『無私の日本人』 磯田道史
2012年12月27日の記事を加筆修正したものです
表紙が真っ白。これには分けがある。読んでもらえば分かります。
自分のことは二の次にして、まずは人のためを考える。江戸時代に日本人のすべてがそう思っていたわけではない。でも、多くの者達がそうであろうとした。それがこの国に、数々の奇跡をおこした。今、私たちにはその片鱗でも残されているのだろうか。
『穀田屋十三郎』、『中根東里』、『大田垣蓮月』
この本には、上記三人の物語がまとめられている。最初は、面白く読み進められるのか半信半疑だった。なぜかと言えば、残念ながら、と言っても私の勉強不足故だが、三人とも名前も知らなかった。でも、本を手放す間もないままにこの物語を読み終えた。
物語とはいっても、著者は徹底して当時の、またその後の資料をあたり、史実に基づいて、それに忠実に物語化している。あとがきにこうある。「地球上のどこよりも、落とした財布がきちんと戻ってくるこの国。ほんの小さなことに思えるが、こういうことはGDPの競争よりも、なによりも大切なことではないかと思う。古文書のままでは、きっとわたしの子どもにはわからないから、わたしは史伝を書くことにした」
だから、この物語は、歴史として読んでいい。
穀田屋十三郎
武士に締めつけられて、仙台藩吉岡宿は疲弊しきっていた。穀田屋十三郎を始めとする九人の篤志家は、家族ともども身売りを覚悟で千両の金を作り、藩に貸し付けて、利子で郷里を潤そうと考えた。農民から絞り上げる武士から稼ぎを得ようとする暴挙を成し遂げ、九人は吉岡宿を救った。
しかも九人は、後世のことを考え、子孫に至るまで、自分たちの業績を誇ることを禁じた。穀田屋は、今も続いているという。しかし、当代はなにも語らない。著者が聞くと「昔、先祖が偉いことをしたなどというてはならぬと言われてきたものですから」と語ったという。
中根東里
荻生徂徠門下として日本随一の儒者となるが、学問を出世の材料とする姿勢をよしとせず、富貴の道を離れる。極貧の中にも学問を忘れず、万感の書を呼んだ末、陽明学をヒントに掴んだ真理を平易に語り、庶民の心を震わせた。
“水を飲んで楽しむものものあり、錦を着て憂うものあり”
“彼を先にし、我を後にする”
読書に関する東里の弁には舌を巻きました。「書を読む人は、読むまえに、まず大どころは、どこかを考え、そこをきちんと読むことを心がけて下さい。・・・みなさんは道を得るために、まっしぐらに、書物のなかの大切なところをみつけて読んでいかなくてはなりません」
大田垣蓮月
出生は哀れであった。しかし美貌は幼くして人目を引き、なによりも養父母に恵まれた。二人の夫と五人の子どもを失い出家する。そんな女にとって美貌は生きることの障害にすらなった。糊口をしのぐために歌を読み、焼き物を作るが、心穏やかな日々を送るのは老成して後といっていい。
よく、「自他平等の修行をいたしたく」という言葉を書いたというが、悲しみと苦しみの果てにたどり着いた境地だったろう。心を素直に表した和歌は、多くの人を動かしたという。
夫を失って
“立ち上る 煙の末も かきくれて 末も末なき 心地こそすれ”
“ともに見し 桜はあとも 夏山の 嘆きのもとに 立つぞ悲しき”
ペリー来航に
“ふりくとも 春のあめりか 閑にて 世のうるほひに ならんとすらん”
鳥羽伏見の戦いに
“聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに さらす屍は 誰にかあるらん”
戊辰の戦に
“あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば”
私たちに必要なのはおそらく理屈ではない。先人の生き方に触れて感じることだ。しかし、江戸時代の日本人の生き方に共鳴できる何かが、私たちの心に残されているだろうか。高度経済成長期からバブルの時代にあれだけの醜態を演じ、日本を危機にさらし続けてきた私たちに。しかし、疑いはない。大震災は、私たちの心にそれが残されていることを証明した。私たちはこれから、それを育てて行かなければならない。
表紙の最後にある紹介によれば、著者は現在、静岡文化芸術大学准教授という地位にあるという。研究の知見を生かし、歴史上の人物を生き生きと描きつづけている。次の震災に備えて、浜松に移住し、大津波を記録した古文書を渉猟しているという。一九七〇年生まれと、年も若い。さらなる活躍を、大いに期待したい。
あまりにも稚拙な紹介で恥ずかしいが、この本はすごい。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
