めんどくせぇことばかり 本 日本語 言語
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『シルバー川柳 8』

仕事辞めちゃったから、時間がいくらでもある。

何かしようって言うんじゃない。趣味と言えば、山登りと読書、それから“えへへ”くらいのもの。安定した天気が続くなら、山に入り浸るけど、そうでもなけりゃ、本を読んで一日過ごす。あとは、“えへへ”。

数年前から連れ合いと二人暮らし。一昨年、仕事辞めると話したら、「じゃあ、私は主婦やめる」と切り替えされた。

主婦やめる?・・・あなたは主婦だったのか。主婦ってなに?漢字から推しはかるのはやめよう。碌なことになるはずがない。私は仕事を辞めて、無職になる。この間、献血に行ったとき、過去のデータの職業欄の訂正を求めたら、「卒業ですね」と言われたので、「退職です」と応えてしまった。大人げないことであった。訂正してもらったら、職業欄が無職に変わった。

連れ合いは、主婦をやめて、いったい何になるんだろう。おそらく、職業欄に主婦という分類はないだろう。最初から無職だろう。無職の主婦が、主婦をやめても、無職に変わりは無い。

そんな、不明瞭な立場で、よく30有余年もやってきたもんだ。いや、以外とその不明瞭さに甘んじてしまえば、けっこう楽な立場なのかも知れない。

「主婦やめる」っていうのは、なんだろう。私は無職になって収入がなくなるから、収入に関して私に頼っていたからこそ甘んじて我慢していたことを、これからは我慢しないと意味だろうか。なら、甘んじて我慢していたというのは、何のことだろう。

私は、料理が好きで、人のために何かを作るのを厭わない。仕事を辞めて、今は、朝と昼は私が準備する。お勝手ごとに関しては、片付けまで含めて全部やる。連れ合いが起きてくる前に、庭の掃き掃除も済ませてしまう。

まだまだ家のことに関しては、“元主婦”に聞かなければ出来ないことがたくさんある。洗濯物はたたむ。庭木の剪定は、仕事をしているときからやっていた。繕い物が出来るように、息子の使っていた針箱をもらった。

今できることはやっているし、出来ることを増やしていこうとは思っている。・・・それにしても、“元主婦”が甘んじて我慢していたこととは、いったい何なんだろう。





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口コミ人気で、シリーズ累計80万部の最新刊、第8弾がいよいよ登場
「「インスタバエ」新種の蝿かと孫に問い」
「お揃いの茶碗にされる俺と猫」
「うまかった何を食べたか忘れたが」
「朝起きて調子いいから医者に行く」


退職を するなら私 主婦やめる

買替えも これが最後と 三台目

70代 あきらめきれず 免許証

薄闇の 影は老人 散歩中

還暦は 二度目ももはや 夢じゃない

「耳の中でセミが鳴いているよう」と、連れ合いが言い出したのは1年ほど前のこと。夜、気になって眠れないと。思いもよらないことに、「耳にセミ?」と、笑い飛ばした。だけど、顔つきが深刻で、医者に行くという。

後日、「できるだけ気にしないように」と言われたと、気落ちした様子。ネットで調べて、川のせせらぎのような音を流すと眠れるらしいことが判明。早速、CDを買ったら、よく眠れたという。

耳鳴りって言うのを意識した、最初の体験だった。よくよく考えてみると、私の耳の中では、ずいぶん前からセミが鳴いている。連れ合いに言われて、はじめてそれと分かった。

虫の声 耳鳴りのセミ 収まりぬ

五十肩 片腹痛い 六十歳 

先に行く 猫の姿に ホッとする

仕事を辞めて、1年と少し。老人たちの行動パターンが、少し見えてきた。できるだけ、お金を使わずに時間を過ごすことが重要なようだ。

朝、ご飯の前に散歩だな。夫婦で一緒に散歩をしている人もいる。家に帰ってからのことは分からないが、食事の準備、後片付け、洗濯、掃除なんてやってれば、まあ、9時近い時間になるだろう。図書館が開く。もう、利用しない手はない。私は、自分の予約した本が入った時しか行かないが、10時から11時くらいの時間は、新聞・雑誌の閲覧スペースは、ほぼ満員。11時を過ぎたら、今度はスーパーマーケットに行って、その日のお昼ご飯の買い出しだな。ゆっくり選んで、家に帰れば、十分午前中はつぶれる。

感染症の自粛期間、およそ2ヶ月ほど図書館が閉まった。新聞・雑誌の閲覧スペースにいた老人たちは、行き場を失った。今も閲覧スペースは、その3分の2が利用不能。スーパーマーケットに行っても、老人は戻りきっていない。

じつは、この『シルバー川柳 8』は、ずいぶん前に刈ってあったもので、2018年度発行のもの。おそらく、『シルバー川柳 10』が出てるんじゃないかな。そこには、今年の、このご時世を詠った川柳が、多く取り入れられているだろう。

読んでみたいな。



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ジャンル : 本・雑誌

『失礼な日本語』 岩佐義樹

あっ、そうそう!

そう、その通り。わたしも、同じように思ってた。そういう言葉がたくさん載ってた。特に、《第5章 イラッとする使い方―仲間内だけで結構です》には、そんな言葉がたくさん載っていた。

「~だそう」って言う表現、私もなにか、不自然さを感じてた。百名山を紹介する、小野寺昭さんがナレーションしている民放の番組で、この言い方をしていた。それを皮切りに、さまざまな番組で、この言い方がされているのに気がついた。「~だそうです」、「~だそうだ」までしっかり言ってもらわないと、なんだか収まりが悪い。「~だそうです」、「~だそうだ」という言い方で、相手に、断定的と捉えられるのを恐れてるんだろうか。

そうそう、それもそう。・・・この、「~そう」は良いよね。どれが“それ”かというと、コンビニで弁当を買うと、店員が「温めますか」って聞くの。私は、コンビニで弁当を買ったことはないんだけど、買った人がそう言われているのには、何度も出くわした。「温めますか」と聞かれたら、どう答えるのが正しいかって考えちゃって、・・・「余計なお世話だ」という言葉が浮かんじゃったんだ。私は弁当を買った人の後ろに並んでたんだけど、思わず吹き出してしまってね。弁当を買った人に振り向かれてしまった。

