































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