めんどくせぇことばかり 本 日本語 言語
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『祖国とは国語』 藤原正彦

武漢の食物市場を中心にした地域でアウトブレイクが発生している。

新型コロナウイルスはエアロゾル感染により広がっている。

感染はすでに、オーバーシュートの状態となった。

一部の地域で、クラスターが発生している。

サイレントキャリアが、街にあふれている。

ソーシャルディスタンスを保とう。

東京はロックダウンしない。

この感染症に関わる一連の報道では、臆面もなくさまざまなカタカナ言葉が飛びかっている。報道番組を見てて、「分からないよ~」って頭を抱えた。そのうち、それらのカタカナ言葉を、その報道番組の中で解説してた。・・・最初から分かるように言えばいいのに。その解説を見てない人は、いつまで経っても分からないことになるんだろうか。分かるように伝える方法があるのに、あえてその言葉を使う理由はなんなんだろうか。

一般にカタカナ語が使われる理由として考えられるのは、・・・
  1. 普段属している集団で使われているから
  2. 覚え立ての言葉を使いたいから
  3. イヤミだから
どうも、最近のカタカナ言葉の使われ方は、3のケースが多いんじゃないだろうか。世の中は、イヤミの集団になってしまったのか。♬右を向いても、左を見ても、馬鹿とイヤミの絡み合い♬ってことか。気持ち悪いぞ、この野郎!

渡辺京二さんが『未踏の野を過ぎて』の中で書いていた。「日本語こそ、我がふるさと」と。満州で生まれ、終戦後に引揚げてきた渡辺さんには、場所としての“ふるさと”がない。大事にすべき場所としての“ふるさと”がない渡辺さんは、日本語という“ふるさと”を大事にしている人だった。

では祖国とは?

血ではない。いずれの民族も混じり合っていて、純粋な血などというものは存在しない。さすがに日本人でさえ、今や、それを主張できるほど呑気ではない。

国土でもない。もしそうだとすれば、渡辺京二さんは祖国も持たないことになる。ヨーロッパ大陸においては、それこそ有史以来戦いに明け暮れ、そのたびに国土の奪い合いを繰り返し、その都度その形を変えている。にもかかわらず、フランスもドイツもポーランドもなくならない。



『祖国とは国語』    藤原正彦


新潮文庫  ¥ 506

国語は、論理を育み、情緒を培い、教養の支えとなる読書する力を生む
国語教育絶対論
国語教育絶対論;英語第二公用語論に 犯罪的な教科書 ほか
いじわるにも程がある
お茶の謎 ギーギー音 ダイハッケン ほか
満州再訪記


祖国とは国語である。

もとはフランスのシオランという人の言葉だという。国語の中には、祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されている。だから、国語を失うことがなければ、祖国を失うことはないと言うことになる。

グローバル化を推し進める正義の前に、学校での英語教育重要視化は高まるばかり。たしかに、「英語がもっとできたら」と思う人は少なくないだろう。何を隠そう、私もそう思って、お金と時間を削ったことがあった。結局そのお金と時間を、別に使いたい欲求が生まれて挫折した。

しかしもし、それを続けることが自分にとって絶対的に必要であったなら、そのお金と時間を別に使うことなく、今頃はペラペーラとやっていただろう。どうしてそれじゃダメなんだろう。どうして英語以外の興味関心も、そこそこ応援してやろうと言うことにならないんだろう。

たしかに世界が一様化されることは便利であるかも知れない。たとえば、言葉が英語に一様化されたら、翻訳こんにゃくを作る必要がない。しかし、人類の文化は、間違いなく深みを失い、おもしろくもなんともないものになる。

言語とは文化伝統であり、民族としてのアイデンティティーである。世界各地の文化伝統は、その自然的、社会的、政治的、歴史的環境のもとに結実したものである。これを受け継ぎ、次の世代に伝えていくことは、「こういう風にして生きてきたんだよ」と教えることに他ならない。

それが英語だけに一様化されると言うことは、一通りの生き方しか残されない、伝えられない、許されないと言うことを意味している。そう考えれば、人類にとっての大きな損失である。多様な伝統文化を守り発展させることこそ、“人類の大義”と藤原さんは言っている。

実際、翻訳こんにゃくは完成している。私たち、日本語を祖国とするものにとって、英語とは、英語を祖国とするものとの間のコミュニケーションの道具でしかない。だとしたら、翻訳こんにゃくで十分なのだ。

「次で例の件フィックスするから、ミーティングをアレンジしといて。あ、アジェンダ先にシェアしといてね」っていうわけの分からない指示は、「次回、例の件の仕様を最終決定するので、会議の日時設定や準備をしておいてください。議題については、事前に参加者に共有してくださいね」と言い替えられるそうです。

イヤミはおフランスにくれてやりましょう。


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『それっ❢日本語で言えばいいのに』 カタカナ語研究会議

遺族、苦しみ続けた9年 熊本・3歳女児殺害 「心に導かれ」命の大切さ伝える
熊本日日新聞 3月4日
https://this.kiji.is/607754091709924449?c=92619697908483575

 「ひな祭りの日は、自分が許せなくなる。なぜ助けてやれなかったのかと、頭が狂いそうになる」-。2011年3月3日、桃の節句の夜、清水心[ここ]ちゃん(当時3歳)は、家族で出掛けた熊本市のスーパーで、大学生の男に命を奪われた。事件から9年。今春、小学校を卒業するはずだった。母親は天国の娘を思い、目を赤くした。事件発生時から取材してきた記者が、遺族の苦悩の日々を追った。
上の記事、とても悲しいです。遺体発見、容疑者逮捕のあと、報道は一斉に加熱して、子供を失った悲しみの中、家族は見世物にされている気分だったそうです。その報道陣が嘘のように姿を消します。東日本大震災の発生です。報道陣は、新たな“見世物”を見つけたと言うことでしょうか。


