めんどくせぇことばかり 本 時代小説
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『北条五代 下』 伊東潤

上巻を読んだあと、松山城跡に行ってきた。

すぐ近くにある吉見百穴の駐車場に車を止めて、まずは、ポンポン山と呼ばれている場所を目指した。そこまでの道程は、舗装道路の登り下りを繰り返す。完全に開発されているが、ここはじつは、奥武蔵の山々から関東平野に向けて張り出した丘陵地帯。

ポンポン山と呼ばれるのは高負彦根神社という神社の境内で、裏手は断崖絶壁になっている。かつて、荒川がその下を流れて作られた断崖のようだ。その先には、関東平野が広がっている。つまりは、奥武蔵のから伸びた、丘陵地帯の末端。

じつは、松山城跡のある山も同様で、そこから先は関東平野。いくつもの溜め池の点在する湿地帯から、見渡す限りの田んぼが広がっていく。
57450.jpg滑川と合流した市野川は丘陵の谷間を削り、松山城跡のある丘にぶつかって、そこを避けるようjに大きく蛇行する。在りし日の松山城は、まさに天然の要害だったろう。

下巻は、北条氏にとっても、まさに乾坤一擲の戦い、 河越合戦から始まる。

山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、鎌倉公方足利晴氏の連合軍は、よく言われるところでは総勢8万。多すぎるような気もするけど、まあ、そこそこの数だったんだろう。北条氏が武田と同盟した今川に背後を突かれている内に、上記の連合軍が、川越城を囲んじゃったんだな。

北条氏康側は川越城内に3000、武田が信州に関心を向けたことで、ようやく氏康が小田原から駆けつける。率いた軍勢は5000。相手側の数字が本当なら10倍の大軍勢だが、本気でヤル気なのは、もともと河越城を拠点としていた扇谷上杉朝定で、上杉憲政も足利晴氏も、あくまでも加勢の立場。結局は寄り合い所帯。しかも、前年9月から4月に至る長陣で、兵士の厭戦機運も高くなっている。

そこへ、晩に到着して、翌未明には総攻撃。その対象とされた扇谷上杉勢は一気に崩れ去る。逃げ惑う扇谷上杉勢に巻き込まれて山内上杉勢も何もできずに後退。足利晴氏勢は城守備隊によって、これも一気に敗走に追い込まれる。

一番の激戦となった東明寺口の合戦が行なわれた東明寺の境内には、《川越夜戦跡》の石碑があるが、ここはさいたま地裁川越支部の真裏にあたる分かりやすい場所。

戦いの様子が描かれたあとに、小田原への帰還ルートが示されている。はっきり書くんだから、きっと資料があるんだろう。そのルートとは、「高坂を経て毛呂で“山の辺の道”に入り、椚田から津久井方面を迂回し、小田原に入る」というもの。

私の家は“高坂”なので、このあたりを北条氏康が通ったんだな。ここから“毛呂”に出て、今の八高線伝いに八王子の椚田、津久井っていうのは津久井湖のあるところでしょ。機動力がすごいな。



『北条五代 下』    伊東潤

朝日新聞出版  ¥ 2,145

氏康、氏政と、東国に覇を唱えた北条氏。五代氏直の時、秀吉の小田原征伐が始まる
第二部
第二章 関東大乱
第三章 千辛万苦
第四章 乾坤截破
第五章 太虚に帰す
巻末エッセイ 「衣鉢を継ぐ」


氏康の後半生から、氏政、氏直の時代を描いて、北条氏は五代で滅亡する。

信長による“天下布武”に目安が付いたあたりから北条氏を考えれば、行き着く先は滅亡であるのだから、物語そのものも悲観的なものにならざるを得ない。

ただ、天下統一を軸にする歴史ばかりを見ていると、小田原評定に明け暮れる北条勢が愚かしくさえ思える。しかし戦いというのは、常に相手があるもの。秀吉は自分の都合から、里見や宇都宮は残すことはあっても、北条を後世に残す気は、最初からさらさらなかった。

どうしてもっと早く、手を打たなかったのか。秀吉のもとにはせ参じなかったのか。あまりにも時勢を見る眼がなかったのではないか。そんなことはいくらでも言える。早雲自身は朝廷や幕府に対するアンテナが高かったようだが、その後は少し緩んだか。その辺が充実していれば違う目もあったかもしれないが、やはり地の利、時の利がなかったとしかいいようがない。

同じように、アメリカとの戦争に、なんでもっと早く戦争をやめなかったのか。もっと早く負けを受け入れていれば、あんなにも死者を増やさなくて済んだのではないか。そういう声がある。

だけど、主たる相手である、アメリカに辞めるつもりがなかった。それはフランクリン・D・ルーズベルトが、カサブランカ会談で「無条件降伏以外認めない」発表したことでも分かる。無条件降伏とは、国民の生殺与奪の権を相手に渡すと言うことだから、到底受け入れられることではない。ドイツのように、政権が完全に崩壊した状態でのみあり得ることだ。

だから、北条氏直は、相手である豊臣秀吉が北条氏を滅亡させると決めた状態で、秀吉と家臣たちとの間で板挟みになっていたことになる。

早雲、氏綱、氏康にあった荒々しさが、たしかに氏政、氏直には無くなるような気がする。それでもこの混乱の時代の五代というのは、おそらくもの凄いことだろう。それも一介の浪人から始まって、一国一城の主というのと止まらず、関八州の覇者を目指し、それを成し遂げる。さらには、《第五章 太虚に帰す》ことで、戦国時代の終焉に貢献する。そこまで戦乱の時代を終わらせようという思いを、五代にわたり引き継いできたと言うこと、それ自体がもの凄い。

だけど、これは火坂さんと伊東さんの筆力とは無関係に、下巻の時代の方が面白い。

私自身、天下統一を軸にする歴史ばかりを見てきたことで、自ら滅びの道を選択していく氏直のすごさを見誤っていた。下巻は、なにしろ河越合戦で北条氏が関東の旧勢力に致命的な打撃を与えるところから始まる。氏政が苦しみながらも関八州を制した頃には、すでに信長の天下布武に道筋がつき始める。そして、氏直の時代だ。

胸が締め付けられるのは、下巻だ。


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『北条五代 上』 火坂雅志 伊東潤

最初、分からなかった。

なんで火坂さんと伊東さんの名前が並んでるんだか。火坂雅志さんがお亡くなりになったのを、恥ずかしながら知らないでいた。『黒衣の宰相』とか、『覇商の門』とか、読んだ。大河ドラマになった『天地人』は、実は先にドラマで見てしまって、読む機会を失った。

