めんどくせぇことばかり 本 世界 思想
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『お経の意味がやさしく分かる本』 鈴木永城

祖父母に父母、伯父2人伯母1人、叔父4人、いとこ2人の葬式があった。それにともなう法要もあって、そのたびに般若心経を唱えた。

方丈さんが、そのたびに“こころのともしび”という小冊子を配ってくれて、それに般若心経と、白隠禅師坐禅和讃が書かれている。そのたびに持ってきてくれるから、家にはたくさんそれがあった。葬儀法要が続いた時期があって、その頃は、ほとんど暗唱していたが、今はもう無理だな。

お経は本来、その意味が大事なもの。ただ日本にそれが入ってきたときは、“中国”化された文化の体系として、完成したかたちで入ってきた。意味とともに音として完成していたので、お経の専門家である僧侶は、その音のまま意味も含めて理解したんだろうが、専門家でない一般人は、僧侶の発する完成されたその音を、ありがたく聞くしかなかったんだろう。

だけど、長い歴史の中で、ずっとそのままというのもおかしな話だ。お坊さんたちもいい加減に、そのあたりを考えればいい。それとも、そうできない何らかの事情でもあるのだろうか。

この本は、下の目次にあるようなお経の意味が紹介されている。各ページの上部3分の1にお経が、下部3分の2に、その意味が書かれている。

詠ませてもらったんだけど、阿弥陀経、法華経、観音経は、方便がすごくて、かえって分かりづらいような気がする。

「七重の欄干と七重の宝珠で飾られた網、七重の並木があり、それらはみな四宝で飾られ周りを囲んでいる」とか、それを呉音の発音で唱え上げることに意味を感じることが、私にはできない。それは現代人の独善なんだろうか。

理趣経は面白いね。だけど、「セックスにおけるエクスタシーが悟りの境地」とは、私には読めない。性愛は人生において大変重要な側面を持っている。それを煩悩の根源として断ち切ってしまっては、悟りの前に、人生が充足しない。



KAWADE夢新書  ¥ 968

お葬式や法事で読まれるお経。そこには、どんな話が書かれているのか。
お経とは何か
念仏・題目の意味
般若心経
阿弥陀経
法華経(1)
法華経(2)
観音経
理趣経
正信偈
修証義
知っておきたい葬儀・法要の知識


般若心経は何度も何度も唱えたから、ずいぶん前のことだけど、それなりに意味も調べた。方便がちりばめられていないので、こっちの方が分かりやすいと思う。きびしいことが書かれているようだけど、いい結果を導き出すためには、そのための原因が必要であるということだと考えて日々を過ごしている。

白隠禅師坐禅和讃

衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知して  遠く求むるはかなさよ
譬ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱くも此の法を  一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所即ち蓮華国  此身即ち仏なり


白隠禅師坐禅和讃はいいよね。この本には載っていないんだけど、お経って本来、こういうものであってほしい。お坊さんには是非こういうところから衆生を導いて欲しい。

テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『シンデレラの謎』 浜本隆志

《銀河鉄道999》に、主人公の星野鉄郎を銀河の果てに導く、謎の美女メーテルという女性が登場する。

メーテルは古代ギリシャ語で母を表す言葉。大地を意味するのが“ゲー”。“ゲー”が“デー”に転化し、それをメーテルにつければ、大地と豊穣の女神デメテルになる。・・・理屈としてはなんとなく合っている。

豊穣の神デメテルには、ゼウスとの間に生まれたペルセポネという娘がいた。あるとき、そのペルセポネが行方不明になり、必死になって探している途中、兄弟であるハデスからせまられる。身の危険を感じたデメテルが牝馬に変身して逃れようとすると、ハデスも牡馬に変身してデテメルを犯した。

怒ったデテメルは洞窟に逃げ込み、そのため大地は穀物を生み出さず、世は飢饉に瀕する。ゼウスは運命の女神のバウボを遣わし、卑猥な踊りでデメテルを洞窟から誘い出す。このあとゼウスとデメテルの話し合いで、デメテルはペルセポネとハデスの結婚を許す。

兄であるハデスの乱行に対するデメテルの怒りで大地は穀物を生み出さなくなり、ゼウスの知恵によって、その難を逃れるという話の展開は、スサノオの乱行に対するアマテラスの怒りで世は漆黒に閉ざされてしまい、オモイカネの知恵によって、その難を逃れるという日本神話の展開に似る。

運命の女神バウボの卑猥な踊りでデメテルを誘い出すというのは、すぐにアメノウズメの踊りとそれをはやし立てる声でアマテラスを誘い出す天の岩戸伝説そのものだが、《運命の女神バウボの卑猥な踊り》というのは、この本を読んではじめて知った。

でも、日本神話がいくつもの点で、ギリシャ神話の影響を受けているであろうことは、これまで何度も感じたことがある。この本では、その伝播ルートを、黒海沿岸でギリシャ文化の影響を受けたスキタイ人の影響を受けた遊牧騎馬民族によって、北回りで日本に持ち込まれたとしている。

しかし、それでなくても、アケメネス朝ペルシャはすでにインド北西部に及んでおり、ヘレニズム時代には、そこで周辺諸地域の古代文明がシャッフルされ、相互に強い影響を与え合って新たな時代を迎えている。それは中央アジアからシルクロードを通る陸路、また東南アジアを経由する海路で日本に入ってきたと考えるのは、「荒唐無稽な説とは言えない」という著者に、私も賛成だ。



『シンデレラの謎』    浜本隆志

河出ブックス  ¥ 1,650

古代エジプトから日本まで、時代を超えて、なぜ世界規模で伝播したのか
第一章 シンデレラ譚の基本構造
第二章 エジプトからヨーロッパルートのシンデレラ譚
第三章 中近東からアジアルートのシンデレラ譚
第四章 変貌するシンデレラ類話とその連鎖
第五章 ホモ・サピエンスの大移動と神話・民話の伝播
第六章 シンデレラ譚の伝播とメディア
終章 なぜシンデレラ譚は人気があるのか


ずいぶん前の話だけど、とある番組に出演していた若者が、「成田空港から飛行機に乗って、そして降りたときはすでに遠く離れた外国にいるわけだから、歴史や地理の知識なんか必要ない」と言っていた。

「あ~あ、またそんな馬鹿なことを言う奴が出てきた」と呆れていたら、ビートたけしが、「人間の歴史っていうのは、ある意味では移動の連続だから、歴史や地理がちっとも分からなかったら、人間のことがちっとも分からなくなっちゃう」と言っていた。当たり前だな。