今日、紹介する『それっ❢日本語で言えばいいのに』 は、すでに2016年5月に紹介した本です。記事も、その時のものを加筆修正したものです。

「ええい、まったく、いい加減にホワイト」

冗談じゃないよね。どうなんだろうな~。やたらとカタカナ言葉を使いたがる奴。一般には知らない者も少なくないカタカナ言葉を使うことで、自分の価値が高まると信じて疑わない。そんなことでしか自分を差別化できない。目の前でわけの分からないカタカナ語を使われるということは、今まさにそいつは優越感で脳内射精するための対象として私を選んだということだ。ああ、ヘッドにカム。


「その件に関しては、お客さんと最終合意を出しておいてね」って言えばいいだろう。なぜ、「お客さんとフィックスしておいてね」って言わなければならないのか、私には分からない。

「警備のバイトは、人員確保しているか」を、なぜ、「警備のバイトは、アサインしているか」と言わなければならないのか、私にはまったく分からない。

みんなが分かる言葉で言えばいいだろう。


秀和システム  ¥ 1,382

カタカナ語を話している自分が大好き? カタカナ語を聞かされるとイラッとくる?
第1章  よく出てくるカタカナ語ベスト15
コミットメント
フィックス
タイト
ユーザー
ジャストアイデア
イノベーション
エビデンス
シェア
リソース
スペック
ペンディング
アジェンダ
シナジー
コンセンサス
タスク
第2章  ビジネス現場で使われるカタカナ語
アーリーアダプター
ウィンウィン
コンプライアンス
ハイラント
レギュレーション
アウトソース
オブザーバー
ジレンマ
バイラル
ミッション
アウトプット
オンデマンド
スキーム
ファクト
リマインド
アサイン
キャリア
セグメント
フィードバック
レコメンド
アセスメント
クリティカル
ダイバーシティ
プロパー
マネタイズ
アライアンス
コンバージョン
ニッチ
ベンダー
レジュメ
第3章  意識高い系パーソンのカタカナ語
エッジ
ネゴシエーション
フック
モチベーション
エモーショナル
バジェット
プライオリティ
リスペクト
ガジェット
バッファ
ブレスト
リテラシー
コンセプト
パラレル
ベンチャー
シュリンク
ビジネスモデル
マイルストーン
ソリューション
フェーズ
マター
第4章  今をときめくIT業界のカタカナ語
アナリスト
クラウド
ロジック
アンチテーゼ
サムネイル
アーカイブ
ステマ
イニシアチブ
ベネフィット
インライン
ユビキタス
キュレーション
リスクヘッジ
第5章  妙な軽さのメディア業界のカタカナ語
インスパイア
ディテール
ポートフォリオ
オファー
デフォルト
メソッド
キャパ
バイアス
メディア
コンテンツ
バズ
リスケ
スピンオフ
フィジビリ
ローンチ
ターゲティング
ブラッシュアップ


ほーら、っね。ヘッドにカムでしょ。

それを分かってもらうために、スゲ~めんどくさかったんだけど、目次をみんな紹介した。監修者の《カタカナ語研究会議》という、こちらもなんとも怪しい集団にしか思えないけど、その人たちはこう言ってます。『カタカナ語には自己承認欲を満たしてくれる媚薬的な魅力がある』って。

私はいい歳だから、それなりにいろんな経験を経てここまでたどりつたわけだ。今考えてみれば、人にはなじみのない専門用語を多用して、自分を見失っていた時期もある。だから何となく分かるんだよな~。そういう言葉を使うイヤラシさが。・・・気持ち悪いったらありゃあしない。しかも、こりゃ日本語でさえない。

最近、公務員だとか、NHKが、本来、固い職業のように見えていた連中が、率先してカタカナ言葉なんだよね。まったく、寝耳にウォーターだよね。なんだって?アクティブラーニングだ。なんなんだよ、そりゃ。私の職場は高等学校だったんだけど、まずはしっかりした言葉を使えるようにする場所なんだけど、どんどんカタカナ言葉が入ってきた。

いい大学の教育に携わる先生方は、アメリカやヨーロッパの教育が好きでね。で、そういう教育を導入することが正しいことだと思い込んでる。それを持ち込まれた文科省も、新しいことをやるのがいいことって思っているから、それを導入することに予算をつける。高校の方でも、上に目がついているヒラメ先生たちが動き出す。


「どうしてカタカナになっちゃうんだよ」って思ってると、今度は打って変わって“学び”だの、“気づき”だの、そっちはそっちで一般人にはとても恥ずかしくて使えないような言葉を使うんだ。ゾーっとする。

そう、彼らは、一般人には及びもつかない“高み”に立っているか、・・・もちろん意識だけよ、・・・それとも“恥知らず”かのどっちかで、おそらく両方なんだな。

ったく、バカもホリデーホリデーに言えってところだ。気持ち的には仏のフェイスもスリータイムズって言って、気合をインしたいところだけど、なに言ったってホースのイヤーに念仏だし、のれんにアームプッシュだからね。所詮は負けドッグの遠吠えなわけよ。

以上、今日のお相手は、ルー大柴でした。
先日、白川英樹先生の本から、江戸時代、明治時代の翻訳が、日本の学問を支えてきたという話を紹介した。

今の日本の傾向は、逆だ。日本語で言えることを、一部の人しか分からない言葉で表現しようとする。これはあまりにも愚かしいことじゃないだろうか。そちらの方が一般化したら、日本人のすべてが、世界の最高の学問に、日本語で挑戦することができるって言う状況がダメになってしまう。

先人たちの血ににじむような努力を、水の泡にすることになるんじゃないかな。・・・心配だな。

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日本語で学ぶ『自然に学ぶ』 白川英樹

お隣から、ボールをついている音が、ずっと続いている。

どうやら、お孫さんが来ているらしい。そう、新型コロナウイルス対策で、ここ埼玉県の小中学校・高校は休みになってるからね。こんな時こそ、じじ・ばばが大活躍か。

うちの1号・2号は保育園児だから、保育園でめんどう見てもらっているようだ。保育園まで休みにならなくて、本当に良かった。だってそうだよ。「孫は、来てうれしい、帰ってうれしい」って言う。一日二日ならいいけど、これが三日四日と続いた日には、新型コロナにかからなくても、倒れてしまう。


