日本はアメリカの属国です メモ『戦後史の正体』 孫﨑享 「戦後再発見」双書①
一九四五年六月にギャロップ社が行った天皇の扱いに関する世論調査
処刑:三三%
戦争犯罪人としての裁判:十七%
収監:十一%
国外追放:九%
無実(たんなる飾りだった):三%
対日占領政策の転換
米国の占領初期の政策で一番重要なことは、「日本がふたたび米国の脅威にならないことを確実にする」ことである(米国政策文書「降伏後における米国の初期対日方針」)。その大前提のもとに、「日本の軍事力を支えた経済的基礎〈工業施設など〉は破壊され、再建は許されない」、「日本の生活水準を、日本が侵略した国々の生活水準よりも高くないようにしておく」などという考えがあった。
一九四八年、それが変更される。
一九四八年一月六日に行われた米国のロイヤル陸軍長官の演説(要旨)
冷戦の始まり
寺崎太郎…一九四六年五月に第一次吉田内閣で外務次官となる。吉田首相と衝突し、翌四七年二月に自ら辞職。後任は‘追随派’の岡崎勝男。
『日本にあったのはただ混乱と虚脱。そして軍事法廷での宣告と処刑。その後は政府部内に卑屈な迎合の徒の何と多かったことか。』
『「日本政府」なるものがあったのは、「日本政府」をおいたほうが連合国にとって、日本を占領するのに都合がいいと判断し、その存在を許したからにすぎない。』
『占領下の日本に厳格な意味における主権などというものが存在したであろうか。日本の自由は完全に縛られていたのである。』
大野勝己…一九五七年外務次官
『占領軍は日本に指令を出し、一切の外国との接触を禁止すると命じてきた。それからずいぶん長い時間が経過した。その結果、すべてのことが占領軍まかせになった。日本の政治家も官僚も、外国とは占領軍を相手とした渉外事務にすぎないという程度の認識しかもてなくなったのである』
『日米安全保障体制を金科玉条として、万事アメリカにおうかがいをたてる、アメリカの顔色を見て態度を決めるという文字どおりの対米追随的態度は、日本人のなかにしっかりと定着したのである』
『その結果、外交に必要な外交感覚などということは影をひそめてしまった。要は占領軍当局への従属関係あるいは服従関係をいかにうまく進められるか、できるだけ占領軍のよい子になろうということが、すなわち外交だというように考えられるようになり、それが一般化してしまった。ここでは外交の経綸などというものは片鱗だに見られなかったことはいうまでもない。日本は独立の地位を回復したが、急に外交感覚を取り戻せといったところで、長い惰性が働いているからそれもなかなか無理であって、あいもかわらず占領軍の中枢勢力であるアメリカまかせの姿勢がつづいたのである。ひとたび自主独立の精神を喪失すると、再びとりもどすのがいかに難しいか思い知らされたものである』
占領期の対日援助と駐留経費負担
対日援助額は、一九四六年から一九五一年までの累計で十八億ドル。日本は、アメリカとの交渉の上で、一九六二年に約五億ドルの返済協定に調印。
一九四六年から一九五一年までの間に日本が米軍に払った駐留経費は、約五〇〇〇億円。各年の駐留経費をドルに換算して足すと、少なめに見積もっても約五〇億ドル。
一九五六年の日ソ交渉
重光葵外相は、日ソ国交回復を成功させるためには「択捉、国後の放棄もやむを得ない」と判断する。北海道の一部である歯舞、色丹については譲らず「千島列島」に含まれる択捉、国後についてはあきらめることにした。
この日本の方針に対し、ダレス国務長官が重光外相に圧力をかけた。「もし日本が国後、択捉をソ連に渡したら、沖縄をアメリカの領土とする」と猛烈に脅してきた。さらに谷駐米大使に対しては「サンフランシスコ講和条約の締約国は、条件によって与えられた一切の権利を留保するだろう」と圧力をかけた。アメリカは、ソ連と日本の間で、領土問題が解決されることを、何よりも嫌がったのである。
ロシアとの間の北方領土、韓国との間の竹島、支那との尖閣諸島といった領土問題が今日まで残されたのは偶然ではない。アメリカに意図的に仕組まれている面がある。
※サンフランシスコ講和条約では「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とされている。現在の日本は、五六年当時とは違い、択捉、国後を千島列島とせず、北海道に付属すると主張している。
「アメリカにとっての死活的脅威は何か」
一九九一年、シカゴ外交評議会が行ったアンケート
処刑:三三%
戦争犯罪人としての裁判:十七%
収監:十一%
国外追放:九%
無実(たんなる飾りだった):三%
対日占領政策の転換
米国の占領初期の政策で一番重要なことは、「日本がふたたび米国の脅威にならないことを確実にする」ことである(米国政策文書「降伏後における米国の初期対日方針」)。その大前提のもとに、「日本の軍事力を支えた経済的基礎〈工業施設など〉は破壊され、再建は許されない」、「日本の生活水準を、日本が侵略した国々の生活水準よりも高くないようにしておく」などという考えがあった。
一九四八年、それが変更される。
一九四八年一月六日に行われた米国のロイヤル陸軍長官の演説(要旨)
- 多くのアメリカ市民にとって、ドイツと日本に対する勝利に関して、失望していることがあります。それはわれわれの占領経費〈が高額になっているということ〉です。
- 占領の第一の目的は、一九三〇年~三四年の十八%のレベルでした。四七年でもまだ四〇%にしか回復していません。