『北条五代』は、火坂さんが『小説トリッパーに書いていたもので、二代氏綱の時代を書いている頃、三代氏康の少年期でもあるんだけど、その時代を書いている途中で急逝されたんだな。それが2015年のこと。

それから2年、2017年になってから、伊東さんが引き継ぐ形で書き始め、見事に完結させて、単行本化されたものだそうだ。そうそうあることではないみたいだな。

さて、私はまだ、上巻を読み終えたばかりのところだが、下記の目次にあるとおり、二部構成になっていて、第一部を火坂雅志さん、第二部を伊東潤さん書いた形になっている。そして、第一部の第一章から第九章に加え、第二部の第一章だけが上巻に加えられている。

まずは第一部を一気に読み、一日だけ間をおいて、第二部の第一章を読み終えた。二代氏綱の時代とは言え、物語の主人公は〈第八章 三代目〉から伊豆千代丸こと、後の氏康に移り変わっている。

つまり、氏康の少年期を、火坂雅志さんと伊東潤さんが、分担して書いていることになる。そして、二人の筆によって、自らを怯懦と認め、戦に臨む武士を嫌った伊豆千代丸は、幼虫がさなぎの時期を通して蝶に生まれ変わるように、三代目北条氏康として関東に覇を唱えることになる。

伊勢新九郎こと北条早雲のやってきたことは、「他国の凶徒」とそしられても仕方がない。戦国の時代だから、やられた方が悪い。力もないのに権威を振りかざして、混乱を加速させる奴が悪い。

大変よく分かる。それでも人は、大義のないものには従わない。だから彼の一族は北条を名乗るようになり、領土経営に尽力し、民生の安定に力を入れる。

それでも、早雲の跡を継いだ氏綱でも、やはり、「他国の凶徒」と罵られた。このあと氏康は、どうそれを乗り越えていくのか。


『北条五代』    火坂雅志 伊東潤

朝日新聞出版  ¥ 2,090

早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代百年にわたる北条氏の興亡を描いた歴史巨編
第一部/火坂雅志
第一章 早き雲
第二章 関東へ
第三章 小田原乗っ取り
第四章 風魔
第五章 父と子
第六章 三浦攻め
第七章 北条の血
第八章 三代目
第九章 目ざすもの
第二部/伊東潤
第一章 仁義の人




第二部の第一章に、氏康が氏綱と共に、扇谷上杉勢と戦った様子が書かれている。

当時、扇谷上杉氏は河越城を本拠にしていた。太田道灌の築いた城で、平城ながら、荒川をはじめとする大小の河川に守られた難攻不落の城と言われた。その難攻不落の城を出た扇谷上杉氏は、北条勢と思わぬ遭遇をすることになり、名だたる武将を多く討ち取られることになる。

北条勢がその勢いで河越城に迫ると、河越城はもぬけの殻となっていた。主力が壊滅状態になった扇谷上杉勢は城を守ることを諦め、家臣である上田朝直の松山城に逃げ込むことになる。

私、松山城のある東松山市に住んでいる。北条勢と扇谷上杉勢が思わぬ遭遇戦となった苦林は、家から車でほんの10分のところ。古くは、鎌倉公方となった足利基氏が、下野の宇都宮氏綱の家臣である芳賀禅可の軍勢と戦ったことでも知られる場所。

なんだかワクワクする。

小川町には腰越城跡という遺跡がある。この本に書かれた時代には、松山城主である上田朝直の重臣山田伊賀守直定が城主。松山城から腰越城の延長線上には、まずその間に菅谷館、小倉城、青山城という拠点があり、腰越城のさらに先には安戸という地区がある。この安戸が、上田氏の根拠地であったそうだ。

ブログの中でも紹介したが、緊急事態宣言下、遠出を控えて、地元で、かつ公共交通機関を使わず、できるだけ人に合わない山歩きを続けている。そんな中で、いくつかの地元の城跡をめぐってきた。

城跡を訪ねるたびに思うのは、いかに敵に打ち勝つか。生き残るか。そのギリギリのところで築かれたものであるということ。

そういう戦いが、ここ、北関東と南関東をつなぐライン上で行なわれていたんだな。

このあと、河越夜戦で扇谷上杉氏が滅亡したあと、今度は松山城が攻防の焦点となる。太田道灌に縁のある大田資正、上杉謙信、武田信玄らが次々とこの松山城に絡んでくる。

この攻防によって、松山城は北条氏の直轄となり、後に北条氏家臣団に組み込まれていた上田氏の居城になる。その時代、この地域は、もの凄く面倒くさい場所だったわけだ。

それが下巻ではどう描かれているものか。・・・じつは、まだ手に入れてない。上巻の熱が冷めた辺りで読んでみよう。


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『絶局 本能寺異聞』 坂岡真

NHKの大河ドラマ、《麒麟がくる》も、今日の放送が終われば、残すところあと1回。

来週はいよいよ最終回。そんなときに紹介する本として、これは相応しいのか、そうではないのか。なにしろ、副題が《本能寺異聞》だからね。

後の本因坊算砂の目から見た“本能寺の変”。彼は日本の囲碁界の基礎を築いた棋士で、法華宗寂光寺の住職を務め権大僧都の位についたほどの人物。なんと将棋も強かったそうで、そちらでも力は名人級であったそうだ。

そう名乗るようになる前は日海という法華の僧侶。若くして囲碁の才能を開花させ、各種の有力者に招かれて碁を打った。時代は、戦国末期。日海を招いた相手もそうそうたるもので、松永久秀、明智光秀、荒木村重・・・なんだ、みんな信長を裏切る人たちだな。

その辺りの真偽は分からないが、算砂が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と囲碁を通じて接していたという話は、江戸末期に書かれた本にあるそうだ。さらには、信長が本能寺の変で斃れる前日、算砂がまだ日海の時代だが、信長に所望されて、本能寺で碁を打っていたんだという。

その現場である本能寺に日海がいたとすれば、彼は何かを知っていた可能性がある。しかも、その後、豊臣秀吉、徳川家康と交流があったとすれば、・・・。

NHKの大河ドラマって、毎回毎回、楽しみにしている。

そのくせ、1年を通しておよそ50話、残さず見通したことはあまりないような気がする。

《いだてん》、《西郷どん》、《女城主》がダメだった。その前の《真田丸》は見た。《花燃ゆ》、《軍師官兵衛》、《八重の桜》、《平清盛》、《江》がダメで、《龍馬伝》は見た。