神話やおとぎ話も、人の移動にともなって、広がっていった。

私たちの祖先はアフリカで生まれ、その一部がやがて長い旅に出た。私たち物語好きの現代人の祖先は、おそらく私たち以上に神話やおとぎ話を大事にしていたに違いない。

なぜなら、古代の人々にとって、その移動こそが、後に偉大な祖先の物語として神話化されるに違いない、苦難の出来事であったはずだから。

そんな人々が、少なくとも4万5000年前には南アジア、東南アジア、オーストラリアにいたる地域に拡散していった。これらの地域への進出はヨーロッパへの進出よりも早いそうだ。現在の北京近郊の周口店遺跡群が4万年前。日本列島への渡来は3万8000年前頃と想定されているそうだ。

その人たちはすでに、神話やおとぎ話を語り合っていたに違いなく、しかも、人が移動した後に、そのルートが閉ざされたと考えるのは、海で閉ざされて海峡となったケースをのぞいては、むしろ不自然だ。

聖書は、最初の人間が過ごしたはずの楽園を、些細な理由で神に追い出されてしまったことを語っているが、あれは移動の始まりか。

7万年前から1万年前までは最終氷期で、今より大幅に気温が低かった。ノアの箱舟の大洪水は、不信心は人間を神が滅ぼしてしまう物語だけど、実は氷期が終わりに近づいて徐々に気温が上がり、世界のあちこちで大洪水を引き起こしていた。当然世界のあちこちで、大規模な人間の移動が行なわれていたはずである。

ノアの子孫たちは、数は増えても神が準備した世界に広がらず、高い塔を築いて神に近づこうとした。神は人間の不遜な考えを懲らしめるため、それまで一つであった人々の言葉をバラバラにして、人々を世界に散らばらせた。移動させたのだ。

楽園を追放されたイブは、農耕民の祖カインと牧畜民の祖アベルを産んだ。アベルの捧げ物だけが神に喜ばれた嫉妬から、カインはアベルを殺してしまう。農耕民の祖は呪われて、その土地を離れ他の土地へ移動していくことになる。

そのように、聖書はさまざまなエピソードで、人々の移動を語っていることになる。

おそらく神話やおとぎ話は、私たちが想像する以上に早く、速やかに、伝えられ、融合していったに違いない。



テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

その名前『シンデレラの謎』 浜本隆志

どうしたって、ディズニーのアニメ映画で見た『シンデレラ』が圧倒的だね。

いろいろな人が民話を調べて、今では世界中の民話がモチーフごとにそれを分類されているんだそうだ。なかでも、シンデレラ系の話、シンデレラ譚はヨーロッパだけでも500を越え、似た類話が多数あって、線引きすること自体が困難であるほどなんだそうだ。

現在、シンデレラ譚のもっとも古いものは、古代エジプトの「ロドピスの靴」であるという。なんと、ヘロドトスがこれに言及して、彼の著した『歴史』にも、その記載があるという。

もっと古いものが現れる可能性もあるが、とりあえず今は、それをスタートとして、単純にシンデレラ譚の地域伝播ルートが紹介されている。たとえば、ヨーロッパルート。

エジプト「ロドピスの靴」→トルコ「毛皮むすめ」→パレルモ「なつめ椰子」→イタリア「灰かぶり猫」→フランス・ペローによる「サンドリヨン」→ドイツ・グリム兄弟による「灰かぶり」→イギリス「イグサ頭巾」→アメリカ・ディズニー映画「シンデレラ」

アジアルート。

エジプト「ロドピスの靴」→アラビア「足飾り」→イエーメン「可愛いヘンナ」→ペルシャ「金の燭台」→インド「ハンチ物語」→チベット「奴隷の娘」→中国「葉限」⇔ベトナム「タムとカム」⇔ミャンマー「雨期の起こり」→朝鮮「福豆と小福豆」→日本「糠福と米福」「落窪物語」「姥皮」

あれ?私が思い出す日本のシンデレラ譚というと、最初に出てくるのは「鉢かつぎ姫」なんだけどな。それから、「落窪物語」と「糠福と米福」。「糠福と米福」というのは知らなかった。

『落窪物語』は、和製シンデレラとして有名だけど、成立は10世紀だそうだ。シンデレラの話のもとになった『サンドリヨン』が1695年、グリム兄弟の『灰かぶり』が1812年。

『落窪物語』の方が圧倒的に早い。

これは、古代においては、アジアルートの方がはるかに発展していたので、文明の伝播も早かったってことかな。さらには『落窪物語』なみにメルヘンとして洗練されている点においては、ヨーロッパでは『サンドリヨン』を待たなければならない。そうなると、『サンドリヨン』が『落窪物語』の影響を受けた可能性を考えたくなってくる。


『シンデレラの謎』    浜本隆志

河出ブックス  ¥ 1,650

古代エジプトから日本まで、時代を超えて、なぜ世界規模で伝播したのか
第一章 シンデレラ譚の基本構造
第二章 エジプトからヨーロッパルートのシンデレラ譚
第三章 中近東からアジアルートのシンデレラ譚
第四章 変貌するシンデレラ類話とその連鎖
第五章 ホモ・サピエンスの大移動と神話・民話の伝播
第六章 シンデレラ譚の伝播とメディア
終章 なぜシンデレラ譚は人気があるのか


“灰かぶり”という名前が出てくる。継母と義姉立ちからいじめられ、台所の片隅で「灰にまみれて下働き」をしなければならないヒロインの、不遇な境遇を表すという。

ただそれだけではなく、シンデレラ譚には、必ず異界からの助けが現れる。そうしてシンデレラは、表舞台で脚光を浴びることになるのだ。異界とは、人の力の及ばない世界、超能力、神、悪魔、妖精、自然現象も異界に属するという。

竈は火を扱うところ。火には特別な力があって、つまりは異界に属する。そのなれの果てである竈の灰をかぶって下働きをするヒロインは、まさに異界との接点に存在している。だからこそ、不思議な力の助力を得られたということになる。

さらに、シンデレラという名前にも奥があるという。英語名のシンデレラ=Cinderella、フランス語名のサンドリヨン=Cendrillon、ドイツ語名のアッシェンプッテル=Aschenputtel。言葉の前半にある英語のcinder、フランス語のcendre`、ドイツ語のascheには、いずれも“灰”という意味があるそうだ。

