めんどくせぇことばかり 本 世界 思想
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弥勒『菩薩』 速見侑

広隆寺の半跏思惟像は、実際、衝撃的だった。

大好きだった女の子にそっくりだった。まったく、なあ。40年以上前のことなのに、今でもありありと思い出す。気がついたときはもう好きだった。小学生の後半の頃か。もともと、グズグズしている性格なので、何にも出来ないでいてね。反対に、変に意識しすぎて、今考えても恥ずかしいような言行に走ってた。そのまま中学生、高校生。

高校2年の修学旅行だった。私の高校の修学旅行は、昼過ぎに京都駅について、そこからの4泊5日、すべて班別自由行動。5日目の昼過ぎに京都駅に集合して帰る。もちろん、その日、その日、方面を決めて見学して、同じ宿に帰る。決められた時間までにね。先生方にとっては楽な修学旅行だな。

三日目あたりに広隆寺に行ったんだと思う。おそらく嵐山方面を回る予定だったんだろう。そこで、弥勒菩薩半跏思惟像を見たんだ。それが大好きだった女の子にそっくりだった。その子とは小学校から高校まで同じ。小中はみんな知り合いみたいな学校で、そんなところで、好きだのどうだのとほじくり返されるのはまっぴらだし、高校に入ってからは男女共々いろいろな交友関係が出来て、そのうちなんとなく諦めが入って、結局、片思いのまま終わる。

そんなさなか、半跏思惟像を見て、本当にその子にそっくりに見えた。厚ぼったい目元。ふっくらした頬。裸の胸に膨らみはないが、そこにさえ私は、彼女のセーターの胸の膨らみを重ねて、ものすごくなまめかしく見えた。

弥勒菩薩半跏思惟像なら何でもいいってわけではなくて、その後見た中宮寺の半跏思惟像を見ても、その子に重なることはなかった。仏像としては、中宮寺の方がいいと思う。ただ、私は広隆寺の半跏思惟像に、仏像としての何かを期待しているのではなく、そう、手を伸ばすことさえ出来なかった初恋のあの子を思うだけなのだ。恥ずかしながら、今でもね。

弥勒はやがて仏になることが定まっている菩薩。現在は、仏になろうと兜率天で修行中の菩薩。釈迦がこの世を去って五十六億七千年万年で私たちの住む世に下りてきて女に宿り、この世で悟りを得て仏となる。仏となった弥勒は三度にわたって有縁の人々に説法する。これを弥勒三会といい、人々はこの弥勒三会に巡り合って救われる。


『菩薩』    速見侑

講談社学術文庫  ¥ 1,012

菩薩とは、ボーディ=サットバに由来し、「悟りを求める人」という意味を持つ
菩薩とはなにか
観音総論
観音各論
聖観音 十一面観音 不空羂索観音 千手観音 馬頭観音
如意輪観音 准胝観音 六観音 三十三身と三十三観音
弥勒
文殊
普賢
虚空蔵
地蔵
その他の菩薩


弥勒三会は遙かな未来だから、さしあたって現世で善行を積み、死後は兜率天に上生して弥勒のそばで過ごし、弥勒の下生に従って地上に還り、弥勒三会に巡り合いたい。

上生、下生とあるが、最終的な目的は、下生に立ち会い、弥勒三会に巡り合って救われること。まあ、そういうことのようです。

私たちになじみのある死後往生の対象は、まずは極楽往生。だけど、本来は弥勒浄土、阿弥陀浄土、無勝浄土、華厳浄土とあって、信仰上大きな比重を占めるのは弥勒浄土と阿弥陀浄土だったんだそうだ。

奈良から平安までは、結構、弥勒浄土の比重が高かったらしい。法華経によれば、この経の力で、「死後、千仏に手を引かれ、悪趣におちずに兜率天上の弥勒菩薩のところに往く」と説かれているという。

平安時代の終盤、末法到来が盛んに説かれた。当時の計算では永承七(1052)年、世界は末法に落ちるはずだったらしい。仏法は衰え、人身は悪化し、悪事のみが横行する世界。政治を壟断する藤原家によって、国家の利益はすべて吸い上げられ、律令国家はいよいよ最後の時を迎えつつあった。

このような情勢は、来世の浄土を欣求する信仰を高まらせた。人々は、遙かな未来に訪れるはずの、末法の世を救う当来仏弥勒の下生を待ち望んだ。弥勒下生の時に説法を行うと言われる金峰山が参詣人を集めるようになり、空海は弥勒下生を待って、高野山に生身のまま入定したという信仰も生まれたそうだ。

兜率天から弥勒が下生し、弥勒三会の説法により人々は救われる。

これって、イエスが降臨して最後の審判が行われ、イエスを信じる者は救われるってのと、ほぼ同じ。

弥勒下生信仰は、やがて未来の救済から現世の救済へと変化していく。弥勒の下生によって実現する救いの世は、ある意味で理想郷。弥勒下生への期待が社会変革を求める意識と結ぶと、これはある意味で棄権しそうとみなされかねなくなる。たとえば、幕末の世直し一揆には、「呑物、食物はもちろん着物までも不足なく、まことにミロクの世なりけり」と認識されていたらしい。

いつの日か地上に現れるであろう幻のユートピア。・・・かなり危険な思想だな。

はるか遠くの未来に下生するはずの弥勒菩薩なのに、私の夢には時々現れて、今でも私を悩ますんだ。その時の弥勒は・・・。




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菩薩道『菩薩』 速見侑

“ボーディ・サットバ”

これが日本で菩薩と呼ばれるものの、もともとの言葉。サンスクリット語だね。これを漢文に訳したときに菩提薩埵と書き表し、これを略して菩薩になった。もともとのサンスクリット語で意味を捉えると、ボーディ=悟り、サットバ=有情で、悟りを持った有情、悟りを求める人と言うことになるんだそうだ。

