『未完のファシズム: 「持たざる国」日本の運命』 片山杜秀(その二)
第一次世界大戦観戦武官の報告によれば、“肉弾によらず、兵は個人用装甲車に乗り、空には飛行機が飛び交う戦いができるようにならなければならない”と結んでおり、参謀本部も今後の戦争のあり方を理解していた。この時点において理解されていた“総力戦構想”が、なぜ第二次世界大戦における“人間そのものの消耗戦”へとつながっていったのか。それを解き明かすことがこの本の本題である。
昨日の続き
一九一九年に『歩兵操典』の改定論争が起きている。第一次世界大戦を研究した陸軍省軍事調査委員会は、次のように提案している。「大戦は歩兵戦闘における機関銃時代の到来であり、もはや一発一発狙いを定めて弾を打つ時代ではなく、機関銃を撃ちまくって弾幕を張る時代である」と。これに対して歩兵学校は「撃ちまくる弾丸が実際にはないのに、‘撃ちまくれ’とは教えられない」と異議を唱えた。「持たざる国」の実情は、一九一九年の段階で陸軍を悩ましていた。
観戦武官として東部戦線を動き回った小畑敏四郎は、日本陸軍のあり方をタンネンべルクの戦いに見出していた。タンネンブルクの戦いは、一九一四年八月ヒンデンブルグ大将が十三万五千の寡兵をもって東プロシャに侵入した五十万のロシア軍を殲滅した戦いである。『統帥綱領』は一九一四年に制定された日本陸軍の機密戦争指導マニュアルである。一九一八年、一九二一年、一九二八年と、三度改訂されているが、小畑は一九二八年の改定に関わった。小畑はこの時、一九二一年改定の文章から‘兵站’の条文をけずっている。「国家総動員の長期戦は敗北に直結する。兵站に気を配る時点で日本は敗北している。だから綱領にも無くてもいい」ということである。小畑はタンネンべルクばりの殲滅戦による短期決戦以外に、「持たざる国」が勝利する道はないと考えたのである。下士官向けの『戦闘綱要』も、一九二九年に改定されている。「寡兵による大人数の包囲殲滅は、側面攻撃により的に対応の暇を与えず迅速に奇襲する」ということです。そのためには兵の並はずれた精神力が必須であり、時には軍の政治からの‘独立不羈’すら高唱している。
日米戦争における補給なき戦闘や玉砕作戦が連想される戦い方だが、小畑は一流国の大軍と戦う能力が日本軍にはないことを前提としていた。敵が一流国の大軍であり、素質優等な軍であれば精神力や相手のすきを突いた奇襲作戦ではどうにもならない。どうにもならない相手とは戦わない。それが小畑の真意であった。「精神力と奇手奇策で勝てる相手としか戦わない。素質優等な敵とは戦争にならないように軍人と政治家がしっかり連携する」ということである。
中柴末純は、日米戦時代の日本人の死生観に最も深い影響を及ぼした思想家的軍人である。彼は、小畑らの考えは軍が内政や外交を主導できない以上無理であり、石原の考えは日本が力をつけるまで戦争と無縁でいられるかのような夢想的なものであるとはねつけた。軍人が思念し考慮すべきは、いついかなる時、いかなる相手と戦っても勝てるようにすることと考えた。‘勝てる’ことを前提としなければ、軍の存在価値はないと、彼は考えたのである。彼が‘勝てる’とした根拠が「精神力」である。
この本が取り上げているのは小畑敏四郎、石原莞爾、中柴末純だけではなく、彼らに代表される日本のどうにもならないかのようなあがきが、他にもいろいろな側面から明らかにされている。
ドイツもワイマールの枠の中でもがき苦しんだ。日本にしても、国際共産主義の暗躍、ドイツ、イギリス、アメリカの国際法を蔑ろにした行動に翻弄された。特に、アメリカのアジアへの決意の前に、他に選ぶべき道があったろうか。後発の「持たざる国」は、座して死を待てばよかったか。
唯一、思うところがある。陸軍が危惧を抱いたと同様、石油燃料への切り替えで海軍も大きな危惧を抱いたはずである。非現実的であるかも知れないが、第一次世界大戦時において陸海軍が感じていた危惧を、国民と共有することだ。軍としては、きわめて難しいことであったかもしれないが、唯一、可能性を見出す道があるとすれば、そこではなかったかと思う。




