『お経の意味がやさしく分かる本』 鈴木永城
祖父母に父母、伯父2人伯母1人、叔父4人、いとこ2人の葬式があった。それにともなう法要もあって、そのたびに般若心経を唱えた。
方丈さんが、そのたびに“こころのともしび”という小冊子を配ってくれて、それに般若心経と、白隠禅師坐禅和讃が書かれている。そのたびに持ってきてくれるから、家にはたくさんそれがあった。葬儀法要が続いた時期があって、その頃は、ほとんど暗唱していたが、今はもう無理だな。
お経は本来、その意味が大事なもの。ただ日本にそれが入ってきたときは、“中国”化された文化の体系として、完成したかたちで入ってきた。意味とともに音として完成していたので、お経の専門家である僧侶は、その音のまま意味も含めて理解したんだろうが、専門家でない一般人は、僧侶の発する完成されたその音を、ありがたく聞くしかなかったんだろう。
だけど、長い歴史の中で、ずっとそのままというのもおかしな話だ。お坊さんたちもいい加減に、そのあたりを考えればいい。それとも、そうできない何らかの事情でもあるのだろうか。
この本は、下の目次にあるようなお経の意味が紹介されている。各ページの上部3分の1にお経が、下部3分の2に、その意味が書かれている。
詠ませてもらったんだけど、阿弥陀経、法華経、観音経は、方便がすごくて、かえって分かりづらいような気がする。
「七重の欄干と七重の宝珠で飾られた網、七重の並木があり、それらはみな四宝で飾られ周りを囲んでいる」とか、それを呉音の発音で唱え上げることに意味を感じることが、私にはできない。それは現代人の独善なんだろうか。
理趣経は面白いね。だけど、「セックスにおけるエクスタシーが悟りの境地」とは、私には読めない。性愛は人生において大変重要な側面を持っている。それを煩悩の根源として断ち切ってしまっては、悟りの前に、人生が充足しない。
般若心経は何度も何度も唱えたから、ずいぶん前のことだけど、それなりに意味も調べた。方便がちりばめられていないので、こっちの方が分かりやすいと思う。きびしいことが書かれているようだけど、いい結果を導き出すためには、そのための原因が必要であるということだと考えて日々を過ごしている。
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを不知して 遠く求むるはかなさよ
譬ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は 福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
白隠禅師坐禅和讃はいいよね。この本には載っていないんだけど、お経って本来、こういうものであってほしい。お坊さんには是非こういうところから衆生を導いて欲しい。
方丈さんが、そのたびに“こころのともしび”という小冊子を配ってくれて、それに般若心経と、白隠禅師坐禅和讃が書かれている。そのたびに持ってきてくれるから、家にはたくさんそれがあった。葬儀法要が続いた時期があって、その頃は、ほとんど暗唱していたが、今はもう無理だな。
お経は本来、その意味が大事なもの。ただ日本にそれが入ってきたときは、“中国”化された文化の体系として、完成したかたちで入ってきた。意味とともに音として完成していたので、お経の専門家である僧侶は、その音のまま意味も含めて理解したんだろうが、専門家でない一般人は、僧侶の発する完成されたその音を、ありがたく聞くしかなかったんだろう。
だけど、長い歴史の中で、ずっとそのままというのもおかしな話だ。お坊さんたちもいい加減に、そのあたりを考えればいい。それとも、そうできない何らかの事情でもあるのだろうか。
この本は、下の目次にあるようなお経の意味が紹介されている。各ページの上部3分の1にお経が、下部3分の2に、その意味が書かれている。
詠ませてもらったんだけど、阿弥陀経、法華経、観音経は、方便がすごくて、かえって分かりづらいような気がする。
「七重の欄干と七重の宝珠で飾られた網、七重の並木があり、それらはみな四宝で飾られ周りを囲んでいる」とか、それを呉音の発音で唱え上げることに意味を感じることが、私にはできない。それは現代人の独善なんだろうか。
理趣経は面白いね。だけど、「セックスにおけるエクスタシーが悟りの境地」とは、私には読めない。性愛は人生において大変重要な側面を持っている。それを煩悩の根源として断ち切ってしまっては、悟りの前に、人生が充足しない。
『お経の意味がやさしく分かる本』 鈴木永城 KAWADE夢新書 ¥ 968 お葬式や法事で読まれるお経。そこには、どんな話が書かれているのか。 |
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般若心経は何度も何度も唱えたから、ずいぶん前のことだけど、それなりに意味も調べた。方便がちりばめられていないので、こっちの方が分かりやすいと思う。きびしいことが書かれているようだけど、いい結果を導き出すためには、そのための原因が必要であるということだと考えて日々を過ごしている。
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを不知して 遠く求むるはかなさよ
譬ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は 福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
白隠禅師坐禅和讃はいいよね。この本には載っていないんだけど、お経って本来、こういうものであってほしい。お坊さんには是非こういうところから衆生を導いて欲しい。