ここのところの10作品は2勝8敗だったが、《麒麟がくる》で3勝8敗になった。《麒麟がくる》は、別格と言っていい。ここまで毎週楽しみに見たことはなかった。

そんなところだったので、この《絶局 本能寺異聞》、とても面白く読ませてもらった。




小学館  ¥ 1,870

「信長公の首級は何処にある」・・・囲碁名人の本因坊算砂は息が止まりかけた

英傑は鬼と化す
両刃の津
梟雄散りて痕跡も残さず
国崩し、獅子吼す
神と鬼
絶頂の魔王
ときは今
本能寺にて


紛争の絶えない場所が、世界には少なくない。

宗教の違いが原因だったり、土地や資源の奪い合いだったり、貧困だったり、理由はいろいろで、複雑に絡み合って出口が見えないようなところが多い。

アフガニスタン、シリア、リビア、イエメン、ソマリア、ナイジェリア、スーダン、中央アフリカ、・・・。

スーダンのダルフールでは、長年続いた平和維持活動(PKO)が2週間前に終了したばかりだってのに、先日2日間戦闘が行なわれ、83人が死亡したそうだ。

コンゴ民主共和国では、少数民族のピグミーが、武装勢力に襲われて、46人殺されたそうだ。

ナイジェリアでは、キリスト教徒が大半を占める村落がボコ・ハラムに襲撃されて、11人が殺害され、1人が拉致されたそうだ。

エチオピアでは、西部にある村が武装集団の襲撃を受け、100人以上が殺されたそうだ。

国際的な仲裁が行なわれても、一向に解決しない。支援を行なっても、なかなか効果が上がらない。何やってるんだろう。しょうがないな。・・・そんな風にさえ感じてしまうのは、今の日本がそういう状況にないからな。

じゃあ、戦国時代の日本はどうだった。

実は、日本にだって、そんな時代があった。戦国時代というのは、日本の歴史の中でも、たしかに特異な時代だった。あちらこちらに、大小さまざまな武装勢力が跋扈し、離合集散を繰り返す。それら武装集団にしてみれば、陣地や土地を奪われれば、それは弱い者が悪い。誰もが常に存在の危機的状況に立たされている。その裏切りが自分に利のあることであれば、そうするのが常識であって、そうしないのは非常識。

庶民にとっては、もっと過酷な時代だった。だれも、生存を保証してくれはしない。たとえ人生をまっとうできないような出来事に巻き込まれたとしても、それはどこでも、誰にでも起こりうることであった。誰にも文句をつけることもできないし、そんなことをしたってどうにもならない。受け入れるしかない。

今からは、考えも及ばない、過酷な時代だったわけだな。だから、明智光秀は、何とか麒麟を連れてこようとしたわけだ。

日本人は戦いを好まないとか、平和を大事にするとかいうが、理由もなくそうなったわけじゃない。さまざまな歴史的経験を通して、日本人はそうすることを選択した。

そして、19世紀から20世紀、列強が跋扈する過酷な世界情勢に巻き込まれ、世界大戦を戦い、敗北を喫する。これも、日本の歴史的な経験だ。現在の日本人の選択が、正しい選択であるとは限らない。むしろ、違う道を選択すべきではないかという思いもある。

それでも、もう日本が戦国時代に戻ることはないだろう。麒麟がきたからな。ただ、麒麟は、そう簡単には来てくれないもののようだ。



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『行基 菩薩と呼ばれた僧』 岳真也

武蔵国埼玉郡笠原郷は国造を務めた笠原直が居を構えていたという。

国府が置かれていたことから、「国府(こう)の州(す)」と呼ばれていたんだそうだ。その「こうのす」に、後から“鴻巣”という好字が当てられた。

鴻巣に、鴻神社というのがあって、子授け、安産の神社として知られている。コウノトリが子どもを運んでくるというのは、日本の話じゃなくて、もとはドイツだそうだ。

昔、ドイツに子どもに恵まれない夫婦がいたそうだ。

あるとき、シュバシコウという種の鳥が、その家の煙突の上に巣を作って卵を産んだ。夫婦はシュバシコウの子育てが終わるまで、暖炉で火をたくのを我慢したんだそうだ。ようやく、子育てが終わり、シュバシコウの親子は巣を後にした。それを見送った夫婦も、待望の赤ちゃんを授かった。

これが、もとになる話のようだ。暖炉の火がたけずに、温め合うように日々を過ごしたおかげだろうか。

離れて暮らす息子夫婦のところも、暖房器具がなかったわけでもないだろうが、兆しがあった。すでに、予定日まで半年を切った。年末の戌の日に鴻神社に出かけて、安産祈願をしてもらった。

その後、確認したんだが、コウノトリに漢字を当てれば、“鸛”という字だそうだ。じゃあ、“鴻”は?・・・調べてみると、「大型の水鳥」とあるから、その中にコウノトリも入るだろう。あまり深く考えるのは、やめよう。

その、鴻巣の仏師が、子を亡くしたことが原因で、まったく仏を彫れなくなって、行基に助けを求めに来る。行基の霊力に触れて、力を取りもどした仏師は、後に行基の進める大仏建立に一役買ったというお話の展開になっている。

高野山薬王院のホームページを見ると、「高僧行基菩薩により開山され」たと書かれている。物語の中には、高野山で斃れた行基が、薬師如来の薬で蘇生したという話が出てくる。なにかと東国にも、行基の面影が残る。

薬王院だけじゃない。行基開山とされる寺院は、関東でも数多い。東京、神奈川、栃木、茨城、千葉、さらには、それは、岩手、宮城と、東北にまで及ぶ。

ただ、行基は一生を通して、畿内を出ていないという話もある。

となると、これは行基という一人の人間の行動としてではなく、教団、あるいは信者集団が残した足跡と考えるべきかもしれない。



KADOKAWA  ¥ 1,980

天平十三年三月、聖武天皇に招かれ、謁見する僧侶がいた。僧の名は、行基
序章 文殊の化身
第一章 悲しみを超えて
第二章 得度と修行の日々
第三章 諸山遊行
第四章 王の法より仏の道
第五章 菩薩への階梯
第六章 大仏建立
終章 入寂


『日本霊異記』では、天眼を示す文殊の化身、隠身の聖として大活躍。『今昔物語』でも。仏教説話や伝説が数多い。なにしろ正史の『続日本紀』でも、“霊異神験類に触れて多し”っていうことになるんだから、たしかに扱いに困る。

