清朝とはなにか(覚書) 『康煕帝の手紙』〈清朝史叢書〉岡田英弘
人口
清朝安定期以降の人口増加は、南米原産の食材、特にトウモロコシ、落花生、ジャガイモ、サツマイモが支那に伝わったことがあげられるだろう。アンデス原産の食材の特徴は荒れ地での耕作に適しており、支那でも山間地に田畑が広がり農業生産が伸びた。これによって多くの人々が飢餓から解放され人口が増大した。しかし、山間地の開発が限界に達すると、十八世紀、過剰人口は華僑として東南アジアに流れ出る。この現象はその後も続き、移住先も東南アジアからオーストラリア、アメリカ、西インド諸島にまで広がった。
中華人民共和国時代、つまり毛沢東時代の人口増加は「産めよ増やせよ政策」として実行された人為的なもので、建国から一九七九年に鄧小平が抑制策をとるまで続く。毛沢東がこの多すぎる人口を国家の《武器》として使っていたことの現れだが、大躍進政策、文化大革命で数千万人が犠牲になった三十年間で四、五億の人口が十三億に増加するというのは異常である。果たしてこれが正しい数字なのかは疑問だが、鄧小平時代に「一人っ子政策」というバランスを欠いた抑制策をとらざるを得ないほどの人口増加があったことは間違いない。
統治
現在の支那が、かつての大清帝国とは異なり、ただ収奪を目的にした侵略国家である事は歴然である。清朝は、末期こそその志を失うものの、地域に安定をもたらす機構として存在し、最良の方法を模索した。現在の支那、中華人民共和国は、各地に漢人農民を入り込ませ、土地を収奪し、混血を奨励し、文化を衰退させ、圧力を加え、逆らうものを踏み潰し、彼らを消滅させようとしている。
アヘン






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支那最初の人口統計は、「漢書地理誌」に記される紀元二年の「口、五千九百五十九万四千九百七十八」、およそ六千万人。六千万人と言う数字を最高として、以後千年以上このレベルに回復することはなかった。16世紀の明代になって六千万人の水準を上下するようになり、十七世紀の清朝の統治下で社会が安定して、急速に人口が増大する。 十八世紀の初め、清の康熙帝の時代の終盤に一億の線を突破し、一七二六年には二億、一七九〇年には三億と増え続け、乾隆帝を継いだ嘉慶帝の道光帝の時代の一八三四年には四億に達した。 この後しばらく四億人台で足踏みするが、一九四九年の中華人民共和国成立以後は、あれよあれよという間に五億、六億という数字が出て、一九八〇年には十億に達し、今では十三億となった。 |
中華人民共和国時代、つまり毛沢東時代の人口増加は「産めよ増やせよ政策」として実行された人為的なもので、建国から一九七九年に鄧小平が抑制策をとるまで続く。毛沢東がこの多すぎる人口を国家の《武器》として使っていたことの現れだが、大躍進政策、文化大革命で数千万人が犠牲になった三十年間で四、五億の人口が十三億に増加するというのは異常である。果たしてこれが正しい数字なのかは疑問だが、鄧小平時代に「一人っ子政策」というバランスを欠いた抑制策をとらざるを得ないほどの人口増加があったことは間違いない。
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統治
清朝皇帝は、漢人にとっては伝統的な皇帝であったが、満洲人にとっては部族長会議の議長であった、モンゴル人にとってはチンギス・ハーン以来の大ハーン。チベット人にとっては仏教の最高施主。東トルキスタンのイスラム教徒にとっては保護者だった。大清帝国の本質は、五大種族の同君連合国家だった。 この時代、明の旧領だけが支那で、満洲は旗人の土地、旗地と呼ばれる将軍が治める特別行政区域だった。モンゴル草原、今の青海省・四川省西部を含めたチベット、回部と呼ばれた新疆は、清朝時代には「藩部」と言った。藩部に対しては種族自治を原則とし、種族ごとに現地で使用される言語も法律も異なった。 明の支配下にあった地域と、満洲、万里の長城以北のモンゴル草原は分けて支配した。あとから清朝の版図に入った北モンゴル、青海草原とチベット、新疆にも漢人農民の移住を禁止し、商人も一年を超えて滞在することはできず、家も持てず、結婚もできなかった。 同君連合の変質は清末である。一八五一年から十四年間続いた太平天国の乱とその影響を受けたイスラム教徒の反乱が原因となった。一八六二年以来、太平天国鎮圧に使われた回人(漢人イスラム教徒)と漢人の対立は、一八六四年以降、トルコ系イスラム教徒をまきこんだ反乱に発展する。漢人の左宗棠の力を用いてこれを鎮圧した清朝は、以後、左宗棠の意見を入れて新彊省を設置し、漢人に行政を担当させた。 これは種族自治の原則を破って漢人を伝統的支那以外の統治に参加させることになり、清朝の性格を根本から変えた。それまでの清朝は満洲人がモンゴル人と連合して漢人を統治し、チベット人、イスラム教徒を保護する構造であった。それが、満洲人は連合の相手を漢人に切り替えてチベット人、モンゴル人、イスラム教徒を統治する体制に変わった。清朝は満漢一家の国民国家へと一歩を踏み出した。イスラムの反乱に加えて、モンゴル、チベットに独立の動きが現れるのは、これ以降のことである。 |
アヘン
アヘンは十七世紀にオランダ支配下のジャワ島から台湾に伝わり、はじめはマラリアの特効薬としてタバコに混ぜて吸引した。一七二九年、雍正帝がアヘン禁止令を出した時には、ポルトガル商人が、年間百箱を清に売っていた。一箱六〇キログラムのアヘンは、中毒者百人が、一年間に吸引する量に相当すると言われ、約一万人の中毒者がいたことになる。 十八世紀末、東インド会社が支那に持ち込んだベンガル・アヘンは、年間四千箱。四十万人が中毒者ということになる。一八三八年には四万箱が清に輸入された。これは中毒者四百万人分で、当時の清朝の人口を四億として、百人に一人が中毒者ということになる。 一八三九年、欽差大臣に任命された林則徐は広州の商人から二万箱のアヘンを没収し、焼却した。イギリスの貿易監督官チャールズ・エリオットは、イギリス人の生命と財産が危険にさらされていると外相に伝え、一八四〇年、彼のいとこのジョージ・エリオット率いる軍艦十六隻、輸送船・病院船三十二隻、陸兵四千で広東海口を封鎖し、厦門を攻撃したのがアヘン戦争の始まりだった。 |


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