ただ、「悟りを求める人」と言ってしまうと、仏教とみんなになってしまう。そうじゃないんだな。自分が悟りを開けばいいという自利の求道者ではなく、悟りを求めると同時に仏の慈悲行を実践して一切衆生を救おうとする利他の求道者を菩薩という。

そういうことならないと、やはりしっくりきません。大乗仏教の理想的修行者像と言うことだ。

仏教が起こった頃、つまり釈迦が生きている頃にはボーディ・サットバ”という言葉はないし、亡くなってからずいぶんしてから生まれた言葉だそうだ。どうやら、釈迦入滅後の仏教の歴史をたどる必要があるらしい。

釈迦が亡くなってしばらくすると、当然のように教説の解釈を巡る対立が生まれ、教団は分裂したんだそうだ。亡くなって100年もすると、戒律に厳しい保守的な上座部と、比較的寛容で自由な大衆部に分かれた。これを根本分裂と言って、このあとは分裂に分裂を重ねて対立した。これらの教団を部派仏教と言い、彼らの関心事は苦行と学問によって自らが悟りを開き、輪廻から解脱することにあった。

出家したそれらの僧侶とは違う動きが一般民衆の中にあって、それは釈迦入滅後、その遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)を供養することだった。釈迦を追慕する民衆にとって仏塔は釈迦そのものであり、それを礼拝し、清掃供養し、財を寄進する者は、現世では福徳を得、来世は天上に生じ、ついには成仏するという考えが生まれた。

仏塔の管理運営を巡って、出家者だけでなく在家信者を含む信仰集団が形成され、自利行のみを行う部派仏教を批判するようになる。

釈迦への追慕は、釈迦前身への関心をも高めることになる。悟りに至る前の、悟りを求めつつ慈悲行を実践して一切衆生を救おうとする釈迦の実践を明らかにしようという取り組みが、信仰集団によって行われていく。それが、真の悟りを求めて仏になろうとする請願、すべての人を救おうとする大慈悲心、これらに裏付けられた六波羅蜜に代表される行にまとめ上げられていく。


『菩薩』    速見侑

講談社学術文庫  ¥ 1,012

菩薩とは、ボーディ=サットバに由来し、「悟りを求める人」という意味を持つ
菩薩とはなにか
観音総論
観音各論
聖観音 十一面観音 不空羂索観音 千手観音 馬頭観音
如意輪観音 准胝観音 六観音 三十三身と三十三観音
弥勒
文殊
普賢
虚空蔵
地蔵
その他の菩薩


幼い頃は、家族の死なんて受け入れられるはずがないと思ってた。誰でもそうなんじゃないかな。けっこういい歳になるまでそうで、祖父が亡くなったという連絡を受け取った大学の4年の時までだな。

その時になって、ようやっと分かった。「ああ、死ぬんだな」ってね。

そのあとは、祖母、母、父を見送った。その死によって学んだことは、とても大きかった。死んでみせるって、大切なことだな。私もしっかり死んで見せなきゃな。孫たちのためにもね。

たくさんいた両親の兄弟たちも、残ってる方が少なくなった。そのたびごとにお経を上げてもらった。般若心経は必須だったな。「心のともしび」ってのが配られて、一緒にお経を上げた。たくさん葬式があったんで、覚えてしまった。なんかすごい者を覚えたような気がしてたけど。お経ってのは、本来、その意味にこそ意味がある。意味を知ったら、怖くなった。

般若心経は、ちゃんと言うと、摩訶般若波羅蜜多心経。

六波羅蜜の波羅蜜、正式には波羅蜜多は、サンスクリット語のパーラミータの音写だそうです。迷いの此岸から悟りの彼岸に至る意味で、菩薩が悟りに至るために行う布施(慈善行為)、自戒、忍辱、精進、禅定(瞑想)、そしてこの五波羅蜜の根本となる般若波羅蜜(完全な悟りの知恵)の六つを六波羅蜜と言うそうです。

出家による悟りを求めることが出来ない在家の仏教徒は、そのような成仏にいたる道程として、一切衆生救済の慈悲心に裏付けられた菩薩道が具現化すると、釈迦の前身である釈迦菩薩だけでなく、未来仏である弥勒菩薩とかね。現在菩薩道を実践している様々な菩薩が考え出されて、観音菩薩とか、文殊菩薩とか、普賢菩薩とかね。

菩薩道の確立は大きな変化だった。「悟りを求めて一切衆生を救おうと努める菩薩道の実践こそ仏の願いにかなうもの」って理屈は、なかなか強い。なかなか強いけど、本来の釈迦の教えからは離れてるよね。大きな変化と言うよりも、違う宗教の成立と言うべきか。

菩薩道の実践に努める人々は、自らの道を“大乗”と呼んだわけだ。




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『今昔物語集 天竺篇』 国東文麿

“本朝”と呼ばれるのが、この日本にあたる。

“震旦”が“中国”。これは古代インド人が“中国”の秦王朝を秦の土地という意味で「チーナスターナ」と呼び、これに漢字が当てられたもの。

“天竺”がインド。文明の成立したインダス川のことをイラン語でHindu、あるいはHindukaと言ったらしい。イラン人も、インドに南下した人々と同じインド・ヨーロッパ語族だから、古代インドでもこう呼んでいたんだろう。ヒンドゥー教のヒンドゥーだな。

中国人がインドに関する情報に触れた最初は、張騫による西域探検によるものだが、司馬遷は『史記』の中でHindukaをもとに身毒の名でインドを表しているという。天竺も、同じくHindukaに漢字を当てたもので、後漢書は天竺を使っているという。