アカウンタビリティー?・・・なんじゃ?それ。・・・説明責任っていう意味なのか。そう言えよ。

ダイバーシティ?・・・なんじゃ?それ。・・・多様性って言う意味なのか。そう言えよ。

なんか、国会でも野党の議員が騒いでたな。イカデンス?タコデンス?ちがう、エビデンスだ。・・・わかんないよ。科学的裏付けっていう意味なのか。最初からそう言えよ。

新聞の校閲を仕事にする、言わば言葉のプロの方にしてみれば、いろいろな場面で引っかかるんだろうな。そう感じるたびに調べてね。生活の中で、言葉に触れないってことはあり得ないから、そのたびに立ち止まって調べるんだろうな。それをやっておかないと、仕事に差し障りがあるだろうからね。

《第6章 第6章 「たが」の外れた文章―書き言葉は丁寧に》、《第7章 失礼ワード20選―誤解必至です》は、大変、勉強になった。曲がりなりにも、ブログでつたない文章を晒しているわけだからね。恥をかくのは承知の上だけど、少しでもね。分かりやすく、読みやすい文章にしたいものだと思う。

ちゃんと、自分の文章を振り返ることが大事なんだな。・・・私は不十分だな。


『失礼な日本語』    岩佐義樹


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うっかりミスが致命的な失態になる。新聞のベテラン校閲者が教える文章マナー
第1章 「綸言汗のごとし」―首相の言葉チェック
第2章 敬語は難しいけれど―畏敬か敬遠か
第3章 固有名詞の怖さ―誤りはこうして防ごう
第4章 いわゆる差別表現―理解と配慮があれば
第5章 イラッとする使い方―仲間内だけで結構です
第6章 「たが」の外れた文章―書き言葉は丁寧に
第7章 失礼ワード20選―誤解必至です


あらたまった場所は、あとは身内の葬式くらいのもんだろう。

公の場での挨拶や、社会的な立場からの発言って言うのは、あらたまった場所だからこその失敗というものがあり、それ故のおかしさが生まれる。その場合、会場のざわざわが収まったあたりで、近くの人がこっそりと耳打ちすれば、それでいい。あとの飲み会の席まで引きずって、本人のいないところで大笑いというのは、人格のいやらしさが透けて見えて、出来れば同席したくない。

「慎んで・・・」は、「謹んで・・・」ですよ。「ご静聴」は、「ご清聴」ですよ。そんな感じだね。

《第1章 「綸言汗のごとし」―首相の言葉チェック》は、ちょっとやり過ぎて、嫌らしい。校閲の仕事とはいえ、毎日新聞の人らしいと言えばいいのか。私たちが毎日使う、大事な日本語に関する、とても面白く、ためになる本なのに、どうしてそこに政治的嗜好を持ち出してしまうのか。権力側を攻めている限り、自分に恥じることはないとでも思っているのか。だけど新聞の人って言うのは、守られた場所にいるからね。そこから反論できない立場の人を責めるのは、やはり卑怯に思える。たしかに、首相官邸から出てくる言葉が間違っているというのは、ちょっと困りもんだけどね。

差別的な表現というのも、たしかに扱いが難しいよね。《第4章 いわゆる差別表現―理解と配慮があれば》で取扱われているけど、言葉をかえると差別がなくなるわけじゃない。

目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人が、以前のような呼称がいやだって言うんなら、もう使わない。私は4年前まで片足が悪く、びっこを引いて歩いていた。びっこは歩くときに釣り合いのとれない状態を言うのだから、その人をそれ故に低めているわけじゃない。4年前以前に、私に対して「びっこ野郎」という奴がいたとしても、私が腹を立てるのは、言葉に対してじゃない。言った本人に対してだ。すべて、個々のケースだと思う。

妙齢は、年頃の女性を指す。それが最近、微妙な年齢の女性ととらえる人が増えているらしい。微妙な年齢ってなんだろう。もう若いとは言えないような歳の女性ということになると、元の意味からずいぶん離れてしまう。著者の岩佐さんは、これを扱いにくい言葉で、使う際には注意が必要と言う。

扱いにくい言葉という意味だろうか、「片手落ち」という言葉は、障害者差別の放送禁止用語に入っているそうだ。これは、「片手・落ち」で、一方の手がない人を指す言葉ととらえる人がいるからのようだ。そうではなくこれは、「片・手落ち」で、一方に対しては十分であるが、もう一方に対しては不十分であることを示す。

以前は傷痍軍人がたくさんいたからな。たしかにそういう人の前では、そういう意味合いではないとは言え、「片手落ち」は使いづらい。だからこそ、話題にすべきだと思うよ。

問題のありそうなことを、言葉を、避けちゃうのは、どんなもんかなぁ。まあ、著者の方は、新聞の校閲マンだからね。仕方がないよね。

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ジャンル : 本・雑誌

LGBT『失礼な日本語』 岩佐義樹

お父さんとお母さんが、両方とも男のお宅、あるいは両方とも女のお宅が近くにあったらどうだろう。

さすがになれるまで、少し時間がかかるだろうな。時間がかかっちゃダメって言われるかも知れないけど、そうしたら、表面的には本心を隠して繕うしか仕方がないな。

このことは、この本の中でも取り上げられている。たとえば、『禁断のボーイズラブ』という表現は、不適切なんだそうだ。そう、男同士の同性愛が世の中で当たり前のことになるなら、それを“禁断”といって特別視してはいけないことになる。

時間がかかっても、それを特別視しないことには慣れていこうと思う。だけど、男同士の同性愛というのは、身体の関係という点において、私は気持ちが悪い。昔から、『サブ』とか、『薔薇族』なんて雑誌があって、目にしたこともあるけれど、正直、身震いするほどおぞましく感じた。

そう感じるってことはどうなんだろうね。

そう言えば、同性愛という性的指向を持った人は、同性同士の身体の関係に指向があるわけで、その場合、異性との身体の関係にどんな感じを抱くんだろう。私が同性愛に対して抱く感じを、果たして異性愛に対して感じるんだろうか。

LGBTと表現されてるね。

Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダー。バイセクシャルは両性愛者でトランスジェンダーは性同一性障害ね。よく、「LGBT(性的少数者)」と表されることが多いけど、性的少数者=LGBTではないよね。しかも、LGBT以外の少数者もいるしね。

この本の著者である岩佐義樹さんは、毎日新聞の校閲をしている人だから、そのへんにもいろいろ思うところがあるらしい。毎日新聞では、「LGBTなど性的少数者」と書いているという。