たしかに言えることは、仏教説話や寓話として人々に伝えていきたい話を任せるにふさわしい人物として、行基意外には考えられなかったんじゃないだろうか。

役小角では神がかりすぎる。道昭では抹香臭すぎる。その点、行基は、弟子たちを自ら率いて、民間布教に努めるとともに、民衆と道路をつくり、交通の難所には橋を架け、池を掘り、水路を通し、提を築くなどの土木開発を推進し、摂津・河内・和泉・山城など畿内諸国を行脚した。人々にとって、身近に感じられる存在だったのではないか。

しかも、当時の仏教は、、国家仏教の形をとっていて、民間への布教活動は禁止されていた。すべての僧尼は静かに寺の中にいて、仏の教えを受け、仏の道を伝え、国家の安泰を祈念すべきであるとされていて、民衆教化を禁止していたのだ。

行基の行動は明らかにこれに違反するものであった。行基とその一門は、禁を破ったとして弾圧を受け、五度にわたって中止を命ぜられた。しかし、行基は禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていったという。

だからこそ、それらの仏教説話や寓話は、行基に託することによって、その話そのものが力を持つことになったんじゃないだろうか。

さて、この本、著者の岳真也さんは、「大方の日本人がその名を知りながら、実像を知らずにいる古代の名僧・行基。私の知る限り、これまでプロの小説家で、彼の人生を描いた者はいない」と、そこに魅力を感じて取りかかった仕事だそうだ。

冒頭から不思議な話で始まる。それはやはり、『日本霊異記』や、『今昔物語』の世界と言っていい。さらにその傾向はしばらく続き、行基が道昭の弟子であるまま、役小角から大峯奥駆道で修験の導きを受け、山上ヶ岳で金剛蔵王権現に出逢う。

「とてつもない光だった。光の玉はたがいに重なり合い、束となって、光の雲の如くに中空を飛んだ。闇は一転、めくるめく明るさで満たされ、大地を震わす轟音が鳴り響いて、龍の口から、今度は火焔が吹き上がった。  刹那。 揺らめく火焔が人の形を取り始め、鋭い目を爛々と輝かせ、牙を剥いた青黒い憤怒の表情が明らかになった。右手に金剛杵を高く掲げ、左手は剣印を結んでいる。・・・憤怒相の金剛蔵王は舞い上がって、みるみる天上へと昇り、消えていく」

このあたりまでの話なら、そのまま映像化することが望まれるようだった。ただ、生きた時代が時代。権謀術数、渦巻く時代に、小僧から大僧正まで上り詰めた。その人生を判断するのは難しい。

ただ、人々が、さまざまな話を行基に託した事実は、覆すことはできない。・・・そんなところだろう。

すぐ近所に、毛呂山町がある。毛呂山町の西にある丘陵地帯に、“桂木観音”と呼ばれて親しまれている寺がある。「桂木寺略縁起」によると、行基が桂木山を訪れた際、葛城山に似ていることから、「桂木」という名となり、行基により堂宇と仏像が作られたと記されている。それが評判となって、多くの信仰者から寄進があり、観音堂を含めた七堂伽藍が建立されたと伝わっている。

こんな身近なところにも、行基の足跡があった。


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『もっこすの城』 伊東潤

熊本城は、でかかったな~。

訪れたのは20年ほど前だったかな。まずは長崎を観光した。その後、雲仙に行って、普賢岳の噴火被災地に立ち寄った。それから、フェリーで有明海を越えて熊本に渡ったんだ、・・・たしか。熊本を観光した後は、柳川の水郷巡りをしたな。そこから博多で遊んで帰ったんだ。

熊本城は黒かった。

織田信長の家臣である木村忠範は、まさに安土城を築き上げた城作りの名手であった。だからこそ、信長が本能寺に斃れた後、多くの者が逃亡していく中、わずかな手勢と共に、押し寄せる明智勢に突入して果てた。その木村忠範の残した秘伝書と、城作りにかけた思いを受け継いだのが、忠範の子、秀範であった。

肥後佐々家の改易により、急遽、肥後北部十九万五千石が、加藤清正に任されることになった。三千国の知行しかなかった清正は、大急ぎで多くの家臣を召し抱えなければならなくなった。信長が殺されて寄る辺のなかった秀範は、この時、加藤家に召し抱えられることになる。

清正が、肥後北部十九万五千石の藩主として領国経営に邁進するとき、秀範が父から託された知恵と思いは、さまざまな形で役に立った。

すでに惣無事令が出され、秀吉の天下は定まった。九州征伐、小田原征伐と続き、奥州仕置きも済めば、“城”の持つ意味も変わる。ところが、秀吉は“唐入り”を言い出すことになる。残念なことに、加藤清正一世一代の活躍の場が、この“唐入り”になる。そして、秀範も、この“唐入り”に帯同することになる。

何とか命からがら帰ってくれば、今度は秀吉後の争いが始まるわけだ。家康が、豊臣政権に亀裂を入れ、その傷を広げ、少しずつ力を奪っていく。清正は、関ヶ原では東軍、つまり家康側についている。秀吉によって成し遂げられた世の太平を受け継げるのは、家康以外にあり得ないことを理解していたんだろう。それでも、秀頼だけは、なんとしても守り抜こうとしていた。

最後には大坂の陣が待っている。おそらくそれも、考えていた。だからこその、熊本城。

その熊本城が、秀範最後の仕事になる。・・・文字通り、最後の



KADOKAWA  ¥ 2,090

藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。日本一の城を造った男の物語。
プロローグ
第一章 蛇目紋の家
第二章 反骨の家
第三章 日之本一之城取
第四章 天下静謐


これまでにも、城作りに関わる物語をいくつか読んだ。

どちらも、佐々木譲が書いたもので、『天下城』と『獅子の城塞』。

『天下城』は、戦国時代に城が落ちたことで鉱山に送られるという辛酸をなめた佐久の少年市郎太の生涯を描いた話。難攻不落の城を築きたいという望みを抱き兵法者の小者になり各地を遍歴、師の死去により道を絶たれた後、穴太衆の親方と出会い石積みとして生きてゆく。南蛮渡来の鉄砲により戦や城のあり方が変わろうとしていた時代を石積み職人の目から見つめている。彼は、戦国時代の多くの城作りに関わり、最後は安土城にも関わった。

『獅子の城塞』は、その市郎太の次男で、信長から命じられて、”南蛮の城作り”を学びにヨーロッパに渡った男の話。貪欲に西洋の技を身につけ、たちまち名を上げていくんだけど、ごく当たり前に、ヨーロッパは宗教戦争の時代。つまりは、城作りが意味を持つ時代だった。片や日本は、徳川の世が定まる時代になるわけだ。

