池袋に文革レストラン 『嘘だらけの日中近現代史』 倉持満
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2013年11月5日
在日中国人、池袋に文革レストランを開店
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-11/05/content_30500644.htm
彼らは、“わが亡き後に洪水は来たれ”、「今のうちに」とばかり儲けるだけ儲けておこうとしているようにみえる。そんななか、かつて“平等に飢えていた時代”を懐かしむ気持ちは分からないでもないが、毛沢東は最悪だ。あの時代に戻りたいというのだろうか。
以下は、2013年8月の記事に加筆修正したものです。
国共合作が崩れ、国共内戦が始まった。マフィアに毛が生えた程度の共産党では、巨大な財力と暴力装置をもつ国民党にはかなわず、「長征」と称する大逃亡が行われた。毛沢東に従った多くの貧しい人民が苦難の道に倒れた。毛沢東自身は愛人とともに豊かな読書三昧の日々だった。人民の解放を謳いながら自分の富裕な生活は手放さない職業革命家が彼の姿だった。
中国共産党は、レーニンが世界征服工作の一環として、陳独秀や李大釗らに、コミンテルン中国支部として結成させた。毛沢東は結成第二回大会からの参加だが、のちに第一回大会が歴史から消された。支那の実情を知らないコミンテルンは、都市労働者を組織して革命を起こし、それを農村に波及させることを主張した。毛沢東は農村を地盤に力をため、都市を包囲することを主張し、実行した。
陳独秀や李大釗はコミンテルンに牛耳られたが、毛沢東は彼らの影で着々と自力をつけ、いつのまにか共産党における指導権を確立した。監視社会で生き残る方法を身につけた知識は、独裁者となった彼が“生き残らせない”ために使われた。
ただ者ではない革命家である周恩来も、部下であったはずの毛沢東にいいように使われた。軍の英雄であった朱徳であっても、毛沢東にかかれば、朱徳の名で思うように軍を動かされる立場になった。近代政治学の祖であるマキャヴェリは、政治指導者に必要な資質を「獅子の腕力と狐の知恵」と言っているが、毛沢東は暴力と悪知恵の塊のような人物だった。
一九三六年に第二次国共合作が成立すると、翌年からの支那事変のなかでさえ、毛沢東はひたすら軍の温存を図った。日本軍が蒋介石軍を叩きのめしながらも疲弊していく理想の時間が八年も続いた。日本の統治によって治安が安定すると、国民党の仕業を装い、人民を立てにとってテロを仕掛けた。
日本が主要都市を占領し、国民党が重慶に閉じこもっている間、毛沢東は延安で「整風運動」という粛清を進めた。古参の党員を分断し、お互いに公衆の面前で批判することを強要した。その残虐性ゆえ、「大勢が従うはずがない。いつでも引きずり降ろせる」という思いが、共産党内の勢力均衡にのった毛沢東の党支配を生み出した。密告の奨励、強制により、お互いに潰し合うことを仕掛けられた古参は次々削ぎ落とされた。「整風運動」は、毛沢東の片腕、秘密警察役の康生によって仕掛けられた。そして毛沢東は、共産党と紅軍を完全に掌握した。
毛沢東は恐怖政治によって紅軍を、「毛沢東個人に忠誠を誓う軍隊」に作り替えた。戦略においても、軍を混乱させたスターリンやヒトラーの比ではなかった。独自の「持久戦」論で、蒋介石の国民党軍と日本軍を噛みあわせ、最終的にすべてを手にいれた。宣伝戦においても、日本を上回った蒋介石をあしらった。エドガー・スノウ、アグネス・スメドレーといった共産主義者、アメリカ人のジャーナリストを使って、「腐敗した国民党」、「清廉な共産党」というイメージをアメリカ人に植えつけた。蒋介石は「共産党など戦争には弱いくせに宣伝だけは達者だ」と、日本が蒋介石に向けた台詞を毛沢東に投げつけた。
好機は日本の敗戦とともに訪れた。日本軍の引き揚げとともにアメリカは静観、不介入の姿勢を示した。ソ連は毛沢東と蒋介石の両にらみ。合作を継続させることで、結局は蒋介石にストップをかけて毛沢東を利した。毛沢東は一気に動いて満洲を制して日本軍の遺産を手に入れた。結局、毛沢東軍と蒋介石軍は一進一退を繰り返しながらも、毛沢東軍が蒋介石軍を各個撃破し、最後には蒋介石を台湾に追い落とした。
一九四九年、中華人民共和国成立。新王朝の成立である。当然のように‘功臣の粛清’と決まっている。片腕と言ってもいい、‘秘密警察’の高崗は、幹部の前であざけられ、自殺に追い込まれた。
