めんどくせぇことばかり 2018年02月
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弓立山~大築山

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大築山にこだわってるわけじゃないんだけど、小川・ときがわ・越生・毛呂山・日高・飯能あたりで、そこそこのまとまったコース考えていて、「これもありかな」って、こんなコースを考えてみました。

越生の駅の近くに車を置きました。いつも、高取山に登って2時間くらいで帰るときは商工会の駐車場に置かせてもらってる。駅から少し離れるけど、中央公民館の駐車場も、ハイキングはじめ観光客に開放されている。ただし、8時30分以降。今回は、だいぶ長くなりそうで、しかも6時半には車を置きたかったので、駅近くの300円パーキングを利用しました。越生駅の東側、改札のない方です。
2月24日 (15)6時46分の電車で明覚に向かい、明覚駅から歩きました。写真は駅舎です。八高線の駅舎は、毛呂にしろ、越生にしろ、明覚にしろ、なんか味わいがありますね。
2月24日 (14)2月24日 (13)
左は登り口をめざす途中から見た弓立山。山頂部分に、以前パラグライダーの発着に使っていた場所があって、そこだけ禿山になってるのが見えます。おかげで山頂の景色は抜群。右は登り口。八幡神社の裏側が登り口。
2月24日 (12)弓立山頂まであと5分ってくらいのところにある男鹿岩(おがいわ)。けっこう大きな岩で、登って写真をどうぞ。
2月24日 (11)弓立山頂。今日は水平線がガスって、筑波、赤城、谷川あたりは見えません。かわりに、南西の奥武蔵の稜線はくっきり。先週、あれ全部歩いたあたりですね。
弓立山から北側は、下まで舗装道路がついています。そのつづら折りの舗装道路を突っ切って山道を下ります。途中でいったん舗装された太い道に出るんだけど、20mほど戻ったところに、さらに下に降る山道が続いています。これが分かりにくくて、頭を抱えたところ、たまたまであった第一村人に教えてもらいました。
2月24日 (10)さて、一旦、弓立山を下りきって、今度は越生の山に登り返します。のぼりつめた場所にあるのが、この六万部塚。

ただ、この上り口が分からない。地図の赤線のように進んだが、尾根に上がる所は、這い上がる感じ。
地図をよく見ると、左に登っていく道がある。見落とした。
2月24日 (9)2月24日 (8)
六万部塚からは、尾根歩きのハイウェイです。庚申塔と思しきあたりには、三面六臂の・・・馬頭観音かな。異様な石像でした。徐々に登りがきつくなって、小築山。そのまま、大築山に向かいます。
2月24日 (6)2月24日 (7)
大築山につきました。左は堂平山と笠山です。右はさっき登ってきた弓立山。その左手の山には慈光寺があって、比叡山よろしく、全山天台宗の一大勢力となっていたようです。戦国時代、慈光寺をにらむように、ここに城が築かれたそうです。
2月24日 (5)大築山から麦原地区に下りました。いつ歩いても気持ちのいい山里で、地域の方に合うと、必ず声をかけてくれます。

陽だまりの福寿草。
2月24日 (3)2月24日 (1)
下まで降りてくると、越生の梅林で梅まつりの期間でした。ちょっと寄らせてもらいました。




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テーマ : 登山
ジャンル : スポーツ

死者の書『死者と先祖の話』 山折哲雄

折口信夫の『死者の書』は、奈良に都がおかれた時代のお話。

ヒロインは藤原南家の娘で、信心深いその娘が彼岸の中日の夕暮れ方に、二上山の山の端に「荘厳な人の俤」を見るんですね。《阿弥陀経》千部書写の願をかけていた娘は、その俤を阿弥陀仏と確信するのです。そして彼女は、次の彼岸の中日が来るのを待ちわびて、ためらうことなく二上山に登っていくのです。

二上山でお分かりの方も多いと思いますが、この『死者の書』、若くして処刑された大津皇子の死と蘇りの物語なんだそうです。南家の娘が見た阿弥陀仏“俤”は、まさに大津皇子の姿であって、大津皇子の死体が岩窟の中で蘇っていく物語なんだそうです。

物語は、蘇らんとする大津皇子の肉体が、やがて生きた肉体を持つ南家の娘の思いを受け止めることを予感させるのですが、物語はそういった創作の世界の厚い扉の前にたじろぎ、死者にどくどくと流れる熱い血の高まりを与えず、その魂はあらためて成仏を目指して浄土におもむこことになってしまうんだそうです。

なんだか、身も心もささげて二上山におもむいた南家の娘がかわいそうな気がするな。

なにしろ、『死者の書』というのは、暗闇に閉じ込められた死者が、浄福の死者へと転生する物語ということなんですから。厚く燃える血をその女の肉体にたぎらせる女にすれば、死者が、さらに深い死の国へ向かったに過ぎない。つまり、死者はしょせん死者であったと・・・。