![]() | 『無私の日本人』 磯田道史 (2012/10/25) 磯田 道史 商品詳細を見る この国にとってこわいのは、隣の国より貧しくなることではない。ほんとうにこわいのは、本来、日本人がもっている“清らかに生きる”ことへの志向を失うことだ。 |
表紙が真っ白。これには分けがある。読んでもらえば分かります。
自分のことは二の次にして、まずは人のためを考える。江戸時代に日本人のすべてがそう思っていたわけではない。でも、多くの者達がそうであろうとした。それがこの国に、数々の奇跡をおこした。今、私たちにはその片鱗でも残されているのだろうか。
『穀田屋十三郎』、『中根東里』、『大田垣蓮月』
この本には、上記三人の物語がまとめられている。最初は、面白く読み進められるのか半信半疑だった。なぜかと言えば、残念ながら、と言っても私の勉強不足故だが、三人とも名前も知らなかった。でも、本を手放す間もないままにこの物語を読み終えた。
物語とはいっても、著者は徹底して当時の、またその後の資料をあたり、史実に基づいて、それに忠実に物語化している。あとがきにこうある。「地球上のどこよりも、落とした財布がきちんと戻ってくるこの国。ほんの小さなことに思えるが、こういうことはGDPの競争よりも、なによりも大切なことではないかと思う。古文書のままでは、きっとわたしの子どもにはわからないから、わたしは史伝を書くことにした」
だから、この物語は、歴史として読んでいい。
穀田屋十三郎
武士に締めつけられて、仙台藩吉岡宿は疲弊しきっていた。穀田屋十三郎を始めとする九人の篤志家は、家族ともども身売りを覚悟で千両の金を作り、藩に貸し付けて、利子で郷里を潤そうと考えた。農民から絞り上げる武士から稼ぎを得ようとする暴挙を成し遂げ、九人は吉岡宿を救った。
しかも九人は、後世のことを考え、子孫に至るまで、自分たちの業績を誇ることを禁じた。穀田屋は、今も続いているという。しかし、当代はなにも語らない。著者が聞くと「昔、先祖が偉いことをしたなどというてはならぬと言われてきたものですから」と語ったという。
中根東里
荻生徂徠門下として日本随一の儒者となるが、学問を出世の材料とする姿勢をよしとせず、富貴の道を離れる。極貧の中にも学問を忘れず、万感の書を呼んだ末、陽明学をヒントに掴んだ真理を平易に語り、庶民の心を震わせた。
“水を飲んで楽しむものものあり、錦を着て憂うものあり”
“彼を先にし、我を後にする”
読書に関する東里の弁には舌を巻きました。「書を読む人は、読むまえに、まず大どころは、どこかを考え、そこをきちんと読むことを心がけて下さい。・・・みなさんは道を得るために、まっしぐらに、書物のなかの大切なところをみつけて読んでいかなくてはなりません」
大田垣蓮月
出生は哀れであった。しかし美貌は幼くして人目を引き、なによりも養父母に恵まれた。二人の夫と五人の子どもを失い出家する。そんな女にとって美貌は生きることの障害にすらなった。糊口をしのぐために歌を読み、焼き物を作るが、心穏やかな日々を送るのは老成して後といっていい。
よく、「自他平等の修行をいたしたく」という言葉を書いたというが、悲しみと苦しみの果てにたどり着いた境地だったろう。心を素直に表した和歌は、多くの人を動かしたという。
夫を失って
“立ち上る 煙の末も かきくれて 末も末なき 心地こそすれ”
“ともに見し 桜はあとも 夏山の 嘆きのもとに 立つぞ悲しき”
ペリー来航に
“ふりくとも 春のあめりか 閑にて 世のうるほひに ならんとすらん”
鳥羽伏見の戦いに
“聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに さらす屍は 誰にかあるらん”
戊辰の戦に
“あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば”
私たちに必要なのはおそらく理屈ではない。先人の生き方に触れて感じることだ。しかし、江戸時代の日本人の生き方に共鳴できる何かが、私たちの心に残されているだろうか。高度経済成長期からバブルの時代にあれだけの醜態を演じ、日本を危機にさらし続けてきた私たちに。しかし、疑いはない。大震災は、私たちの心にそれが残されていることを証明した。私たちはこれから、それを育てて行かなければならない。
表紙の最後にある紹介によれば、著者は現在、静岡文化芸術大学准教授という地位にあるという。研究の知見を生かし、歴史上の人物を生き生きと描きつづけている。次の震災に備えて、浜松に移住し、大津波を記録した古文書を渉猟しているという。一九七〇年生まれと、年も若い。さらなる活躍を、大いに期待したい。
あまりにも稚拙な紹介で恥ずかしいが、この本はすごい。


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