インドとヒンドゥーは、両方ともインドを表す語だが、単に発音の問題と思っていたが、違うようだ。インドは古代ギリシャ語を経てラテン語でIndusとなり、ここからインディア、さらにインドとなった。発音上の問題ではあるが、経路が違った。

12世紀と言えば平安末期から鎌倉という時代。その時代に成立したのが、この『今昔物語集』という巨大説話集。全体がまず、天竺・震旦・本朝の三部に大きく分けられていて、さらにそれぞれが仏教説話と世俗説話に二分されている。

それにしても、その当時で言えば、天竺・震旦・本朝とは、世界のすべてであったはず。つまり、世界中の説話を集めたのが『今昔物語集』と言うことになる。世界中の興味深い話、教訓になる話が集められたって言うんだから、こりゃすごい本だ。

まだ新米教員だった頃、私は歴史の授業で宗教の話をしていたが、年配の倫理の先生から、宗教的な話を避ける人が多くて困ると言う話をされたことがある。戦後の社会科教育では、日本の神話とか宗教とか、そういうものは日本を戦争に導いた良くないもののような捉え方が一般的だったからね。その人は、日本神話や仏教の話も、たくさん授業で取り上げていた。

「面白い話がたくさんあるんだ」って、私にも宗教の話をどんどんするように勧めてくれた。「たとえば」と言って、その先生は“魔羅”の話をし始めた。「生徒に受けるんだよ、これが!」って自慢そうに。

そりゃ、陰茎の俗語だからね。

鴦屈魔羅は、あるとき師の不在中に師の夫人に誘惑された。怒った師は彼に、千人を殺し、千の指で鬘を作るよう言い渡す。彼は諸国を遍歴して目標に近づき、千人目に自分の母親を殺そうとしたとき釈尊に会い、邪法を捨てて正法を聞くに至った。

その学校は、威勢のいいのばっかり集めたような男子校だった。



講談社学術文庫  ¥ 2,321

十二世紀に成立した、仏教譚を集めた巨大説話集のうち天竺を舞台にするもの
巻1 釈迦如来、人界に宿り給える語 ほか
巻2 仏の御父浄飯王死にたまいし時の語 ほか
巻3 天竺の〓舎離城の浄名居士の語 ほか
巻4 阿難、法集堂に入る語 ほか
巻5 僧迦羅・五百の商人、共に羅刹国に至る語 ほか


仏陀が息子のラーフラを出家させようとしたとき、母親のヤショダラーはそれを妨害した。「女は愚かな心ゆえに子を愛するが、死んで地獄に堕ちてしまえば永久に別れ別れになって、後悔してもどうにもならない。ラーフラが悟りを開けばかえって母を救い、永久に生老病死の苦の根本を断ち、私のようになれるのに」って仏陀は言ったそうだ。

このとき、ラーフラは9歳。

ヤショダラーは言い返したそうです。「仏陀が太子であったとき、私を娶り、私は妻になりました。私は天神に仕えるようにして太子に仕えました。そしてまだ3年も経たないうちに、太子は私を捨てて宮殿を出て行かれました。その後、国に帰ることもなく、私にお会いにもなりませんでした。今になって我が子を取り上げてしまってもいいものでしょうか」

その通りです。それでも周りはよってたかってヤショダラーを説得し、ラーフラを取り上げるのです。

この段階での仏の教えって言うのは、麻原彰晃の言うことと同じだな。

ラーフラが麻原彰晃に感化されちゃって家のお金まで持ち出す騒ぎになっちゃって、そういうのが結構いるもんだから、ヤショダラーと母親たちは、弁護士の方に相談した。

弁護士の方はとても人間的で有能な方で、ヤショダラーや母親たちの苦しみに寄り添い、なんとか子どもを取り戻すことが出来るように努力した。

麻原彰晃はヤショダラーや母親たちの愚かさにあきれ果てた。そして邪法によって子どもたちを取り戻そうとする弁護士を、弟子たちに命じてその家族もろともポアさせた。

社会的背景が違うわけだから、上記のような切り貼りは当たらないと言われるかもしれないが、私は本質的な部分では違わないと思う。

仏陀の教えは悟りを開くための作法だ。本質的には悟りを開かなければ苦しみから解放されることはない。悟りを開いた人を拝んだからと言って、本来は何の効果もない。ただ、人々は仏陀の教えを自分たちに受け入れ可能なものに作り替えた。作り替えられた教えにこそ“仏陀の教え”の価値がある。私の考えだ。

まあ、そんなことはどうでもいいや。怖い話、哀れな話、シンドバッドのような冒険譚。この巨大説話集、どこまでも奥が深い。




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『教養としての世界の名言365』 佐藤優

まったく、教養の鉄人みたいな人だからな。

どれだけ本を読んでるか想像もつかないが、せめて爪の垢でも煎じて飲みたい。そんなことを言ったって爪の垢が手に入るわけでもない。仕方がないから、この本でも読んで、そのエキスをいただこう。・・・考えてみれば、爪の垢を煎じた汁を飲むよりも、この本を読む方がよっぽどましだ。

《どんどん、くだらなくなっていってる。音楽もTVもどんどん低脳になっていってる。殺人も犯罪も短絡的にいなっている。警察は庶民を守ってはくれなくなった・・・誰も本当のことを言わなくなってしまった。利権やせこい金で心を閉ざしちまったのさ。面白いお国柄だ》

これ、忌野清志郎の言葉だそうだ。1998年から2001年にかけて雑誌に掲載されたコラムの中の一節だそうだ。10年も前になくなった忌野清志郎が、その10年近く前、50歳前後の頃にこのように感じていたということになる。

