天下人になれなかった男たち(覚書) 『武士たちの作法 戦国から幕末へ』 中村彰彦
なぜ彼らは天下を取れなかったのか
上杉謙信
上杉軍は強かった。小田原北条軍とその息のかかった関東の土豪は、圧倒的に強い上杉軍が来ると息をひそめ、雪に負われるように上杉軍が越後の帰ると取られた土地を取り返す。上杉謙信は四十九歳でなくなるが、死因は過労、ストレス、過度の飲酒による脳溢血であったろう。
謙信は関東にに対して、前橋に拠点を持っていたにもかかわらず、城郭を築いて小田原北条氏に対抗しようとしなかった。ここで北条氏を防いで、越中・能登方面へ進出する手を最後まで打たずに終わる。
さらに、景勝、景虎の二人の養子を迎えておきながら、家督を決めずに死んだことで、大きな禍根を残した。上杉は家督をめぐって御館の乱という内戦に突入し、力をすり減らす。
武田信玄
村上義清の加勢依頼に応えた上杉謙信との戦いに丸十二年間を費やした(一五五三~一五六四)。これが五回に及ぶ川中島の戦いである。信玄の年齢で言えば三十三歳から四十四歳、武将として最も充実した期間だった。もしも天下に野心があるなら、早々に何がしかの結着をつけて京への足がかりをつけるべきだった。
斎藤龍興
守護大名土岐頼芸を追放して美濃の国を奪ったのが祖父の斎藤道三。道三は嫡男の義龍と戦って戦士。義龍も病死してあとを継いだのがその子の龍興である。
後に秀吉の軍師となる竹中半兵衛は道三の時代から斎藤家に使えていたが、龍興は半兵衛を軽視し、態度にも表した。それを真似る家臣も出て、ある者は半兵衛が稲葉山城に登城するのを見計らって櫓の上から小便をひっかけた。
半兵衛は人質に差し出していた弟の病気見舞いに登城し、数人の家臣を残していったん下城。日頃の御礼の品と偽って、長持ちの中に武器を隠し持って家来十人と再登城。一行は本丸に入ってあっという間に稲葉山城を乗っ取った。
龍興は後に、家臣に見捨てられて家を失った。
浅井長政
本人は信長とはことを構えたくなかった。にも関わらず、長年の朝倉氏との関係を重視する久政に引っ張られて信長に敵対することになる。 信玄は実の父を追放して指導権を確立したが、長政はそれができずに身を滅ぼした。決断力の問題と言えそうだが、仮に父を切ることができたとしても、信長の風上に立つことはできたとは考えにくい。
毛利輝元
病死した父隆元を継いで、祖父元就の遺産である安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆の八カ国計百十二万石を相続した輝元は、必然的に信長の兵力と敵対することになった。高松城の水攻めに、信長の死を知らない毛利勢は秀吉と和睦したわけだが、天下を争うべく秀吉軍が中国大返しを開始したのを見ても、これを追撃しなかった。石山本願寺の戦いにおいても、一時は村上水軍を使って信長の九鬼水軍を蹴散らしながら、機に乗じなかった。毛利勢には、なんとしても天下を掴んでみせるという野心にかけていた。
大友宗麟
豊後の大友宗麟は、領内の土地の一部をイエズス会に寄進し、キリスト教を利用して貿易立国を目指した。足利義輝に鉄砲、黄金、大刀、青銅などを寄贈して肥前・筑後・肥後・豊前・筑前の守護職を手に入れた。さらに日向・伊予の半国も奪って九州探題に指名された。
しかし、一五七三年に隠居すると、京の遊女などと荒淫の日々を送り、自ら家中の乱れを招いた。島津義久、龍造寺隆信、配下の鍋島直茂らに攻め寄せられた。名将立花道雪、高橋紹運を島津との戦いで失い、最後は秀吉に泣きついた。







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上杉軍は強かった。小田原北条軍とその息のかかった関東の土豪は、圧倒的に強い上杉軍が来ると息をひそめ、雪に負われるように上杉軍が越後の帰ると取られた土地を取り返す。上杉謙信は四十九歳でなくなるが、死因は過労、ストレス、過度の飲酒による脳溢血であったろう。
謙信は関東にに対して、前橋に拠点を持っていたにもかかわらず、城郭を築いて小田原北条氏に対抗しようとしなかった。ここで北条氏を防いで、越中・能登方面へ進出する手を最後まで打たずに終わる。
さらに、景勝、景虎の二人の養子を迎えておきながら、家督を決めずに死んだことで、大きな禍根を残した。上杉は家督をめぐって御館の乱という内戦に突入し、力をすり減らす。
武田信玄
村上義清の加勢依頼に応えた上杉謙信との戦いに丸十二年間を費やした(一五五三~一五六四)。これが五回に及ぶ川中島の戦いである。信玄の年齢で言えば三十三歳から四十四歳、武将として最も充実した期間だった。もしも天下に野心があるなら、早々に何がしかの結着をつけて京への足がかりをつけるべきだった。
斎藤龍興
守護大名土岐頼芸を追放して美濃の国を奪ったのが祖父の斎藤道三。道三は嫡男の義龍と戦って戦士。義龍も病死してあとを継いだのがその子の龍興である。
後に秀吉の軍師となる竹中半兵衛は道三の時代から斎藤家に使えていたが、龍興は半兵衛を軽視し、態度にも表した。それを真似る家臣も出て、ある者は半兵衛が稲葉山城に登城するのを見計らって櫓の上から小便をひっかけた。
半兵衛は人質に差し出していた弟の病気見舞いに登城し、数人の家臣を残していったん下城。日頃の御礼の品と偽って、長持ちの中に武器を隠し持って家来十人と再登城。一行は本丸に入ってあっという間に稲葉山城を乗っ取った。
龍興は後に、家臣に見捨てられて家を失った。
浅井長政
本人は信長とはことを構えたくなかった。にも関わらず、長年の朝倉氏との関係を重視する久政に引っ張られて信長に敵対することになる。 信玄は実の父を追放して指導権を確立したが、長政はそれができずに身を滅ぼした。決断力の問題と言えそうだが、仮に父を切ることができたとしても、信長の風上に立つことはできたとは考えにくい。
毛利輝元
病死した父隆元を継いで、祖父元就の遺産である安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆の八カ国計百十二万石を相続した輝元は、必然的に信長の兵力と敵対することになった。高松城の水攻めに、信長の死を知らない毛利勢は秀吉と和睦したわけだが、天下を争うべく秀吉軍が中国大返しを開始したのを見ても、これを追撃しなかった。石山本願寺の戦いにおいても、一時は村上水軍を使って信長の九鬼水軍を蹴散らしながら、機に乗じなかった。毛利勢には、なんとしても天下を掴んでみせるという野心にかけていた。
大友宗麟
豊後の大友宗麟は、領内の土地の一部をイエズス会に寄進し、キリスト教を利用して貿易立国を目指した。足利義輝に鉄砲、黄金、大刀、青銅などを寄贈して肥前・筑後・肥後・豊前・筑前の守護職を手に入れた。さらに日向・伊予の半国も奪って九州探題に指名された。
しかし、一五七三年に隠居すると、京の遊女などと荒淫の日々を送り、自ら家中の乱れを招いた。島津義久、龍造寺隆信、配下の鍋島直茂らに攻め寄せられた。名将立花道雪、高橋紹運を島津との戦いで失い、最後は秀吉に泣きついた。


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