『死者と先祖の話』    山折哲雄

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無葬無墓・散骨葬・寺院消滅・脱宗教…死を棚上げにしたまま肥大化する社会現象
第一章  戦後と東北
第二章  英霊と鎮魂
第三章  供養と骨
第四章  折口と柳田
第五章  往生と看取り
第六章  死と生
686年に天武天皇が崩御する。改革事業の完成を目前にした崩御であった。翌年、大津皇子が謀反を起こし、捕縛され、翌日には処刑されてしまった。

うつそ身のひとなる我や 明日よりは 二上山を弟と我が見む

お姉さんの大伯皇女の歌ですね。とても悲しいです。

持統天皇は、姉である大田皇女と天武の間に生まれた大津皇子に謀反の濡れ衣を着せて殺した。大津皇子は、おそらく天武天皇の皇太子だったでしょう。皇太子が大津ならば、大津が謀反を起こすってのは話が違う。

日本で最初の漢詩集である『懐風藻』は、大津皇子を《太子》と読んでいるそうです。『日本書紀』は草壁皇子を皇太子だって言ってるんですよね。『日本書紀』を編纂したのは藤原不比等ですからね。

蘇我氏は乙巳の変の入鹿暗殺で衰退したと思われがちだけど、壬申の乱の大きな絵を描いたのは蘇我氏なんですよね。白村江の戦いで負けて帰った天智は、敵対する蘇我勢力を抱え込む形でしか政権を維持できなかったということですね。そして、その蘇我勢力が天武天皇を支持し、さらに大津皇子を支持していた。

持統は草壁皇子の即位を願い、謀反事件をでっち上げて大津皇子を抹殺してしまった。だからこそ、草壁皇子は父の崩御の後2年以上も虚しく時を過ごし即位できずに病死した。大津事件が冤罪であったために、天武朝を支えた蘇我勢力が草壁皇子の即位を許さなかったのだろう。

・・・大津皇子が南家の娘の期待に応えるなんて、最初からありえないよね。




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テーマ : 本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

『毎日おいしい はじめての保存食&長持ちおかず』 井澤由美子

息子が就職し、家を出て間もなく2年になるんですが、ちょうどその頃に買った本です。当時は連れ合いも私も、作るごはんの分量を間違えることが多く、食べきれなくて、だめにしてしまうことが多かったんですね。なにしろよく食う息子ですもので・・・。

だんだん慣れてきたとはいえ、今でも、気合の入る料理を作る時ほど間違えますね。

まあ、そんなこともあって、もちの良いものを作ってみようかと手を出したのがこの本でした。だから、このような題名の本ですが、惹かれたのは“保存食”よりも“長持ちおかず”の方になりますね。

よく利用させてもらいましたよ。しっかり火を通すこと。あとは、塩で長持ちさせるか、酢で長持ちさせるか、砂糖で長持ちさせるか、あるいはそれらの複合わざか。それから発酵させるか。いずれにせよ、濃いめの味付けで少量いただくのがいいですね。

そうそう、私は最初なれなかったんですが、オイル付けって方法も、はじめてこの本で経験しました。

スーパーに行くと、とにかく今年は野菜が高いですね。ビックリです。だから、すっかり“もやしくん”とお友だちです。それから価格の安定しているのが“きのこくん”たちですね。どちらも工場生産ですからね。

冷蔵庫にはいつも、連れ合いの作った《塩きのこ》か、私の作った《エノキの醤油煮》が入っています。ちなみに今日の私の朝食をご紹介しましょう。

ご飯は白米。みそ汁はもやしと小松菜と高野豆腐とさつま揚げ。おかずは、めざし、塩きのこの玉子焼き、納豆、漬物、ゆずみそ。漬物は塩を入れてしょっぱくした甘酒で時季外れのキュウリを漬けたもの。

作り置きばっかりですね。



永岡書店  ¥ 1,080

何もしたくない日。佃煮でも作ってあれば、ごまやワサビを添えてお茶漬けにも…
Part1  すぐに食べられる長持ちおかず
Part2  とっておきの保存食レシピ
Part3  いいとこどり!作り置きソース&調味料


この本じゃないんですが、「ちょっと作る」ってこだわった本があって、その本では《みそ》や《梅干し》を「ちょっと作る」ことを提案していました。季節柄、《みそ》に挑戦してみようと思いつつ、週末は山に行ってへとへとになっていてまだやってません。「これじゃぁ、仕事しているうちは無理かなぁ」なんて思い始めてるんですが、そんなこと言ってたら機会を逸してしまいそうでね。

この本で思ったんです。「保存食なら、私が死んだ後も誰かが食べるかも」って。

著者の井澤由美子さんのお宅の地下には、祖母や父母が作ったものが眠ってるっていうんですね。なんだろう、祖母が作ったものって。梅干しかなぁ。梅酒かなぁ。

私が死んだあと、孫が「おじいちゃんの作った***」とかって喜んでくれるんならうれしいなあ。

よし、やろう。梅酒はすでに連れ合いが取り組んでいる。連れ合いの作る梅ジュース、しそジュースは、孫のお気に入りだ。梅ジャム。これもダメだ。連れ合いがやりそうだ。それにジャム系は、ずっと甘いもの嫌いで通してきたこともあって、いまさら寝返れない。最近、甘いものに目覚めたとは言っても、猫が油を舐めるように、夜中にこそこそ・・・。