どちらも、面白い話だった。城作りというのは、戦いの時代であればこそ、あえて“城作り”であるんだろう。だけど、そうそうお城が必要となる時代ではなければ、建築家だな。土木業者ということになる。

石積みの穴太衆であるとか、金剛組であるとか、もの凄い昔から建築土木に携わってきた集団が、日本の場合、そのまま現代に残っている。技術だって伝わっているんだろう。

『天下城』の戸波市郎太や、この『もっこすの城』の木村秀範の技も、おそらく今に伝わっているんだろうな。これが途切れなく続いていることが、日本の強み。途切れることなく技術を伝え、受け継いできたことのよる引き出しの多さは、かならず役に立つときが来る。

「今、必要のないものは捨てる」

そんな世界の風潮に、日本も流されてしまうことを恐れる。

熊本城は西南戦争で、精強な薩摩郡を相手に五十日以上の籠城線を持ちこたえた。清正の時は完成を急ぐ必要があったが、後に細川家によって仕上げが加えられた。そのおかげもあって、まさに城としての真価を発揮したわけだ。

その熊本城も、熊本地震で、大きく被災した。

『城は戦うためにあらず、民を守るためにある』

この本の中での、清正のセリフだが、熊本城が熊本の人たちの心を支えるなら、上の言葉はそのままである。ただ、一歩進んで、“城作り”を建築土木と考えるなら、それはまさに、民を守るためにある。



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『ワカタケル』 池澤夏樹

獲加多支鹵大王

古代の英雄たちの中でも、とりわけ馴染み深い。埼玉県の行田市に、“さきたま古墳公園”というところがあって、前方後円墳8基と円墳1基、それから小円墳がいくつかあるらしい。

ここは国の特別史跡で、古墳時代を研究する上でも大変重要な遺跡でもある。中でも稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣は、115文字の漢字が金象嵌で刻まれており、古代史解明の大きな手がかりでもある。

これが見つかったのは1968年なんだけど、保護処理のためにX線による調査が行なわれたのが1978年なもんだから、それまでは金錯銘が入っていることが分かっていなかった。

私は1960年生まれだから、同じ埼玉県なんだけど、子どもの頃は埼玉古墳群のことも、そこから発見された鉄剣のことも、誰からも、何か言われた記憶はない。教員試験を受けるときに、あらためて日本史を見直して、その時にはじめて知った。

行田は、江戸時代には忍、・・・“おし”と読む、忍十万石として知られ、中期には足袋の生産で広く知られるようになった。どうやら、山奥の秩父の人間にとって、明治から大正の時分は、行田こそが最も近い文明開化だったようだ。

明治35年生、影森村の滝という地区に生まれた祖母は、薮という地区の“わけえし”が好きで好きで、縁談を押しつける親に逆らって家出した。頼った先が行田の遠縁で、大正の中頃に山奥の秩父で自由恋愛をまっとうした。

祖母は恥ずかしがって、一度しかその話を聞くことができなかった。それでも、私にとっての行田という名前は、明るい将来を保証してくれるようなひびきが感じられる、そんな名前なんだ。


辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。 其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

これが、私の憧れる行田にあるさきたま古墳群の、稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣に刻まれた115文字の漢字。そこにある“獲加多支鹵大王”という漢字、「ワカタケルオオキミ」と読む。



『ワカタケル』    池澤夏樹

日本経済新聞出版  ¥ 2,200

神話から歴史への淡い時代に、森羅万象を纏った若く猛る大君が出現した
一 弑逆と決起
二 服喪の日々
三 暗殺と求婚
四 即位と統治
五 王國の構築
六 隣國と大國
七 文字の力
八 天と空
九 時は流れゆく


著者の池澤夏樹さんは、2014年に『古事記』の現代語訳を出している。

原文の力のある文体を生かしたストレートで斬新な訳と、大きな評価を受けたらしい。 まったく、『古事記』そのものが、もの凄い物語である。 のっけから、イザナギ・イザナミは“共寝”によって国を作り、神々を生み出していくわけだ。 それを“原文を生かしたストレートな”訳とは、いったいどんなものだろう。 機会があれば、読んでみようか。

その本を前提にして、『ワカタケル』という物語が生まれたようだ。

“原文を生かしたストレートな”訳は、どうやら『ワカタケル』にも反映されているようだ。 読み始めた最初に感じたのは、「ちょっと、おどろおどろしすぎるんじゃないか」と言うことだった。

淡泊な私には、どうにも、くどすぎる、・・・申し訳ないが、そう感じてしまった。

ただ、さまざまな形で、雄略天皇に関する逸話、エピソードが、いろいろなところに、おそらく余すことなく組み込まれていた。 それが、雄略天皇の性格を裏付けていて、物語に奥行きを加えているように思われた。

なかでも、万葉集の冒頭を飾る雄略天皇の歌。

籠もよ  み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 告らさね そらみつ大和の国は おしなべて我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我にこそは告らめ 家をも名をも

この歌が詠まれた状況が、物語に組み込まれている。それが、まさに、そうではなかったかと思わせられる状況に思えた。

たしかに、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣と、江田船山古墳の鉄刀から、考古学的に実在が確認された、最古の天皇である。 同時に記紀の記述からも、たんなる豪族連合だった大和朝廷を、葛城氏や吉備氏と言った有力豪族の力を削いで、天皇を中心とする体制に変えていった天皇でもあった。

その分、反発も多く、それを封じるために強権を振るうことも少なくなかったようだ。 それでなくても、皇位を確実にするためには肉親さえ容赦なく手にかけた。 反抗する豪族を誅伐し、周囲の者に恐れられることを好んだ。

雄略につけられた大悪天皇というあだ名を、なんと読むか分かるだろうか。 「はなはだあしきすめらみこと」と読むそうだ。

さてこの本、私にはちょっと油っこすぎる感じたしたけど、雄略天皇がより身近になったのは、間違いない。



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『チーム・オベリベリ』 乃南アサ

ちょっと勘弁して欲しいなぁ。

いや、この本、厚すぎるんだ。なにせ、最後は667ページだよ。さっきメジャーで測ってみたら、4cm8mmもあった。重さは・・・、もういいや。

私は行儀のいい人間ではないので、いろいろな姿勢で本を読む。本を読んでいる姿は、出来ればよその人には見せたくない。だいたい、家の中で読むときは、どこかしらに寝っ転がっている。ただ寝っ転がっているのではない。寝っ転がって、変な恰好をしている。

外で読むときもある。居心地のいい公園のベンチなんかでも、最初は座っていても、最後は寝っ転がってしまうかな。さすがに変な格好にはならないが。そこに行くまでは、歩きながら読んでいる。

寝っ転がって読む場合、だいたいは、本を片手で持っている。片手で持つには、ちょっと重すぎるんだ、この本は。腱鞘炎になってしまう。

もう一つ困ったことがある。私は早起きをして、日の出前に1時間ほど外を走る。お昼を食べて、片付けを終えて、寝っ転がって本を読み始めると、本当にウトウトしてしまうことが多い。授業中に寝落ち寸前の学生が、自分の頭が落ちるのに驚いて目を覚ますことがあるように、私は片手に持った本を取り落としてビックリする。落とした本が、顔に落ちてくることもなきにしもあらず。その本が、総ページ数667ページ、厚さ4cm8mmであることを考えて欲しい。

それはまさに危険と紙一重。

その物語が300ページを越えるときは、是非、前編、後編の2冊に分けよう。

最初は、なんだと思った。

いや、何って、この題名。“オベリベリ”って、なに?