『失礼な日本語』    岩佐義樹


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うっかりミスが致命的な失態になる。新聞のベテラン校閲者が教える文章マナー
第1章 「綸言汗のごとし」―首相の言葉チェック
第2章 敬語は難しいけれど―畏敬か敬遠か
第3章 固有名詞の怖さ―誤りはこうして防ごう
第4章 いわゆる差別表現―理解と配慮があれば
第5章 イラッとする使い方―仲間内だけで結構です
第6章 「たが」の外れた文章―書き言葉は丁寧に
第7章 失礼ワード20選―誤解必至です


そんなに前のことじゃないんだけど、LGBTのTの子の担任をしてた。

その子の担任になったのは、その子が高校2年の時。その子は女子生徒。セーラー服の似合う子だった。学年主任が女の先生で、その人から相談があるといわれて、保健室で話をした。

その子は最初、保健室の先生に話をしたようだ。保健室の先生から学年主任の女の先生に話がいき、お二人から私が聞いた。その子は、自分の身体は女であるが、自分の性認識は男なんだそうだ。小学校の高学年になるあたりからそう感じていたらしい。それでも誰にも相談せずに来て、高校2年ではじめて保健室の先生に話をした。

その段階で、学年主任の女の先生と、担任の私に話すことは納得していたそうだ。修学旅行があるからね。その必要を感じていたんだろう。ただし、本人から依頼がない限り、私から働きかけはして欲しくないということだった。そのことは、個人面談でも、本人に確認した。

結果として、1年間、私から働きかけすることはなかった。ただ、進路に関する相談には乗った。自分と同じ悩みを持った人の助けになりたいと考えていたそうで、そういった勉強が出来る心理学部を持った学校を探した。

3年になって担任は代わったが、相談は受けていた。希望の大学への進学を決め、卒業も間近に迫ったとき、同じ悩みを持った人の力になりたいなら、まずはお母さんに話をしてみたらってすすめた。実は2年の時、お母さんからも相談を受けていた。

大学に入って半年、高校に遊びに来た。私を見つけたその子が、廊下の向こうから走ってきて、そのまま私に抱きついた。まず一言目、「お母さんに話した」って。大学ではまだだけど、いずれカミングアウトすると言っていた。

お母さんは、その子が中学生の頃から気づいていた。でも、「本人が言い出すまで待つ」、年頃なので何かあったらよろしく頼むと私に告げていた。じつはその子、周りの人、みんなから愛されていた。なにより、それが一番大事なんだろうな。

だけどなあ。廊下の向こうから走ってきて私に抱きついてきたとき、18歳の大学生であるその子の性認識は、・・・私には女に思えてしまったんだけど、・・・やっぱり男だったのかな。



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ジャンル : 本・雑誌

『日本人のための漢字入門』 阿辻哲次

「正」という字の上の横線を除くと、「止」という字になる。「止」はもともと、人間の足跡の象形文字だそうだ。たしかに、「歩」という字にも「止」がある。上についている横線は、古くは四角や丸の形に書かれたという。城壁に囲まれた集落だそうだ。つまり、「正」という字は、集落を囲む城壁に向って進む人、攻撃を仕掛けている形をあらわすんだそうだ。

ところが、・・・だ。本来、それ自体が「戦争を仕掛ける」という意味を持っていた「正」が、勝てば官軍で、勝って正義を手に入れた。それでこの字が「ただしい」という意味を含むようになり、さらにはそれが主な意味をあらわすと思われるようになり、元来の意味が忘れられていった。

そのため、「他者に対して戦争を仕掛ける」という、「正」の本来の意味をあらわす新たな漢字が必要となる。そこで登場したのが、本来その意味の漢字であった「正」に「道・行進」を示す「彳」をつけて、「征」という漢字なのだそうだ。

この話のあとに、著者の阿辻さんは、《正露丸》の話をあげている。本来、この薬は露西亜征伐に出かける兵隊さんのために作られた整腸剤で、《征露丸》と書かれた。薬の効きもあったのか、ロシアには勝った。だけど、第二次世界大戦で敗戦国となった日本では、《征露丸》はマズイだろうということになり、《正露丸》としたんだという。

まあ、「正」本来の意味を考えれば、何も変わっていないことになるわけだ。

ちょっと前に、『漢語の謎』という本を読んだ。その本に、「一語十年」という言葉が出てきた。奥深い知識の世界を、膨大な参考文献に溺れるようにして、その出自をたどる。膨大なエネルギーと、なにより時間が必要だということのようだ。

「正」という字一つとっても、「一語十年」、いや、この場合「一字十年」か。それが身にしみるように思える。




講談社現代新書  ¥ 968

漢字は知恵の玉手箱!あなたの周りにある漢字の秘密を伝える漢字教室、開講!
第1章 漢字と暮らす
日々の暮らしと漢字
「令和」の漢字学
旅先で出あう漢字
人名用漢字について
第2章 漢字をまなぶ
漢字学のすすめ
漢字の履歴書
異体字のはなし
情報化時代と漢字


そうそう、さっき出てきた「彳」に、人間の足跡をあらわす「止」をくっつけて、「その道を進む」という意味をあらわしたのが「辵」で、「しんにょう」の本来の形だそうだ。

向こうから来る人を迎えに行く。そういう意味を持った漢字がある。人が立っている姿をあらわす漢字は「大」。それが向こうからやってくるので、上下がさかさまになる。歩いて行くので、足跡を表す「止」持ついている。

この漢字は「逆」。「逆」っていう漢字は、本来、向こうから来る人を迎えに行くという意味を持っていたんだそうだ。向こうから来る人と、こちらから行く自分。「相反する方向」というところから、「さかさま」という意味を持つようになったらしい。

面白いね。漢字って。

イギリスの言語学者ムーアハウスは、まったく手放しでアルファベットを最高の文字システムと礼讃しているそうだ。人間が、意思疎通のために絵を描くようになって以来、自然淘汰によるのでなく、人間の選択によって適者生存へ進む進化の過程とみなしうる最高の成果とまで言い切っている。

自然淘汰であろうが、適者生存であろうが、残念ながらそれは文字の力によるものではなく、白人が戦争に強かったことの証明に他ならない。

日本が戦争に負け、戦後、進駐してきたアメリカ人は、日本人が使う漢字をまったく理解できなかった。自分が分からないもんだから「悪魔の使う文字」なんて言い出して、漢字を使用するのは日本人にとっても不幸なことだと決めつけた。ローマ字を使った方が日本人も幸せだと。

