『兵隊先生 沖縄戦、ある敗残兵の記録』 松本仁一
![]() | 兵隊先生 沖縄戦、ある敗残兵の記録 (2012/03/16) 松本 仁一 商品詳細を見る |
昭和十九年七月、陸軍航空隊の整備兵で合った松本康夫は、沖縄県読谷に移動した。九九式双発軽爆撃機の部隊であった。九月になると、部隊は台湾への移動を命じられた。九九式双軽で先発した部隊を追って、整備兵は輸送船で移動することになっていた。しかし、予定の輸送船が、米潜水艦に沈められ、康夫たち整備兵は、本来の役割をはたすことも出来ず、沖縄戦を迎える。米軍による沖縄攻撃は、昭和二十年三月の下旬に始まった。
四月に入り、米軍の上陸がはじまると、康夫たちを吸収していた部隊は瞬く間に分断された。以来、康夫は山野をさまよった。幾つもの偶然で生き残り、沖縄県民の温情を受けて沖縄県民として捕虜生活に入り、傷を癒す。日本軍と、巻き込まれた沖縄県民が南部に追い込まれていく時期、康夫は、米軍の意を受けて設立された小学校の教師となり、周囲の人々の信頼を得る。
やがて、日本兵であったことが米軍にも知れ、康夫は本土に送還され、沖縄は本土から切り離される。将来を約束した女性さえ残したまま・・・。
いろいろな、数限りないドラマがあったんだんだと思う。整備兵松本康夫の物語もそういったものの一つで、戦争の悲哀と、偶然に翻弄される人生と、その中でも懸命に生きようとする人々のいじらしさを感じさせられる。
「戦争中、唯一国民を巻き込む地上戦の行われた沖縄は日本本土の被害を最小限に食い止めるための犠牲であった。」今でも沖縄県民に根強く残る意見である。本書の中でも松本康夫のセリフとして同じことがいわれている。しかし、「日本本土の被害を最小限に食い止める」という事自体が、この時点では妄想でしかない。上層部は本土の人々の命を、沖縄県民の命よりも優先させるなどという意志を持っていたとは思わない。日本国民の命を奪っていたのはアメリカ軍であり、やってくるのはアメリカ軍だった。日本は為す術もなかったにすぎない。
「なぜこんな無謀な戦争を始めたのか」というのも主人公のセリフである。本書の中には、南下作戦を立案した沖縄守備軍高級参謀八原博通の「支那事変の処理に困り果てた軍指導グループが、その地位、名誉、権力などを保持し続けるため」戦争に突入したという趣旨の言葉が紹介されているが、この戦争の本質はそう簡単ではないだろう。瀬島龍三らの大バカ野郎らが許しがたいのはもちろんだが、この戦争の背景には間違い無くアメリカの意志がある。アメリカの意志と、瀬島たちの愚かさはまた別のものだ。アメリカの戦争意志を不問にして日本の責任を問題にしても、未来永劫答えは出ない。

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