ザワークラウト、みょうがの酢づけ、ピクルス・・・。漬物は前からやってるけど、死んでから何年もたって、「おじいちゃんの作った糠漬け」って、食わないよね。

やっぱり梅干しかなぁ。

そう言えば、高校の時、菅沼って友人がいて、彼の父親が作った果実酒を飲ませてもらったことがあった。中でも、“ぼけ”の実で作ったのがいい味だったなぁ。“ぼけ”ってどんなだろう。調べて、山で探してみるかな。・・・それがいいかも。




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テーマ : 料理の本
ジャンル : 本・雑誌

『死者と先祖の話』 山折哲雄

《マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや》

寺山修二は1935(昭和10)年生まれで、お父さんはセレベス島で戦死されているんだそうです。この歌を詠んだのは、寺山さんが23歳の時、昭和33年ですね。私が生まれるちょっと前だな。

この本の著者、山折哲雄さんは1931(昭和6)年で、27歳で寺山さんのこの歌に出合ってるんですね。心の震えるような衝撃を受けたそうです。

私の父は1928(昭和3)年の生まれで、終戦の年はまだ16歳、12月の誕生日で17歳ですね。父の親友の奥田さんは17歳をの誕生日を期に志願してたそうです。父もそんな気が合ったかも。祖父と大喧嘩になったってことは聞いたことがあるような、ないような。いずれにしろ、自分は遠くない将来に戦争で死ぬとは思っていたでしょうね。

そういう思いを抱いていた人は、たとえば実際に戦死した寺山さんのお父さんは、《身捨つるほどの祖国はありや》と考えることがあったでしょうか。

山折さんの衝撃は、「祖国のために犠牲になることがお前にできるのか」という問いとして受け止めたところからくるものだったようです。

私は寺山さんの歌を違うように理解していたんだけどな。
敗戦による占領と、戦勝国の都合による戦争観のお仕着せによって、戦後の日本は本当に向き合うべきものと向き合わないまま来てしまいました。その上、史上まれな経済成長を遂げたことで、向き合うべきものに向き合わずに来てしまったという思いすら、置き去りにしてしまいましたね。

官民合わせて、310万人もの日本人が死んだっていうのにね。

『死者と先祖の話』    山折哲雄

KADOKAWA  ¥ 1,728

無葬無墓・散骨葬・寺院消滅・脱宗教…死を棚上げにしたまま肥大化する社会現象
第一章  戦後と東北
第二章  英霊と鎮魂
第三章  供養と骨
第四章  折口と柳田
第五章  往生と看取り
第六章  死と生

死者は何も語りません。それ以上に責められることはないが、かと言って慰めてくれるわけでもないですね。近しい人をなくして悲嘆にくれる人を慰めるのは、亡くなった人ではなくて、同じ悲しみを知っている隣人。生きた人ですね。

著者は、「挽歌とは、生き残った者たちが、同じ生き残った者たちに向けて差し出す悲しみと慰めの歌だった」と言っているのですが、それはよくわかりますね。

私の祖母や母は六三さまに通じるなにがしかの技量を受け継いでいて、とくに祖母は霊感の強い人でした。私も祖母と一緒にいるといろいろなものを見ました。私がそれらを見なくなったのは、あの家を出てからで、私は祖母から離れたからだと思っています。

その祖母が言っていたのは、ご先祖さまっていうのは、けっこう近くで子孫のことを見ているんだということだった。「だからわりーこたぁするもんじゃあねぇんだでぇ」と私を戒めていました。でも私は聞かない子でしたので、良く納屋に閉じ込められました。自分の鼻先さえ見えない暗闇で、私はご先祖様を身近に感じたものでした。

本書に、柳田国男が『祖先の話』に書いた日本人の霊魂観の四つの特質が紹介されています。
  1. 人間は死んでも、その霊はこの国の中にとどまって、遠くには行かない
  2. この世とあの世の交通が繁く、単に春秋の祭りだけではなく、いつでも招き招かれる関係にある
  3. 死に臨む人間の今わの際の念願は、必ず死後には達成されると信じられていた
  4. 人は再び三たび生まれ変わって、同じ事業を続けるものと信じられていた
祖母は、まさにそういう信仰の中にいたような気がします。

六三さまに通じるなにがしかの技量は、私の生家の惣領の嫁に伝えられるものでした。生まれつき足が悪くみんなから哀れまれている私が実は嘘つきな悪い子だと見破っていた聡明な母は、その俗信を自分の代で終わりにしました。長男に嫁いできた兄嫁は、それをわたしの母から受け継ぎませんでした。つくづく聡明な母ですが、今になると「俗信の中にこそ大事な何かがあったのかな」なんて思ったりしています。
“死”に変わりはないのですが、戦争で死んだ310万人の日本人の中には、ずいぶんとひどい死に方をした人がたくさんいます。男の人も、それから女の人もですね。

もう一度、やはりもう一度、日本人が自ら向き合う人用があるんだと思います。

《身捨つるほどの祖国はありや》と寺山さん問いかけた昭和33年。彼の父が“身を捨てた”ほどの祖国は、少なくとも寺山さんはそれに確信を持つことはできなかったんでしょうね。




