『悠久の時を旅する』 星野道夫
新設の公立高校の教員になって、先輩と一緒に、翌年からの山岳部立ち上げの準備をしている頃に、植村直己が当時はマッキンリーと呼んでいたデナリで死んだ。いや、帰ってこなかった。
帰ってこなくても、しばらくは、「きっとそのうち帰ってくる」って、どこかで思ってた。自分がそう思う前に、植村直己の周囲の人たちが、みんなそう言ってたから、そういうもんだと思っていた。
その年の4月に山岳部を立ち上げて10年、34歳の時に、山をやめることになった。「自分は生涯、何らかの形で山に関わって行くんだろうな」って思ってたんだけどね。もともとあった股関節の痛みが、かなり頻繁に起こるようになって、山で、人に迷惑をかけることになってしまって。・・・山岳部の顧問を降りた翌年、山岳部のない学校に転勤した。
星野道夫がヒグマにやられたのは、それからまもなくだったな。植村直己が死んだときは、そのことに自分の気持ちを素直に動かすことができた。なのに、星野道夫が死んだときは、なんだか、自分に関係があることのように受け止める資格がないような気がした。だから、その衝撃や悲しみを、ないもののように心の中に閉じ込めた。
じつはこの年の夏の終わり頃、母が亡くなった。星野道夫が死んだのは、まもなく亡くなるであろう母の最後の看病に、すべての気持ちを注いでいる頃だった。だから、星野道夫が死んだことを意識したのも、ずいぶん経ってからだったんだ。そんなこともあって、憧れの旅人の死に、自分ながらの決着をつけることができないまま、ここまで来てしまったような気がする。
なにしろ、山をやめてからは、山に関わる一切と縁を切ったような状態になったからな。下界では役に立たない装備も、多くは捨てたし、本も廃棄した。廃棄した本の中には、植村直己や星野道夫の本もあったはず。
高校で担当した部活は、弓道部にJRC、付き添い要員としてのサッカー部と柔道部。テントで子どもをキャンプに連れて行ったことはあるけど、シュラフなんかは、おでんの鍋を包むのが一番の仕事。
あれから22年と半年。
56歳で足の手術を受けて、少しずつ山を歩くようになった。最初は、コロコロ転んで、酷いもんだった。山の中で大転倒をして、痛い目にもあった。最近ようやくまともに歩けるようになった。


今年、一番印象に残っている山は、三ツドッケかな。
一杯水避難小屋に泊まった。感染症流行下だから、他に宿泊する人がいれば譲れるようにテントを担いで行った。日が落ちるまで、小屋の前で一人宴会をしてたんだけど、誰も来ないから、一人で小屋に寝た。
周辺は鹿の密度が高くて、宴会中も目の前の尾根上を飛び越えていったし、夜は小屋の前までやってきて、キュンキュン鳴いてた。星野道夫だったら、良い写真を撮ったんだろうな。
先日、目的もなく本屋を徘徊していて、この本を見つけた。久し振りに、星野道夫の名前を思い出した。そうだ。同時に、ヒグマにやられて亡くなったんだってことも、思い出した。
考えてみれば、私が山岳部の顧問をしていた頃が、星野道夫が写真家星野道夫として生きていた時期に重なる。私はこの人に憧れていた。この人の写真にも憧れていた。
同じような旅人になりたいとか、冒険家になりたいとか、そんなことは到底考えられない。考えられないから、憧れていた。その亡くなり方は痛ましいものであったけど、志半ばではあっただろうけれども、おそらく星野道夫の後ろを歩いて行こうとする者は少なくないだろう。
私も、ようやく星野道夫に、もう一度憧れることができた。
『悠久の時を旅する』という本は、2012年に出版されている。この本は、その“新版”ということになる。一粒種の翔馬さんは、お父さんのことは、全く覚えていないんだそうだ。そんな翔馬さんがデナリ国立公園でであった日本人大学生は、お父さんの書いた『旅をする木』を携えての旅の途中だったそうだ。
それにしても、星野道夫の写真はすごい。