ローマ字への変更までの間、当面使用する漢字として、1850種類の漢字を選んだのが「当用漢字」だという話がこの本でも紹介されている。

占領軍は、ローマ字化を本気で考えていた。日本人が戦争を仕掛けてきたのは、難解な漢字のせいで教育が遅れているからだと、最初っから最後までわけの分からない世迷い言。“進歩的“な方々にも、同調する人が多かったそうだ。

当用漢字が発表されたあとも、日本人が漢字を使いこなせているなんて、到底信じられない彼らは、日本人をテストしている。無作為に選出した15~64歳までの2万人が指名され、8割が参加したそうだ。

100点満点で平均点は78.3点。あまりの高得点にビックリ。占領軍にとってローマ字かは既定路線であったため、データの改竄するよう圧力もあったらしいけど、最終的には諦めたようだ。一般庶民の知力の高さのおかげで漢字仮名交じり文は守られたんだな。

なんだか最近、文科省は英語教育に力を入れるらしいけど、そりゃちょっと違うような気がするんだけどな。“進歩的”な人がたくさんいるのかな。



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人名『日本人のための漢字入門』 阿辻哲次

2020年はオリンピックイヤーになるはずだった。

でも、ならなかった。3月24日に1年の延期が決定され、オリンピックイヤーは2021年になってしまった。だけど、2月中旬あたりまでは、社会の危機感もさほどではなかった。1月下旬に武漢が封鎖されても、日本には、まだどこか高をくくってしまったところがあった。本当は日本も、あの時、中国人を入れない政策をとれていればって、今は思う。そういう人が多いだろう。つまり、2月中旬あたりまでは、2020年がオリンピックイヤーであることに?感を持つ人は、それほど多くなかったはず。

なんでこんなことを言い出したかというと、この本の冒頭に、前の東京オリンピックイヤー昭和39年、西暦1964年に生まれた人が、《五輪男》と名付けられたという話が出てくるからだ。《五輪男》と書いて《いわお》と読むんだけど、残念ながら彼は、友人たちから違う名前で呼ばれた。

なんと呼ばれたか?・・・分かるよね。そう、《ごりお》。それしかないよね。

もしも、・・・もしも、新たな時代の《ごりお》君が、この1月から2月中旬の間に生まれていたら、これはとても貴重な名前ということになる。なにしろ2020年の五輪は失われてしまったのだから。失われた《いわお》なのだ。

私の親は、名前の付け方では、あまり悩んでいなかったようだ。三人兄弟三番目で、上から順番に漢字一字の下に一、二、三と付いている。上の漢字一字は、神社に行ってもらってきたという。

《△三》というのが私の名前なんだけど、《三》は《ぞう》と読むので、前の漢字によっては前時代的な名前になる。私はさほど、そう感じてはいなかったんだけど、そう思う人も多々いたようで、時に名前でからかわれたこともあった。

私よりもいくつか年上の同僚で、《△吾》という方がいた。実は三人兄弟三番目という私と同じ立場の方で、父親は《△》という漢字にこだわっていた。となると、私と同じ《△三》という名前になりそうなもんなんだけど、実際に、そうなるはずだったという。それを「古くさくて可哀想」というおばあさまの反対があり、《△吾》で落ち着いたという。

どうやら私の名前も、“可哀想”という分類の名前らしい。

それを私に話してしまう、《△吾》先輩の性格も、いかがなものかと思うんだけど。




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漢字は知恵の玉手箱!あなたの周りにある漢字の秘密を伝える漢字教室、開講!
第1章 漢字と暮らす
日々の暮らしと漢字
「令和」の漢字学
旅先で出あう漢字
人名用漢字について
第2章 漢字をまなぶ
漢字学のすすめ
漢字の履歴書
異体字のはなし
情報化時代と漢字


この本の著者阿辻哲治さんは、《人名用漢字》の見直しのための委員会に、委員の一人として関わったんだそうだ。その名も、《法制審議会人名用漢字部会》。なんだか、重々しいね。

もとはと言えば、ある男児の名前をめぐって裁判が行なわれ、行政側が敗訴したことがきっかけとなる。札幌市のある区役所が、《曽良》という名前を記載した出生届を、《曽》の字が名前には使えない字であることを理由に受け取らなかったんだそうだ。これを不服として親が訴えたんだな。

《曽良》と言えば、松尾芭蕉と『奥の細道』の旅を共にした弟子の名前。それが使えなかったんだ。

この裁判は、なんと最高裁まで行き、最終的に最高裁から《曽》の字が人名に使えないのは違法状態という判決が出されたんだそうだ。法務省は同様の裁判をいくつか抱えており、この際人名用漢字について抜本的な見直しを行なおうとなったらしい。

行政が政策の見直しや改正を行なおうとするときに、専門家による部会が開かれる。この専門家っていうのが、けっこう怪しい。この《法制審議会人名用漢字部会》は民法学者を委員長に、法曹界、文化庁・産経省の関係者、新聞や放送業界のジャーナリスト、日本語や漢字の研究者、俳人、戸籍事務現場の実務者などで構成されていたという。

気になったのは、この国際化に鑑みて、ローマ字はもちろんのこと、ハングルや現在の“中国”で使われている簡字体の名前も戸籍上の名に使えるようにすべきだという意見が出されたという話。国際的に活躍する人物としてテレビ番組などの登場する委員からの提案だったそうだ。

国の進路を決める審議会や部会の委員として呼ばれている人物にも、この手の常識のない人がいる。ローマ字にかこつけて、ハングルや簡字体の導入に重きを置いている左翼系の“知識人”かもしれない。

阿辻さんも《暴論》と言っておられるが、こりゃ当然のこと。“進歩人”の変に進んだ頭で考えて、「世の中平等が一番」とかわけの分からない平等教、あるいは平等病が蔓延し、ハングルや簡字体を取り入れることが“知識人”や“進歩人”のあるべき姿みたいなことが吹聴されなくて良かった。漢字部会で阻止してくれた阿辻さんたちのおかげだな。

そんなものを取り入れたら最後、平等教、あるいは平等病の原則により、キリス文字やタミール文字、さらにはアラビア文字の名前が戸籍に登録され、右から読むのか左から読むのかすら分からない。どうせなら右から読んでも左から読んでも山本山。戸籍係だけはなりたくない。