でも彼は世間から目を背けなかったから偉いな。私なんか、世間にあきれかえっちゃって、背を向けがちだもん。後ろ向いてちゃだめなことは分かってるんだけど、見えるもの、聞こえるもの、それこそ見たくもないし、聞きたくもないことが多くてね。そういうのを見聞きして、それでも平然とした顔をしているのはもうつらい。

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

人の世が住みにくいからって人でなしの国はもっとひどいに違いないから、結局は人の世で、なんとか気分良く、少しでも機嫌良くやっていくしかない。だから詩人がいて、画家がいるって夏目漱石が書いている。

そうか、忌野清志郎はそれを天職に、指名にして生きてたのか。



宝島社  ¥ 1,650

名言の由来、偉人の生涯、そのテーマ・分野が一石三鳥で学べる画期的教養本
第1章 政治・歴史
第2章 経済・経営・ビジネス
第3章 社会
第4章 哲学・思想
第5章 音楽
第6章 文学・演劇・古典芸能
第7章 美術・建築
第8章 現代視覚芸術
第9章 科学・テクノロジー
第10章 スポーツ


織田信長は《是非に及ばず》と言い、西郷隆盛は《もうここらでよか》と言って死んだ。

簡単でいいなと思う。

どれだけのことを成し遂げたとしても、あるいは成し遂げなかったしても、ビートたけしの言うとおり《夢を持て、目的を持て、やれば出来る、こんな言葉に騙されるな。何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ》ってところだな。死ぬって言うのは、それ以上でも、以下でもない。

だから、世間に文句があったって、だからどうのと考えず、気楽に生きるのがいい。

そうそう、夏目漱石の言葉として紹介されているのは、『草枕』の冒頭ではなく、『吾輩は猫である』の中の猫の言葉。《呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこかかなしい音がする》

そうそう、世間とは相容れないとそっぽを向くのはエゴというもので、世間という総体がどんなものに見えようとも、人は一人になると、なんとも形容しがたい漠然とした寂しさや不安なものを抱えているもの。そういったものにまでそっぽを向いたら、人として生きていく価値があるか。

その究極は麻原彰晃だろうな。

彼は自分を認めなかった世間に復讐を始めた。なんとも形容しがたい漠然とした寂しさや不安なものを抱えている有名大学出身の若者を信者に獲得して家族と縁を切らせ、家族や親族とトラブルを起こすようになる。麻原を追求する坂本堤弁護士一家は、ポアと称して抹殺された。

《私は救済の道を歩いている。多くの人の救済のために、悪行を積むことによって地獄に至っても本望である》と語ったそうだ。彼は悪行を積んで地獄に落ちたのは間違いないところだが、残念ながら彼によって救済された人は一人もいない。

結局は、みんななんとか折り合いを付けて生きてるんだ。そういうところから目をそらしちゃいけないよね。私に芸術の素養がないのは残念だけどね。




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『天使と悪魔の絵画史』 春燈社編

人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして全ての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国をうけつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、乾いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてくれたからである」(中略)それから、左にいる人々にも言うであろう。「呪われた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、乾いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである」(中略)そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。
《マタイによる福音書 25章31-46節》

キリスト教における“最後の審判”の捉え方ですね。とっても単純で、分かりやすいですね。最後にこう付け加えてもらえると、もっといいんじゃないかと思います。

「文句がある奴は、かかってこい!」

右側に置かれた羊さんなんてのは、まず、いるはずがありません。「自分は右側の羊さん」なんて安心している人がいるとすれば、それは記憶力がないに等しいか、よっぽど図々しいか、あるいは人の皮を被っただけの聖職者かのいずれかでしょう。

みんな、どこかに左側の山羊さんという思いがあるからこそ、この本に出てくるような天使と悪魔の絵画に恐れ入るわけでしょう。



辰巳出版  ¥ 1,430

キリスト教美術の深淵に触れる。神々しく美しい、また不気味で妖しい世界
はじめに 天国と地獄、天使と悪魔 その敬虔で魅惑的な世界
天国か地獄か!?「最後の審判」の世界(「最後の審判」の世界観 ほか)
第1章 天国と地獄(七つの大罪と天国、地獄;天国のヴィジョン ほか)
第2章 天使の系譜(旧約聖書の天使たち 天地創造と天使;天使の階級 ほか)
第3章 悪魔の系譜(反逆天使と悪魔;堕天使ルシファー ほか)


それにしても、こうしてこの本であらためて見てみると、まず100対0で悪魔のほうが魅力的ですね。

その形態も千差万別。圧倒的な存在感を持つものもあれば、いろいろな獣の特性を備えたもの、ただただ不気味なもの、どこか滑稽なもの。非常にバラエティ豊かで、個性的です。

描く側の人間にしてからが、まばゆいばかりの天上世界よりも、暗く沈んだ地獄界の方がイマジネーションが膨らむようですね。描かれている人々にしたって、喜び、幸せ、憧れ、優しさよりも、悲しみ、苦しみ、悔しさ、絶望の方が、表情が豊かです。

最後の方に出てくる、“ペストが生み出した悪魔”なんて、とっても魅力的ですね。さらには“悪魔と交わった女性”をモチーフにした絵画なんて・・・。たまりませんね。

キリスト教美術、天使と悪魔の絵画と言っても、ひたすら頭の中で作り上げたものですから、人間の世界の焼き写しでしょう。「アリもしないことを・・・」って言って、風呂敷で一まとめにするつもりは毛頭ありません。その組織も含めたキリスト教会はじめ、キリスト教世界そのものが、“文化”ですからね。そして、その土台になっている時代が中世ですよね。

その中世を持っていることが、ヨーロッパの強さだと思います。それは日本も同じです。日本もヨーロッパも、その中世を自ら否定しようとした時代がありました。でも、現代においても、私たちは自分たちの持っている文化の中に、中世が色濃く残っていることを自覚することができます。それが、おそらく今後、私たちの強さになるんじゃないかと思います。