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ヤマト建国『大伴氏の正体』 関裕二

三輪山麓の扇状地にある纏向遺跡。こここそがヤマト建国の地。ヤマトは様々な場所から人々が集まってできたわけですね。様々な土器が発見されることでそれが分かったわけです。発見される土器の割合は、・・・。

《東海40%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%》

しかし、日本書紀はそれをゆがめています。日本書紀は、「大和の王は南部九州からやってきた」としか言っていないですからね。“ゆがめている”のではなく、“無視している”と言った方が適切でしょうか。

纏向に持ち寄られたのは土器だけじゃありません。埋葬文化も各地から持ち寄られてます。いろいろな埋葬方法が寄せ集められて、前方後円墳が誕生するんですね。3世紀後半から4世紀にかけて前方後円墳は完成し、土器や埋葬方法を持ち寄った各地に伝播していき、埋葬文化を共有するゆるやかな連合体が生まれていきます。

ヤマト建国である。

『大伴氏の正体』    関裕二

河出書房新社  1,836

祭祀王の神武は祟る神の末裔であり、その鬼を支え続けた氏族こそ、大伴氏だった
第一章  誇り高き大伴氏
第二章  大伴氏と天皇家 強い絆の理由
第三章  大伴氏と雄略天皇
第四章  長屋王の変と大伴旅人
第五章  大伴家持と早良親王

かつて列島の人々は、海を渡り、朝鮮半島南部の鉄を求めていました。鉄は、農業生産力を飛躍的に向上させます。だから敵には回せません。朝鮮半島から入ってくる鉄は、北九州を潤します。奴国や、伊都国と言う名前が出てくるわけですね。北九州は東からの攻撃に弱い。だから出雲と組んで東への鉄の流通を制限するわけですね。

ところが、日本海側で出雲と対立した但馬と丹波が独自のルートで鉄を手に入れ、それを近江や東海に流し始めてしまいます。これらの地域は急激に成長し、交流が盛んになり、やがて天然の要害であるヤマトに人々が集まり、出雲から鉄の供給を受けていた吉備も出雲を見限ってヤマトに合流してしまいます。

さらにヤマトは、大分県日田市の環濠集落を構築しています。小迫辻原遺跡からは畿内と山陰の土器が発見されているそうです。日田は西からの攻撃に強く、そこから北九州沿岸地帯へは筑後川で一気に下れる場所にあるわけですね。

だから北九州は、日田をおさえられた時点でヤマトに降るしかなくなります。20140826180801278_20180222110900b17.png

△が高良山。◯が山門。

博多から壱岐、対馬、朝鮮と、一直線。繁栄する博多の背景に大宰府があって筑紫野の狭隘。しかし、地図だと一目瞭然ね。高良山を抑えられれば九州北部は手も足も出ないですね。

山門はヤマトと読む。ここを抑えれば北九州は手を出せないわけですね。さらに△の東を見てください。日田があります。ヤマト対ヤマト。ここに邪馬台国が絡んできますね。邪馬台国の卑弥呼は狗奴国との戦いで死んでますね。で、その後の混乱のあとに台与が立って収まりますよね。ヤマトを倒したヤマトにも「トヨ」って女がいるんですね。神功皇后。

謎が謎を呼びますね。

まだ読み始めなんだけど、面白すぎて、ついつい取り止めのないことを・・・。すみません。




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西吾野~高山不動奥の院~顔振峠~越上山~スカリ山~高麗

2月17日地図
2月17日の土曜日に、ほぼ上の地図通り、西吾野から高山不動奥の院に登って、奥武蔵の稜線を歩いて高麗駅に下りるコースを歩いてきました。次の土曜日は、一緒に連れてってくれと言う人がいるし、その次の土曜日は高校生たちを連れて行きます。・・・やっぱり一人で歩くのは、・・・いいなぁ。
山を再開して1年。思い切って長めのコースを歩いてみることにしました。朝、7時に歩きだせるように準備して、西吾野駅着が6時59分。一人の方と、二人の方が同じ方向に歩きだしました。

どうも、歳をとっても、どこからか競争心が出てきてしまう私。若いころはいい気になっていたけど、再開してからはそれが原因でへばることばかり。
2月17日 (1)
 ここがパノラマコースの上り口。先行してた一人の方は影も形もなし。二人の方は道を確認して地図を見ておられたので、私が先行。でも、あっという間に抜いて行かれました。

この道、しばらくすると、急な登りになります。その分、“パノラマ”なわけですね。
2月17日 (2)
事実、振り返ればパノラマが広がってます。写真はないけど、伊豆が岳から子の権現、あるいはスルギ尾根あたりでしょうか。