“台所の片隅で灰をかぶる哀れなヒロイン”と同時に、異界との接点に存在し、異界の助力を得られる立場を表しているんだろう。

後半の語尾は、英語ではella、フランス語でillonとなっており、これは小さなものを指す接尾語で、本来の意味は消失しているという。しかし、ドイツ語の後半、puttelは、性的な蔑称という意味を込めた「女の子」だそうだ。『サンドリヨン』では、義姉がヒロインを“灰尻っ子”と呼んでいる。ポルトガルのシンデレラ譚は、『かまど猫』といい、“尻っ子”や、“猫”は、puttel、つまり「女の子」への性的蔑称と考えて良いようだ。

それは、竈近くで灰まみれになって働く女の子というだけではなく、「灰にまみれた陰部」という侮蔑的な意味が隠されていると、筆者はいう。

たしかに、確認されているもっとも古いシンデレラ譚である『ロドピスの靴』はじめ、初期のシンデレラ譚においては、ヒロインは遊女であり、娼婦であった。それが伝播して行くに従い、遊女や娼婦という表現が消えたものの、名前の一部にその意味が隠されたということらしい。

キリスト教では、灰には汚れを浄化する力があるという考えがあり、ヒロインは灰に過去を浄化されて、王子様と結婚する。靴がピッタリ合うのは、性的和合を表しているそうだ。

どうも、中身を知れば知るほど、なまめかしい話だな。



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『日本人なら知っておきたい仏教』 武光誠

いろいろな釈迦如来像があるけど、本当にお釈迦さまに似ていたものはあるのかな。

仏像が彫られるようになるのはクシャーナ朝の時代だから、紀元後の話。お釈迦さまが生きていた頃からすれば、500年以上後の時代。ガンダーラはカイバル峠の外側、今で言えばアフガニスタンで、お釈迦さまの活動領域からは遠く離れたばしょである。

しかも、アレクサンダー大王の東征の時、インド北西部までやってきたギリシャ人の持っていた彫刻文化が仏教思想と融合したのがガンダーラ美術。仏像はどこか古代ギリシャの神像に似て、スッと鼻筋が通っているものが多い。

そういうことになると、似ても似つかない顔かともおもうけど、クシャトリア階級のガウタマ・シッダールタ王子だから、アーリア人としてインドに侵入した外来侵略民族。それこそカイバル峠の外からやってきた、根っ子では古代ギリシャ人ともつながる白人種。

ゼウスはギリシャ神話の最高神と言われる神であるが、雷をシンボルとし、武器とする神であった。そう言えば、インドに侵入したアーリア人たちの持ち込んだバラモン教。その最高神ともされるのはインドラ神。インドラもゼウスと同じく雷の神さま。なんだか、ギリシャとインドのアーリア人っていうのは、共通項が多いようだ。

それを考えれば、お釈迦さまをモデルにしたわけではないが、なんとなく似ていてもおかしくないってところだろうか。

この本は、ガウタマ・シッダールタ王子に端を発する仏教という宗教が、本来、どのような宗教であって、どのように発展し、どのように移り変わっていったか。そして、それが広まっていく過程で、各地域地域の土着の信仰や文化と融合し、どのように変化していったか。さらには、どのようにして日本にたどり着いたか。日本にたどり着いた仏教は、どのような宗教になっていたかを、全般を網羅するように、的確に一冊にまとめた本と、そう言えばいいかな。

「日本人なら知っておきたい」なんて言われると、なんだか嫌らしいな。武光誠さんは、同じKAWADE夢新書から『日本人なら知っておきたい神道』という本も出している。だけど、仏教という宗教、神道という宗教を知っていれば、日本人の信仰心が分かるというものでもない。

仏教だけでも、神道だけでも表しきれない、日本人的信仰心、“日本教”と呼ぶ人もいるけど、本当ならば、日本人ならその日本人的信仰心をこそ知っておきたいもんだと思う。

武光誠さんには、次は是非それを書いて欲しいと思う。

この本を買った理由は、仏教が変遷していく前の、お釈迦さまが説いた教えを振り返っておきたいっていうところにあった。



KAWADE夢新書  ¥ 968

私たちの生活に深く根付いている仏教 無常・中道・慈悲という道標
プロローグ 仏教が私たちに教える「生きる道標」とは
1章 シャカ族の王子は、なぜ地位を捨て、どのように教えを説いたか
2章 諸行無常・涅槃寂静・・・。人々を諭し、慈しむ愛の言葉
3章 極楽はどこか?地獄とは何か?死語の風景から見えてくるもの
4章 仏教がアジアで発展し、受け継がれていった軌跡
5章 平安から鎌倉期に開化した「日本仏教」の開祖の教えとは
6章 如来、菩薩、天部、明王・・・。仏さまと日本人の意外な関係とは
7章 礼拝、戒律、葬礼、供養・・・。その約束事に込められた意味とは
8章 座禅、禅問答、精進料理・・・。世界が注目する「ZEN」の深さとは
9章 呪術、大日如来、曼荼羅・・・。その得意な世界観の謎とは


たとえば、インドにはベジタリアンが多いそうだ。お釈迦さまが仏教の布教を始めたのと同じ頃に成立したジャイナ教の信者は、今でも厳密な不殺生を守っているという。不殺生こそがジャイナ教の重要な教義だったからね。

だけど、お釈迦さまの教えには、肉食の禁止はないんだそうだ。出家者に信者から布施された食べ物は、すべてありがたくいただくようにと言うのがお釈迦さまの教えで、それが肉料理であっても断わってはいけないというものだった。

インドの全体的な道徳観に不殺生があり、徐々に仏教にも取り入れられ、大乗仏教が成立したときに、それが戒律となったようだ。お釈迦さまの大らかさを離れて、窮屈になってしまったわけだな。

お釈迦さまの教えは、本来、難しい教義ではなく、誰にでも受け入れられる理解しやすいものであった。

花は散り、若者は老い、やがて亡くなる。すべてのものはうつろいゆく運命にある。その運命を背負って私たちはどう生きるべきか。偏った考えを捨てて、ほどほどの道を生きるべきだ。無常を知り、中道をの生き方を志すものは、人に楽しみを施し、苦しみを取り除く、慈悲の心を持って生きることを心がければいい。

おそらく、仏教教義の中枢って、それだけだと思う。

ただ、自分が中道の生き方が出来ているのかどうかというのは、難しい。常に自分を振り返り、あるいは外から自分を見つめるようにして、その生き方を修正していかなければならない。

それは、人から、「それでいいよ」って言われるものではないんだな。常に、自分で自分を律しなければならない。

そう言えば、お釈迦さまの言葉の中に、「犀の角のようにただ一人歩め」というのがある。中道を外れた生き方をせず、迷いなく歩めるようになるまで、結局、孤独に一人で精進していかなければならないわけだな。