Q太郎にP子、それからO次郎なんて名前なら歓迎したいところではあるんだけど。


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『滅びゆく日本の方言』 佐藤亮一

大学に入ったばかりのころ、同じクラスの人たちに馴染もうと、私は会話をしている一団に無邪気に話しかけ、話題に交じっていったときのこと。

その一団の人たちが、私を怪訝な表情で見ているのに気がついた。なんだろうと思っていると、その中の一人に言われた。「君がなんて言っているのか、僕にはさっぱり分からない」

それきり、その人たちの輪は、私に対して閉じられた。私の無邪気な言葉が共通語の人間に通じないことを、私はその時はじめて知った。しゃべることが少し怖くなり、秩父弁を出さないように、用心深くしゃべるようになった。

まあ、そんなことを言う共通語の奴と友人になる必要もないのでどうでも良いのだが、語学と体育だけは一緒になる。特に体育だな。体育はなにをやっても大の得意だが、地元には私以上の奴も何人かいた。ところが、そのクラスの中では、私ともう一人、熊本出身の人が突出していた。彼と張り合うのは面白くて、体育は楽しかった。

しかし、つまらないことが起こったこともある。

例の件以来、私は共通語の一団を避けるようにしていた。一団の方でもそれに気づいていたようだ。だけど、サッカーやバスケで楽に彼らをあしらうと、どうやらそれが、私の悪意と受け止められてしまったようだ。彼らは次第に、私を止めるために身体をぶつけてくるようになった。

争いは好まないが、勝負事だと熱くなることがある。バスケの試合中にわざとらしい体当たりしてきた奴がいた。なんとか踏ん張って、そいつを交わしてシュートを決めたあと、彼を突き倒して言ってしまった。

「ぎゃーねーことしやがって、はっけぇすぞこの野郎」

私がなんて言っているか、彼にはさっぱり分からなかっただろう。でも、それ以来、絡まれることもなくなった。

そうそう、熊本出身の彼だけど、そのうち大学で見かけることがなくなった。風の噂に、大学をやめたと聞いた。ところがしばらくして、テレビに出ている彼を見つけた。

ちなみに、バスケの試合中、私が体当たりをしてきた奴に言ったのは、「つまらないことをしやがって、張り倒すぞこの野郎」という意味。




新日本出版社  ¥ 1,650

方言の分布、ことばの由来などを解説しつつ、方言の変容に思いを馳せる本
1 方言とはなにか
2 自然
3 食物・料理・味
4 人間・生活
5 動植物
6 遊戯
7 文法的特徴の地域差
8 方言の現在


方言の話なんで、あえて“おばあちゃん”と呼ばせてもらうが、おばあちゃんの話す言葉が正真正銘の秩父弁だった。言うことを聞かずにグズグズしていると、「えらぞんぜ~るんじゃね~で」って怒られた。

宿題をささっとこなして遊びに行こうとすると、「はぁおわったんけえ~、そそらっぺ~ことやったんだんべ。あそびべいってねーで、たまにゃ~はたけすけろい」とかね。

遊んでいるときなんかによく聞いた言葉で、「たんまなしたー」というのがある。この言葉に関しては、特定の風景と一緒になった記憶がある。その風景からすると、私は小学校の校庭にいて校門の方を向いている。校門の正面には《赤岩肉店》という肉屋があった。

夕方、学校で遊んでいると、職員室の窓から先生に呼ばれて、お使いに行かされたことがある。給食の残りのコッペパンをとお金を渡されて、コロッケをのっけてソースかけてもらってこいというのだ。四方田先生という女の先生だった。ソースは多めにかけてもらえって言われた。教室で、図工の時間に、ついうっかり四方田先生を「おかあさん」と呼んでしまったことがある。クラス中に大笑いされたが、誰でも一度くらいはそう呼んでいたような気がする。

話がそれた。校門の方を向いていた私の目には、《赤岩肉店》が見えている。校門の内側、私から見て左側にはブランコが、右側にはジャングルジムやシーソーがある。私たちは何人かで、鬼ごっこをして遊んでいた。私は鬼ではなく、逃げる側のようだ。途中、《赤岩肉店》のしんちゃんが、おかあさんに呼ばれて、一旦家に戻った。その時、しんちゃんはタイムを取っている。

タイムを宣言すると、他のメンバーは、その場で固まっていなければならない。しんちゃんのおかあさんの用事は簡単なことだったようで、しんちゃんが家から出てきて、校門から校庭に入ってくる。遊びを再開できる喜びで、満面の笑みのしんちゃんが、ゲーム再開の宣言をする。

それが、「たんまなしたー」

「たんま」はタイムのこと。「なした」は返した。借りたものを返すことを、「なす」という。「たんまなした」は、タイム返上という意味。それが、左のブランコ、右のジャングルジムとシーソー。《赤岩肉店》が向こうに見える校門から入ってくる、しんちゃんの満面の笑みとともに響く「たんまなしたー」の声。

しんちゃんはほっぺの赤いはなたれ小僧で、ときお君もいたような気がする。武ちゃんは、今は市会議員。やっちゃんがいつも同窓会を仕切ってくれているみたいだけど、私は不義理のしっぱなし。みんな私と同じ還暦だ。・・・いや、もう61になったやつもいるはずだ。

懐かしいな~。「たんまなした」って言って、あの止まったままの風景を動かしたいな。


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『漢語の謎』 荒川清秀

漢語は漢字の熟語で、しかもそれを音読みして使っているもの。

《入口》は漢字の熟語だけど、これを「いりぐち」と読めば、「いり」も「くち」も訓読みだね。だから、「いりぐち」と読む限り漢語ではないと言うこと。もしもこれを、「にゅうこう」と音読みして、日常的に使っていたとしたら、この本で言及する対象である“漢語”と言うことになるわけだ。

読み始めて、まず感じることは、「気が遠くなる」ということだ。それにしたって、本として多くの人の関心を集めるために、私のような素人でも関心を持てるような、分かりやすい部分から入っているはずなのだ。分かりづらいといっているのではない。関心が持てないと言っているのでもない。ただ、それでも、最初から気が遠くなるのは、事実なのだ。

だってね。第一章の最初の項目で扱っている「盆地」の「盆」。その日本における「盆」のイメージと、“中国”における「盆」のイメージを比べるとき、著者の荒川さんが持ち出した話は以下のようなもの。

周王朝建国の功臣である太公望呂尚が貧乏であったとき、その妻は貧乏に耐えきれず彼の元を去って行った。ところが、太公望が偉くなると戻ってきて、復縁を迫った。太公望は「壺」に入った水を字面にこぼし、これを元に戻したら復縁してやると言ったという。