「今世界を主導しているのは・・・」と考えれば、アメリカと“中国”を挙げざるを得ませんが、その両国が、ともに中世を持たない国であることは、現代世界を理解する上で、非常に重要なように思えます。





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『物理学と神』 池内了

今年はお盆のお休みを長く取れた人が多いそうですね。私の息子もそうで、まだ所帯を持って間もないんですが、長いお盆のお休みの前半を妻方の実家で、後半を夫方の実家で過ごし、最終日の一八日に有給で一九日を付け足して、夫婦でゆっくり休むなんてことを言ってました。そんな息子夫婦の長いお盆のお休みも今日で終わり。

そりゃ、何にだって終わりはあるけど、それを考えるのって、心底恐ろしいことですよね。

毎年毎年やってくる、夏休みの終わり。その日がヒタヒタと近づいてくることを、すでに敏感に感じ取っている皆さん。ふふふ、私は一年中お休みです。

子供の頃は、自分の父親や母親が死んだらなんて、とてもじゃないけど考えられませんでした。恐ろしすぎてね。でも、祖父母も父母も、みんな死んじゃいました。

日本という国にも終りがあるのは間違いないし、人類そのものが死に絶える日だって必ずやってきます。これまで地球上に現れた生物の種の九九パーセントは絶滅しており、その平均寿命は四〇〇万年ほどだそうです。人類の祖先が地球上に誕生してすでに六〇〇万年過ぎているから、寿命を超えてますね。それとも、ホモ・サピエンスから数えれば二〇万年ほどで、まだまだ長い時間が残されているんでしょうか。

だけど、人類が仮に生き延びたとしたって、地球が亡くなっちゃうかもしれません。太陽の寿命は一〇〇億年で、今が四六歳だから、あと半分の寿命が残されています。今から五〇億年ほど経つど太陽は膨張し始め、その表面が火星軌道くらいまで広がるそうです。それより前に地球は太陽に飲み込まれるか、それ以前に蒸発するかだそうです。

ああ、怖い。

科学者たちは、物質や定数は与えられたものとして、その運動や反応の法則を明らかにすることに取り組んできました。聖書の他に、自然を神が書いたもう一つの書物として、そこに書かれた神の意志を読み解こうとしてきました。すべては、「神がそうした」ものであって、そこには疑問は差し挟めません。

「なぜそうなのか」を求めれば確率論に踏み込むことになり、《神のサイコロ遊び》に踏み込むことになります。アインシュタインは、それを拒否したそうです。

しかし、科学は逆に神から遠ざかり、人間を作ることこそが宇宙の主目的であるなどと主張するようになったんだそうです。この主張、宇宙研究の成果を扱ったテレビ番組で、とある海外の研究者が言っているのを聞いた記憶があります。著者も書いいますが、そりゃいくらなんでも、図々しいですね。



講談社学術文庫  ¥ 1,080

「神という難問」に対峙し翻弄される科学の歴史を、名手が軽妙かつ深く語り切る
第一章 神の名による神の追放
第二章 神への挑戦―悪魔の反抗
第三章 神と悪魔の間―パラドックス
第四章 神のサイコロ遊び
第五章 神は賭博師
第六章 神は退場を!―人間原理の宇宙論
第七章 神は細部に宿りたもう
第八章 神は老獪にして悪意を持たず


宇宙を創ったのが神であろうがなかろうが、この宇宙を認識しているのが人間であることは間違いありません。もし、人間が存在しない宇宙なら、その宇宙は存在しても、影響に認識されることがありません。認識の主体である人間が生まれない宇宙であれば、それはないのと同じことです。

まあね。たしかにね。

逆に言えば、この宇宙は、人間が存在しているから認識されます。だから、人間が存在することそのものを、「宇宙はなぜこのようにあるのか」という疑問を解く条件に使えるのではないか。「宇宙がこのようにあるから、人間が存在する」と言い換えてみれば、宇宙の年齢や大きさ、宇宙の構造、基本定数の値、それらすべてが人間の存在を保証するようになっていると考えるんですね。

え~!宇宙は人間の存在を保証しているんですか?“神であろうがなかろうが”と先に書きましたが、それが“神”であるならば、神はサイコロを振って宇宙を創ったのではなく、人間が生まれ得るように細部まで設計して宇宙を創ったということですか。

また、傲慢な。

かつて西洋の科学者は、人間は自然のすべてを支配するよう神から委ねられたと考えました。自然とは支配するもの、作り変えるものという考えですね。今度は、人間は宇宙の存在意義ということになっちゃいました。

しょうがないですね。んじゃあ、ちょっと、宇宙の存在意義として、花火大会でも出かけてみましょうか。たまや~




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『エラい人にはウソがある』 パオロ・マッツァリーノ

「そんな孔子が好きだ」

この本の著者、とんでもイタリア人のパオロ・マッツァリーノさんは、そう言っています。マッツァリーノさんにとって孔子は、《愛すべき、中国最大のペテン師》という位置づけなんだそうです。しかも、そのペテンは、いとも簡単に人々から見破られ、誰ひとり引っかかってくれません。

「礼法を徹底することで、乱れた世の中に秩序が生まれる」という政治信念を持ち、自称礼法の専門家である自分こそが、政治を司るにふさわしいと、弟子たちとともに諸国に売り込んで回りました。

それでも結局、孔子の考えは受け入れられませんでした。そりゃそうですよね。時は春秋戦国時代。力のない国は力のある国に滅ぼされ、飲み込まれていくそんな時代に、「礼法を徹底せよ」だの、「父子、夫妻、長幼、君臣など、上下の別をわきまえろ」だの、それができなくなったからこそ混乱期を迎えたっていうのに。