白川英樹さんがノーベル賞を受賞した2000年、メディア各社の記者が繰り返し同じようなことを訪ねる中で、一人、意外なことを聞いてきた外国特派員がいたんだそうだ。

「ノーベル賞自然科学三賞の受賞者数を比べると、アジア諸国に限ると日本人受賞者が際立って多いのはなぜか」という問いであった。

日本人受賞者が際立って多いのは、自国での研究成果が評価されての受賞を見ると分かる。自国での研究成果が評価されてノーベル賞を受賞した日本人以外のアジア人が2人であるのに対して、日本人は24人と圧倒的に多い。

その時、白川さんは、「他のアジア諸国と違って、日本では理科や自然科学は母国語である日本語で書かれている教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えたそうだ。

インドの高校生たちに聞くと、こう答えたという。「私たちの国では、数学や自然科学を英語で習っています」「学校外で友達と話すときや、家庭で家族と話すときはヒンズー語です。

アジアでは、生活に立脚した言語では、学問を学ぶことが出来ないという現実がある。学術や芸術を学び、創造し、実践するということは、生活と一体化した行為だと白川さんは言います。“自然に学ぶ”のも、生活の中からのものだからね。

満州から引揚げてきた渡辺京二さんには、ふるさとがない。だけど、本の中でいっていた。「日本語こそ、我がふるさと」と。素晴らしい発想や考え、表現は、慣れ親しんだ言葉だからこそ。

しかし、近代科学はヨーロッパで発展した。中世、学術の中心はイスラム社会にあった。しかし、中世の終わり、イスラム社会と接触を持ったヨーロッパは、イスラムに学術を求め、それを自分たちの言葉に翻訳していった。この翻訳が、ヨーロッパの思考を無限に広げることになった。


『自然に学ぶ』    白川英樹


法蔵館  ¥ 1,320

2000年ノーベル化学賞受賞者の白川英樹先生が折々の想いをまとめたエッセイ
1「自然に学ぶ」
2「日本語で科学を学び、考え、そして創造できる幸せ―先人の努力を糧に―」
3「高分子合成を志して」


自分の慣れ親しんだ言葉に、その学術に関わる用語・概念・知識・思考法がなければ、その言葉でそれを習得することは、当然出来ない。

だから、インドの高校生は、英語でその学術に接触するしかない。しかし、日本には、日本語にはそれがある。だから、日本人は日本語で最先端の学術に触れることが出来る。そして、その学術に関し、日本語で発想し、考え、表現することが出来る。

なぜか。翻訳したからだ。

『ターヘル・アナトミア』を翻訳して、『解体新書』を公刊した杉田玄白、前野良沢、中川淳庵。『蘭学事始』でその様子を読めば、どれだけの苦労であったかが忍ばれる。神経、盲腸、十二指腸、鼓膜、軟骨、動脈、骨膜、咽頭・・・、日本には、こういう言葉が生み出されていた。

長崎のオランダ通詞本木良永による蘭書の翻訳は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳以前だそうだ。彼は西洋の自然科学を日本に紹介した。惑星は彼の作った言葉だそうだ。コペルニクスの地動説を説明する中に出てくるという。

翻訳というと、明治期の西洋学問導入に伴うものが最初に浮かぶが、それは、江戸時代の素地があってことだと考えて良さそうだ。

引力・遠心力・重力・加速・物質・・・
花粉・雄花・雌花・花柱・気孔・澱粉・・・
元素・水素・炭素・酸素・酸・中和・・・

これらはこの本に書かれていた。・・・参りますね。

高校で教えている時分、「大学で英語に習熟して、活躍できる世界を広めたい」なんて言っている女子生徒がいたけど、それを人のために使って欲しいな。「英語が出来るんなら、まだ日本語になってない英語を日本語に翻訳して。そうすれば、みんな助かるから」って言ったら、キョトンとされちゃった。

いつ頃からか、私たちの周りには、わけの分からないカタカナ言葉が多くなってるよね。それを使いこなすのが、なんだか格好良さそうな感じでさ。いずれ、使いこなせる階層と使いこなせない階層が分離していきそう。グローバル化は結構だけどさ。



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ジャンル : 本・雑誌

パソコンと漢字『漢字のいい話』 阿辻哲治

本当に、字を書かなくなった。

字を書いてますか?私はまったく書いてない。先日の息子の結婚式で署名したとき、「いや、久々に字を書くなぁ」と、ちょっと戸惑ってしまったほどだ。その戸惑いが、字を流れさせそうになる。そんなとき、あるでしょう?どうしますか?肩の力を抜いて、指がいつも通り動くように努めますか?

私は逆。肩に力が入ってることに気がついたときはもう遅い。結婚式で後ろに人が並んでるのに、肩回しするわけにもいかない。逆にもっと力を入れて、筆圧を強くして、字を抑え込みます。いい字は書けませんが、おかしな流れ方をするのは押さえ込めます。

文章を作るのはパソコン。字を書くのではなく、キーボードを打つ。必要があればプリントアウトして、人が読めるようにする。漢字も、パソコンが選択する。私はそれに許可を出す。

字を書くことが多かったときは、記憶違いや単純な書き損じで漢字を間違えることがあった。今間違えるのは、パソコンの選択ミスに気づかず、それに許可を出してしまうこと。変換ミスというやつだが、それを許可したことがミスなのに、パソコンに責任を押しつけるような言葉だ。

だけど、記憶違いや書き損じによる漢字間違いは、甚だしいと恥ずかしいばかりだが、“変換ミス”は自分でも笑える。

《破れた紙は買い取ります》→《敗れた神破壊とります》
《おいしい新じゃが》→《おいしい信者が》
《魚市場》→《咲かない千葉》
《はい写真だよ》→《歯医者死んだよ》
《清掃して放下》→《正装して放火》
《友人にも止められた》→《友人に求められた》