この“オベリベリ”と同様の言葉をいくつかあげてみるね。だんだん分かってくるかな。

①チパシリ   ②イシカラペツ   ③エベット   ④オタルナイ

⑤クシュル   ⑥シュムカプ    ⑦シリペツ   ⑧ニカプ

私が調べた資料では、“オベリベリ”ではなく、“オペレペレケプ”とあった。



講談社  ¥ 2,530

オベリベリこと「帯広」と呼ばれた新天地で、彼女はいかに生き抜こうとしたのか
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
終章


そう、これらは、アイヌ語の地名。

北海道の地名は、アイヌの人たちがつけた地名に漢字を当てて、和人が読みやすいものに変えたもの。“オベリベリ”、私の資料で“オペレペレケプ”であったものには、帯広という漢字が当てられて、“おびひろ”と呼ばれるようになった。

同様に、上に上げた①~⑧は、以下の通り。

①網走 ②石狩 ③江別 ④小樽 ⑤釧路 ⑥占冠 ⑦後志 ⑧新冠

さて、『チーム・オベリベリ』。

これは明治時代の、北海道開拓の話で、当時はまったく手つかずの帯広に入った人たちの話。実在の人物や団体の史実を基に書かれた小説だという。

帯広に入った開拓団は、晩成社という会社形式を採ったんだな。その中心となったのが、伊豆の大地主の次男であった依田勉三。地元の小作人たちに働きかけ、未開の十勝の原野に向かう。

晩成社の中心人物に、没落士族の鈴木銃太郎と渡辺勝がいた。立場の違いを超えて、依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝は、帯広の開拓に情熱を傾けた。

その鈴木銃太郎の妹で、渡辺勝の妻であるカネという女性が、この物語には登場し、彼女の語りによって、物語は進行する。

分かりきっていることだけど、北海道開拓っていうのは、きつい。想像を絶するきつさであろうけど、想像の範囲内でも十分きつい。今年を乗り越えれば、・・・ここを乗り越えれば・・・という難局が続き、物語の展開とともに、いつか希望の光が見えてくることを疑わずに読み進めた。

しかし、残り100ページを越えても、事態は悪化するばかり。

この物語、・・・言ってしまおう。この物語、良いことなんか何にもないままに終わる。最初に抱えた苦労は、最後まで苦労で終わる。北海道の開拓は、そのくらいのものがあった。そういうものだと言うしかない。では、希望は?

それは、今、切り開かれた帯広があるということ。物語にそんなことは書かれていないけど、・・・だってそこにしか光を見出しえない。

やはり、アイヌの関わりには触れなければ“片手落ち”になる。なにしろ、オベリベリはアイヌ語なのだ。

明治時代の日本には、もと武士階級をはじめ、豪農や商家を中心に高い倫理意識を有するものと、そうではないものが混在している。学問に寄るところが大きいと思うが、それと一致するわけではない。もと武士階級を除けば、貧富の違いに寄るところが大きいと思うが、それと一致するわけでもない。

昔話でも、良いおじいさんと、強欲なおじいさんがいた。要は人間性だ。もとの長州藩は、明治政府はじめ、日本中の要衝に人を送り込んだ。その中には、強欲なおじいさんもいた。

それはいろいろな場面で、日本の歴史に影響を残した。明治政府の上層においても、それは変わらない。権力を一部で独占して、私利私欲に走ったものが、いくつかの成功の後に、結局日本をダメにした。

そのグループの力は、残念ながら、北海道でも、アイヌの人たちに災いをもたらした。この物語の中心でもある、鈴木銃太郎、渡辺勝のような者たちが、つねにアイヌの人たちに寄り添っていたことが救いである。

教員だった頃、とある高校で3年間同じ学年を担当した先輩教師がいる。3年間を通じて、その方が学年主任で、私は担任の一人だった。その学年の卒業が間近に近づいたある日、二人だけになった休憩室で、はじめて打ち明けられた。

「あなただから言うけどね、私はアイヌです」

広島から来たお父さんとアイヌのお母さんの間に生まれ、一家で北海道を離れたそうだ。3年間、いろいろな厳しい状況を一緒に乗り越えた、懐かしい先生だ。


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『天穹の船』 篠綾子

今、地図で戸田港を見て驚いた。

伊豆半島の西側に、深く切れ込んでいるのが駿河湾。その北東部に三角形に切れ込んだ戸田港がある。特筆すべきは、その戸田港を隠すように、港の入り口の半分を超えて、南から北へと御浜岬が伸びていることだ。この細長く伸びた岬、おそらく砂州だろう。その内側に入ってしまえば、もう、港の外から見ることは不可能だろう。

1854(嘉永7)年7月9日、現在の三重県伊賀市を震源に、死者1500余を出す大きな地震があった。続いて、1954(嘉永7)年11月4日、安政東海地震、死者2000~3000。さらに12月24日に安政南海地震、死者数千~1万。26日、豊予海峡地震、死者不明。1855(安政2)年に入って、3月18日に飛騨地震、死者不明。11月11日に安政江戸地震、死者8000~1万5000。1856(安政3)年に入って、8月23日に安政八戸沖地震、死者90余。ちょっと飛んで、1858(安政5)年4月9日、飛越地震、死者300余。

1854年は、年の瀬も迫ってから安政に改元している。その場合、1月1日にさかのぼって安政に数えるという解釈で、一連の地震を安政の大地震と呼ぶ場合があるみたい。

プチャーチンのディアナ号は、11月4日の安政東海地震で破損し、曳航中に沈んだんだよね。なんの本で読んだのか、そのためにロシア人の技術者と日本の船大工で協力して、外洋を航海できる船を作ったって。