“中国”は、逆に、反儒家的側面を持って生まれた法家の思想を採用し、制度と法をっ徹底し、それを犯した者に厳罰で臨むことにより国力を蓄えた秦により、はじめての統一王朝時代を迎えることになる。

孔子は、お呼びでなかったわけです。

しかも孔子は、それを盛んに弟子たちに愚痴るんですね。かっこ悪いんです。そして諦めが悪い。ただし、切れて世間に背を向けるということはしないんですね。自分の価値を認めてもらいたくて、未練タラタラの悪あがきを最後までやめないんです。

マッツァリーノさんは、それこそが孔子の魅力だといいます。駄目だけど、最後まで前向きな孔子に共感したからこそ、弟子たちも孔子について言ったんだろうと、そう言ってます。

そう言われても、まだまだイメージがはっきりしません。そこに決定打を与えたのが、孔子を主役とした映画があるとすれば、誰がその役にふさわしいかという話です。

実際、“中国”の国策映画があったんだそうです。孔子役を演じたのはチョウ・ヨンファさんという香港映画のスターだそうです。日本で言えば、役所広司か渡辺謙かという大物どころだそうです。役所広司や渡辺謙では孔子を演じるにはカッコ良すぎるんだそうです。

かっこよくない小男。負け犬イメージ。強がりだけは一人前。抱かれたくない男ランキング一位。それでも仲間内からの評価は意外と高く、好かれている。

誰か思いつきますか。私は芸能界のことには疎いんですが、どうでしょうか。

マッツァリーノさんは、・・・出川哲朗さんが、孔子にふさわしいと言ってます。


『エラい人にはウソがある』    パオロ・マッツァリーノ

さくら舎  ¥ 1,512

『論語』をありがたい教え、孔子を偉大な人物と思っているようだが、本当にそうなのか?
紀元前中華電視台スペシャル大特番『ありのままの孔子』
第1章 歴史的に正しい孔子と論語の基礎知識
第2章 本当はかっこ悪すぎる孔子の人生
第3章 まちがいだらけの論語道徳教育
第4章 封印されたアンチ孔子の黒歴史
第5章 渋沢栄一と論語をめぐるウソ・マコト
第6章 孔子のすごさはヘタレな非暴力主義にあり


《巧言令色鮮し仁》

人を外見や表面的な行動で判断するなという孔子の教えですが、どういう人がこういう事を言うでしょうか。

マッツァリーノさんは、そういう切り込み方をするんです。

《己の欲せざる所は人に施す勿れ》

いじめに直面した学校の先生なんかが、クラスのみんなを前にして、こんな言葉を題材に話しをしそうですね。「自分が仲間はずれにされたら悲しいでしょ。仲間はずれにされた子がどんなに悲しかったかわかるよね」って、そんな感じでしょうか。

私も教員でしたので、何度もいじめに直面しましたが、《己の欲せざる所は人に施す勿れ》を題材にしたことはありません。そんな事を言っても、無駄ですから。いじめと言われる行為に出ている者にとって、そういう行為に出ることは、自分の当然の権利であると思っている場合が多いです。だから、差し迫った事態の場合は、強制力が必要です。

マッツァリーノさんの切込みも面白いです。「自分がしてほしくないことは他人にもするな」ではなく、「相手が嫌がることはするな」と言うべきだというんです。この注意を受けている者は、自分のやりたいことをやっているわけです。そいつに向かって、「自分がしてほしくないことは他人にもするな」では、たしかに論点がずれてますね。

この、《己の欲せざる所は人に施す勿れ》という言葉には、相手の気持よりも自分の気持を優先し、自分の考えを相手に押し付ける傲慢な思いが反映されているんだそうです。

面白いですね。他にも、《義を見てせざるは勇なきなり》なんかも取り上げられているんですが、そちらも面白いです。論語の言葉は、規定の解釈を疑うこともなく受け入れちゃいましたからね。

埼玉県日高市の五常に滝に見るような孔子観は、どうやら見直したほうが良さそうです。




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『エラい人にはウソがある』 パオロ・マッツァリーノ

もしかしたら、今、とても面白い本を読んでるのかもしれない。

二〇一五年の本で、買ったまま、読まずに眠らせておいた本です。“読まずに眠らせておいた”という部分には、あまりこだわらないでください。有り体に言えば、忘れていた本です。

だってですね。表紙のを飾る絵は中崎タツヤさんのうまへた絵。著者は、パオロ・マッツァリーノとかいう怪しいイタリア人。著者紹介によれば、このパオロ・マッツァリーノさん。イタリア生まれの日本文化史研究家とか。学歴はイタリアン大学日本文化研究科卒?

父は九州男児で国際スパイ、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人。本人はイタリア語で話しかけられると、何故か聞こえないふりをする。ジャズと立ち食いそばが好き。

そんなわけで、どっちを先に読もうかなって時に、いつも後回し、後回しになって、いつのまにか、どっちを先に読もうかなっていう対象としても取り上げられなくなってしまったわけです。そんなことをしているうちに、その上に読み終わった本が、ドサッ、ドサッと積み重なって、買ったことすら忘れてしまったわけです。

それがこの間、一四年飼った猫のミィミィが死んだことで、そのミィミィの身辺整理をしていたら、その余波が押入れに及び、乱雑に積まれた本を片付けているうちに、この本の発掘に至ったわけです。

みんなに押しつぶされていたから、日に焼けることもなく、ほぼ新品の姿で発掘されたこの本。「ごめんね」と声をかけながらめくってみれば、儒教の始祖、孔子を取り上げた本じゃないですか。

