『八重の桜』は受け入れがたい?
『八重の桜』の長州藩描写 山口県民は受け入れ難いの意見多し 2013.03.31 07:00 山口県下関市に住む70代女性は、長年にわたって大河ドラマの大ファンだ。特に今年の『八重の桜』は、綾瀬はるかが「孫の嫁によう似ちょる」ということもあり、楽しみにしていた。しかし、最近では、日曜夜8時のNHKにチャンネルを合わせようとするたび、気が重くなってしまう。 「まだまだ物語は始まったばっかり。それやのに、もうすっかり長州藩は悪者扱いじゃけえね。このままやったら、戊辰戦争で会津に攻め入った長州藩は、鬼のように描かれるでしょ。ちょっと見る気がせんのよね」 大人気の大河ドラマ『八重の桜』。初回視聴率は2年ぶりに20%超えを果たした。物語の舞台である福島県への貢献は相当なもの。日本銀行福島支店の試算によれば経済効果は「113億円」ともいわれており、震災からの復興に一役かっている。 このドラマは、明治維新を「敗者」である会津藩の視点から描いたものだ。 綾瀬演じる山本八重の故郷・会津藩は、旧幕府勢力の中核と見なされ、長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍の仇敵となる。 特に、長州藩との遺恨は根深い。会津藩主・松平容保が1862年から京都守護職となり、新撰組を麾下において尊王攘夷派志士たちの徹底的な取り締まりを行なう。さらに蛤御門の変では、壮絶な市街戦の末に長州藩を敗北させ、「朝敵」へと追いやる。 大政奉還、王政復古後に戊辰戦争が勃発すると、今度は会津藩が新政府軍から「賊軍」の汚名を受け、徹底的な弾圧にあう。19人の少年たちが自刃した「白虎隊の悲劇」に代表されるように、数多くの犠牲者を出した。 さらに新政府軍は会津戦争における犠牲者の埋葬を禁じたため、会津の人々は家族の遺体が野に晒され、鳥や獣に食い散らかされる悲惨な状況を目の当たりにしたとされる。 これらの遺恨はまだ根深く残っており、2007年に山口選出の安倍晋三首相(前任時)が会津若松市を訪れた際、「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語ったほどだ。 会津出身の本誌女性編集者は小さい頃から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育ったという。そんな背景もあり、『八重の桜』における長州藩の描写は、「山口県民にとっては受け入れたくないもの」(山口県萩市在住の70代男性)という意見が多い。 | 『八重の桜』描写 山口・福島県民の怒り温度差にNHKが配慮 2013.03.31 16:00 NHKで大人気の大河ドラマ『八重の桜』は、幕末の会津が舞台となっているが、戊辰戦争で会津に攻め入る長州藩が鬼のごとく描かれているため、山口県民の怒りを買っている。 その一方で、「NHKサイドは山口県には相当気を遣っている」との分析もある。山口県萩市にある萩博物館の一坂太郎・特別学芸員(幕末維新史)がいう。 「吉田松陰役の小栗旬が、ストーリーの必然性と関係なく、会津を訪れたエピソードは印象的だった。松陰が会津に行ったのは史実ですが、八重や山本覚馬に会ったかどうかは分かっていない。松陰の魅力を伝える場面をあえて作ったという気がしますね。 それに江戸の街や黒船襲来のシーンを撮るときにも萩市でロケをやっている。さしたる必要性がないのにやってきたのは、山口県からの反感を避けるためかもしれません」 もちろん山口県民の「怒り」と福島県民の「怒り」に相当な温度差があることは事実だ。1980年代には萩市が会津若松市と姉妹都市を結ぼうとしたが、会津若松市の反対で頓挫した経緯がある。 1996年に当時の萩市長が非公式に会津若松市を訪れた際も、会津若松市長は記者会見の場では握手に応じなかったといわれる。 萩市在住で「長州と会津の友好を考える会」代表の山本貞寿氏がいう。 「郷土に攻め入られた会津の方が持つ思いと、長州の人間が持つ思いとでは、重みが違うのは事実。過去の和解活動は全てうまくいっていないし、歩み寄ろうとしても会津の方には厳しいことをいわれてしまうことも多い。 細かいことを議論しようとすると、堂々巡りになってしまうので、私はあまり悪口を言い合いたくない。お互いに日本を思う気持ちがあるんだから、少しずつ歩み寄っていければいいと思うんです」 ※週刊ポスト2013年4月5日号 |
嫌な番組を見ろとは言わない。言うまでもないが、私も嫌な番組は見ない。でも、時々見ることがある。ありもしないことをあったかのように描かれてはたまらないからだ。『八重の桜』を見て腹が立つ人は見なければいいし、”そんなはずはない”という人は、自分で調べてみればいい。調べた結果、テレビ番組のほうがよっぽど穏やかに描いている場合もある。『八重の桜』は穏やかに過ぎる。
会津は長く、“賊軍”のなに甘んじた。だがそれだけではない。明治の国造りに参加した人物はいくらでもいる。山本覚馬、山川健次郎、山川捨松、西郷四郎、野口英世、柴五郎・・・(今、思いつくまま上げた)。今の日本にも、会津の文脈は生き続けている。会津は明治維新の顛末を、歴史の中で日本の発展に昇華してきた。
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1971年5月25日初版 2009年5月15日47版
血涙の辞
いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく時を過して齢すでに八十路を超えたり。
多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。粗衣老軀を包むにたり、草木余生を養うにあまる。ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、懊悩流涕やむことなし。
父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常のごとく訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余を憐れむがごとし。
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。
薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、たまたま叔父の家に仮寓せる余は、小刀を腰に帯び、戦火を逃れきたる難民の群れをかきわけつつ、豪雨の中を走りて北御山の峠にいたれば、鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
「いずれの小旦那か、いずこへ行かるるぞ、城下は見らるるとおり火焔に包まれ、郭内など入るべくもなし、引き返されよ」
と口々に諫む。そのころすでに自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、余は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむしりて泣きさけびしこと、昨日のごとく想わる。
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏する褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に筵を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなり。
悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
柴五郎は、1900年に発生した義和団の乱において、義和団の北京侵攻と清国政府の宣戦布告に際し、紫禁城東南の公使館区域に籠城した公使館付き武官の実質的指揮官として、籠城を成功に導いた人物である。解放後、欧米人からも多くの賛辞を寄せられ、その後派遣された日本軍の規律立ち、勇敢な行動とともに、日本の評価を大いに高めることになった。そしてその評価が日英同盟に結びついた。その柴五郎が、死期を迎えて血を吐く思いで綴ったのが、上記の一文である。
かたや長州はどうか。会津の苦渋に寄り添ってきたか。そういうケースも確かにあったろう。稀な美談と語られる程には・・・。維新、及び明治における長州を唾棄するつもりはない。ただ、評価することがきわめて難しいのだ。“山県有朋ではなく、山本覚馬だったらどうだったか。同じような陸軍しか出来なかったか。”考えても詮無いことだろう。それでも、今度は長州が会津に想いを寄せ、先祖の有り様を日本の発展のなかに昇華していく番だと思う。


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