お釈迦さまが亡くなるとき、弟子たちに残した言葉が、「修行者たちよ、お別れを告げる。諸行は無常である。怠りなく努力せよ」というものであったそうだ。「犀の角のようにただ一人歩め」という言葉に、どこかで通じているようだ。

お釈迦さまが亡くなったあと、お釈迦さまの教えをできるだけ性格に後世に残そうと、なんどか仏典結集が行なわれた。だけど、もともとお釈迦さまは、弟子たちに自分の考えを押しつけず、自ら考え、修行することを大事にしていたそうだ。初期の教団には、そのようなお釈迦さまの考えに基づいた、多様な考えを許容する自由な性格があったそうだ。

無常、中道、慈悲といった肝心な点を外すことがなければ、自分に合った修行のやり方で、悟りをめざせばいいという大らかさが、お釈迦さまにはあったに違いない。

やはり宗教には、その大らかさがなければならない。大らかさに欠けた宗教は、人を不幸にするばかりにしか思えない。

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『女と男 なぜわかりあえないのか』 橘玲

人間の脳は、長い進化の過程の中で、今あるそのように設計されてきた。反発する人もいるだろうが、多くの研究者が膨大な実験を積み重ねてこの結論に達しており、現時点でこれを上回る説得力を持つ科学は存在しない。生き物はすべて、構成により多くの遺伝子を残すよう設計されてきており、人間も例外ではないというだけのことだ。

男にとってセックスのコストほぼゼロであるから、より多くの遺伝子を残そうとすれば、妊娠可能なより多くの女とセックスする。それに対して、妊娠・出産・子育てを考えた場合、女にとってセックスのコストはものすごく高い。だから、セックスする相手は慎重に品定めする必要がある。

妊娠可能なより多くの女とセックスしたいというのが、男の生き残り戦術だったのか。だったら、現実世界で一番都合が良いのは、妻に子育てをさせておいて、他の女と浮気をして子どもを産ませることだな。

まあ、二軒を構えるには、それなりの甲斐性がなければ出来ないことだけど、それが出来るなら、何軒でも構えれば良い。道徳には反するけどね。

女にだって、戦略はある。ただし、最近それが、かなり危険になってきた。

女が身も心も震える状況って言うのは、第一番手の男に選ばれて結ばれるという状況。男としての魅力にあふれ、経済的にも社会的にも地位が高い男の子どもを産み、育てる。その場合、心配しなければならないのは、それだけの男には、いくらでも女が言い寄ってくる。幼い子どもを抱えて放り出されては、母子ともに飢えて死んでしまう。

そこで、一番手の男ほどではないが、それなりに能力を持った男を、長期的なパートナーとしておく。その上で、一番手の男の子どもを産めば、確実に育てることが出来る。

カッコウは自分で子どもを育てず、他の鳥の巣に托卵する。短期間で孵化したカッコウの雛は、まわりの卵や雛を巣の外に蹴飛ばし、仮親からの給餌で成長する。

社会的な動物でもチンパンジーのような乱婚型なら、父親は子育てをしないから、血がつながっているかどうかに関心を持つ必要はない。だが一夫一妻型では、父親は子どもにさまざまな資源を投入するのだから、托卵戦術は大問題になる。

処女を珍重したり、思春期を迎えた女性の顔にヴェールをかぶせたり、クリトリスなど性器の一部を切除したり、貞操帯で性行為が出来ないようにするのは、托卵への文化的な防衛策と考えることが出来る。


ある国の王様が戦争に出掛ける際に、王妃に貞操帯を付け、その鍵を最も信頼できる家臣に預けた。
「万が一、余が戦死したならば、この鍵で王妃を解き放つがよい」
「その命令、しかと承りました」
王様は安心して軍と共に港へ向かった。王様が軍艦に乗って敵地へ赴こうとしたとき、丘の上から家臣が馬で疾駆してきた。
「王様! 王様ぁぁ!」
「なんじゃ! いかがいたした!」
「鍵が間違っておりまするぅぅ!」



文春新書  ¥ 880

ベストセラー『言ってはいけいない』の著者が、男女のタブーに斬りこむ!
はじめに 性の基本は女、オスは「寄生虫」
男と女の欲望はなぜすれちがうのか?
ナンパが証明した男女のちがい
同性愛者が教えてくれる男女の性戦略
「性器が反応しても興奮しない」不思議
男と女はちがう人生を体験している
男は52秒にいちど性的なことを考える
恋愛はドラッグの禁断症状と同じ?
「痴女」はほんとうに存在するのか?
ロマンス小説の読者が“欲情”する男性像〔ほか〕


この子は、本当に自分の子なのか。妻が、他の男と浮気をして生まれた子じゃないのか。これは単なる男の妄想とは言い切れない。

父親が血のつながらない子どもを、自分の実の子と思って育てているケースは、10パーセント前後だそうだ。遺伝病を調べるために行なわれた調査で、10パーセントの子どもが父親と遺伝的なつながりがないという結果が出たこともあるそうだ。

ジョージは町一番の美人キャシーの心を射止め、結婚を約束した。その晩、ジョージは両親に喜びの報告をした。
「父さん、母さん、実は僕、キャシーと結婚することにしたんだよ!」
すると父親の顔が突然曇り、部屋へ戻ってしまった。ジョージは慌てて父の後を追い、部屋で事情を聞いた。やがて父親は重い口を開いた。
「実はな...父さんは昔、一度だけ浮気をしたことがあるんだ...キャシーはそのときにできた子供なんだよ...だからオマエはキャシーとは異母兄妹ってことになるんだ」
父親の告白を聞いたジョージがうなだれていると、二人の会話をドアの外で聞いていた母親が部屋に入って来るなりジョージに言った。
「そのことなら全然心配は要らないわよ」

まったく、すごい本を世に出したもんだ。

書いたのは、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』の橘玲さん。“男と女”、いや“女と男”だね。なにしろ、女は男の劣化したコピーではなく、性の基本は女、放っておけば女になる。その女から、男が別れ出た。

アダムの肋骨からイブが作られたなんて言う時点で、すでに間違ってた。イブからアダムが分岐したんだ。

でも、だからこそ、やっぱり女と男は違う。違いすぎる。男と女を合わせて、種は維持されているわけだけど、じつはそれぞれ異なる性戦略を通して、それが成し遂げられているわけだ。