そして‘対外侵略戦争’である。一九五〇年、金日成の北朝鮮軍は突如南下し、韓国のほとんどを制圧した。あわてたアメリカは、国連軍を仕立てて巻き返し、そのまま中朝国境に迫った。毛沢東はここで参戦し、人民解放軍を南下させた。人民解放軍は地雷原に突入し、全滅するとさらに次の部隊を突入させた。突撃は地雷が亡くなるまで続けられ、そのあとに戦車が続いた。戦線は開戦前の国境まで押し戻され、一九五三年、スターリンの死を機に休戦協定が結ばれた。犠牲者数はともかく、アメリカを相手に勝ちに等しい引き分けだった。
この戦いで、毛沢東は三つの戦争目的を全うした。第一に、副主席としてスターリンが毛沢東にあてがった高崗の追い落としに成功した。第二にスターリンに満洲の支配権を諦めさせた。支那人が血を代償として確保した満洲に、もはやスターリンは口を出せなくなった。第三にアメリカ軍を中朝国境から追い払った。三つの戦争目的は、たったひとつ、満洲の確保に集約される。毛沢東は完全にそれに成功した。
大躍進政策による死者は七千万人とも言われる。毛沢東は国家主席の地位を劉少奇に譲り、一線を退いたかに思われた。しかし、その地位の奪還のためにおこしたのが文化大革命だった。劉少奇は監禁生活の上、病気の治療さえ行われずに、冬場の倉庫に放置されて死んだ。同志として劉少奇を追い詰めた林彪が次の攻撃対象となった。彼は逃亡中の飛行機事故で死んだ。
毛沢東のせいで人生を全うできずに死んだ者の数は、朝鮮戦争を含めれば、優に一億人を超える。生徒が先生をつるしあげ、子が親を密告する文革の日々は、一九七六年、毛沢東が死ぬまで続いた。
驚くべきことに、当時から、そんな中華人民共和国と仲良くしようという日本人が少なからずいたのだ。





一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
在日中国人、池袋に文革レストランを開店
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-11/05/content_30500644.htm
![]() | 池袋に「東方紅」という中華料理店がある。在日支那人がオープンしてひと月、店内は70年代の文革時代をテーマにしており、あちこちに毛沢東の絵が飾られ、店員は「為人民服務」(人民のために奉仕する)と書かれた赤い腕章をつけ、標準的な紅衛兵の出で立ち。 |
改革開放後の経済成長のなか、鄧小平の、「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」という理屈で出来上がったのが超格差社会。先に豊かになった者が貧しい者をむさぼる。 | ![]() |
以下は、2013年8月の記事に加筆修正したものです。
テロに関しては、自分の手を汚すことはなかった。その意味で支那の「よい釘は鉄にしない」式を徹底していた。共産主義者であるだけでなく、中華ナショナリストでもあった。毛沢東がやったことは秦の始皇帝や明の洪武帝とまったく同じだった。古代のできごと、中世のできごとが、近代と呼んでいい時代に再現された。しかしその規模は、始皇帝をも、洪武帝をも上回った。 |
![]() | 『嘘だらけの日中近現代史』 倉持満 (2013/06/01) 倉山 満 商品詳細を見る 『嘘だらけの日中近現代史』っていう題名が、すでに“嘘だらけ”…これ、著者が言ってんのよ。 |
国共合作が崩れ、国共内戦が始まった。マフィアに毛が生えた程度の共産党では、巨大な財力と暴力装置をもつ国民党にはかなわず、「長征」と称する大逃亡が行われた。毛沢東に従った多くの貧しい人民が苦難の道に倒れた。毛沢東自身は愛人とともに豊かな読書三昧の日々だった。人民の解放を謳いながら自分の富裕な生活は手放さない職業革命家が彼の姿だった。
中国共産党は、レーニンが世界征服工作の一環として、陳独秀や李大釗らに、コミンテルン中国支部として結成させた。毛沢東は結成第二回大会からの参加だが、のちに第一回大会が歴史から消された。支那の実情を知らないコミンテルンは、都市労働者を組織して革命を起こし、それを農村に波及させることを主張した。毛沢東は農村を地盤に力をため、都市を包囲することを主張し、実行した。
陳独秀や李大釗はコミンテルンに牛耳られたが、毛沢東は彼らの影で着々と自力をつけ、いつのまにか共産党における指導権を確立した。監視社会で生き残る方法を身につけた知識は、独裁者となった彼が“生き残らせない”ために使われた。
