『百済観音と物部氏の秘密』 関裕二
![]() | 『百済観音と物部氏の秘密』 関裕二 (2013/02/23) 関 裕二 商品詳細を見る なぜ、百済観音は物部氏とつながってくるのか。そしてなぜ、物部氏とかかわりのある百済観音が、蘇我氏系豪族・聖徳太子の寺に祀られているのだろう。 |
いつもながらのなぞ解きで知的好奇心を思い切り刺激するパターンは相変わらず。
第一の謎 | 百済観音はなぜ八頭身なのか? |
第二の謎 | 百済観音の光背はなぜ竹に見せかけた支柱で支えられているのか? |
第三の謎 | 百済観音はいつ作られたのか? |
第四の謎 | 百済観音はなぜ異国から来たという伝承が生まれたのか? |
第五の謎 | 百済観音はなぜ腕から天衣が垂れて強調されているのか? |
第六の謎 | 百済観音は誰によって、なぜ作られてのか? |
第七の謎 | 百済観音のモデルは誰か? |
七つの謎は、『国宝・百済観音は誰なのか?』を書いた倉西裕子氏によるもの。なんと、国宝なのに、何にも分かっていないんじゃないか。倉持裕子氏は、独自のなぞ解きにより、百済観音のモデルを持統天皇と結論付けているという。これまで関裕二の本を読んできているせいか、この本の先を読み進んで関裕二の意見に触れる前に、「そんなはずはない」と考えてしまった。
まず、持統天皇は歴史の勝者である。天武に認められた大津というライバルを葬り、わが子、草壁を皇位につけようとした。草壁は皇位につくことなく亡くなるが、自らが皇位につき、孫の文武にその位を繋いだ。しかも悪いことに、その目的を達成するために藤原不比等を抜擢し、藤原氏に国政を乗っ取られる元を作り出してしまった。このこと自体が、その後の日本の歴史を捻じ曲げ、過去の歴史を彼ら一族によって隠蔽されるというきわめてめんどくさい事態を招くことになる。とはいえ、持統は目的を達成した勝者なのだ。封じられた歴史の真実を謎だらけの百済観音に暗示しなければならないいわれはかけらもない。
若い頃に植えつけられた固定観念というのは性質の悪いものだ。けっこう関裕二の本を読んでいるにもかかわらず、指摘されるまで固定観念はドカッと思考の中に居座って、推理の邪魔をしている。今回そう思わされたのは、《崇仏派=蘇我氏》、《廃仏派=物部氏》という‘固定観念’で、ゆえに《蘇我氏=親百済派》と短絡した点である。これを固定観念とする限り、この時代の大きな焦点であった‘改革’をめぐる、蘇我氏と物部氏の関係にたどりつくことはできない。さらに遡って、《物部氏=吉備の瀬戸内海勢力》、《蘇我氏=出雲の日本海勢力》という関係性には目が曇らされてしまう。
当時、蘇我氏が遣隋使を派遣し、律令導入に力を注いでいた事実を考えれば、馬子時代の対立は崇仏・廃仏によるものよりも、土地国有化をすすめようとする蘇我氏と、その最大の抵抗勢力になりかねない物部氏の対立と考えなければならない。その意味で、仏教論争は、蘇我対物部の対立の本来の理由を隠すためのカモフラージュということになる。著者は、支那に統一王朝が出現した状況で、大きく全方位外交に舵を切る蘇我氏に対し、物部氏こそが一番の親百済勢力であったことを説明している。ようやく対立の真の構図がはっきりしてくる。
著者は、蘇我氏がこの対立を解消するために思い切った手を打ったという。古くから、蘇我系天皇、物部系天皇が、まるで南北朝時代の両統迭立のように皇位を争っていた。蘇我氏は物部守屋を滅ぼしたのちに、改革に対する物部氏の協力を得るためにあえて物部系の天皇を立てたというのだ。物部氏も、そんな蘇我氏にようやく同調して、改革による律令導入を受け入れる。
しかし、蘇我氏の努力も、物部氏の決断も、すべて中臣鎌足の暗躍で灰塵と帰す。さらに、持統天皇により抜擢された藤原不比等によって政権は簒奪され、事実は闇に葬られる。百済観音に暗示された謎だけが残される。
さて、百済観音は、いったいだれをモデルに作られたものか。著者の言い方にも確信は感じられない。でも、この本の魅力は、決して‘確信のある解答’ではなく、それを求めて試行錯誤する多角多面的な推理の過程にあると、私は感じたのだが・・・。


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