男の性戦略は、妊娠可能なできるだけ多くの女とセックスをして、できるだけ多くの女を妊娠させること。

セックスして妊娠し、子宮内で赤ちゃんを育てて出産し、お乳を与え、大きくなるまで育て上げる女の性戦略は、当然男とは違ってくる。長く付き合え、一緒に子育てをしてくれる男としかセックスしない。

その出発点が違う。ぶつかり合って、けんかにもなる。すったもんだして、子どもを育て上げていくうち、じきに更年期を迎え、女も男も性ホルモンのレベルが下がってくる。そうなると、同じご飯を食べて、同じような生活をしているんだから、考えることもよく似てくる。

脳の性差がなくなって、戦略にこだわる必要もなくなった頃、戦友のような絆で結ばれるのか、幸福な夫婦の仮面がはがれて憎み合うのか。

うちはどうかな。



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恋愛ホルモン『女と男 なぜわかりあえないのか』 橘玲

思い起こせば、恥ずかしきことのかずかず

あの“恥ずかしきことのかずかず”は、どうやら恋愛ホルモンの仕業だったようだ。

すべての生き物は、生存と聖職に最適化されている。リチャード・ドーキンスと言う人は、著書『利己的な遺伝子』で、私たちは遺伝子の複製のための乗り物に過ぎないとまで言っているそうだ。腹が立つ言い方だけど、たしかにそうだ。遺伝子の複製に成功したから、今、私はここにいるわけだ。遺伝子の複製に失敗したものは、存在できないんだから。

遺伝子の複製には生殖が必要だけど、生存が確保されなければ生殖にはたどり着かない。そりゃ、卵を産みに川をさかのぼってくる鮭を見ればたしかにその通りだな。生きて、故郷の川にたどり着いて、ようやく生殖だからね。

人類の歴史を考えたって、今は、人が生まれて、男であれ女であれ成長して、巡り合って、生殖して、父親母親として子どもを育て上げて、人生をまっとうして死ぬという人生が、まあ、先進国では当たり前になっている。

だけどそれはごく最近のことで、人類の歴史の大半は、飢餓との戦いだった。それでも子孫を残すために、男は自分でも持て余すほどのとてつもなく強い性欲を、女はとてつもなく強い我が子への愛着を持つように遺伝子を設計し直してきた。

それが、産業革命による急速な科学技術の発展で、経済的な豊かさを手に入れる国が、西洋に登場する。経済的な豊かさをめぐって、限られた資源の奪い合いが激しくなり、大きな戦争が発生した。ほんの75年前のことだ。

長谷川慶太郎さんは、《戦争と革命の20世紀》と言っていた。戦争と革命で、もの凄い数の人が死んだ。その反動で、人々は、なんとか折り合いをつけて、かつての悲劇を最小限にとどめようと努力した。そして、とてつもない豊かで平和な時代が到来した。

先進国においては、生存への不安が最小化した。

生存と生殖という2つの目的のうち、生存問題が解決され、生殖が人間の生きる唯一にして最大の目的となった。

そうだな。たしかに自分の人生を考えてみても、生存を意識しなければならない状況にはなかったな。75年前、17歳だった父や母は、おそらく生存を強く意識していたろうけどね。おかげで私は、生殖のみを最大の目的として生きてくることが出来たわけだ。

なんかそう考えると、自分がただの性器になったようで、気分悪い。



文春新書  ¥ 880

ベストセラー『言ってはいけいない』の著者が、男女のタブーに斬りこむ!
はじめに 性の基本は女、オスは「寄生虫」
男と女の欲望はなぜすれちがうのか?
ナンパが証明した男女のちがい
同性愛者が教えてくれる男女の性戦略
「性器が反応しても興奮しない」不思議
男と女はちがう人生を体験している
男は52秒にいちど性的なことを考える
恋愛はドラッグの禁断症状と同じ?
「痴女」はほんとうに存在するのか?
ロマンス小説の読者が“欲情”する男性像〔ほか〕


受精卵が子宮に着床して8週から、Y染色体を持つ胎児のテストステロンが急激に増加するんだそうだ。これで、男の子と女の子の違いが始まるんだそうだ。18週にかけて小さな睾丸から高レベルのテストステロンが分泌され、子宮などの生殖器の発達が抑制され、男の子脳を持った子どもが生まれてくる。

このテストステロンこそ、男性ホルモンだそうだ。

さらにこれが、思春期に急増するんだそうだ。もうこうなると、たまらない。テストステロンは性欲に関係し、助成にも分泌されるものの、男性のそれは、助成の100倍だそうだ。著者の橘玲さんの言い方が良い。

「高濃度の性ホルモンに“酩酊”することで、男は思春期以降、セックスのことしか考えられなくなる」

たしかにそうだった。

おもしろい本やマンガを読んでいるか、サッカーやってるか、それ以外は女の子のことばかりを考えていた。ソフト部に気になる女の子がいたんだけど、サッカー部で練習していても、同じ校庭で練習しているから、その子が目に入っちゃうと、もうたまらない。

ドーパミンは情熱的な恋のホルモン。ドーパミンがもたらすものは、快感ではなくて、快感の予感なんだそうだ。快感をなんとしても手に入れようという強烈な衝動。

私は我慢できずに、夜の中にかけだした。その窓に明かりがついているのを見るために。あの時、ドーパミンが大量に分泌されていたんだな。

ノルアドレナリンは、驚きや興奮のホルモン。その子と隣の席なんかなろうものなら、ノルアドレナリンの出っぱなし状態ってことか。

セロトニンは気分を安定させる幸福ホルモン。ところが、ドーパミンはセロトニンレベルを下げる作用があり、幸福感から一気に絶望の淵に、そしてなんとしても手に入れようと、衝動ばかりが強くなる。

恋愛でドーパミンが大量に分泌される状態は、半年くらいしか続かないんだそうだ。その後は、女性には愛と信頼のホルモンであるオキシトンが分泌されて恋人や子どもへの愛着を強め、女性にはメイドガードホルモンであるバソプレッシンが分泌されて女性を独占したい思いを強める。

“激しさが愛”という季節は、こうして過ぎるわけだな。

あの“恥ずかしきことのかずかず”は、これらの恋愛ホルモンに踊らされていたわけか。まあ、仕方がないか。遺伝子複製のための乗り物でしかない私なんだから。・・・でも、一様、成功したからね。



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弥勒『菩薩』 速見侑

広隆寺の半跏思惟像は、実際、衝撃的だった。

大好きだった女の子にそっくりだった。まったく、なあ。40年以上前のことなのに、今でもありありと思い出す。気がついたときはもう好きだった。小学生の後半の頃か。もともと、グズグズしている性格なので、何にも出来ないでいてね。反対に、変に意識しすぎて、今考えても恥ずかしいような言行に走ってた。そのまま中学生、高校生。

