阿部正弘の評価(覚書) 『井沢元彦の激闘の日本史 幕末動乱と危機管理』
![]() | 江戸幕府史上有数の、若くして老中首座に上り詰めた人物である。弱冠、二十七歳の時である。 老中首座に就任してそうそう、外交の大問題に接する。オランダ国王の開国勧告書に対して拒否回答を出し、その返書に幕府を代表して署名した。 ビッドルがきた時も、直接対応した。ペリーが来ることを知っていたのに、それを現地に伝えなかった責任者も阿部であった。 |
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だけど、・・・
阿部正弘は、幕末一の英傑である島津斉彬の盟友。斉彬を嫌う斉興に引退を迫るなんてこともあった。なにより、勝海舟とか岩瀬忠震といった幕末の英傑の登場は、阿部正広なしには考えられない。阿部正弘がいなければ、幕末はあの程度では済まなかった。・・・ようにも見えるんだけどな・・・。
| 二十五歳で老中となる 水野忠邦が老中首座に復帰。 水野復帰後、南町奉行鳥居耀蔵ら解任、遠山景元が就任。 水野忠邦を罷免させ、老中首座となる。 オランダ国王ウィレム2世の開国勧告書 海岸防禦御用掛(海防掛)を設置し、島津斉彬、水戸斉昭らに広く意見を求める。 筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用 ビッドルが相模国浦賀へ来航 ペリーが相模国浦賀へ来航 プチャーチンが長崎来航 朝廷はじめ、外様大名を含む諸大名、市井を交え、広く意見を求める 異国船打払令の復活を諮問するが海防掛に反対される 日米和親条約締結 開国派堀田正睦に後任を託して老中首座辞任 三十九歳で急死 |
それまで逼塞せざるを得なかった江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らに活躍の場を与えた。講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設して人を育てた。西洋砲術の推進、大船建造の解禁など、彼の死後に、道を準備した。 これも阿部正弘がやったことだ。藩主となった盟友島津斉彬は、ペリー来航後、蒸気船を建造しているが、ここでも成彬と阿部正弘は意を通じていたはずである。
阿部正弘には英邁と暗愚の二面性がある。しかし、当たり前のことだが、暗愚な人物が英邁を装うことはできないが、英邁な人物には暗愚を装うことはできる。英邁と暗愚の二面性は、英邁の証明ということになる。彼を暗愚と思わせるのはオランダ国王の開国勧告やビッドル来航への対応である。これを彼は英邁であったという前提に立てば、どう見ればいいか。
当時の日本は、幕府を含めて攘夷派の力が強く、体制の変革は祖法への反逆であり、朱子学の最高徳目である“孝”を踏みにじるものであると考える勢力が力を持っている。その勢力を引きずるようにして体制を変革するためにはどうするか。その攘夷派をこそ、欧米諸国の圧倒的軍事力の前に晒すことだ。そうすることで、思考停止した彼らの頭に刺激を与え、回転を促す。考えぬいた結論として、阿部正弘は“何もしない”という結論に辿り着いた。
「海軍伝習所の必要性などはるか以前に分かっていた。むしろ遅きに失した」という批判もある。常に批判だけしていればいい立場の人にはそう思えるかもしれない。しかし、それに反対する攘夷思考の人々にまでその必要性を理解させなければ、海軍伝習所は設立もできないし、設立しても意味が無い。実際に、ペリー来航で攘夷思考の人までがその力に圧倒されると、阿部正弘はここぞとばかり、矢継ぎ早に手を打っていく。 阿部正弘の凄みさえ感じる。
しかし、彼の思惑通り歴史は動かなかった。彼が世に現れるのが遅すぎたのかもしれない。あるいは、朱子学の副作用と、日本人的思考のマイナス作用が強すぎたといえるのかもしれない。


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