『漢字のいい話』    阿辻哲治


新潮文庫  ¥ 649

日本人が日常的に使う表意文字の面白さと奥深さについての考察が満載!
1 漢字を楽しむ
虫歯の漢字学
「みち」の漢字学
「妻」の原点を探れば
象とペリカン――古代中国の動物世界
アイコンとしての漢字
コラム:漢字歳時記
2 文物と遺跡
北京図書館の『説文解字讀』
段玉裁の故郷を訪ねて
皇帝と青銅器――「伝国の儀器」の歴史
悲しい石碑の物語
馬王堆発掘のカラー写真
石刻の発生――人間のものになった文字
コラム:文字の形
3 東アジアの漢字文化
この世に漢字はいくつあるのか
可口可楽・魔術霊・剣橋大学
「上京」「来阪」。では、鹿児島行きは?
国字作成のメカニズム
新常用漢字の新しさ
当節中国漢字事情
漢字簡略化と繁体字の復活
コラム:色っぽい話
4 書と漢字
筆記道具が書体を決める
書はいつから書なのか
漢字のソフトとハード
漢字はどこへ行くのか――あとがきにかえて



この間、書かなくなったことで、確実に漢字文化は退化しているという意見を聞いた。

もしこれが退化なら、退化は止まらない。止まるはずがない。だけど、これは本当に、文化としての漢字の退化と言えるのか。漢字の本質は表意文字であること。表意文字であることによって、迅速に、正確に意味を伝えることが出来るところにある。そう私は思う。

書かなくなったことで、たしかに私は自力で漢字を書くことが出来なくなった。なかなか思い出せない。だけど、それは完全に忘れてしまったのではなく、パソコンに表示された文字を正しいか間違いか判断することは出来る。間違っている場合は、いくつかの候補から正しい漢字を選ぶことが出来る。

だから、完全に忘れてしまったのではなく、パソコンの登場で必要でなくなってしまったことで、なんの手助けもなく数多くの漢字の中から唯一の正解を紙に書き出す頻度が、以前よりも少し低下しているに過ぎない。それは世の中からパソコンが消えて、やむを得ず以前と同じように、分からない漢字は辞書を引きながら書く習慣を取り戻せば、容易にもとのレベルに戻るだろう。

本書の著者、阿辻さんは、パソコンで漢字を書くことを、“文字文化の堕落”とは捉えていない。パソコンと漢字の関係は、日本語表記についての新しい文房具の登場と言っている。毛筆からペンへ、ペンからパソコンへ。それだけのことと。

漢字の専門家にそう言ってもらえると、気が楽だな。パソコンの登場で、漢字はその本質を失っていない。同時に、かつて、書いていた時代にはなかなか使えなかった“鬱病”の“鬱”であるとか、“鋸や鑿”の“鑿”なんて漢字も使えるようになった。これは漢字の本質が強化されたことを意味しないか。

ただ、正確に書く自信はないが、その正誤を正しく判断するところまでは、漢字を習得しておかなければならない。それだって生やさしいことではないが、ハードルが下がったことは事実。

私はありがたい話だと思う。


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ジャンル : 本・雑誌

『美しい日本の詩』 大岡信 谷川俊太郎編

実は今、大阪にいる。・・・もとい、大阪から東京に帰る新幹線の中にいる。

すみません。これは何日か前に書いている。で、22日の17時にアップする設定になってる。その22日17時の時点で、私は大阪から東京に帰る新幹線の中にいるはず。この日、大阪で、息子が結婚式を挙げる。その式を終えて、16時40分大阪発に乗って東京に帰る途中のはず。

この日に決めたと言われたときは、まだずいぶん先の話と思っていたが、年が明けるとあっという間だった気がする。近づいてくると気ばかりが急いて、やらなければいけないことがたくさんあるような気がしたが、実際にはそんなにないんだよね。私の兄弟夫婦や娘家族も大阪に行くので、そのための手配くらいなもの。

そうは言っても、気が急くのは収まらない。気が急いたまま前日の大阪行きと、当日の式を迎え、そしてこの記事がアップされる22日17時。・・・無事に式を終えて、ホッとして、新幹線の中で兄たちとビールでも飲み始めているだろう。・・・いや、いる。・・・と、信じる。

式の最後に、両家を代表して御礼の挨拶をする。いや、・・・した。挨拶するのは、あまり苦手ではない。高校の社会の教員だったから、人前で話をすることが仕事たからね。もちろんどんなことを話すかは準備する。だけど、実際に声に出して話を始めると、授業ってのは水物で、そのクラスの生徒との掛け合いの中からどんどん変化する。

式での挨拶だってそう。もちろん何を話かはしっかり準備する。・・・いや、した。だけど、声に出して話を始めると、式の雰囲気とか出席者の様子によって変化するのが当たり前。そういう程度に準備する。・・・いや、した。

実は10月に親族で集まった。25人ほどになった。最後の挨拶を頼まれていた。準備していたわけじゃないけど、私たち兄弟の父母の話をしようと思っていた。亡くなった父母が、今日きっとこの会場に一緒に来ているだろうと言おうと思っていた。声を出して挨拶をはじめて、それを言おうと思ったら、声が詰まった。

・・・声に出してみないと、分からないこともある。

式の御礼は、気持ちを高ぶらせずに、淡々と挨拶するつもりだ。・・・いや、した。・・・と、信じる。
さてこの本は、『美しい日本の詩』という本。だけど、それだけじゃない。“声でたのしむ”『美しい日本の詩』という本。声に出さなきゃ意味がない。




『美しい日本の詩』    大岡信 谷川俊太郎編


岩波文庫  ¥ 1,210

日本語がもつ深い調べと美しいリズムをそなえた珠玉の作品だけを選びました
古典和歌
近代短歌
歌謡・連句
近世俳句
近代俳句
近・現代詩


そういう本であるわけだから、読むのに少々時間がかかった。

声に出さなきゃいけないから。たとえ自分の家にいるからって、和歌、俳句、詩を声に出して読めるわけじゃない。別個の人格を持った連れ合いと一緒に暮らしているわけだからね。彼女が好みのテレビやラジオをかけている時間も少なからずあるし、本を読んでいるときに詩の朗読なんかされたくはないだろう。単純に私の声なんか聞きたくないときがあってもおかしくない。

だから、結局、黙読して、声に出して読んでみたい詩を決めといて、連れ合いが出かけているここぞという時に、その詩を朗読してみたんだ。

文学としてどうかという価値判断は、まったく私には出来ない。ただ、声に出して読んで、心地よかったかどうかだけで考えればいいんだなと、そのくらいの意気込みで、はっきりと、大きな口をあいて、声に出して読んでみた。