それが主題ではないお話で、その部分を何度か通り過ぎるたび、「これは話になる」という確信があった。いつか、誰かが書くだろうって思ってたら、篠綾子さんだった。

なにしろ、この1854年といえば、3月にペリーの脅迫で日米和親条約が結ばれている。そうそう、私、歴史の教員のくせに、年号を覚えるのが、とても嫌いだった。何十年もやってたから、そりゃ今なら、大半の年は頭に入った。歳を取ったら、頭に入ったまま出てこないものあるけどね。若い頃は、生徒たちと一緒になって、語呂合わせを作って覚えてた。なかでも、ペリー来航は秀逸。

嫌でござんすペリーさん。1853年ね。

この1853年から、ヨーロッパでは、クリミア戦争が始まっている。トルコと、・・・当時はオスマン帝国ね。オスマン帝国とロシアの戦いね。遠く離れた極東といっても、イギリス船とロシア船が遭遇するっていうのは、まずいわけね。ディアナ号が壊れて、新しい船を日ロの協力で作ってるなんてことが分かれば、必ずイギリス船が邪魔しに来るんだから。

だけど、それでもこの戸田港なら、見つからない。


『天穹の船』    篠綾子


角川書店  ¥ 2,035

言葉を超え、船を造る者達が胸に抱いた夢とは。気鋭による傑作青春時代小説
一章 大地震
二章 投げ文
三章 韮山代官屋敷
四章 人斬り士郎
五章 峠の闇討ち
六章 城の溜池
七章 でぃあな号
八章 峠の富士
九章 船おろし前夜
十章 ツキノフネ、アメノウミ





《天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ》

柿本人麻呂の歌だよね。この歌が、物語に関わってくる。月の船、つまりディアナ号が沈んで、新しい船を作る。船は、戸田港の船大工によって、生まれ変わるんだ。

なにしろ、時は1854年、ペリーの恫喝で、日米和親条約を結んだ年だからね。しかも、前年のペリー来航を受け、老中の阿部正弘は、朝廷はじめ、今まで政治に関与させなかった外様大名のみならず、幕臣から市井にいたるまで、広く意見を求めた。

何が明治維新の始まり下って言われれば、やはりこれしかない。パンドラの箱が空いちゃった。

沈んでしまったプチャーチンのディアナ号に変わる船を作るにあたり、韮山代官の江川太郎左衛門が建造取締役を務めることになる。それだって、パンドラの箱が開いたからこそだ。もちろん、江川太郎左衛門も、この物語に重要な役割を果たすことになる。

一気に攘夷熱が高まり、その高まりは水戸藩から、あっという間に全国に広がっていく。まるで、“中国”発の感染症が世界中に広がったみたいに。

そんな攘夷ブームも、この物語に関わってくる。

「阿部正弘があんなことをしなければ・・・」なんて、井伊直弼なんか考えたろう。だけど、江戸幕府は変わるべきだったんだな。たとえ、幕府がつぶれようと、変わらざるをえなかった。それは、実際につぶれちゃったけど、ゴルバチョフが危険を承知でペレストロイカを始めたのと一緒だな。中国共産党みたいに、無理をして押しとどめようとすると、跡形もなく吹っ飛ぶことになるかも。

ロシアの船を作ることで、日本も外洋に飛び出す船を作るようになる。船が生まれ変わる。そして、明治維新という形で、日本も生まれ変わる。

生まれ変わる。

これが、この物語の主要なテーマになる。船大工の平三と攘夷浪人の士郎は、かつて生まれ変わりを体験した。そして、『天穹の船』を作り上げることを通して、もう一度、生まれ変わることを、・・・・いやいや、ここまでにしておこう。




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『もののふの国』 天野純希

“もののふ”という言葉に反応して、読んでみた。

“さむらい”ではなくて、“もののふ”。“さむらい”には、どこかしら卑屈なひびきがある。朝廷や貴族に仕え、護衛者として、庭先に控えた。護衛者として控えることを、“侍ふ”と言った。ここから“さむらい”という言葉が生まれる。どこかしら卑屈なひびきが感じられるのは、そのせいだろう。

“もののふ”には、それがない。“さむらい”は、自分の意に反する戦いに臨まなければならない。いや、その前に、“自分の意”を持つことさえ認められない。その点、自分の戦う能力に持つ誇りが、“もののふ”からは感じられる。

“もののふ”の語源は、ヤマト朝廷成立当時から朝廷に使えた豪族、物部氏に由来する。豪族としては“もののべ”と呼ばれるが、“もの”を相手にする氏族と言うことだろう。人相手ではなく、“もの”相手というんだから大変。なにしろ、あちらの世界の方々だから。

というわけで、物部氏は、あちらの世界の方々に対処する氏族として、朝廷に使えた。あちらの世界に通じると言うことは、宗教を司ると言うことだけど、それは同時に、治安、つまり軍事に関わることも意味した。そこから、武勇を持って世に立つ者という意味で、“もののふ”という言葉が使われるようになったんだろう。

武士という一団は、一所懸命に自分の土地を守ろうとする開拓者が武装したことから始まった。彼らは、中央での立身をあきらめ、地方に下った元皇族、元貴族を頭領にいただいて集団化し、地方勢力としての地盤を築いていった。

なにしろ大和朝廷と、その政治システム及び権力を独占する藤原氏は、いかに地方で力を持とうが、地方勢力の土地所有は認めなかった。平氏を頭領にいただく武士集団が、源氏を頭領にいただく武士集団が、地方でいかに力をつけようが、彼らは自分の土地の正当な所有者にはなれなかった。

そんな理不尽極まりない体制に、最初に牙をむいたのが、平将門だった。この『もののふの国』という壮大な物語は、その平将門の乱から始まる。



『もののふの国』    天野純希

中央公論社  ¥ 1,980

源頼朝、足利尊氏、明智光秀、大塩平八郎、土方歳三…命を懸けた果てなき争いの先に
源平の巻
黎明の大地
担いし者
相克の水面
南北朝の巻
中興の秋
擾乱に舞う
浄土に咲く花
戦国の巻
天の渦、地の光
最後の勝利者
幕末維新の巻
青き瞳の亡者
回天は遠く
渦は途切れず




平将門は、なにか不思議な力に突き動かされるように兵を挙げ、常陸の国府が差し向けた追討軍を蹴散らしていく。これが始まりだった。しかし、将門は志半ばで藤原秀郷に敗れる。秀郷と共に将門鎮撫軍に加わった平貞盛の放った矢に眉間を貫かれて、将門は死ぬ。遠ざかる意識の中で、彼を謀反に突き動かした不思議な力から、こう言われる。