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一九一九年に『歩兵操典』の改定論争が起きている。第一次世界大戦を研究した陸軍省軍事調査委員会は、次のように提案している。「大戦は歩兵戦闘における機関銃時代の到来であり、もはや一発一発狙いを定めて弾を打つ時代ではなく、機関銃を撃ちまくって弾幕を張る時代である」と。これに対して歩兵学校は「撃ちまくる弾丸が実際にはないのに、‘撃ちまくれ’とは教えられない」と異議を唱えた。「持たざる国」の実情は、一九一九年の段階で陸軍を悩ましていた。
観戦武官として東部戦線を動き回った小畑敏四郎は、日本陸軍のあり方をタンネンべルクの戦いに見出していた。タンネンブルクの戦いは、一九一四年八月ヒンデンブルグ大将が十三万五千の寡兵をもって東プロシャに侵入した五十万のロシア軍を殲滅した戦いである。『統帥綱領』は一九一四年に制定された日本陸軍の機密戦争指導マニュアルである。一九一八年、一九二一年、一九二八年と、三度改訂されているが、小畑は一九二八年の改定に関わった。小畑はこの時、一九二一年改定の文章から‘兵站’の条文をけずっている。「国家総動員の長期戦は敗北に直結する。兵站に気を配る時点で日本は敗北している。だから綱領にも無くてもいい」ということである。小畑はタンネンべルクばりの殲滅戦による短期決戦以外に、「持たざる国」が勝利する道はないと考えたのである。下士官向けの『戦闘綱要』も、一九二九年に改定されている。「寡兵による大人数の包囲殲滅は、側面攻撃により的に対応の暇を与えず迅速に奇襲する」ということです。そのためには兵の並はずれた精神力が必須であり、時には軍の政治からの‘独立不羈’すら高唱している。
日米戦争における補給なき戦闘や玉砕作戦が連想される戦い方だが、小畑は一流国の大軍と戦う能力が日本軍にはないことを前提としていた。敵が一流国の大軍であり、素質優等な軍であれば精神力や相手のすきを突いた奇襲作戦ではどうにもならない。どうにもならない相手とは戦わない。それが小畑の真意であった。「精神力と奇手奇策で勝てる相手としか戦わない。素質優等な敵とは戦争にならないように軍人と政治家がしっかり連携する」ということである。
中柴末純は、日米戦時代の日本人の死生観に最も深い影響を及ぼした思想家的軍人である。彼は、小畑らの考えは軍が内政や外交を主導できない以上無理であり、石原の考えは日本が力をつけるまで戦争と無縁でいられるかのような夢想的なものであるとはねつけた。軍人が思念し考慮すべきは、いついかなる時、いかなる相手と戦っても勝てるようにすることと考えた。‘勝てる’ことを前提としなければ、軍の存在価値はないと、彼は考えたのである。彼が‘勝てる’とした根拠が「精神力」である。
この本が取り上げているのは小畑敏四郎、石原莞爾、中柴末純だけではなく、彼らに代表される日本のどうにもならないかのようなあがきが、他にもいろいろな側面から明らかにされている。
ドイツもワイマールの枠の中でもがき苦しんだ。日本にしても、国際共産主義の暗躍、ドイツ、イギリス、アメリカの国際法を蔑ろにした行動に翻弄された。特に、アメリカのアジアへの決意の前に、他に選ぶべき道があったろうか。後発の「持たざる国」は、座して死を待てばよかったか。
唯一、思うところがある。陸軍が危惧を抱いたと同様、石油燃料への切り替えで海軍も大きな危惧を抱いたはずである。非現実的であるかも知れないが、第一次世界大戦時において陸海軍が感じていた危惧を、国民と共有することだ。軍としては、きわめて難しいことであったかもしれないが、唯一、可能性を見出す道があるとすれば、そこではなかったかと思う。


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