これは「壺」になっているが、明らかに「覆水盆に返らず」の故事につながるものだな。そのあとにも、同じような話が紹介されていて、その場合は「桶」だったりする。

実際、そのあと「公取盆水覆地、示其不能更収之意」という故事が紹介される。やはり「覆水盆に返らず」は、日本ではなく、“中国”で生まれた故事だった。

だけど、「壺」や「桶」が、どう私たちの知っている「盆」につながるのか。そこで紹介されるのが、現代中国語の「盆」のつく言葉。

「花盆」は、植木鉢。「飯盆」は、ごはんやおかずを盛り付ける食器。「瞼盆」は、顔を洗う洗面器。どうも、私たちが思っている平たくて縁だけちょっとあがっている「盆」よりも、だいぶ深い容器のようだ。

なんと、「盆」の意味を探りに、殷王朝を倒し周王朝の打ち立てることに功績を挙げた、太公望呂尚にまでさかのぼったんだ。気が遠くなるのも分かってもらえるだろう。


『漢語の謎』    荒川清秀


ちくま新書  ¥ 946

さまざまな漢語の来し方を情熱をもって探求し、そこに秘められたドラマに迫る
序章 漢語の日中往来
第一章 「電池」になぜ「池」がつくのか――?身近な用語の謎
第二章 「文明」「文化」は日本からの逆輸入――?日本から渡った漢語
第三章 「半島」「回帰線」はどうできたか――?日本での漢語のつくられ方
第四章 なぜ「熱帯」は「暑帯」ではないのか――?中国での漢語のつくられ方
第五章 「空気」は入集双方でつくられた――?成り立ちに謎がある漢語
終章 日本語と中国語のあいだで


読み進めれば、さらに気が遠くなる。実際、私は気を失った。

なにしろ、参考文献がすごい。著者ら漢語研究者が、どのような知識の世界をさまよっているのか、私などには想像もつかない。

日本は当初、“中国”の漢字の世界を取り入れた。しかし、日清戦争を契機に、日本から多くの漢語が“中国”に渡っていった。中には、日本に入ってきた漢語が、日本で変化して“中国”に里帰りして行ったものもあるという。

奥深い知識の世界を、膨大な参考文献に溺れるようにして漢語の出自をたどるのは、膨大な時間とエネルギーが必要であるという。国語学者の世界には、《一語十年》という言葉があるんだそうだ。・・・嫌な世界だな。気を失うのも仕方がない。

“中国”のレストランで「給我一杯水」と頼むと、熱々のお湯が出てくるそうだ。なんと、中国語には水とお湯の区別がないんだそうだ。しかも、“中国”には水が悪いので、生水を飲む習慣がない。飲めばたちどころにお腹を下す。だから、水を頼むとお湯が出てくるんだそうだ。

面白いですね。

“米老鼠”はミッキーマウス。“唐老鴨”はドナルドダック。“米”はミッキー、“唐”はドナルドの音を表している。“老鼠”がネズミ、“老鴨”がアヒルのこと。“鼠”や“鴨”は、単独では単語になれないので、接頭辞の“老”がつく。“老”に「歳を取った」という意味はなく、「ご飯」の「ご」のようなものと思えば良いらしい。

“桜桃小丸子”はちびまる子ちゃん。“桜桃”はサクランボ、これは原作者の「さくらももこ」を掛けている。“小丸子”は、本来、小さな団子を意味するが、この場合、“小”は愛称で、日本で言えば「ちゃん」に当たる。同時に“ちび”の意味にも掛かって、ちびまる子ちゃんとなる。

それでは、“蝋筆小新”は?

へへへ、アレですね。

“鉄臂阿童木”は、ちょっと分かりづらいか。“阿童木”で分かるか。アトムの音だな。問題は“鉄臂”。鉄腕と言うわけには行かないんだそうだ。

“中国”では腕っていうのは、手首の部分を表す言葉で、肩から手首までを表す言葉じゃないんだそうだ。その肩から手首を表すのが“臂”。だから、鉄臂アトムというわけだ。

「三面六臂」って言葉があるけど、“臂”って漢字は、日常生活では使わない。私てっきり、“臀”だと思ってて、阿修羅像の六つのお尻を探してしまいました。




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『鑑賞 季語の時空』 高野ムツオ

俳句の本を、なんだか時々読みたくなる。

もちろん、俳句を詠んでみたいという気持ちがあってのこと。「そのうち、そのうち」、本でも読んで、自然とすごい句を詠めるようになったら、「そのうち、本格的に始めよう」なんて絵空事を言ってるうちに、俳句を詠むこともなく、歳だけ取ってしまった。

最初っから上手に詠める状態で、恥をかかずに始めようなんてことを考えていたせいで、この歳になると、もう“恥”の大きさが違う。その巨大な恥を前に、怖じ気づくかというと。・・・それがそうでもない。恥が大きくなっても、恥を恥とも思わないほどに面の皮が厚くなった。

とりあえず、詠まなきゃねぇ。上手になるはずもないよねぇ。今は、テレビで、俳句素人芸能人たちが俳句を詠む番組を、面白く見ることがある。あれ見てると、先生って言うのはすごいもんだね。俳句素人芸能人の詠んだ歌に、先生が少し手を加えるだけで、見違えるような句に変わる。ビックリだ。

よく山を歩くんだけど、おそらく歳を取ったせいで、花を見たくなったりするんだ。若いときの山登りは、できるだけ高く、遠くまで行きたかった。今は、そんじょそこらの山道が、ただそれだけで嬉しかったりする。花なんか咲いてりゃ、自然に口元がほころんだりする。

歳を取るって言うのも、案外悪くなかったりする。

『季語の時空』という題名だけど、徳に“季語”にとらわれることなく、俳句の本として詠ませてもらった。著者が季語にこだわったのは、どうやら訳があるようだ。長い年月の間に培われた文化的価値を尊重しながらも、新暦と旧暦の時間差や、南北に長く、多種にわたる気象条件を有する日本ならば、それに捕らわれすぎると、かえって自らの季節感覚を失ってしまうという現実は、たしかに私にも分かる。

そうか、そうなると、その句を詠んだ人の季節は季節として、その句を鑑賞する人は、詠んだ人の季節を追体験できるとは限らない。鑑賞者は、詠み人の意図を越えて、その句に新たな世界を思い描いて行くしかないわけか。俳句は、詠み人の意図を越えて、人の心を揺さぶることもありうるということか。