ああ、きもちいい。

たしかに気持ちがいい。
   空のなぎさ  
                   三好達治

いづこよ遠く来りし旅人は
冬枯れし梢のもとにいこいたり
空のなぎさにさしかはす
梢のすゑはしなめきて
煙らひしなひさやさやにささやくこゑす
仰ぎ見つかつはきく遠き音づれ
落葉つみ落葉はつみて
あたたかき日ざしのうへに
はやここに角ぐむものはむきむきに
おのがじし彼らが堅き包みものときほどくなる
路のくま樹下石上に昼の風歩みとどまり
旅人なればおのづから組みし小指にまつはりぬ
かくありて今日のゆくてをささんとす小指のすゑに


“あとがき”は谷川俊太郎さんなんだけど、これらの詩は、声に出して読む、つまり吟ずるのが当たり前だったんだそうだ。体がむずむずして、自然に声に出したくなるのが、他の言葉とは違う詩というものの魅力だったと。さらには、吟ずることで自分も楽しみ、一とも交流する、今でいうカラオケみたいなものだったかも、とまで言っている。

たった100年前まで、それが当たり前のことだったそうだ。

しかし、それ以降、詩は本のページに印刷してあって、ひとりでひそかに黙読するのが常識の文学になってしまった。同時に、声に出して読む気になれない詩、音読してはかえって意味が分からなくなる詩が増えたことも、「詩を黙読する」ことに拍車をかけたそう。

声をなくしたことには、日本の詩歌にとって、得たものも、失ったものもあると言うことのようだ。

和歌、短歌、俳句、詩歌。あえて敬して遠ざけたわけではないが、深入りできなかったのは、勇気を出して吟じてこなかったところにも原因の一端はあったかも。いっそ、声をなくして何かを得た最近の詩歌を見限って、一人カラオケに入り浸って詩歌を吟じるのも、一つの手かもしれない。


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『齋藤孝のざっくり!万葉集』 齋藤孝

「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」

・・・、令和ってことですね。

中村草田男さんが「降る雪や明治は遠くなりにけり」と読んだのは、元号が昭和に移り変わってのことだそうです。大正ではないんですね。元号が大正に変わって、明治に生まれ育った人たちは過去に追いやられてデモクラシーを論じる時代になります。それでも世の中を動かしている人たちは明治の人たちで、懐かしむのは明治だったわけです。

それが昭和になる頃、明治の人たちはそろそろ第一線から引き、後進に道を譲ります。 彼らが明治を懐かしむのは同じでも、それは大正を懐かしむ影に隠れてのことになってしまいます。

昭和35年生まれの私も、今年の3月いっぱいで第一線を引き揚げました。4月で平成が終わって、5月からは令和になりました。しばらくすれば、平成が懐かしく思い起こされるようになるでしょう。そうなれば、私たちは昭和が遠のいたことを、強く意識することになるでしょう。

“中国”ではなく、日本の古典に元号の典拠が求められるっていうのは、とてもいいですね。なかでも、万葉集っていうのがいいとおもいます。

日本っていう国は、世界に稀な国。なにしろ古代と現代が、途切れずにつながっているって言われます。民族も、文化も、言語も、・・・。それこそ神話から現代までがつながっていると。

だけど、それにしては、神話の世界というのが曖昧模糊としすぎています。それに歴史がつながっているとはいいながら、日本の原型である大和朝廷っていうのがどのようにして成立したのかが分かっていません。正史としての『日本書紀』があるにも関わらず、ヤマト朝廷がこの国を支配する正当性を、そんないちばん大事なことを語っていない。

本当におかしなことです。・・・わけがあるに違いありません。



祥伝社  ¥ 1,650

令和の時代だから知っておきたい教養。古代の歴史・万葉仮名・鑑賞ポイント・万葉人の暮らし…。
第1章 仰天!国家プロジェクト―万葉集の編纂事業はこうして実現した
第2章 探訪!万葉仮名ワールド―やまとことばに漢字を当てるという「神業」
第3章 古代の歴史が透けて見える―後継者をめぐる血なまぐさい事件がてんこ盛り
第4章 恋の歌に知性キラリ―万葉人が歌で楽しんだ「恋愛ゲーム」
第5章 万葉人に共感―庶民の暮らし・思いはいまも同じ


これは建国に問題があるのではなく、『日本書紀』が書かれた時代に問題があるということになります。その、『日本書紀』の成立に大きく関わるころ、大和朝廷ではとんでもない事態が起こっていました。それがちょうど、《第3章 古代の歴史が透けて見えるー後継者をめぐる血なまぐさい事件がてんこ盛り》の時代に該当します。

聖徳太子という人物には実在感が乏しく感じます。さらに、その子とされる山背大兄王に関しては、さらに実在感が乏しいように思います。何しろ跡形もなく消えてしまうんですから。

大和には 群山あれど とりよろう 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は

舒明天皇の国見の歌です。明るくて伸びやかですね。著者の齋藤孝さんは蘇我蝦夷が山背大兄王を支持する境部摩理勢を殺したことで、田村皇子が舒明天皇になれたことを取り上げています。蝦夷の専横がエスカレートしていく中で読まれた歌にしては、“音読して気持ちのいい作品”と言っています。

どうなんでしょうねぇ。おそらくこの時代の一番の焦点は、一つには律令の導入に伴う公地制への移行、もう一つが親百済外構から全方位外交への移行にあったと思うんです。蘇我政権こそ、それを進めていました。

山背大兄王は、このあと蘇我入鹿に滅ぼされたことになってます。改革への反動勢力であり、偉大な聖徳太子の子である山背大兄王を跡形もなく滅ぼした、非道な蘇我氏であるから、これを滅ぼす中大兄皇子と中臣鎌足に正義はあるというのが、正史『日本書紀』の主張です。

だとすれば、そんな状況でこんなにも明るさと躍動感に満ちた歌を読んだ舒明天皇は、どこか性格に異常なところでもあったわけでしょうか。

その天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足体制を覆したのが、壬申の乱で二人の体制を継承した大友皇子をやぶった天武天皇ですね。天武によって改革は進められることになりますが、その後、天智天皇の娘の持統天皇と中臣鎌足の息子の藤原不比等が、天智・鎌足体制を継承・発展させるんですね。『日本書紀』はそのような状況で世に出ます。

