『カタリ派』 アンヌ・ブルノン
おそらく子供の頃に「みんなうた」で覚えたんだろうと思うんだけど、そんな記憶さえないのに、気がつくと♫ドミニクニクニク♫ って口ずさんでる。ペギー葉山も歌っていたらしく、歌詞を調べていたら、ペギー葉山バージョンが先に出てきた。それによると・・・。
ドミニクニクニそまつななりで旅から旅へ どこに行っても 語るのはただ 神の教えよ 他宗のものと 教えをきそい 力の限り それと戦い |
![]() | 『カタリ派』 アンヌ・ブルノン (2013/08/26) アンヌ・ブルノン 商品詳細を見る 中世ヨーロッパ最大の異端 |
ニケーアの公会議(325年)やコンスタンティノポリス(381年)の公会議で正統派の教義が確立され、それ以外の聖書解釈が禁止された。初期教会の教父たちは、異端の指導者の弾圧をはじめ、ローマ帝国は“異端狩り”にお墨付きを与えた。384年、禁欲主義をとなえる司教プリスキリアヌスが異端として斬首されたのを最後に、長い間、神学論に関わってくるような異端は途絶えた。
11世紀、中世温暖期に拠る温暖化と、開墾、新農業技術の普及と言ったできごとは、農業生産力の向上や人口増加を引き起こし、人々の経済関係に変化が現れ、新たな生き方を後ろから支える新たな宗教観が求められた。
当時、クリュニー会は、修道院を天の光、金、香、天使の歌で満たし、神の王国において約束されていたあらゆるものを聖職者の間で独占していた。 そんなカトリック教会に対し民衆は、使徒時代の教会の良識や純潔さを求め、抗議の声をあげた。あるいは教会を批判し、嘲弄した。そこには男も女も、一般信徒も聖職者もいたが、誰もが共通の意思を持っていた。使徒のみを範とし、福音書の教えのみに従おうとする意志である。彼らは、教会組織が、後につけ足した余計や制度や、制度に基づかない秘石や迷信による慣行を拒否し、教区聖職者のだらしない生活習慣や高位聖職者の世俗的な要求に否を突きつけた。 |
当時の聖職者たちは、上記のような立場に立つ者たちをさまざまな名で呼んだ。“魔術師”、“好色物”、“近親相姦者”、“不信心な輩”、“無学な農民”、“うさんくさい老婆”、“悪魔の使い”、“マニ教徒”、“悪のしもべ”、“サタンの使徒” ・・・。それらのなかで、12世紀、南フランスで急激に力を伸ばしたのが、《カタリ派》であった。
ちょうど、ドミニコの生きた時代と一致している。ドミニコは、カタリ派の中心地域で宗教活動を行うなど苦労しているが、1206年にドミニコ会を設立して普遍的、使徒的活動を目指した彼こそ、逆に強く語り派の影響を受けたように思えるんだけどな。


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