なんちゅう、芸術だ。・・・いや、芸術ってのは、そういうものか。

『鑑賞 季語の時空』    高野ムツオ


角川書店  ¥ 1,980

感動の瞬間を永遠化することで俳句は過去から未来へと読み継がれていく
1 異界からの使者
燕来る国 雲雀幻想 鳥は何処へ 眠る胡蝶 ほたるの山河
雁が残したもの こおろぎの闇 海鼠の底力 不滅の狼
2 万象変化
さみだれのあまだれ 氷菓一盞の味 秋風が 二つの月の港 
野分から台風へ 天の川の出会い 時雨西東 枯野の夢、夢の枯野
降る雪 凩の果 雪女あはれ 
3 滅びと再生 
梅の精 桃の花の下 蚕飼の世の終焉 春雪三日 遠田の蛙 
夏草の変転 麦秋と麨 蘆のふところ 蝉時雨 柿食ふや 
葛の花の向う 菌生え クリスマス一夜  


また、どうやら、もう一つのこだわりが感じられる。

2011年3月11日の東日本大震災を、著者は仙台の地下街で経験した。それは著者のその後に、大きな影響を与えたろう。それを意識しないわけにはいかなかっただろう。

文章や俳句に現れる死んでいった者たちへの思い、意識しないとしても、それらの者たちの影が漂うとのは、むしろ当然のことだろう。

それでも、・・・それでもだ。あえて、やはり触れなければならないと思う。アメリカによる銃後への攻撃で、東京で、広島で、長崎で、日本中で老若男女が焼き殺された。東京大空襲では楽に10万を超える人々が、文字通り焼き殺され、12万を超える戦争孤児が残された。広島でも、長崎でも、・・・海外領土に暮らす日本人は、まさに地獄を見た。

震災の記憶が風化するとか、そういう言葉を聞くことがあるが、あの時はむしろ、あえて忘れるように勤めた。語ろうとさえしなかった。語らなくても、まとわりついてくる記憶がある。忘れようとしても、耳に聞こえ、肌に触れ、目に見える人々がいる。

体験を共有できないものには、風化も何も無い。最初から体験がなかったのだから。

山を歩くことがあるんだけど、5月後半あたりから、春セミが鳴く場所がある。夏のセミと違い。その声が身体にぶつかってくるような、そういう力が感じられない。重量感がなくて、身体を通り抜けていくような声。昨年6月、そんな経験をした。あの世から聞こえてくるような声だなと感じた。

たまたま、1匹の蝶が、私の周囲を飛んだ。これまた重量感なく、羽ばたき以上の浮揚感を漂わせ、先導するかのように私の周囲を飛び、いつしか消えた。

山道や あの世の蝶を 先達に

山道や 異界に誘う 春のセミ

しばらく行くと、とある山頂に着いた。バーナーで湯を沸かして昼飯にしようとしたが、ボンベを忘れた。やむを得ず、一番近い駅に向けて、急ぎ下山した。駅について、食道に飛び込んだ。年老いた母らしき女と、息子らしき40代くらいの男がそばをすすっていた。息子の休みに、母を連れてドライブに出た風情だ。

・・・さっきの蝶は、母かも知れないと思った。

福島原発事故を受けて、放射能汚染によって「季語が陵辱された」と語った歌人がいるという。あれ以来、“環境”を看板にして、日本中、あちこちの山で木が切り払われて太陽光パネルが並べられている。陵辱されているのは季語じゃない。四季の移り変わりの中に喜びを感じさせてくれる日本の自然そのものが陵辱されているんだ。


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『日本語が不思議すぎる』 アン・クレシーニ 宮本隆治

どんなことが書かれているか分かってもらうために、ほんのちょっと、内容を紹介しておく。まあ、このくらいなら勘弁してもらえるだろう。

あってるのはどっち?

【1】
A 彼には大きな可能性がある
B 台風が来る可能性がある

【2】
A 梅雨の時期は洗濯物が乾きづらい
B 借金を頼みにくい

【3】
A 彼は仕事をおざなりにしている
B 客への対応がなおざりだ

答えと解説は、一番下にあります。


『日本語が不思議すぎる』    アン・クレシーニ 宮本隆治


サンマーク出版  ¥ 1,430

日本語に恋した外国人ヤンキー言語学者が、日本語のプロに弟子入りした
第1章 微妙な違いで一変する「おもしろすぎる日本語」
第2章 豊かな想像力から生まれた「多彩すぎる日本語」
第3章 相手を重んじて生まれる「優しすぎる日本語」
第4章 情緒と四季の豊かさが息づく「美しすぎる日本語」


アン・クレシーニさんは言語学者のヤンキー娘。

日本に住んで、もう20年になるそうだ。北九州市立大学で応用言語学を研究しつつ、大学生に英語を教えているという。「日本語に恋に落ちた」と言ってるが、まあ、肌が合ったと言うことだろう。

日本語は母の言葉だから、私たちはその完全な愛に包まれて、なんの疑問も抱かずにいる。しかし、よそから来た人にとって見ると、日本語というのはだいぶ始末に困る言葉らしい。

「え、なんで、なんで?こんな簡単な言葉はないのに」って、そう思うんだけど、いざ、言われてみれば、答えられないことばかり。いや、それだけじゃない。私も間違って使ってた言葉がいっぱい。還暦を迎えたというのに恥ずかしい。

こうなったら名誉を返上して、汚名を挽回だ。・・・ダメだ、こりゃ

アン・クレシーニサンの疑問に答えてくれるのは、元NHKのアナウンサーの宮本隆治さん。そうそう、あの《NHKのど自慢》の視界のおじさん。日本語の番人であり“泉”。

これは本の中の話しってだけじゃなく、実際、生活の中で、アン・クレシーニさんは日本語の疑問を宮本さんにぶつけ、宮本さんはそれに答えてきたんだそうだ。それをまとめただけで、こんな面白い一冊になったと言うこと。

印象に残ったのは、「言葉は変わっていくものだ」ということ。誤用であっても、それで意味が通じ、一般化してくれば誤用ではなくなる。私はそれに目くじらを立てる質の人間だけど、それを分かった上で、「受け入れるのもいいかな」って思えてきた。若者言葉には抵抗を感じるが、「それを生み出していく想像力はすばらしい」ってアンさんに言われちゃあ仕方ない。