高校2年の修学旅行だった。私の高校の修学旅行は、昼過ぎに京都駅について、そこからの4泊5日、すべて班別自由行動。5日目の昼過ぎに京都駅に集合して帰る。もちろん、その日、その日、方面を決めて見学して、同じ宿に帰る。決められた時間までにね。先生方にとっては楽な修学旅行だな。

三日目あたりに広隆寺に行ったんだと思う。おそらく嵐山方面を回る予定だったんだろう。そこで、弥勒菩薩半跏思惟像を見たんだ。それが大好きだった女の子にそっくりだった。その子とは小学校から高校まで同じ。小中はみんな知り合いみたいな学校で、そんなところで、好きだのどうだのとほじくり返されるのはまっぴらだし、高校に入ってからは男女共々いろいろな交友関係が出来て、そのうちなんとなく諦めが入って、結局、片思いのまま終わる。

そんなさなか、半跏思惟像を見て、本当にその子にそっくりに見えた。厚ぼったい目元。ふっくらした頬。裸の胸に膨らみはないが、そこにさえ私は、彼女のセーターの胸の膨らみを重ねて、ものすごくなまめかしく見えた。

弥勒菩薩半跏思惟像なら何でもいいってわけではなくて、その後見た中宮寺の半跏思惟像を見ても、その子に重なることはなかった。仏像としては、中宮寺の方がいいと思う。ただ、私は広隆寺の半跏思惟像に、仏像としての何かを期待しているのではなく、そう、手を伸ばすことさえ出来なかった初恋のあの子を思うだけなのだ。恥ずかしながら、今でもね。

弥勒はやがて仏になることが定まっている菩薩。現在は、仏になろうと兜率天で修行中の菩薩。釈迦がこの世を去って五十六億七千年万年で私たちの住む世に下りてきて女に宿り、この世で悟りを得て仏となる。仏となった弥勒は三度にわたって有縁の人々に説法する。これを弥勒三会といい、人々はこの弥勒三会に巡り合って救われる。


『菩薩』    速見侑

講談社学術文庫  ¥ 1,012

菩薩とは、ボーディ=サットバに由来し、「悟りを求める人」という意味を持つ
菩薩とはなにか
観音総論
観音各論
聖観音 十一面観音 不空羂索観音 千手観音 馬頭観音
如意輪観音 准胝観音 六観音 三十三身と三十三観音
弥勒
文殊
普賢
虚空蔵
地蔵
その他の菩薩


弥勒三会は遙かな未来だから、さしあたって現世で善行を積み、死後は兜率天に上生して弥勒のそばで過ごし、弥勒の下生に従って地上に還り、弥勒三会に巡り合いたい。

上生、下生とあるが、最終的な目的は、下生に立ち会い、弥勒三会に巡り合って救われること。まあ、そういうことのようです。

私たちになじみのある死後往生の対象は、まずは極楽往生。だけど、本来は弥勒浄土、阿弥陀浄土、無勝浄土、華厳浄土とあって、信仰上大きな比重を占めるのは弥勒浄土と阿弥陀浄土だったんだそうだ。

奈良から平安までは、結構、弥勒浄土の比重が高かったらしい。法華経によれば、この経の力で、「死後、千仏に手を引かれ、悪趣におちずに兜率天上の弥勒菩薩のところに往く」と説かれているという。

平安時代の終盤、末法到来が盛んに説かれた。当時の計算では永承七(1052)年、世界は末法に落ちるはずだったらしい。仏法は衰え、人身は悪化し、悪事のみが横行する世界。政治を壟断する藤原家によって、国家の利益はすべて吸い上げられ、律令国家はいよいよ最後の時を迎えつつあった。

このような情勢は、来世の浄土を欣求する信仰を高まらせた。人々は、遙かな未来に訪れるはずの、末法の世を救う当来仏弥勒の下生を待ち望んだ。弥勒下生の時に説法を行うと言われる金峰山が参詣人を集めるようになり、空海は弥勒下生を待って、高野山に生身のまま入定したという信仰も生まれたそうだ。

兜率天から弥勒が下生し、弥勒三会の説法により人々は救われる。

これって、イエスが降臨して最後の審判が行われ、イエスを信じる者は救われるってのと、ほぼ同じ。

弥勒下生信仰は、やがて未来の救済から現世の救済へと変化していく。弥勒の下生によって実現する救いの世は、ある意味で理想郷。弥勒下生への期待が社会変革を求める意識と結ぶと、これはある意味で棄権しそうとみなされかねなくなる。たとえば、幕末の世直し一揆には、「呑物、食物はもちろん着物までも不足なく、まことにミロクの世なりけり」と認識されていたらしい。

いつの日か地上に現れるであろう幻のユートピア。・・・かなり危険な思想だな。

はるか遠くの未来に下生するはずの弥勒菩薩なのに、私の夢には時々現れて、今でも私を悩ますんだ。その時の弥勒は・・・。




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菩薩道『菩薩』 速見侑

“ボーディ・サットバ”

これが日本で菩薩と呼ばれるものの、もともとの言葉。サンスクリット語だね。これを漢文に訳したときに菩提薩埵と書き表し、これを略して菩薩になった。もともとのサンスクリット語で意味を捉えると、ボーディ=悟り、サットバ=有情で、悟りを持った有情、悟りを求める人と言うことになるんだそうだ。

ただ、「悟りを求める人」と言ってしまうと、仏教とみんなになってしまう。そうじゃないんだな。自分が悟りを開けばいいという自利の求道者ではなく、悟りを求めると同時に仏の慈悲行を実践して一切衆生を救おうとする利他の求道者を菩薩という。

そういうことならないと、やはりしっくりきません。大乗仏教の理想的修行者像と言うことだ。

仏教が起こった頃、つまり釈迦が生きている頃にはボーディ・サットバ”という言葉はないし、亡くなってからずいぶんしてから生まれた言葉だそうだ。どうやら、釈迦入滅後の仏教の歴史をたどる必要があるらしい。

釈迦が亡くなってしばらくすると、当然のように教説の解釈を巡る対立が生まれ、教団は分裂したんだそうだ。亡くなって100年もすると、戒律に厳しい保守的な上座部と、比較的寛容で自由な大衆部に分かれた。これを根本分裂と言って、このあとは分裂に分裂を重ねて対立した。これらの教団を部派仏教と言い、彼らの関心事は苦行と学問によって自らが悟りを開き、輪廻から解脱することにあった。

