李鴻章と孫文の反日 『真実の満洲史【1894-1956】』
李鴻章は日本が嫌いでロシアについた |
孫文の共産主義化・反日化 |
日本での孫文の評価は高い。日本に亡命した孫文を、多くの日本人が援助した。英語ができて弁が立つ孫文は、日本が手を組むべき支那近代改革のリーダーと考えられたのだろう。日本人の援助を背景に海外華僑の寄付も集まり始めた。実際に武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清朝が崩壊して中華民国が誕生する。
しかしその段階で、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲らざるを得なかった。袁世凱は広東政府を代表し、広東政府の力の及ばない地域については滅亡した清朝を代表した。皇帝への就任は、支那をもう一度一つにする苦肉の策だったろう。それも失敗し、やがて袁世凱が死ぬと、支那は軍閥が割拠する混乱状態に落ち入った。
孫文への日本人の援助は、日本の援助を意味するものではない。外務省の石井菊次郎は孫文を相手にもしなかったという。群雄が割拠する中で、日本人に愛想をつかされ、資金もない孫文は、コミンテルンからの働きかけにやすやすと靡いていった。孫文は、ロシア革命後、ロシア帝国が清朝と結んだ不平等条約の破棄を宣言したソ連に傾斜していった。コミンテルンがナショナリズムを煽り立てたことにより始まった一九一九年の五四運動以後、孫文の共産化、反日化は明らかなものとなる。
満洲が支那の領土といわれるようになるのも、この時期である。ソ連は日本に奪われた満洲に関して、支那人のナショナリズムを煽ることで、支那人をして日本勢力の駆逐に動いたのである。さらに、ロシアがソ連になって過去の国際関係を無視したように、ソ連の後ろ盾を得た支那も、清朝が決めたさまざまな条約、約束を反故にしようと考えた。そこには袁世凱結んだ二十一ヶ条の要求も含まれた。”満洲からも支那からも、すべてを捨てて出て行け”と彼らは要求し始めたのである。
![]() | 『真実の満洲史【1894-1956】』 宮脇淳子 (2013/04/24) 宮脇淳子 商品詳細を見る 満州史は、私たちの母国である日本の近現代史 |
左の二冊は著者、宮脇淳子さんの、右の三冊は、本書の中で参考として使われているものです。


- 関連記事
-
- 反日のプロパガンダ 『嘘だらけの日中近現代史』 倉持満 (2013/07/31)
- 満州事変の原因 『真実の満洲史【1894-1956】』 (2013/06/27)
- 李鴻章と孫文の反日 『真実の満洲史【1894-1956】』 (2013/06/24)
- 『真実の満洲史【1894-1956】』 宮脇淳子 (2013/06/20)
- 『「近くて遠い国」でいい、日本と韓国』 渡部昇一・呉善花 (2013/06/14)