ええっ? 孔子は儒教の始祖なんかじゃない? いったいこりゃ、どうなっているんでしょうか。


『エラい人にはウソがある』    パオロ・マッツァリーノ

さくら舎  ¥ 1,512

『論語』をありがたい教え、孔子を偉大な人物と思っているようだが、本当にそうなのか?
紀元前中華電視台スペシャル大特番『ありのままの孔子』
第1章 歴史的に正しい孔子と論語の基礎知識
第2章 本当はかっこ悪すぎる孔子の人生
第3章 まちがいだらけの論語道徳教育
第4章 封印されたアンチ孔子の黒歴史
第5章 渋沢栄一と論語をめぐるウソ・マコト
第6章 孔子のすごさはヘタレな非暴力主義にあり


冒頭、第一章の前にある《紀元前中華電視台スペシャル大特番〈ありのままの孔子〉》は、しっかり二〇ページも割いて書かれています。内容はと言えば、それがもう、いいたい方だって感じなんです。

五年連続“抱かれたくない知識人”ナンバーワンに選ばれて殿堂入りしたとか。

ひどいことを言いますね。このイタリア人。

でも、孔子は実際、「みんながマナー(礼)を守れば犯罪も戦争もない平和な世界になります。そんな世界を作るため、私は政治家になります」って、一生懸命就職活動をしていた人物です。考えてみれば、変なやつに間違いないですね。

一部では、YDKってこき下ろされてたとか。やっぱり、駄目な孔子。

ひどいことを言うな。この変なイタリア人。

論語の冒頭を飾る一編は、「人不知而不慍、不亦君子乎」。「人知らずして慍みず。また君子ならずや」ですね。「世間の人たちが認めてくれなくても怒ったり、恨んだりしない。それが君子ってもんだからな」って、それ、孔子本人のことじゃないですか。

自分には犯罪も、戦争もない世の中を作る力があるのに、その自分を政治家として採用してくれる国はない。結局、世間は認めてくれない。だけど、私は世間に怒りを向けたり、恨んだりはしない。君子だからな。

自分には政治家としての力があることと、君子であることは、孔子の中では揺るがない前提なんですね。

面白そうだな。このイタリアン大学卒。

これから、本腰入れて読みます。





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『本当の知性を身につけるための中国古典』 守屋淳

“中国”の古典なんていうと、あまりにも茫洋としすぎていて、掴みどころがない。

今の中華人民共和国は、中国共産党という政党による一党独裁体制で、強引に一つにまとめている国。力によって強引に一つにまとめているっていううことにおいては、清王朝までの王朝時代とまったく同じ。力で強引にまとめないと、まとまらないのが、この“中国”っていう場所なんだな。

まとまらない、ばらばらになった状態を“分裂”というけど分裂した個々っていうのが、“中国”っていう場所の、例えば一つの民族であったり、一つの言語集団であったりするわけだ。

かつては利益を集中させるために、それらが互いに争い合って、統一に向かった。

“中国”では統一が達成されてしばらくの安定期は治安も安定し、人口も増加する。やがて人口が増えすぎて無軌道な開発が行われ、土地が力を失い生産が落ちる。自然のリズムが崩壊して災害が発生し、時には蝗害が人々を襲う。腹を減らした者が流れ始め、治安が崩れ、闘いが始まり、王朝は衰弱していく。大きな戦いが起こり、多くの人々が巻き込まれて人口が減少する。王朝が滅び、“中国”は分裂期に入る。

統一期が“中国”っていう場所の常態なのか、分裂期が“中国”っていう場所の常態なのか。これってけっこう微妙な問題なんだな。ともあれ、最初にこれを統一しちゃったのが秦王政こと、始皇帝ということ。

秦王朝だとか、漢王朝だとか、初期の統一王朝はすべてが最初の体験で、しかも匈奴という大敵に虎視眈々と狙われている状況。武帝の頃までは死に物狂い。その後、せっかくの統一王朝が潰れちゃって、その後の混乱っていうのも初体験。だけど、“中国”ってのが何かを創造したのはそのあたりまでで、勉強していても、やはりワクワクするのはそのあたりまで。その後の“中国”っていう場所の歴史は、惰性で勉強した。

この本に登場するいろいろな言葉やエピソードも、そのあたりまでのものが大半なんだよね。

“中国”っていうのはその場所を現していて、これが一つの領域と捉えてしまえば、それは茫洋とした掴みどころのない対象になってしまう。分裂した個々の地域の切磋琢磨の中に、大きなエネルギーがあったんじゃないかな。


PHP研究所  ¥ 1,728

「東アジア的な知性」を、楽しみながら深められるような言葉やエピソードを紹介
はじめに 高い視座から「原理原則」を語る
第一章  孔子、孟子、老子ー思想家や文人
第二章  舜、劉邦、武帝ー王や皇帝、支配者まで
第三章  孫武、呉起、王安石ー宰相、将軍から盗賊まで
第四章  曹操、鄭芝、司馬仲達ー『三国志』の群雄たち


漢が滅んで三国時代からは、延々と続く分裂期。数百年後に隋という王朝が“中国”を統一するが、漢までとは人も文化もまったく別物。ちょうど日本という国家が誕生する時代の話になるけど、“中国”は同じパターンの繰り返しに入っていく。惰性で勉強したところだね。

隋が登場するよりもずっと前、分裂期の真っ只中、北方から様々な異民族が侵入し、漢時代の系統を引き継ぐ人々は南部に押しやられていた。南に押しやられた始まりが東晋で、そのあとに宋斉梁陳と続く。最後の陳が、北方から入ってきた鮮卑族の作った隋に滅ぼされて、漢時代の系統を引き継ぐ人々の歴史は終わる。

その東晋から宋の時代にかけて生きた文人に陶淵明がいる。隠遁の詩人というイメージが強いけど、役人として仕えたこともある。《帰去来の辞》くらいしか知らないけど、「歳月人を待たず」っていうのも、陶淵明の詩の中に出てくる言葉なんだそうだ。