出家したそれらの僧侶とは違う動きが一般民衆の中にあって、それは釈迦入滅後、その遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)を供養することだった。釈迦を追慕する民衆にとって仏塔は釈迦そのものであり、それを礼拝し、清掃供養し、財を寄進する者は、現世では福徳を得、来世は天上に生じ、ついには成仏するという考えが生まれた。

仏塔の管理運営を巡って、出家者だけでなく在家信者を含む信仰集団が形成され、自利行のみを行う部派仏教を批判するようになる。

釈迦への追慕は、釈迦前身への関心をも高めることになる。悟りに至る前の、悟りを求めつつ慈悲行を実践して一切衆生を救おうとする釈迦の実践を明らかにしようという取り組みが、信仰集団によって行われていく。それが、真の悟りを求めて仏になろうとする請願、すべての人を救おうとする大慈悲心、これらに裏付けられた六波羅蜜に代表される行にまとめ上げられていく。


『菩薩』    速見侑

講談社学術文庫  ¥ 1,012

菩薩とは、ボーディ=サットバに由来し、「悟りを求める人」という意味を持つ
菩薩とはなにか
観音総論
観音各論
聖観音 十一面観音 不空羂索観音 千手観音 馬頭観音
如意輪観音 准胝観音 六観音 三十三身と三十三観音
弥勒
文殊
普賢
虚空蔵
地蔵
その他の菩薩


幼い頃は、家族の死なんて受け入れられるはずがないと思ってた。誰でもそうなんじゃないかな。けっこういい歳になるまでそうで、祖父が亡くなったという連絡を受け取った大学の4年の時までだな。

その時になって、ようやっと分かった。「ああ、死ぬんだな」ってね。

そのあとは、祖母、母、父を見送った。その死によって学んだことは、とても大きかった。死んでみせるって、大切なことだな。私もしっかり死んで見せなきゃな。孫たちのためにもね。

たくさんいた両親の兄弟たちも、残ってる方が少なくなった。そのたびごとにお経を上げてもらった。般若心経は必須だったな。「心のともしび」ってのが配られて、一緒にお経を上げた。たくさん葬式があったんで、覚えてしまった。なんかすごい者を覚えたような気がしてたけど。お経ってのは、本来、その意味にこそ意味がある。意味を知ったら、怖くなった。

般若心経は、ちゃんと言うと、摩訶般若波羅蜜多心経。

六波羅蜜の波羅蜜、正式には波羅蜜多は、サンスクリット語のパーラミータの音写だそうです。迷いの此岸から悟りの彼岸に至る意味で、菩薩が悟りに至るために行う布施(慈善行為)、自戒、忍辱、精進、禅定(瞑想)、そしてこの五波羅蜜の根本となる般若波羅蜜(完全な悟りの知恵)の六つを六波羅蜜と言うそうです。

出家による悟りを求めることが出来ない在家の仏教徒は、そのような成仏にいたる道程として、一切衆生救済の慈悲心に裏付けられた菩薩道が具現化すると、釈迦の前身である釈迦菩薩だけでなく、未来仏である弥勒菩薩とかね。現在菩薩道を実践している様々な菩薩が考え出されて、観音菩薩とか、文殊菩薩とか、普賢菩薩とかね。

菩薩道の確立は大きな変化だった。「悟りを求めて一切衆生を救おうと努める菩薩道の実践こそ仏の願いにかなうもの」って理屈は、なかなか強い。なかなか強いけど、本来の釈迦の教えからは離れてるよね。大きな変化と言うよりも、違う宗教の成立と言うべきか。

菩薩道の実践に努める人々は、自らの道を“大乗”と呼んだわけだ。




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『今昔物語集 天竺篇』 国東文麿

“本朝”と呼ばれるのが、この日本にあたる。

“震旦”が“中国”。これは古代インド人が“中国”の秦王朝を秦の土地という意味で「チーナスターナ」と呼び、これに漢字が当てられたもの。

“天竺”がインド。文明の成立したインダス川のことをイラン語でHindu、あるいはHindukaと言ったらしい。イラン人も、インドに南下した人々と同じインド・ヨーロッパ語族だから、古代インドでもこう呼んでいたんだろう。ヒンドゥー教のヒンドゥーだな。

中国人がインドに関する情報に触れた最初は、張騫による西域探検によるものだが、司馬遷は『史記』の中でHindukaをもとに身毒の名でインドを表しているという。天竺も、同じくHindukaに漢字を当てたもので、後漢書は天竺を使っているという。

インドとヒンドゥーは、両方ともインドを表す語だが、単に発音の問題と思っていたが、違うようだ。インドは古代ギリシャ語を経てラテン語でIndusとなり、ここからインディア、さらにインドとなった。発音上の問題ではあるが、経路が違った。

12世紀と言えば平安末期から鎌倉という時代。その時代に成立したのが、この『今昔物語集』という巨大説話集。全体がまず、天竺・震旦・本朝の三部に大きく分けられていて、さらにそれぞれが仏教説話と世俗説話に二分されている。

それにしても、その当時で言えば、天竺・震旦・本朝とは、世界のすべてであったはず。つまり、世界中の説話を集めたのが『今昔物語集』と言うことになる。世界中の興味深い話、教訓になる話が集められたって言うんだから、こりゃすごい本だ。

まだ新米教員だった頃、私は歴史の授業で宗教の話をしていたが、年配の倫理の先生から、宗教的な話を避ける人が多くて困ると言う話をされたことがある。戦後の社会科教育では、日本の神話とか宗教とか、そういうものは日本を戦争に導いた良くないもののような捉え方が一般的だったからね。その人は、日本神話や仏教の話も、たくさん授業で取り上げていた。

「面白い話がたくさんあるんだ」って、私にも宗教の話をどんどんするように勧めてくれた。「たとえば」と言って、その先生は“魔羅”の話をし始めた。「生徒に受けるんだよ、これが!」って自慢そうに。

そりゃ、陰茎の俗語だからね。

鴦屈魔羅は、あるとき師の不在中に師の夫人に誘惑された。怒った師は彼に、千人を殺し、千の指で鬘を作るよう言い渡す。彼は諸国を遍歴して目標に近づき、千人目に自分の母親を殺そうとしたとき釈尊に会い、邪法を捨てて正法を聞くに至った。