急な登りが終わるのがここのお地蔵さまのところ。パノラマコース登り口より少し先から登る道と合流します。

ここから高山不動までは比較的平坦な道が続きます。
2月17日 (3)
高山不動に寄るのはやめにしました。一人歩きの気軽なところで、若いころにも高山不動の三滝には行ったことがなかったので、尾根筋をいったん北側に下ります。だったら、三滝を経て尾根に上がる道を来ればよかったのにね。2月17日 (4)
三滝周辺の集落です。景色良いですね。中央の杉の左手が伊豆が岳、さらに左が古御岳かな。大滝はもう少し下らなければならないようなので、今回は不動滝と白滝だけ見に行きます。2月17日 (5)
2月17日 (7)2月17日 (6)
2月17日 (8)2月17日 (9)
左上は不動滝のしめ縄。右上と左下が不動滝。残念ながら水量が少なくて、ちょろちょろと言った感じ。かなりの岩盤ですから、水量が多ければ迫力ありそうですね。時期的なものなのか、それともこんなものなのか。もう一度くる必要がありそう。

右下は白滝。こちらももう少し水が多ければ、より一層魅力も高まりそう。やはり大滝と含めて、もう一度来よう。不動滝と白滝は、沢そのものが違うので、けっこう登り下りを繰り返します。どうぞ、そのつもりで・・・。ああ、尾根まで登り返すのか。
ゼイゼイ言いながら登り返して、いったん奥武蔵グリーンラインに出て、ここが奥の院の入り口、関八州見晴台って言って方が、分かりがいいか?

ゼイゼイは、山を再開してはっきり自覚するようになった。肺気腫だな。タバコのせいか。子どものころ、石綿を作ってた父の働く工場で遊んだせいか。その両方か。・・・タバコは30年吸っちゃいましたからね
2月17日 (10)
奥の院からの武甲山。ああ、涙が出そう。あの石灰岩をけずってる北側斜面のふもとが、私の生まれたところです。両神とのそろい踏みですからね。

のんびりしたいところだけど、滝で1時間以上余分に時間を使っちゃって、この時点で10時半が近い。早々に先に向かいます。
2月17日 (11)
奥の院から花立松ノ峠にかけての下りは、ほぼアイスバーン。アイゼンだそうかなと思ったけど、ここから南はおそらく大丈夫だろうと、峠まで様子を見ることにする。・・・正解。

傘杉峠は11時を回っていて腹がへっていたけど、良い場所がない。シリアルと水でもたせて、顔振峠の見晴らしを目指した。

ということで、写真は顔振峠の見晴らしの雨乞塚。すぐ、ラーメン。

気がつけば、向こうは堂平山。天文台が肉眼ではっきり。
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2月17日 (13)2月17日 (14)
左は諏訪神社。山の上にしては拝殿も立派。トイレもあって大助かり。右の写真は、越上山に向かい途中、ここからスカイツリーが見えるっていうんだけど、・・・残念!
と言うことで、越上山山頂。ルート上からのピストンになる。往復20分はかかる。この日は、先も長いし、山頂はカットしようと思ってたんだけど、心の中のいいカッコしいがつぶやくんです。

そんなんでいいのか、弱虫め!・・・勘弁してよ。
2月17日 (15)
2月17日 (16)2月17日 (17)
越上山以降は、だいぶ足がきつくなる。やっぱり、高山不動の滝に行くのに、下って登り、登って下りを繰り返したのが、後半になって効いてきた。「東吾野駅に下りて、電車で高麗駅まで行こうかな」なんて考え始める。・・・高麗駅に車を置いてるもんで。

でも、スカリ山を楽しみにしてましたからね。ようやく後半のハイライト、楽しみにしてたスカリ山のガレ場にかかる。「ここだけ慎重に越えれば、あとはヘロヘロになっても歩くだけ」って声が神に聞こえたのか、突然天がお怒りに・・・。

ガレ場の登りにかかってすぐ、突然の突風。「まさかまさか」って、木につかまって登るうち、風は強まる一方。頭上を前線でも通過してるのか。見上げるも、空は晴れている。風下の斜面の西側に回り込んだところで、ヤッケ着こんで、帽子のあごひもを結んで上を目指す。左の写真は手前からのピーク。右はピークから東の方向を取ったもの。向こうの怪しい黄土色の空の感じが、この写真からはまったく伝わらない。

下りにかかると早い。グリーンラインに出て「ほっ」とか思ったら、風が弱まってる。振り返って、手を合わせておきました。
北向き地蔵に到着。スマホの地図を見ると、もう20kmを越えていました。その数字に、疲れが増したような気がしました。ここから五常の滝はパス。そのまま、尾根伝いに高麗駅方面に下りました。この道は初めての道でした。地図では破線の道ですが、決してわかりずらい道じゃありません。2月17日 (18)
高麗駅となりのパーキングに戻ったのはちょうど4時くらい。久しぶりに疲れました。1年前に山を再開したころは、半日歩いて、そういう状態になっていたから、このくらいの距離を何度かやれば、体が慣れてくれるかな。・・・翌日、そんなことを思いながら、きしむ体を休めてました。 




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『里山さんぽ 植物図鑑』 宮内泰之

また、買ってしまった。・・・と言って、後悔しているわけじゃあないんです。どちらかと言えば、「今年こそ、この本で、少しは草花の名前を覚えるぞ」と、意欲に燃えているんです。

ただ、去年の今ごろも、そんなことを考えていて、同じような本を買ったことも事実なんです。そして、ほとんど何一つ、新しく覚えた花はないんです。

でも、春先のちょうど今頃、梅が咲きだそうかって頃になると、里山だとか、河原の土手だとかに出かけたくなるんですよね。そこで愛らしい花を見つけたりすると、この年になってもその花の名前を知らない自分が、どうしようもなく情けなくなるんですよね。そこで、こういう本に手を出すことになるわけです。

同じことの繰り返し?