その詩というのは《雑詩》。以下のようなもの。
人生は根蒂無く
飄として陌上の塵の如し
分散し風を追って転じ
此れ已に常の身に非ず
地に落ちて兄弟と為る
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
歓を得ては当に楽しみを作すべし
斗酒 比隣を聚む
盛年 重ねて来たらず
一日 再び晨なり難し
時に及んで当に勉励すべし
歳月 人を待たず
人生なんて拠り所のないもので、風に吹かれて身を保つのもおぼつかない。そんな人生なんだからみんな兄弟みたいなもので、何も血の繋がりばかりを頼りにするには及ばない。嬉しいときは大いに楽しむために、酒を沢山準備して近くの者たちを集めよう。若い時期が長く続くわけでもない。今日の日は二度とこない。それだけに、そういう時は思いっきり楽しもう。歳月な人を待ってはくれないのだから。

そう、《少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず》みたいに、「勉強しろよ!」ってことじゃないんだな。そこがいい。《勉励すべし》は「思いっきり楽しめよ!」なんだからね。

まあ、陶淵明の人生への向き合い方といい、この詩といい、どっか、北方異民族に頭を押さえつけられた漢族の、厭世観みたいなものが背景にあるように思う。でも、今の私には、これでいいな。《一日 再び晨なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月 人を待たず》なんて、まさにそのとおりだ。




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『中国人のこころ』 小野秀樹

まったく、恥ずかしいったらありゃしない。

連れ合いの思いつきに付き合うと、時として、あとからとんでもなく後悔することになります。そうそう、サングラスを買うときがそうでした。山用以外にサングラスは持ってたんですが、ちょうど視力が低下して、度付きのものを買うことになって、連れ合いに選んでもらったんです。

連れ合いが強く進めるものを買ったんですが、何かとこだわりの強い女じゃないんですが、その時は強く進められました。大好きな沢田研二が同じものでもかけていたんでしょうか。二の足を踏む私に、「絶対かっこいい」って言ってましたからね。

私がそれをかけていたら、娘が泣きました。高いものでしたから今でも使ってますが、今やスキンヘッドになってしまった私がそれをかけていると、周囲の雰囲気が変わります。

もう一つが、今の車にした時に、語呂合わせのナンバーを進められたこと。《25-25》です。だけど、《25-25》の人はたくさんいるじゃないですか。恥ずかしいですよ。たまたまですが、《25ー25》の人と前後になっちゃうこともあります。あれは、恥ずかしいですよ。しかも、スキンヘッドに柄の悪いサングラス男が、なにが「ニコニコ」なんでしょう。

《11ー22》で、「いい夫婦」っていうのも困りますね。喧嘩することだってありますもの。《31-03》で「佐藤さん」なんかいいですね。《 7ー76》で“当たらない”→“事故に合わない”なんて洒落てますね。

“中国”では、数字というと、ひたすら吉凶にこだわるところがあるんだそうです。縁起が良いとされる数字は「6・8・9」で、概ね金運と長寿に関連しているそうです。分かりやすいって言えば、分かりやすいですね。そう、“中国”の人たちっていうのは、分かりやすいもの、目に見えて、はっきりしてないとだめみたいなんです。


『中国人のこころ』    小野秀樹

集英社社新書  ¥ 929

グローバル化が進み、中国人との日々の接点が増えている現代日本人にとって、必読の一冊
序章  「ことば」は人を造り、人を現す
第1章 対話における反応
第2章 人間関係とコミュニケーション
第3章 中国語の伝達機能と受信感覚
第4章 中国人の価値観
第5章 言語システムに侵食する思考と感覚

“中国”の人は、形あるもの、現に存在し確認できるもの、外観や数値によってその物量や価値を認識できることが重要なんですね。まあ、一言で言えば現実主義ということになります。プレゼントやお土産なんて、単純に大きいものが喜ばれるんだそうですよ。

日本とは、ずいぶんな違いですね。私たちは、その人らしさとか、想いや感性が慮られるようなものを好むじゃないですか。プレゼントやお土産を選ぶって、とっても難しいですよね。現実にあるものじゃなくて、頭の中にあるもの、心の中にあるものをもとにして、それにできる限りふさわしいものを、現実にあるものの中から選び出すんですから。

プラトンのイデアみたいですね。

表に現れているものがすべての中国人ですから、人間に価値に関しても表に現れているもので判断されるみたいです。権力、財産、名声、人脈、それらを総合した能力。そういう物を持っている人が偉い人で、偉い人は威張る人なんだそうです。

ここも、日本人の嗜好とは、ずいぶんな違いですね。私たちは、権力、財産、名声、人脈のある人であっても、それは独りの人間の価値とは完全に無関係ですよね。なんでもない、通りかかりに人が、実は大きな会社の大社長で、大金持ちで、とても有名な人物で、政財界に多くの知り合いがあってってのが、好ましいですね。

越後のちりめん問屋の隠居の光右衛門が、実は天下の副将軍水戸光圀公で、「控え、控え~い。この紋所がめに入らぬか」、「ははー」なんてことは、“中国”では最初からありえないんですね。

そんなことを教えてくれる、面白い本でした。

ただ、著者の小野秀樹さんは中国語の学者さんで、だからこそ、この本の副題は《「ことば」からみる思考と感覚》というもので、言葉の研究の中から感じられる“中国人”って位置づけなんですね。社会現象から解明される“中国人”、歴史から解明される“中国人”ではないんです。中国語の勉強をしている人なら、もっと面白く読めただろうなって思いました。




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イーグルス16

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現代とはなぜこんなにも棲みにくいのか。
前近代から近現代へと変貌し続ける世相の本質をつかみ生き方の支柱を示す。
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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本








































































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