本当のことを言ってるのは、『万葉集』の方でしょう。

『万葉集』には、まだまだ隠された魅力があるように思います。




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万葉仮名『齋藤孝のざっくり!万葉集』 齋藤孝

《和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母》

縄文以来の“やまとことば”を漢字で表現したのが万葉仮名です。その時、日本人は、けっして大陸の言葉の構造は取り入れず、漢字だけを拝借したんですね。

中国文学の専門家の高島俊男さんが、著書『日本人と漢字』の中で、「日本語と漢字はもともと似ても似つかないもの。人間の結婚に例えるなら、「性格の不一致」も甚だしい。ところが長年連れ添ってきた以上、今さら分かれることもできなくなってしまった」って書いておられるそうです。

藤原正彦さんが、『祖国とは国語』っていう本を出してますけど、漢字仮名混じり文で書かれた日本語は、まさに私たちにとって祖国です。

冒頭の漢字の羅列は、万葉仮名で書かれた万葉集の和歌の一首です。大伴旅人の歌だそうです。旅人といえば、万葉集を編纂したとされる家持の父親ですね。藤原氏に目をつけられて大宰府に左遷されて、なんだか酒に溺れた歌を残してますよね。最後は屈したものの、“反藤原”は家持にも引き継がれて、万葉集にはそんな色合いが込められているとか。

ごめんなさい。冒頭の一首ですね。著者の齋藤さんは「一字一音だし、有名な歌なので比較的読みやすい」っていうけど、私には充分難しかったです。

漢字仮名混じり文だと、次のようになります。
《わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも》

どうも、万葉仮名というのは、平安時代には、すでに読めなくなっていたらしいですよ。万葉集は万葉仮名で書かれているわけですよね。成立が奈良時代末でしょ。家持の時代ですから。「鳴くようぐいす平安京」で、平安京遷都が794年です。斎藤さんは10世紀には読めなくなっていたと言ってますから、百年余りの間に忘れられていったということです。

10世紀初頭に完成した古今和歌集にはひらがなが使われているので、万葉仮名はそのあたりで急速に衰退したんですね。

その万葉仮名を丹念に解読し、私たちが万葉集に触れることができるようにしてくれたのが、江戸時代中期の国学者、賀茂真淵大先生ということです。賀茂真淵が万葉仮名で書かれた万葉集を解読し、後継者の本居宣長が古事記の研究を大成させてくれました。さらに折口信夫が、漢字仮名混じり文に口語訳をつけた『口訳万葉集』を出してくれたおかげで、万葉集は広く普及していったんだそうです。



祥伝社  ¥ 1,650

令和の時代だから知っておきたい教養。古代の歴史・万葉仮名・鑑賞ポイント・万葉人の暮らし…。
第1章 仰天!国家プロジェクト―万葉集の編纂事業はこうして実現した
第2章 探訪!万葉仮名ワールド―やまとことばに漢字を当てるという「神業」
第3章 古代の歴史が透けて見える―後継者をめぐる血なまぐさい事件がてんこ盛り
第4章 恋の歌に知性キラリ―万葉人が歌で楽しんだ「恋愛ゲーム」
第5章 万葉人に共感―庶民の暮らし・思いはいまも同じ


《石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨》

万葉仮名は、冒頭の一首のように音読みもしますが、同時に訓読みもするんですね。そこから、漢字仮名混じり文が生まれるんでしょう。だから、上の一首なんかは、漢字万葉仮名混じり文ということになるでしょうか。志貴皇子の歌ですね。

《石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも》

“激”を「はしる」ってところが味噌ですね。“激”には「そそぐ」っていう読みも、昔はあったんだそうですよ。これを「そそぐ」って読むと、垂水はちょろちょろと垂れるように流れる水ってことになります。「はしる」って読むと、やはり、小さな滝のように激しい流れになりますね。斎藤茂吉は『万葉秀歌』の中で、「ここはこう読みたい」って、そんな言い方で後者を推奨しているんだそうです。

《東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡》

これになると、もう、最初から最後まで「こう読みたい」 の連続みたいな感じですね。

《東の 野に炎の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ》

異説もあるそうですが、私もこれが好きです。それにしても、“月西渡”を「月傾きぬ」って読むのって、なんか素敵ですね。

万葉集には防人の歌や東歌があります。庶民の歌ですよね。彼らが万葉仮名を操れたなんて、到底考えられません。誰がこれらの歌を収集したのか知りませんが、収集して、後に万葉仮名としての漢字を当てたわけでしょう。漢字を当てるまでは文字になってないわけですから、覚えていなきゃいけないわけでしょう。録音器具のある今とは違いますからね。

万葉集は4500を越える和歌があるんだから、それを思うと、本当にすごい財産を、私たち日本人は持ってるもんですね。




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ジャンル : 本・雑誌

『季語を知る』 片山由美子

高校三年の8月、夏休みも終盤に入ろうという頃、私は受験勉強から逃げ出しました。

「ちょっと山に行ってくる」と言ってでかけた先は、北アルプスの涸沢です。山岳部の一番小さいテントを持ち出して、それを張って、周辺の山を・・・、何ていうのかな。登るとか、山頂を極めるとかじゃないんですね。フラフラしてたんです。3日目、ヒュッテに幕営料を払いに小屋に行ったら声をかけられて、忙しい時間帯だけ手伝いをさせてもらったりもしました。もとがバカなもんですから、そのうち自分の立場も忘れて・・・、いや、分かっていたのに忘れたことにしておいて、涸沢に居続けました。

ある朝、朝食後の片付けも終わってお客さんを送り出し、ヒュッテから出て青く晴れた空に向けてそそり立つ山を見ていると、何かそれまでとは違う、爽やかな風が吹きました。ヒュッテに戻ってカレンダーを確認すると、その日は9月3日でした。