「案ずるな。お前は役割を果たした。安らかに眠るが良い」

しかし実際には、将門の首は、京都に運ばれて晒される。その首はやがて歯ぎしりを初め、不気味に笑い、地鳴りをおこし、稲妻を呼んだ。ついには、「躯つけて一戦させん。俺の胴はどこだ」と叫んで坂東に向けて飛んだそうだ。人々の意識の中では、将門は怨霊化した。

この物語は、そちらには走らない。将門を武士政権への萌芽として、次に登場するのが源頼朝ということになれば、それをもって《武士が政権を握った時代》をテーマにしていることが明らかになってくる。

さらには、楠木正成に足利高氏、足利義満から戦国末期へ飛び、徳川家康の江戸幕府開幕を経て、幕末から戊辰戦争、さらには西南戦争の終結を最終章とする。

つまりは、武士階級が、この日本を動かしていた時代を、物語の舞台としているわけだ。言わば、武士の時代を通史として、物語化しているんだな。今までにない、おもしろい取り組みだと思う。

歴史の変わり目で、けっこう、斬新な解釈が用いられている。たとえば、源頼朝の死に方、足利義満の死に方、坂本龍馬の死に方なんて、さらっと書かれているが、大胆で興味深かった。

その物語を牽引する不思議な力。その力は、歴史の要所要所に現れては、時代を“終わらせる”者に、あるいは時代に“拍車をかける”ものに、「思うがままに生きよ」と、その背中を押す。

その力は、「武士の世の中は、二つの力のせめぎ合いによって、前に進んできた」という。

二つの力とはなにか。

これに関しては、もっと深いところから考えて欲しかった。その設定によっては、物語を武士政権の時代だけじゃなく、古代から現代にいたる、もっと壮大なものに出来たんじゃないかと、ちょっと残念。

その二項対立については、・・・物語を読んでのお楽しみ。





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『朝嵐』 矢野隆

源為朝という怪物を知ったのは、『椿説弓張月』だったんだろうな。

だけど、どんな本で読んだのか、それがまったく記憶にない。昔はよく、“なんとか読本”なんていうのがあったので、おそらく簡単に読める、そんな感じの本だったんじゃないかと思う。私の人生の中でも、源為朝は、かなり早い段階で巡り合ったヒーローということだったろう。

歴史上のヒーロー遍歴でいうと、為朝から同じ源氏の義経に移行する。その後は、大河ドラマで取扱われるような人物を、頼朝と家康を除いて、一回りするような形になった。海外勢も時々顔を出して、最初はなんといってもアレクサンダーだな。中学2年の時だ。アレクサンダーをきっかけに世界史に興味が移り、ハンニバルやカエサルに惹かれるようになった。

そう、思い出してみると、なんだか源為朝というのは、なんだか異質な気がするな。おそらく私が読んだ『椿説弓張月』は、子どもでも面白く読めるように書かれたものだったろうけど、今、こうして『朝嵐』で源為朝の人生をたどってみると、やはり怪物というしかない。

純粋な強さだけを追い求めたその生き方は、当時の武士の中にあっても、やはり異質なものだったろう。あんなにも純粋に、強さを追い求めた生き方が、本当に可能だったのか、そのへんは少し疑わしい。

平安時代に入り、権力は藤原家に独占された。奥羽の蝦夷討伐後、平安政権は治安維持を放棄し、中央以上に地方は混乱した。地方の土豪は武装して自衛する武装農民化する。しかし、それだけでは足りず、自らの土地を権力者に寄進して、その保護下に入ることになる。

藤原家の荘園ばかりになってしまって、税も集まらない状況では、皇族にも臣籍降下するものが少なくなかった。彼らが平氏、源氏の名で地方に下ると、地方の土豪は彼らの“平”、“源”の名の下に集まり、それなりの勢力を持つようになる。

それでも結局、彼らは荘園の寄進を受けた権力者の庇護のもとに、その戦力となることで、自分の土地と立場を守らなければならなかった。“一所懸命”に生きる武士たちの棟梁たる源氏の者として、為朝のような生き方があり得たとは、なかなか思えない。

為朝の父、為義は、八幡太郎義家の孫にあたる。前九年の役、後三年の役で活躍した義家だけど、東国武士の信頼を勝ち得た義家の末裔を、平安政権はどこか警戒していったように見える。なんだか、このあたり、平安政権は源氏に冷たい。逆に平氏を優遇して源氏の先行を押さえようとしている。


『朝嵐』    矢野隆


中央公論新社  ¥ 1,870

源八郎為朝。武士として生きるため、異常な弓の鍛錬を続けた男
壱 兄と弟
弐 鎮西
参 乱
肆 鬼の住まう島


『朝嵐』の中で、為朝が一途に強さを追い求めるきっかけを作ったのは、兄の義朝だった。どうやら義朝は、父の為義から煙たがられていたらしい。京で権力におもねる道を選択した父から東国に追いやられたのは、義朝にとっては幸運でもあったろう。

私の家は、埼玉県東松山市、畠山重忠の本拠とした菅谷館はほど近い。かつては菅谷村と呼ばれたが、ここを訪れた本多静六博士が近所を流れる槻川の景観にふれ、「嵐山のようだ」と言ったことから、町制施行するにあたり、嵐山町と名乗るようになった。

その嵐山町に大蔵神社というところがある。

東国を新天地として力を伸ばす義朝に対し、それを牽制するために為義は、義朝の弟の義賢を東国に差し向ける。権力者から力を押さえられようとすると同時に、源氏は内輪でももめ事を繰り返した。

義賢は現嵐山町にあった拠点である大蔵館を、義朝の子にあたる悪源太義平に襲われて死んでいる。それが、今、大蔵神社になっているところである。
その時、家臣が助けた義賢の子が、のちの木曽義仲になる。近くにある鎌形八幡宮には木曽義仲産湯の清水とされるものが残されている。

平氏の軍勢を最初に京都から追い落とすのは義仲と言うことになるわけだから、
それを考えると、やはり源氏には、強い武人を産む血が受け継がれているように感じられる。

為朝の生き方はハチャメチャだ。保元の乱で崇徳上皇方に組みして逆賊となったのはやむを得ないとしても、九州時代にもその傾向があったが、伊豆大島に流されてのちは、あえて逆賊として生きている。

やはり、大河ドラマでは使い切れないところだろう。

それでも、為朝の血を引く子が琉球に渡り、琉球王家の祖、舜天になったというのは、説として捨てがたい。なにしろ、為朝が嫌い抜いた、義賢の子でさえ義仲という怪物になった。



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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本






























































































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