だいたい、ら抜き言葉に目くじら立てておきながら、自分は平然とい抜き言葉を使ってた。・・・おっとっと、使っていた。しかも、ブログでは、い抜き言葉で書いてる。・・・おっとっと、書いている。

歴史家の渡辺京二さんは、「日本語こそわが祖国」と言っていた。日本語は、日本人そのものなんだろう。言葉は変わっていくもので、その変化が日本人らしいものであるならそれでいいってことだな。

ただ同時に、宮本さんみたいに、変わりゆく日本語に柔軟に対応しながら、本則もしっかり抑えておける人になりたいもんだな。




【1】
A 彼には大きな可能性がある
B 台風が来る可能性がある

答えはA。「可能」は「できる」という意味。「できる」には完成させる、その能力があるという前向きな意味がある。だから、台風情報に「可能性がある」はおかしい。「台風が来る可能性がある」というと、それを望む意味になる。それを言うなら、「台風が来る危険性がある」と言うべき。

【2】
A 梅雨の時期は洗濯物が乾きづらい
B 借金を頼みにくい

答えは、両方とも間違い。「づらい」は漢字で「辛い」。体力や精神に負担を感じる時に使う。「にくい」は漢字で「難い」。その動作に抵抗を感じたり、達成に時間がかかる様子を表す。Aなら「梅雨の時期は洗濯物が乾きにくい」。Bなら「借金を頼みづらい」。

【3】
A 彼は仕事をおざなりにしている
B 客への対応がなおざりだ

答えは、両方とも正解。ただ、ちょっと意味が違う。ともに「いい加減な対応である」という意味だけど、「おざなり」はやってはいるけどいい加減。「なおざり」は、そもそもやってないという意味。

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ジャンル : 本・雑誌

『祖国とは国語』 藤原正彦

武漢の食物市場を中心にした地域でアウトブレイクが発生している。

新型コロナウイルスはエアロゾル感染により広がっている。

感染はすでに、オーバーシュートの状態となった。

一部の地域で、クラスターが発生している。

サイレントキャリアが、街にあふれている。

ソーシャルディスタンスを保とう。

東京はロックダウンしない。

この感染症に関わる一連の報道では、臆面もなくさまざまなカタカナ言葉が飛びかっている。報道番組を見てて、「分からないよ~」って頭を抱えた。そのうち、それらのカタカナ言葉を、その報道番組の中で解説してた。・・・最初から分かるように言えばいいのに。その解説を見てない人は、いつまで経っても分からないことになるんだろうか。分かるように伝える方法があるのに、あえてその言葉を使う理由はなんなんだろうか。

一般にカタカナ語が使われる理由として考えられるのは、・・・
  1. 普段属している集団で使われているから
  2. 覚え立ての言葉を使いたいから
  3. イヤミだから
どうも、最近のカタカナ言葉の使われ方は、3のケースが多いんじゃないだろうか。世の中は、イヤミの集団になってしまったのか。♬右を向いても、左を見ても、馬鹿とイヤミの絡み合い♬ってことか。気持ち悪いぞ、この野郎!

渡辺京二さんが『未踏の野を過ぎて』の中で書いていた。「日本語こそ、我がふるさと」と。満州で生まれ、終戦後に引揚げてきた渡辺さんには、場所としての“ふるさと”がない。大事にすべき場所としての“ふるさと”がない渡辺さんは、日本語という“ふるさと”を大事にしている人だった。

では祖国とは?

血ではない。いずれの民族も混じり合っていて、純粋な血などというものは存在しない。さすがに日本人でさえ、今や、それを主張できるほど呑気ではない。

国土でもない。もしそうだとすれば、渡辺京二さんは祖国も持たないことになる。ヨーロッパ大陸においては、それこそ有史以来戦いに明け暮れ、そのたびに国土の奪い合いを繰り返し、その都度その形を変えている。にもかかわらず、フランスもドイツもポーランドもなくならない。



『祖国とは国語』    藤原正彦


新潮文庫  ¥ 506

国語は、論理を育み、情緒を培い、教養の支えとなる読書する力を生む
国語教育絶対論
国語教育絶対論;英語第二公用語論に 犯罪的な教科書 ほか
いじわるにも程がある
お茶の謎 ギーギー音 ダイハッケン ほか
満州再訪記


祖国とは国語である。

もとはフランスのシオランという人の言葉だという。国語の中には、祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されている。だから、国語を失うことがなければ、祖国を失うことはないと言うことになる。

グローバル化を推し進める正義の前に、学校での英語教育重要視化は高まるばかり。たしかに、「英語がもっとできたら」と思う人は少なくないだろう。何を隠そう、私もそう思って、お金と時間を削ったことがあった。結局そのお金と時間を、別に使いたい欲求が生まれて挫折した。

しかしもし、それを続けることが自分にとって絶対的に必要であったなら、そのお金と時間を別に使うことなく、今頃はペラペーラとやっていただろう。どうしてそれじゃダメなんだろう。どうして英語以外の興味関心も、そこそこ応援してやろうと言うことにならないんだろう。

たしかに世界が一様化されることは便利であるかも知れない。たとえば、言葉が英語に一様化されたら、翻訳こんにゃくを作る必要がない。しかし、人類の文化は、間違いなく深みを失い、おもしろくもなんともないものになる。

言語とは文化伝統であり、民族としてのアイデンティティーである。世界各地の文化伝統は、その自然的、社会的、政治的、歴史的環境のもとに結実したものである。これを受け継ぎ、次の世代に伝えていくことは、「こういう風にして生きてきたんだよ」と教えることに他ならない。

それが英語だけに一様化されると言うことは、一通りの生き方しか残されない、伝えられない、許されないと言うことを意味している。そう考えれば、人類にとっての大きな損失である。多様な伝統文化を守り発展させることこそ、“人類の大義”と藤原さんは言っている。

実際、翻訳こんにゃくは完成している。私たち、日本語を祖国とするものにとって、英語とは、英語を祖国とするものとの間のコミュニケーションの道具でしかない。だとしたら、翻訳こんにゃくで十分なのだ。

「次で例の件フィックスするから、ミーティングをアレンジしといて。あ、アジェンダ先にシェアしといてね」っていうわけの分からない指示は、「次回、例の件の仕様を最終決定するので、会議の日時設定や準備をしておいてください。議題については、事前に参加者に共有してくださいね」と言い替えられるそうです。

イヤミはおフランスにくれてやりましょう。


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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本




















































































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