まあ、分かっていたことなんですが、逃げ回るのもそのへんが限界で、その日のうちに埼玉に帰りました。涸沢にいたのは、10日間だけでした。

あの風は、明らかに夏の終わりを感じさせるものでした。

それ以来、何よりもあのときと同じ爽やかな風と高い空に秋を感じます。

この本にも、秋の季語として、高い空が取り上げられています。“秋高し”、“天高し”と使われてるケースが多いそうです。「天高し、馬肥ゆる秋」という言葉がありますね。これは秋の爽やかさを称える言葉ではないんだそうです。「馬が肥える秋が来た。臭覚を狙って騎馬民族が侵入してくるぞ」という警戒の言葉だそうです。

ここで言ってる騎馬民族とは匈奴でしょうか、鮮卑でしょうか。いずれにせよ、警戒している側は、長城の内側に住む農耕民に違いありません。つまり、“中国”の話です。“中国”では古代において、すでに高い空に秋を感じていたんですね。

なんて考えながら読んでいたら、この本にはそのことについて書かれていました。たとえば『漢書』です。その中の《趙充国伝》に「到秋馬肥変必起矣」(秋に到れば馬肥ゆ、変必ず起こらん)とあるそうです。これから「到秋馬肥」という言葉が生まれ、「秋高馬肥」として伝わったんだそうです。

さらに、同じく『漢書』の《匈奴伝》には、「匈奴は秋に至って、馬肥え弓勁し」とあるそうです。騎馬民族は、どうやら匈奴だったようですね。


『季語を知る』    片山由美子

角川選書  ¥ 1,728

季語の歴史と本意を古今の歳時記を比較しながら丹念に考察 秀逸にして野心的「季語論」!
第1章 春の詞
第2章 夏の詞
第3章 秋の詞
第4章 冬・新年の詞
第5章 季語という言葉


俳句をやってみたいって、ずっと思ってて、なんか俳句を始めるにふさわしい本でもあればと、そのたびに読んで見るんだけど、いつもそれきりで終わってしまうんです。本気さが足りないんですね。

実は、この本もそんな、“本気さが足りない”適当な気持ちで買ってみたんです。しかし、“本気さの足りない”私のような者が読む本ではありませんでした。

季語を、それが季語として認識されるようになった時期にさかのぼって、古典で、時には“中国”の故事に求めて、どのように使われていたのかということを考証していこうという取り組みをまとめたのがこの本です。

上記の、「秋高し」にしたって、『漢書』にさかのぼって、北方騎馬民族匈奴の農耕地帯への侵入に、その源を求めることになったわけです。同じように、宇宙の底を見つめているかのようにどこまでも高い空に秋の到来を感じたとしても、それは匈奴侵入の脅威に直結する言葉だったわけです。「秋の到来」までは同じでも、そこから引き出されるのが、「爽やかさ」だったり、「実り」であったりする日本人とは違うもんです。

この本は、そこまで求めます。この本を入門書として俳句に入ろうというのは、ちょっとふさわしくなかったみたいです。

それにしても、「秋高し」ということがから「脅威」を思い起こした人々の感情は、高い空と爽やかな風に大学受験の現実に引き戻された私の状況に近いような気がするんですが・・・。

もう一つ、秋といえばさんま。不漁と言われながらも、スーパーで見かけるようになりました。それでもまだ高いですね。昨日は1尾200円で売ってました。150円を切ったら買ってみようかな。どうせだったら、河原に行って炭火で焼いて食べたいな。

いつ食おう 今日のさんまは 200円




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『俳句必携 1000句を楽しむ』 宮坂静生

ご先祖もこの台風で足止めか

ずいぶん大きな台風で、しかも、お盆を直撃とあって、盆休みの帰省であるとか、旅行であるとかに大きな影響が出てしまいました。娘の家族は娘婿の実家である徳島に飛行機で帰ると行っていました。だけど、今朝のニュースでは四国、中国地方への飛行機はみんな欠航になると行っていました。どうするんでしょう。

一三日に迎え火でお迎えしたのはいいけれど、明日の一六日にお送りできないと、いったいどうなるんでしょう。釜の蓋が閉まってしまっては大変です。

帰省する息子のために梨を買う

最近は、冷凍技術が上がって、夏の始まりの頃まで、そこそこ美味しい林檎が食べられます。だけど、ぎりぎり梨には間に合いません。朝、起き抜けの果物は、うちでは欠かせません。この間をつなぐのが、キウイフルーツ。最近は、ニュージーランドのものが安く出回るようになりました。

それでもお盆には梨が間に合いました。もう、うちの方の梨は美味いんですよ。爽やかな歯ざわりと、あのみずみずしさはまるで水の玉。

滝一つ越えた鼻先の蜻蛉かな

夏は沢登り。いやいや、二〇〇〇メートルを超えれば涼しいんだけど、そこまで行くのにお金がかかります。たまにはそんな贅沢もいいけれど、普段の遠出は控えましょう。かと言って地元の低山ではあまりにも暑いので、沢を歩いて、滝でもよじ登りましょう。誰もいない沢。時々、上の林道を走る車の音が聞こえる程度です。沢を誰から歩いていようとは、誰も知りません。

一人ですから危険は避けますが、大丈夫と踏めば、頭から水を浴びるような滝を思い切ってよじ登ります。「越えた」とは言え、まだ両手は岩を掴んでいます。そんな私の鼻先に蜻蛉。こっちが手も足も出せないのを知っているかのようです。



平凡社  ¥ 3,024

古今を行き来し、句の背景や作者の個性、日本の自然・文化・ことばの奥深い世界を紹介
新年 冬 春 夏 秋 冬
一月一日 二月二日 三月一日 四月一日
五月一日 六月一日 七月一日 八月一日
九月一日 一〇月一日 一一月一日 一二月一日
炬燵 雪 梅 雛 花・桜 時鳥 虹 蛍 七夕 盆
秋の風 望月 かなかな 秋分 小鳥来る 林檎
秋の暮 小春 切干 枇杷の花 一二月八日
聖夜・クリスマス 行く年 
[季語の橋]
新年から冬へ 冬から春へ 春から夏へ
夏から秋へ 秋 晩秋から歳晩へ