それが違うんです。今年の私は少し違うんです。

今までの私は、その名前を知って、できれば食ってやろうと、・・・食おうとしてたんですね。だから選ぶ本も、自然と『おいしく食べる山菜・野草』とか、『食べる野草図鑑』とかに傾いていたわけです。今年の私は、その思いを捨てます。「食おう」としない。

里山や河原の土手を歩いていて、「ああ、お前の名前は・・・だね」と、「昔の名前で出ているんだね」と、純な気持ちで語りかけようと思っているわけです。



成美堂出版  ¥ 1,512

芽吹いたばかりの植物が、やがて花をつけ、さらには実を結ぶ 何度も足を運ぼう
植物の基本
草花図鑑
樹木図鑑
里山さんぽに出かけよう


素人には、豊富な写真は絶対必要。だけど、それだけじゃあないんだよね。土の質や、日当たり、他の植生によっても、茎の長さや花の大きさ、それから色なんかも微妙に違ってきますよね。だから、写真で見ると、同じものとは思えないような場合もある。

その点、この本には、花や葉の見た目だけじゃなくて、その草花の特徴的な部分をイラストで紹介しているんですよね。たとえば、カラスノエンドウの種のつき方。ヘビイチゴの表面のぶつぶつ。ユキノシタの根の伸ばし方。ツユキサの花の構造。そういうのがイラストで描かれてるから、観察さえすれば間違えようはない。・・・たぶん。

この間、川原の土手を歩いていて、オオイヌノフグリが咲いているのを見つけた。その日はほんの二輪だったものが、二日後に同じ場所を通るとたくさん咲いていて、とてもうれしかった。本当に、種子の形がワンコのタマタマの見た目に似ているから、そういう名前がついたんだって。ワンコの“フグリ”がイラスト化されているのがおかしい。

樹木の方は、いったん覚えてしまえば、その場所を動くことはないですからね。それだけに、毎年決まった季節にその花や実二であえるのは、とっても嬉しいものですよね。

逆に、去年まではあったはずのものが、今年はなくなっていたりすると悲しい。昨年、かつてあったはずの場所にネコヤナギがなくてとても悲しい思いをした。春先に、川っぺりでネコヤナギの冬芽にであえると、なんか暖かそうでね。嬉しくなるのにね。

じっくり見ておいて、今日も河原の土手を歩いてみよう。もしかしたら、昨日は見つからなかった春の気配に触れられるかもしれない。ついでに、そろそろ土筆だの、フキノトウだの、食えるものが出てくるかもしれない。・・・ついで、ついでですよ。




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葬れない社会『死者と先祖の話』 山折哲雄

私の父母は兄弟が多く、私にはたくさんの伯父伯母、叔父叔母がいました。父は長男で本家を継ぎ、私はその家の三男、末っ子として生まれました。子どものころから足が悪く、何とか治ったものの、父母、祖父母、たくさんの伯父伯母、叔父叔母たちにとって私は、いつまでたっても“足の悪い不憫な子”だったようです。

可愛がられましたが、どっか味噌っかすだったんですね。

私自身それに甘えるところがあって、気持ちの上で、いつまでたっても大人になり切れない部分を抱えていました。もともとの精神的な部分も多分にあったように思いますが・・・。

いろいろな問題を抱えた“家”でしたが、いろいろな感情を持った家族や親類縁者であっても、誰もかれも、私のことは、みんな可愛がってくれてました。

誰もかれも、とは言わない者の、家族や親類縁者の多くが、私に家族や親類縁者のかげ口をききましたが、私はそのたびに悲しくなるものの、なすすべなく聞き流すだけでした。

高校のころに、祖父が寝たきりになりました。可愛がってくれた祖父がだんだん弱っていくのを見るのが、私が死を意識した始まりだと思います。

しかし、高校卒業とともに、都内で学生生活を送るため、いろいろな感情を引きちぎるように家を出ました。祖父が亡くなったのは、それから4年後です。その間、祖母や母、そして父は、いろいろな行き違いを抱えながら祖父の面倒を見ていました。

私は、大人になんかなれっこない。・・・そう思いました。


『死者と先祖の話』    山折哲雄

KADOKAWA  ¥ 1,728

無葬無墓・散骨葬・寺院消滅・脱宗教…死を棚上げにしたまま肥大化する社会現象
第一章  戦後と東北
第二章  英霊と鎮魂
第三章  供養と骨
第四章  折口と柳田
第五章  往生と看取り
第六章  死と生


そのあと、祖母が死に、母が死に、父が死んだのは、私が45歳の時でした。その前後からは、たくさんの伯父伯母、叔父叔母たちが、時には順番を間違えてなくなっていきました。