その学校は、威勢のいいのばっかり集めたような男子校だった。



講談社学術文庫  ¥ 2,321

十二世紀に成立した、仏教譚を集めた巨大説話集のうち天竺を舞台にするもの
巻1 釈迦如来、人界に宿り給える語 ほか
巻2 仏の御父浄飯王死にたまいし時の語 ほか
巻3 天竺の〓舎離城の浄名居士の語 ほか
巻4 阿難、法集堂に入る語 ほか
巻5 僧迦羅・五百の商人、共に羅刹国に至る語 ほか


仏陀が息子のラーフラを出家させようとしたとき、母親のヤショダラーはそれを妨害した。「女は愚かな心ゆえに子を愛するが、死んで地獄に堕ちてしまえば永久に別れ別れになって、後悔してもどうにもならない。ラーフラが悟りを開けばかえって母を救い、永久に生老病死の苦の根本を断ち、私のようになれるのに」って仏陀は言ったそうだ。

このとき、ラーフラは9歳。

ヤショダラーは言い返したそうです。「仏陀が太子であったとき、私を娶り、私は妻になりました。私は天神に仕えるようにして太子に仕えました。そしてまだ3年も経たないうちに、太子は私を捨てて宮殿を出て行かれました。その後、国に帰ることもなく、私にお会いにもなりませんでした。今になって我が子を取り上げてしまってもいいものでしょうか」

その通りです。それでも周りはよってたかってヤショダラーを説得し、ラーフラを取り上げるのです。

この段階での仏の教えって言うのは、麻原彰晃の言うことと同じだな。

ラーフラが麻原彰晃に感化されちゃって家のお金まで持ち出す騒ぎになっちゃって、そういうのが結構いるもんだから、ヤショダラーと母親たちは、弁護士の方に相談した。

弁護士の方はとても人間的で有能な方で、ヤショダラーや母親たちの苦しみに寄り添い、なんとか子どもを取り戻すことが出来るように努力した。

麻原彰晃はヤショダラーや母親たちの愚かさにあきれ果てた。そして邪法によって子どもたちを取り戻そうとする弁護士を、弟子たちに命じてその家族もろともポアさせた。

社会的背景が違うわけだから、上記のような切り貼りは当たらないと言われるかもしれないが、私は本質的な部分では違わないと思う。

仏陀の教えは悟りを開くための作法だ。本質的には悟りを開かなければ苦しみから解放されることはない。悟りを開いた人を拝んだからと言って、本来は何の効果もない。ただ、人々は仏陀の教えを自分たちに受け入れ可能なものに作り替えた。作り替えられた教えにこそ“仏陀の教え”の価値がある。私の考えだ。

まあ、そんなことはどうでもいいや。怖い話、哀れな話、シンドバッドのような冒険譚。この巨大説話集、どこまでも奥が深い。




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『教養としての世界の名言365』 佐藤優

まったく、教養の鉄人みたいな人だからな。

どれだけ本を読んでるか想像もつかないが、せめて爪の垢でも煎じて飲みたい。そんなことを言ったって爪の垢が手に入るわけでもない。仕方がないから、この本でも読んで、そのエキスをいただこう。・・・考えてみれば、爪の垢を煎じた汁を飲むよりも、この本を読む方がよっぽどましだ。

《どんどん、くだらなくなっていってる。音楽もTVもどんどん低脳になっていってる。殺人も犯罪も短絡的にいなっている。警察は庶民を守ってはくれなくなった・・・誰も本当のことを言わなくなってしまった。利権やせこい金で心を閉ざしちまったのさ。面白いお国柄だ》

これ、忌野清志郎の言葉だそうだ。1998年から2001年にかけて雑誌に掲載されたコラムの中の一節だそうだ。10年も前になくなった忌野清志郎が、その10年近く前、50歳前後の頃にこのように感じていたということになる。

でも彼は世間から目を背けなかったから偉いな。私なんか、世間にあきれかえっちゃって、背を向けがちだもん。後ろ向いてちゃだめなことは分かってるんだけど、見えるもの、聞こえるもの、それこそ見たくもないし、聞きたくもないことが多くてね。そういうのを見聞きして、それでも平然とした顔をしているのはもうつらい。

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

人の世が住みにくいからって人でなしの国はもっとひどいに違いないから、結局は人の世で、なんとか気分良く、少しでも機嫌良くやっていくしかない。だから詩人がいて、画家がいるって夏目漱石が書いている。

そうか、忌野清志郎はそれを天職に、指名にして生きてたのか。



宝島社  ¥ 1,650

名言の由来、偉人の生涯、そのテーマ・分野が一石三鳥で学べる画期的教養本
第1章 政治・歴史
第2章 経済・経営・ビジネス
第3章 社会
第4章 哲学・思想
第5章 音楽
第6章 文学・演劇・古典芸能
第7章 美術・建築
第8章 現代視覚芸術
第9章 科学・テクノロジー
第10章 スポーツ


織田信長は《是非に及ばず》と言い、西郷隆盛は《もうここらでよか》と言って死んだ。

簡単でいいなと思う。

どれだけのことを成し遂げたとしても、あるいは成し遂げなかったしても、ビートたけしの言うとおり《夢を持て、目的を持て、やれば出来る、こんな言葉に騙されるな。何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ》ってところだな。死ぬって言うのは、それ以上でも、以下でもない。

だから、世間に文句があったって、だからどうのと考えず、気楽に生きるのがいい。

そうそう、夏目漱石の言葉として紹介されているのは、『草枕』の冒頭ではなく、『吾輩は猫である』の中の猫の言葉。《呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこかかなしい音がする》

そうそう、世間とは相容れないとそっぽを向くのはエゴというもので、世間という総体がどんなものに見えようとも、人は一人になると、なんとも形容しがたい漠然とした寂しさや不安なものを抱えているもの。そういったものにまでそっぽを向いたら、人として生きていく価値があるか。

その究極は麻原彰晃だろうな。

彼は自分を認めなかった世間に復讐を始めた。なんとも形容しがたい漠然とした寂しさや不安なものを抱えている有名大学出身の若者を信者に獲得して家族と縁を切らせ、家族や親族とトラブルを起こすようになる。麻原を追求する坂本堤弁護士一家は、ポアと称して抹殺された。

《私は救済の道を歩いている。多くの人の救済のために、悪行を積むことによって地獄に至っても本望である》と語ったそうだ。彼は悪行を積んで地獄に落ちたのは間違いないところだが、残念ながら彼によって救済された人は一人もいない。

結局は、みんななんとか折り合いを付けて生きてるんだ。そういうところから目をそらしちゃいけないよね。私に芸術の素養がないのは残念だけどね。




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この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本






























































































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