帰ってこなくても、しばらくは、「きっとそのうち帰ってくる」って、どこかで思ってた。自分がそう思う前に、植村直己の周囲の人たちが、みんなそう言ってたから、そういうもんだと思っていた。
その年の4月に山岳部を立ち上げて10年、34歳の時に、山をやめることになった。「自分は生涯、何らかの形で山に関わって行くんだろうな」って思ってたんだけどね。もともとあった股関節の痛みが、かなり頻繁に起こるようになって、山で、人に迷惑をかけることになってしまって。・・・山岳部の顧問を降りた翌年、山岳部のない学校に転勤した。
星野道夫がヒグマにやられたのは、それからまもなくだったな。植村直己が死んだときは、そのことに自分の気持ちを素直に動かすことができた。なのに、星野道夫が死んだときは、なんだか、自分に関係があることのように受け止める資格がないような気がした。だから、その衝撃や悲しみを、ないもののように心の中に閉じ込めた。
じつはこの年の夏の終わり頃、母が亡くなった。星野道夫が死んだのは、まもなく亡くなるであろう母の最後の看病に、すべての気持ちを注いでいる頃だった。だから、星野道夫が死んだことを意識したのも、ずいぶん経ってからだったんだ。そんなこともあって、憧れの旅人の死に、自分ながらの決着をつけることができないまま、ここまで来てしまったような気がする。
なにしろ、山をやめてからは、山に関わる一切と縁を切ったような状態になったからな。下界では役に立たない装備も、多くは捨てたし、本も廃棄した。廃棄した本の中には、植村直己や星野道夫の本もあったはず。
高校で担当した部活は、弓道部にJRC、付き添い要員としてのサッカー部と柔道部。テントで子どもをキャンプに連れて行ったことはあるけど、シュラフなんかは、おでんの鍋を包むのが一番の仕事。
あれから22年と半年。
56歳で足の手術を受けて、少しずつ山を歩くようになった。最初は、コロコロ転んで、酷いもんだった。山の中で大転倒をして、痛い目にもあった。最近ようやくまともに歩けるようになった。
『悠久の時を旅する』 星野道夫 クレヴィス ¥ 2,750 極北の自然に見せられた写真家の旅を一冊に! 大切なことは出発することだった |
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今年、一番印象に残っている山は、三ツドッケかな。
一杯水避難小屋に泊まった。感染症流行下だから、他に宿泊する人がいれば譲れるようにテントを担いで行った。日が落ちるまで、小屋の前で一人宴会をしてたんだけど、誰も来ないから、一人で小屋に寝た。
周辺は鹿の密度が高くて、宴会中も目の前の尾根上を飛び越えていったし、夜は小屋の前までやってきて、キュンキュン鳴いてた。星野道夫だったら、良い写真を撮ったんだろうな。
先日、目的もなく本屋を徘徊していて、この本を見つけた。久し振りに、星野道夫の名前を思い出した。そうだ。同時に、ヒグマにやられて亡くなったんだってことも、思い出した。
考えてみれば、私が山岳部の顧問をしていた頃が、星野道夫が写真家星野道夫として生きていた時期に重なる。私はこの人に憧れていた。この人の写真にも憧れていた。
同じような旅人になりたいとか、冒険家になりたいとか、そんなことは到底考えられない。考えられないから、憧れていた。その亡くなり方は痛ましいものであったけど、志半ばではあっただろうけれども、おそらく星野道夫の後ろを歩いて行こうとする者は少なくないだろう。
私も、ようやく星野道夫に、もう一度憧れることができた。
『悠久の時を旅する』という本は、2012年に出版されている。この本は、その“新版”ということになる。一粒種の翔馬さんは、お父さんのことは、全く覚えていないんだそうだ。そんな翔馬さんがデナリ国立公園でであった日本人大学生は、お父さんの書いた『旅をする木』を携えての旅の途中だったそうだ。
それにしても、星野道夫の写真はすごい。