この本の著者の宮坂さんは、日本農業新聞に俳句鑑賞のコラムを書いているんだそうです。

この本は、平成二一年から一〇年の間に、宮坂さんがそのコラムに取り上げた一五〇〇余句の中から一〇〇〇余句の俳句鑑賞コラムを一冊にまとめたものだそうです。

日本農業新聞には週に三回掲載されているそうです。その中で、宮坂さんは、新聞を朝、手にする農家の人たちに「おはよう」と呼びかけるようなつもりで書いているものだそうです。実際、農業や農業を取り巻く自然に関する俳句が比較的多くなっているそうです。俳句は、もともと季節の移り変わりにともなう心の動きを表すことが多いものです。

宮坂さんは、そのあたりを、「もとより俳句は、こころの表現である。私の思いや考えが季節の移ろいや社会の変化に触発され、ことばにいのちが託される」とおっしゃってます。

時々、思うんですよね。私もその時時のこころの動きを俳句にしてみたいって。季節の移ろいを感じるのは、私だって感じるんです。農業で暮らしていれば一番なんでしょうが。農業を職業としてない私では、農業に触れるのはスーパーの野菜置き場くらいのものです。出来る限りスーパーで農業に触れて、季節のものを食べるようにしたいと思います。季節外れのものが並んでいることも少なくありませんが。

山に行くのに季節を感じますね。そんなときのこころの動きを言葉で表せばいいんでしょうけど、言葉にこだわる習慣を持たずに来ちゃいましたので、なかなか難しいですね。せめて、人の読んだ良い句に触れて、なんとなく真似でもしてみましょうか。

それにしても今日は八月一五日

これじゃ俳句とは言えないのかな。この日付だけで、どうしたってこころが動くのは間違いないんですけど。




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責任回避『不都合な日本語』 大野敏明

投票日は明後日ですか。明日あたり街に出かければ、アチラコチラで演説会にぶつかるかもしれません。

そんなときに参考になるかもしれない話が載ってました。大学や高校の弁論部に入ったりすると、最初に先輩から言われることの一つに、「修飾語をすべて省いて話してみろ」というのがあるんだそうです。

選挙演説でよくありそうな修飾語というと、「本当に」と「しっかり」。下手な候補者の中身のない演説ほど、「本当に」と「しっかり」が多用されるそうです。そして最後は、「頑張らさせていただ」くんです。

《私は国民の皆様の生活が、本当に保障された、本当に豊かで本当に明るい社会をしっかりと建設していくことが、本当にわが党と私に課せられた最大の使命であると、しっかりと訴えさせていただきたいと思います。最後の最後まで本当にしっかりと頑張らさせていただきます》

あ~、くどくどしい。その上、この「させていただく」って言い回しが、嫌いなんです。嫌いというか、間違いですね。「さ」が余分です。「さ」入れ言葉、専門用語では過剰修正って言うんだそうです。上記の「頑張らさせていただきます」なら、「頑張らせていただきます」が正しいわけです。

弁論部なら、以下のようになりますね。

《私は国民の皆様の生活が保障された、豊かで明るい社会を建設していくことが、わが党と私に課せられた使命であると思います》

似たような言い回しで、「務めさせていただく」とか、「引受させていただく」なんていい方があります。なんで、「務めます」「引き受けます」じゃないんだろうと思うんです。

なんか、言葉の中に見えるはずの人の存在が薄いです。

第三者を権威として登場させて、その依頼、あるいは許可を前提にしたような言い方です。そこに責任が預けられているんですね。

大したことじゃないのに、責任を取らされることが怖いんでしょうか。言葉の端々に、突っ込まれたときのための保険がかかってるような言い方が増えてます。なんか、いやらしく感じます。ビビリから始まったそんな言葉が、いつの間にか肩で風を切ってあるいてますから、自分もいつの間にか使ってたなんてことにならないように、気をつけてはいるんですが・・・。



展転社  ¥ 1,728

現在の日本語」を取り上げながら時局を批評し、おかしな現代社会を痛快にぶった斬る
序の巻
「であります」は陸軍ことば
「シナ」はなんで嫌われる
「マジっすか」はマジ? ほか
破の巻
ばっくれる

適材適所 ほか
急の巻
藩属国
太平洋戦争
参議院 ほか

「コーヒーで大丈夫でしょうか」って、確認されたんだそうです。

この本の著者の大野敏明さんがです。大野さんは、コーヒーを頼むと、なにか大丈夫ではないことが起こるんだろうか、と考えてしまったそうです。あるいは、ウェイトレスさんは“私”がコーヒーを飲んではいけない病気か何かをしているのではないかと察して、聞いたのかもしれない。それとも、今日はコーヒーを飲んではいけない日にあたっているのかな。・・・などなど、いろいろ考えた挙げ句に、つい、「大丈夫です」と答えてしまったんだそうです。

これは、恥ずかしいですね。大野さんは、どんなウェイトレスさんの杞憂を晴らすために、「大丈夫です」と答えたんでしょうか。

「私はコーヒーを飲んではいけない病気ではないので大丈夫です」でしょうか。「今日は男はコーヒーを飲んではいけない日ですが、私はオカマなので大丈夫です」でしょうか。

だいたい、喫茶店でコーヒーを頼んで“大丈夫”でない何かがありえるでしょうか。

あります。このウェイトレスさん、ボーッとしてたもんで、“たぶんこのお客さん、コーヒーを注文したと思うんだけど、ココアだったかもしれない。一応確認しておこうかな”。「お客さん、コーヒーで大丈夫でしょうか」

「コーヒーでいいですね」、「コーヒーで間違いございませんか」と言えばいいところ、ここでも責任の所在を相手側に押し付けているんですね。《大丈夫か、大丈夫でないかは、私の責任ではありません》ってところです。

この「大丈夫ですか」ってのは、教員でも若い人たちは抵抗なく使ってます。「**さんのお宅で大丈夫でしょうか」とかってね。「頑張らさせていただきます」なんて言ってないでしょうね。真逆ね。

“まぎゃく”じゃなく、“まさか”って読んでね。




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ありがとうございました



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イーグルス16

Author:イーグルス16

息も絶え絶えです、ぜひ応援してください


現代とはなぜこんなにも棲みにくいのか。
前近代から近現代へと変貌し続ける世相の本質をつかみ生き方の支柱を示す。
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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本








































































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