『終末処分』 野坂昭如
2012年11月15日の記事を加筆修正しました。
敬愛する野坂昭如氏の小説。二〇一二年一〇月に出た本だが、なんと昭和五三年に書かれたものだという。ビックリ。まったく今の話じゃねぇか。
この物語のテーマは“ゴミ”。しかも、日本人が捨て去り、省みようともしない“ゴミ”の話しである。
原子力のゴミ。物語の中で高機が取り組もうとする家庭から出されるゴミ。産業社会という都市文明の影で、牧歌的イメージを押し付けられて置き忘れられた農村というゴミ。社会の底辺に沈んだ元売春婦というゴミ。そして彼自身もゴミ。
ほんの一八〇ページ弱の物語としては、多種多様のゴミを、よくもこれだけ揃えたものだ。あまりにも揃えすぎた。そのためか、これらの“ゴミ問題”は、すごく強引な手法で終焉を迎えることになる。作家はなんとこれらのゴミに社会の機能を停止させてしまう。「今、立ち止まらなければ・・・」と
私は読みながら、この物語は、少なくとも福島第一原発事故のあとに書かれたものと疑いも抱かなかった。
この文章、本当に昭和五三年に書かれたものなのか。今、事故後の日本人が感じていることそのままじゃないか。
今、原子力に関する情報は錯綜している。錯綜しながらも、“電力不足”という真綿がジワジワと国民の意識を締め上げている。昭和五三年に提示された上記の意識に戻って、とりあえず、わたしたちは立ち止まってみるわけにはいかないだろうか。
作家としての野坂昭如氏との出会いは、下の『戦争童話集』だった。この本も、いい本だった。

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![]() | 『終末処分』 野坂昭如 (2012/09/24) 野坂昭如 商品詳細を見る 原子力のゴミ、家庭から排出されるゴミ、そして彼自身が“ゴミ” |
高畑は、日本の原子力政策の黎明期を担った専門家エキスパート。そう自負する彼が、原子力の職場から追われた。照射済み核燃料の処理をめぐるリベートを疑われ、いや、公私入り乱れるさまざまな中小を取り沙汰され、疲れは建て彼はその職を辞した。背景にはアメリカの思惑、軽水炉を売り込む黒い利権の存在があった。 職場を追われた彼は文筆業に転身した。それが離婚の直接的な引き金となった。いや、妻はそれを口実に夫を捨てた。高畑は“原子力”という職場から捨てられ、妻、家族からも捨てられたのである。“ゴミ”として。 |
この物語のテーマは“ゴミ”。しかも、日本人が捨て去り、省みようともしない“ゴミ”の話しである。
原子力のゴミ。物語の中で高機が取り組もうとする家庭から出されるゴミ。産業社会という都市文明の影で、牧歌的イメージを押し付けられて置き忘れられた農村というゴミ。社会の底辺に沈んだ元売春婦というゴミ。そして彼自身もゴミ。
ほんの一八〇ページ弱の物語としては、多種多様のゴミを、よくもこれだけ揃えたものだ。あまりにも揃えすぎた。そのためか、これらの“ゴミ問題”は、すごく強引な手法で終焉を迎えることになる。作家はなんとこれらのゴミに社会の機能を停止させてしまう。「今、立ち止まらなければ・・・」と
私は読みながら、この物語は、少なくとも福島第一原発事故のあとに書かれたものと疑いも抱かなかった。
原子炉の場合、発電量と、その建設費は比例しない、三十五万キロワットの炉と百万キロワットのそれとくらべて、後者のコストは前者の二倍にまでいたらぬ、だから大型化になる一方で、しかし、施設が、あまり巨大になってしまうと、これに対して一種の信仰が生まれる。 効率の良さを追求したあげくのことだから、あくまで人間のコントロール下にあるべきものが逆転する。なにごとのおわしますかは知らねども、しみじみありがたさが身に沁み、巨大な存在に対する批判反省を忘れ、その奴隷となることに喜びを見出す。技術者が自分の技術に自信をもつのはいいが、原発に対する安全性についての疑問を提示された時、極端な拒否反応を示すのは、つまり自分の神を冒涜されたと感じるからだ。 |
この文章、本当に昭和五三年に書かれたものなのか。今、事故後の日本人が感じていることそのままじゃないか。
今、原子力に関する情報は錯綜している。錯綜しながらも、“電力不足”という真綿がジワジワと国民の意識を締め上げている。昭和五三年に提示された上記の意識に戻って、とりあえず、わたしたちは立ち止まってみるわけにはいかないだろうか。
作家としての野坂昭如氏との出会いは、下の『戦争童話集』だった。この本も、いい本だった。
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