ただ者ではない革命家である周恩来も、部下であったはずの毛沢東にいいように使われた。軍の英雄であった朱徳であっても、毛沢東にかかれば、朱徳の名で思うように軍を動かされる立場になった。近代政治学の祖であるマキャヴェリは、政治指導者に必要な資質を「獅子の腕力と狐の知恵」と言っているが、毛沢東は暴力と悪知恵の塊のような人物だった。
一九三六年に第二次国共合作が成立すると、翌年からの支那事変のなかでさえ、毛沢東はひたすら軍の温存を図った。日本軍が蒋介石軍を叩きのめしながらも疲弊していく理想の時間が八年も続いた。日本の統治によって治安が安定すると、国民党の仕業を装い、人民を立てにとってテロを仕掛けた。
日本が主要都市を占領し、国民党が重慶に閉じこもっている間、毛沢東は延安で「整風運動」という粛清を進めた。古参の党員を分断し、お互いに公衆の面前で批判することを強要した。その残虐性ゆえ、「大勢が従うはずがない。いつでも引きずり降ろせる」という思いが、共産党内の勢力均衡にのった毛沢東の党支配を生み出した。密告の奨励、強制により、お互いに潰し合うことを仕掛けられた古参は次々削ぎ落とされた。「整風運動」は、毛沢東の片腕、秘密警察役の康生によって仕掛けられた。そして毛沢東は、共産党と紅軍を完全に掌握した。
毛沢東は恐怖政治によって紅軍を、「毛沢東個人に忠誠を誓う軍隊」に作り替えた。戦略においても、軍を混乱させたスターリンやヒトラーの比ではなかった。独自の「持久戦」論で、蒋介石の国民党軍と日本軍を噛みあわせ、最終的にすべてを手にいれた。宣伝戦においても、日本を上回った蒋介石をあしらった。エドガー・スノウ、アグネス・スメドレーといった共産主義者、アメリカ人のジャーナリストを使って、「腐敗した国民党」、「清廉な共産党」というイメージをアメリカ人に植えつけた。蒋介石は「共産党など戦争には弱いくせに宣伝だけは達者だ」と、日本が蒋介石に向けた台詞を毛沢東に投げつけた。
好機は日本の敗戦とともに訪れた。日本軍の引き揚げとともにアメリカは静観、不介入の姿勢を示した。ソ連は毛沢東と蒋介石の両にらみ。合作を継続させることで、結局は蒋介石にストップをかけて毛沢東を利した。毛沢東は一気に動いて満洲を制して日本軍の遺産を手に入れた。結局、毛沢東軍と蒋介石軍は一進一退を繰り返しながらも、毛沢東軍が蒋介石軍を各個撃破し、最後には蒋介石を台湾に追い落とした。
一九四九年、中華人民共和国成立。新王朝の成立である。当然のように‘功臣の粛清’と決まっている。片腕と言ってもいい、‘秘密警察’の高崗は、幹部の前であざけられ、自殺に追い込まれた。

そして‘対外侵略戦争’である。一九五〇年、金日成の北朝鮮軍は突如南下し、韓国のほとんどを制圧した。あわてたアメリカは、国連軍を仕立てて巻き返し、そのまま中朝国境に迫った。毛沢東はここで参戦し、人民解放軍を南下させた。人民解放軍は地雷原に突入し、全滅するとさらに次の部隊を突入させた。突撃は地雷が亡くなるまで続けられ、そのあとに戦車が続いた。戦線は開戦前の国境まで押し戻され、一九五三年、スターリンの死を機に休戦協定が結ばれた。犠牲者数はともかく、アメリカを相手に勝ちに等しい引き分けだった。
この戦いで、毛沢東は三つの戦争目的を全うした。第一に、副主席としてスターリンが毛沢東にあてがった高崗の追い落としに成功した。第二にスターリンに満洲の支配権を諦めさせた。支那人が血を代償として確保した満洲に、もはやスターリンは口を出せなくなった。第三にアメリカ軍を中朝国境から追い払った。三つの戦争目的は、たったひとつ、満洲の確保に集約される。毛沢東は完全にそれに成功した。
大躍進政策による死者は七千万人とも言われる。毛沢東は国家主席の地位を劉少奇に譲り、一線を退いたかに思われた。しかし、その地位の奪還のためにおこしたのが文化大革命だった。劉少奇は監禁生活の上、病気の治療さえ行われずに、冬場の倉庫に放置されて死んだ。同志として劉少奇を追い詰めた林彪が次の攻撃対象となった。彼は逃亡中の飛行機事故で死んだ。
毛沢東のせいで人生を全うできずに死んだ者の数は、朝鮮戦争を含めれば、優に一億人を超える。生徒が先生をつるしあげ、子が親を密告する文革の日々は、一九七六年、毛沢東が死ぬまで続いた。
驚くべきことに、当時から、そんな中華人民共和国と仲良くしようという日本人が少なからずいたのだ。


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