めんどくせぇことばかり 2015年03月
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セオドア・ルーズベルトの対日観(覚書)『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった』 髙山正之

昨日のハワイ併合史に書いたけど、日本がアメリカの一部にあったアジア戦略の出鼻をくじいたのは日本。場所はハワイ。時は一八九三年。アメリカがハワイ王朝を乗っ取ったその年、日本は巡洋艦「浪速」、艦長は東郷平八郎、をハワイに派遣して、アメリカの強引なハワイ乗っ取りに抗議した。アメリカは即時の併合を断念した。結果としてアメリカは、一八九八年までハワイ併合を見合わせなければならなかった。

・・・この時のアメリカは、真珠湾に基地を持っているわけではなく、パナマ運河どころかパナマそのものがなかった。咲きのデコ事があった翌年、「浪速」艦長東郷平八郎は、海軍の一員として日清戦争を戦った。その戦いの賠償金で、日本は大型戦艦二隻を買い込む。みずからが
海軍次官を務めていたセオドア・ルーズベルトは、海洋国家論を書いた友人のアルフレッド・マハンに、次のように書き送ったという。「I had my way(もしも私ん手立てがあるなら)、私は明日にもハワイを併合し、星条旗を島中に立てたい。我々は日本の新しい戦艦二隻が英国を離れる前に行動を起こすべきだ。我々はニカラグア(後のパナマ)運河を早く完成させ、多くの軍艦を造り、その半分を太平洋に配備したい。私は日本は脅威をひしひしと感じている」と。
 (本書P78)(本書P101)

『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった』 髙山正之『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった』 髙山正之
(2014/12/22)
高山正之

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ー「日本悪者論」の嘘八百を暴くー

1901年
42歳という若さで大統領就任。

1903年
パナマ共和国がコロンビアから独立。セオドア・ルーズベルト大統領は、わずか10日後にパナマを承認。パナマ運河条約を結んで、運河建設権と関連地区の永久租借権などを取得。工事に着手した。

1904年
日露戦争。

1905年
ポーツマス条約。

1911年
義和団の乱の対米賠償金から資金拠出されて米国留学予備校として清華大学を創立。日露戦争後、急激に高まった若き支那人の日本留学熱を危惧し、清華大学を設立してアメリカへの留学を促す。

常識的には、日露戦争におけるロシアとの講和の直前、日本は戦争継続の余力を失い、危機的な状況であったと言われる。本書の中でも、そんな司馬遼太郎の言葉を引用している。でも、上記のような流れ、ルーズベルトの決して親切で日本の利を図るような人物ではないことは明らか。そのルーズベルトが日露戦争の早期講和実現をめざした。それが日本の利を図るためでなかったとするなら、一体なにか。

つまりは、日本の大勝を阻止するためではなかったか。

日本は、ハーバード大学でルーズベルトと同窓だった金子賢太郎を特使としてアメリカに派遣し、アメリカ世論を親日的にするために宣伝活動を行なっていたという。その同窓生金子賢太郎の故国日本。勝つには勝ったが、逆に窮地に陥っていた(?)日本への友情から、ルーズベルトはロシアとの間で尽力し、ポーツマス条約をまとめあげた。

・・・これは、やっぱり、ウソ❢





    




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テーマ : 歴史関係書籍覚書
ジャンル : 本・雑誌

「GHQ焚書図書開封5」 西尾幹二

ハワイ併合史
1778年
イギリス海軍探検家ジェームズ・クックがこの島にやってきた。彼自身は、原住民との誤解にもとづく抗争で殺されてしまう。クックや、それを引きついだジョージ・バンクーバーの航海は、大西洋から北西に向かい北極海を抜けて支那に向かうルートを開拓することを目的としたものだった。それらの船員のなかに、この島で暮らしたいと希望するものがあり、バンクーバーはそれを許すとともに、ハワイ島の一族長に過ぎなかったカメハメハに軍事のノウハウを伝授させた。

1810年
カメハメハによるハワイ統一。治安の安定と欧米人によるハワイ認知により、ハワイは商船の寄港地として賑わいを見せる。 主に北米北西部で仕入れた毛皮を支那に運ぶ商船であった。

1819年
カメハメハを継いだリホリホ王が、ハワイ固有の宗教行事を廃止。

1820年4月
宗教的空白地帯となったハワイに、多くのプロテスタント系宣教師が来島。
宣教師の独善
※虚飾や華美を嫌い、何より王政を嫌悪。
※カルビン派の教条通り金儲けは神の御心に合致する行為。
※ハワイの伝統や文化に一切の関心を示さず。
※西洋的ビジネスシステムを持ち込み、土地所有の自由化をめざす。
※西洋的学校システムを持ち込み、英語教育を行き届かせる。
※後にハワイの主要産業となるサトウキビプランテーションは、これらの宣教師の子孫によって経営される。
※ハワイ経済を握るこれらの宣教師の子孫たちは、後に王国の要職の殆どを独占し、内外政を壟断した。
1820年頃
ハワイの山々に繁茂する白檀に目をつけた商人があり、その需要は最盛期を迎える。日本に近い海を漁場とするアメリカの捕鯨船がハワイに寄港するようになる。

1835年
カウアイ島で、ラッド・カンパニーがサトウキビプランテーション経営を開始。

1840年頃
乱伐により白檀の輸出が衰退。それを穴埋めするように捕鯨船が増え、船員を客として賑わう。

1844年
ハワイの土地が、政府、王族、部族長、一般人に分配される。

1850年
外国人の土地所有が認められる。外国人による土地の買い占めが可能になり、プランテーション経営に道が開かれる。

1850年頃
捕鯨船の寄港は最盛期を迎えるが、60年代に入ると、南北戦争と石油の発見で捕鯨事業事態が衰退。

1868年
アメリカ人貿易商で在日ハワイ国総領事を兼ねていたユージン・バン・リードが幕府と交渉し、出稼ぎ人300人を集める。幕府に変わり明治維新政府が交渉相手に変わると、新政府は一転これを中止させるが、出向準備を整えていたバン・リードは無許可のまま153人を移民させる。

1869年
明治政府は使節団を派遣してハワイ政府と交渉し、契約と過酷な労働を不満とする40名を帰国させ、残留者の待遇改善を約束させる。


1870年頃
捕鯨船寄港、ほぼ消滅。西洋人の持ち込んだ風疹、インフルエンザ、百日咳で死亡率上昇、性病の蔓延で出生率低下により、このころまでに人口半減。

1872年
真珠湾の軍事的意味に目をつけたアメリカが、ハワイ政府に真珠湾の割譲を要求するも、島民の反対で交渉は失敗。

1873年
ルナリロ国王即位。国王は有力なアメリカ人を閣僚に据えることで、アメリカからの政治的経済的援助を期待した。

1874年
ルナリロ国王急死。カラカウア国王即位。

1875年
米布互恵条約締結(グラント大統領時代)。ハワイの佐藤に対知るアメリカの関税が撤廃される。以後、クラウス・スプレッケルスらにより、サトウキビプランテーション経営本格化。第4条「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」とあるように、ハワイのアメリカ依存が強まる。

1881年
ハワイ、カラカウア国王が来日し、明治天皇に謁見。白人に