- 日本で大量生産が再開されない限り、物資の不足が続くでしょう。
- 日本の占領においては、将来極東で起こるかもしれない全体主義との戦争に対し、日本が抑止力として貢献することができるよう、自給自足の民主主義を作ることが目的です。
冷戦の始まり
- 鉄のカーテン演説:一九四六年三月、英国の前首相チャーチルが、共産主義勢力によって「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」と警告する演説を行った。
- トルーマン・ドクトリンの発表:一九四七年三月、トルーマン大統領は共産主義勢力と戦うギリシャ、トルコの両政府を支援する声明を発表。トルーマン大統領はこのドクトリンを次のように説明。『〈この宣言は〉共産党の暴政に対する米国の回答であった。どこに侵略があっても、直接、間接を問わず平和が脅威を受ける場合には、米国の国防に関わるものとみなすと宣言したのだった(トルーマン回顧録)』・・・これによって米国は、共産主義勢力の拡大と戦う姿勢を打ち出す。
- マーシャル・プランの発表:一九四七年六月、マーシャル国務長官は、米国がヨーロッパに対して大規模な復興援助をあたえる用意があることを表明する。西欧諸国はこれに応じるが、ポーランドやチェコスロバキアなど東欧諸国は結局参加しなかった。これで東西対立が鮮明になる。東欧諸国はソ連を中心に、マーシャル・プランへの対抗策として、一九四九年にコメコン(経済相互援助会議)を設立する。
寺崎太郎…一九四六年五月に第一次吉田内閣で外務次官となる。吉田首相と衝突し、翌四七年二月に自ら辞職。後任は‘追随派’の岡崎勝男。
『日本にあったのはただ混乱と虚脱。そして軍事法廷での宣告と処刑。その後は政府部内に卑屈な迎合の徒の何と多かったことか。』
『「日本政府」なるものがあったのは、「日本政府」をおいたほうが連合国にとって、日本を占領するのに都合がいいと判断し、その存在を許したからにすぎない。』
『占領下の日本に厳格な意味における主権などというものが存在したであろうか。日本の自由は完全に縛られていたのである。』
大野勝己…一九五七年外務次官
『占領軍は日本に指令を出し、一切の外国との接触を禁止すると命じてきた。それからずいぶん長い時間が経過した。その結果、すべてのことが占領軍まかせになった。日本の政治家も官僚も、外国とは占領軍を相手とした渉外事務にすぎないという程度の認識しかもてなくなったのである』
『日米安全保障体制を金科玉条として、万事アメリカにおうかがいをたてる、アメリカの顔色を見て態度を決めるという文字どおりの対米追随的態度は、日本人のなかにしっかりと定着したのである』
『その結果、外交に必要な外交感覚などということは影をひそめてしまった。要は占領軍当局への従属関係あるいは服従関係をいかにうまく進められるか、できるだけ占領軍のよい子になろうということが、すなわち外交だというように考えられるようになり、それが一般化してしまった。ここでは外交の経綸などというものは片鱗だに見られなかったことはいうまでもない。日本は独立の地位を回復したが、急に外交感覚を取り戻せといったところで、長い惰性が働いているからそれもなかなか無理であって、あいもかわらず占領軍の中枢勢力であるアメリカまかせの姿勢がつづいたのである。ひとたび自主独立の精神を喪失すると、再びとりもどすのがいかに難しいか思い知らされたものである』
占領期の対日援助と駐留経費負担
対日援助額は、一九四六年から一九五一年までの累計で十八億ドル。日本は、アメリカとの交渉の上で、一九六二年に約五億ドルの返済協定に調印。
一九四六年から一九五一年までの間に日本が米軍に払った駐留経費は、約五〇〇〇億円。各年の駐留経費をドルに換算して足すと、少なめに見積もっても約五〇億ドル。
一九五六年の日ソ交渉
重光葵外相は、日ソ国交回復を成功させるためには「択捉、国後の放棄もやむを得ない」と判断する。北海道の一部である歯舞、色丹については譲らず「千島列島」に含まれる択捉、国後についてはあきらめることにした。
この日本の方針に対し、ダレス国務長官が重光外相に圧力をかけた。「もし日本が国後、択捉をソ連に渡したら、沖縄をアメリカの領土とする」と猛烈に脅してきた。さらに谷駐米大使に対しては「サンフランシスコ講和条約の締約国は、条件によって与えられた一切の権利を留保するだろう」と圧力をかけた。アメリカは、ソ連と日本の間で、領土問題が解決されることを、何よりも嫌がったのである。
ロシアとの間の北方領土、韓国との間の竹島、支那との尖閣諸島といった領土問題が今日まで残されたのは偶然ではない。アメリカに意図的に仕組まれている面がある。
※サンフランシスコ講和条約では「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とされている。現在の日本は、五六年当時とは違い、択捉、国後を千島列島とせず、北海道に付属すると主張している。
「アメリカにとっての死活的脅威は何か」
一九九一年、シカゴ外交評議会が行ったアンケート
米国への死活的脅威(複数回答) | 一般人 | 指導者層 |
日本の経済力 | 60% | 63% |
中国の大国化 | 40% | 16% |
ソ連の軍事力 | 33% | 20% |
欧州の経済力 | 30% | 42% |
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ジャンル : 政治・経済