『軍医が見た戦艦大和』 祖父江逸郎
私は永久軍医志願でしたので、大学卒業後ただちに海軍に入隊、青島での厳しい特訓、軍医学校での軍陣医学の教育を受け、軍医中尉に任官、幸い「大和」乗組を命ぜられ、呉軍港停泊中の「大和」に着任しました。 あの素晴らしい、美の頂点を極めたとされる世界一の巨艦「大和」乗組になれたことは、人生の一期一会で、これほど大きな喜びはなく、感激の極みでした。 「まえがき」より |
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![]() | 一九二一年、名古屋市生まれ。名護屋帝大、海軍医学校を経て軍医中尉となり「大和」に着任。乗り組み軍医としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に従軍した。四五年一月に海軍兵学校に異動となり江田島の大原分校に転勤して終戦を迎える。 現在、名古屋大学・愛知医科大学名誉教授。 |
私が注目したのは、何と言っても“マリアナ沖海戦”、“レイテ沖海戦”の記述。「大和」に乗って、実際にあの戦いを経験した人が語るんだから、興味深いのは当たり前。
マリアナ沖海戦における射撃は、「大和」初の実践での射撃だそうだ。しかも、あの主砲を打っている。しかし、艦内では「全然飛行機が帰ってこない」とか、「空母が沈んだらしい」という噂が、戦時治療室に勤務する著者の耳にまで流れてきていたそうだ。実際この海戦では、機動部隊旗艦の「大鳳」や真珠湾攻撃以来歴戦の「翔鶴」など空母三隻と多数の航空機、搭乗員を失った。「大和」は、米軍機に向けて対空射撃を行なった以外はさしたる戦果もなかった。
サイパンが陥落し、米軍の次の目標がフィリピンに向けられた一九四四年十月、日本海軍は「捷一号作戦」を発動し、最後の艦隊決戦に挑んだ。日本海軍のほぼ全艦艇を投入しての、乾坤一擲の大勝負である。もとより、他の艦艇をオトリにして「大和」以下をレイテ湾に突入させ、その砲撃力を生かす作戦だった。結局、他艦艇をオトリにして機会は作ったものの、栗田艦隊は突入を断念した。理由は不明である。この時のことを著者は、『「反転した」と聞いて、正直ホッとしたのも事実です』と書いている。
第一章 世界最大の戦艦「大和」乗組軍医に 第二章 激戦を乗り越えた幸運 第三章 「大和」乗組から海軍兵学校教官へ 第四章 対談 祖父江逸郎 × 戸髙一成 第五章 海軍から大学へ |
第一、ニ、三、五章で、軍医を目指して「大和」乗組となり、海軍兵学校に転出して終戦を迎え、南方方面引上げ線医、アメリカへの留学と大学病院勤務と通常ではありえない多岐にわたる経験をしてきた著者の医師としての人生が語られている。
第四章は貴重。呉市海事歴史科学館こと大和大和ミュージアムの“館長”戸髙一成さんとの対談。「大和」のことを知りたいならこの人って感じの戸髙さんが、著者の七十年前の記憶を上手に引き出して、著者に艦内の日常、戦時の様子、軍医の艦内での生活を語らせている。
他の章との重複はあるんだけど、意義深い対談だと思った。数人いる軍医が専門分野ごとに診察するわけではなく、戦時なら次から次へと運ばれてくる病傷人をそれぞれの軍医が専門なんか関係なくかたっぱしから治療してたんだって。著者はそのとき二十三歳、通常ならどっかの偉い先生のおつきをしている歳だったってさ。
大和ミュージアム http://www.yamato-museum.com/


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