同居していた連れ合いの母が亡くなったのは私の父が亡くなる1年前でした。そして昨年末、とは言っても、ほんの二か月前ですが、連れ合いの父が亡くなりました。生きていれば、今年の2月4日で90歳を迎えようという長寿を全うしてのことでした。

父は複雑な幼年期を過ごしており、空襲された東京の空の下を、炎にまかれながら逃げまどい、清澄庭園の池に飛び込んで九死に一生を得たのが18歳の時です。その後、転変を経て連れ合いの母と結婚して娘をもうけ、東芝の工場に勤務して家族を支え、そのまま定年を迎えて、娘夫婦と同居することになった人でした。

縁者がないわけではないのですが、葬儀に参列できるような状況の人はなく、一人娘の連れ合いと私、それから私たちの子どもと孫で見送りました。私の兄たちには、私が丁重に話を通しました。通夜の晩に父の弟が、都内の自宅から自分の息子に伴われて突然現れたのは、私たちにとってはハプニングでした。なにしろ、認知症が進んでいて、とても参列できないと言っていたのですから。

通夜の晩、ご自宅に連絡すると、他のご家族の知らないうちに出掛けてしまったらしく、翌日の告別式にはいらっしゃいませんでした。告別式で父を見送ったのは、連れ合いと私、娘と娘婿、幼い孫が二人、息子の7人でした。いずれにせよ、連れ合いと私、双方の両親すべてを見送りました。・・・つぎは、私たちの順番と言うことですね。

家族葬・直葬・樹木葬・散骨葬・遺骨漂流・無墓時代・寺院消滅

亡くなった方の見送り方には形というものがあって、それを知らないということは、大人として恥ずかしいことでした。だから、それを知っている大人が教えてくれました。それが親類縁者であり、地域の付き合いでもありました。それを通すということが、他者とともに“生きる”ことにつながっていました。

無くしたもの何なのかは、はっきりしています。残っているのは、大人になることを拒否できる社会ということでしょうか。・・・私にぴったりですね。




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『逆説の日本史23 明治揺籃編』 井沢元彦

『逆説の日本史』も23巻。『逆説の日本史』を読むたびに思うことだけど、一人の人間が日本史を古代から現代まで通して検証し直して通史を書くということは、通常、考えないですよね。考えっこない。だって、それが5年や10年でできるとは思わないだろうし、間違いなく人生をかけた仕事になるでしょう。集中砲火を浴びて途中でめげてしまったり、身体を壊して変に中途半端でやめることになれば、人生そのものに汚点を残すことになりますよね。・・・生きるか、死ぬかって問題だってことですよね。

井沢さんが週刊ポストに書き始めたのが1992年。第1巻が単行本になって刊行されたのが1993年。23巻が出たのが2017年だから、第1巻から第23巻までに24年かかってることになります。

私は33歳の時に第1巻を読んでるんですね。奇しくも、ちょうど、足のせいで山をやめる頃ですね。・・・そうかあ、あの頃第1巻を読んだのか。そう思うと、何だかやけに感慨深い。

井沢さんが週刊ポストに書き始めたのは、井沢さんが38歳あたりのはず。38歳の男が自分の残りの人生を日本史の通史を書き上げることに賭けるってのは、ちっとやそっとのことじゃあない。あるはずがありません。

そして大事なことは、24年後の今日、おそらく井沢さんは今、・・・62歳か63歳ですよね。その年になった今日においても、その挑戦は、いまだ道半ばということですよね。

私もいい歳になってしまって、悲しいことの一つは、好きな作家が死んでしまうこと。その人の書いたものをもう読めないのかと思うことは、手前勝手な発想で申し訳ないけど、そのたびにある種の絶望感を味わう。そして、「ああ、まだあの人が残ってる」って思い直して、勇気づけられる。

中でも、井沢さん、ここまで書いておいて、・・・お願いです。死なないで・・・。



小学館  ¥ 1,728

木戸孝允が病死し、西郷隆盛が戦死し、大久保利通が凶刃に倒れた。そして、日本の近代が始まる
第1章 近現代史を考察するための序論 近現代史を歪める人々
第2章 大日本帝国の構築1 琉球処分と初期日本外交
第3章 大日本帝国の構築2 廃仏毀釈と宗教の整備

数年前から、『逆説の日本史』の新しい巻が出るたびに、上記のような不謹慎なことを考えている私です。お恥ずかしい。・・・でも、御同様の方もきっといらっしゃるでしょう。

井沢さんは、西南戦争という出来事を一つの大きな境にして、それ以前を近代以前と捉えていたということです。たしかに、色濃く引きずってきた江戸時代と、この西南戦争をもって決別していくわけですよね。ちょうど、維新の三傑と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が、この西南戦争と期を同じくして亡くなり、日本の行く末は明治維新の立役者から後続の者たちへと引き継がれていった時期に重なります。

そう言った意味で、この第23巻は、これまでの巻とはちょっと装いの違う書き方がされています。上の目次を見てもらえば分かる通り、この本の主題は第2章の『大日本帝国の構築1 琉球処分と初期日本外交』と第3章の『大日本帝国の構築2 廃仏毀釈と宗教の整備』の二つの柱です。

では、『近現代史を考察するための序論 近現代史をゆがめる人々』という第1章は、なぜそこに挿入されているのか。ということが問題になりますね。

高校の日本史に関してよく言われることに、「応仁の乱によって新しい歴史が始まっているのであるから、現代を理解するためであるなら、応仁の乱以前の歴史を学ぶ必要はない」ということがあります。たしかに、応仁の乱やそれに前後する激動によって、日本は身分なり、制度なりが、一度シャッフルされたようなところがあって、トランプのカードを配り直したような感じがある。だけど、シャッフルしてカードを配り直しても、ゲームのルール自体は変わっていないんですね。どうしてそういうルールができたかは、その前の歴史を見て行かないと分からないわけです。

ところが、そのルールが変わったんですね。それが、おそらくこの第23巻ということなんだと思います。そして、この第1章は、新しいルールに変わって新しく始まった日本史の“序文”にあたっている章だと考えればいいんだと思います。

さてその新しいルール。ここでも、あのチャイナ生まれのあの思想が、きわめて重要な役割を果たすことになるんですね。

つくづく、日本は東アジアの一国なんですね。いくら福沢諭吉が“脱亜論”を叫んでも・・・。




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『楽しい川遊び』 伊藤匠

このNEW OUTDOOR HANDBOOKのシリーズは面白そうですね。ちょっと前に『焚き火の達人』っていうのを読んで面白くてね。そしたら、もっと前に出た本の中に『楽しい川遊び』というのがあることを知って、買ってみました。

川遊びは、子どものころから大好きです。私が生まれた家からほんの30mほどのところに押掘川という川が流れていて、子どものころはきれいな川でした。その後、あちこちの川と同じ運命をたどることになります。そのことも書いてありました。川の壁をブロックで固めて生活排水を流したんですよ。あぶくが浮いて、水がよどんでね。いやだったな~。

監修の伊藤匠さんは、「日本は川天国」って言います。「日本人ほど川の恩恵を受けてきた民族はいない」って。たしかにそうですね。でも、高度経済成長期に、日本人にとっての川って、その存在価値が変わっちゃったんだよね。経済性や効率ばかりが優先されて、河川改修ってなのもとにただの排水路になっちゃった。それもだいぶ見直されて来たみたい。最近、また水自体はきれいになってきているみたいですね。

その川は武甲山から流れてくる川で、よく遊んでました。ゲンゴロウだの、タガメだの、めずらしいという意識すらなかったですね。水の中を泳ぐネズミのような動物も見たことがあって、人に言っても信じてもらえなくて困りました。

小学校3年の時に、一人で遊んでいて岩場から落ちて大けがをしました。なにしろ顔から落ちて上前歯全滅でした。死んでてもおかしくなかったですね。

小学校の高学年からは浦山川まで足を運んだ。浦山川と荒川のぶつかりが格好の遊び場で、夏場は多くに人でにぎわってましたね。家族の夕飯のおかずになるくらいの魚はつって帰ったですね。


『楽しい川遊び』    伊藤匠

地球丸  ¥ 648

川は、遊んでいいところ 魚を追いかけ、潜って、飛び込んで、流されていいところ
第1章 川は最も身近な「遊び場」
第2章 川のことを知ろう
第3章 川に入って遊ぶ
第4章 水辺の生きものの捕獲・観察・飼育
第5章 CWPが選ぶ「全国の遊べる川25」


Q1 川で遊ぶのに許可はいる?
Q2 立ち入りが制限されている川もある?
Q3 川にボートやカヌーを浮かべても大丈夫?
Q4 川で釣りをするのに許可はいる?
Q5 釣り以外の方法で魚を捕まえるのに許可はいる?
Q6 魚以外の生きものは自由に捕まえていい?
Q7 外来種の生きものを捕まえたら?
Q8 川原や河川敷でのキャンプやBBQに許可はいる?
Q9 透明な水はきれいで、濁っていると汚いの?

《第2章 川のことを知ろう》の最初にこんなQ&Aがあります。すごいですね。本当に川から遠ざけられちゃってたんですね。私は子どもが川から遠ざけられるずっと前の世代だから、川を見るとウズウズを止められない方ですね。だから、大けがもしたわけですけどね。

自分の子どもにも川遊びさせたけど、ちょっと遠慮気味だったなぁ。もっとやらせてもよかったなぁ。子供の頃の押堀川だの、浦山川だのと、きれいな川の記憶が頭にありすぎて、きれいな川を求めて遠出をする羽目になりました。川に行くこと自体が一仕事になってたんですね。だから、たまにしか子どもを川で遊ばせられなかった。近くの川に目を向けるべきだったなぁ。反省だなぁ。

反省しつつ、還暦近いジジイではあるが、近くの川に遊びに行ってみよう。

「川で遊んでもいいの?」っていう人がいたら、ぜひこの本を手にとってほしいな。そして、本書にも紹介のある、埼玉県の都幾川あたりの河原でお会いしませんか。




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この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本








































































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