近世(覚書)『読めばすっきり! よくわかる日本外交史 』河合敦
天正遣欧使節
天正十(一五八二)年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らキリシタン大名がイエズス会宣教師ヴァリニャーノのすすめで、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの四名をローマ法王庁に派遣した。謁見したグレゴリウス二世は、使節の少年たちを見て歓喜し、「これは神が私に、地上において最後で、最高の祝福を与えてくれたのだ」と感涙にむせんだという。
キリシタン大名にとっては、イエズス会に協力することで南蛮貿易の見返りを期待したものだった。輸入品としては生糸、絹織物、錦糸。金、香、武器。輸出品は銀や硫黄、蒔絵などの工芸品であった。
大村氏は、イエズス会の要請を入れて、南蛮貿易の中核であった領地の長崎港を同会に寄進していた。このことが、天正十五(一五八七)年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発する原因にもなったという。
四人の遣欧使節が帰国したのは、天正十八(一五九〇)年である。すでにキリスト教は弾圧され始めていた。
千々岩ミゲルは、一時は修道士になるものの棄教し、大村純忠の嫡男喜明に、「きわめて邪法なり。表に後世を説くといえども、じつは国を奪うはかりごと」と密告している。ミゲルは正式に大村家に召し抱えられ、名を大村清左衛門と改める。亡くなるまでキリスト教批判をやめず、迫害にも加わったという。
原マルティノは、慶長五(一六〇〇)年には司祭にまで出世するが、江戸幕府が禁教令を出すとマカオへ脱出し、寛永六(一六二九)年、六十年の生涯を閉じる。
伊東マンショは、マカオへ渡り三年間過ごした後に再帰国、宣教師として布教活動を展開するが、四十三歳の若さで長崎で命を落とす。
中岡ジュリアンは、マカオで司祭に叙せられて帰国し、幕府の禁教令がでてからも布教活動を続ける。しかし、寛永九(一六三二)年に捕縛され、拷問され棄教を迫られるが、屈しなかったため逆さ吊りの刑に処せられる。
慶長遣欧使節
慶長十八(一六一三)年、仙台藩主伊達政宗は、家臣の支倉常長一行をメキシコ経由でスペインに派遣した。スペインとの独自の交易により徳川氏の支配をくつがえす端緒を得ようという、伊達政宗独自の一策であると言われていたが、背景に徳川家康の意志があったとする説が強くなっているという。
慶長元(一五九六)年、秀吉は土佐に漂着したサン・フェリペ号乗員の発言をきっかけに、宣教師はじめ二十六人のキリスト教徒を捕らえ、長崎で公開処刑している。キリスト教側の言う、“二十六聖人の殉教”と呼ばれる事件である。これでスペインとの関係が悪化。国交が途絶えてしまう。
江戸幕府を開いた徳川家康は、スペインとの通商復活を強く希望していた。世界一の産出量を誇る南米の銀山や、太平洋横断の航海技術、銀採掘技術への欲求があったと言われる。様々な努力も実を結ばず、仙台藩主伊達政宗に白羽の矢が立てられた。牡鹿郡月浦で行われた大型西洋帆船建造には幕府の船大工が多く派遣されており、使節には幕臣も同乗している。
ちなみに、家康をその気にさせたのはフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロで、使節に派遣により、スペイン国王やローマ教皇に布教の成果をアピールしたかったらしい。







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天正十(一五八二)年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らキリシタン大名がイエズス会宣教師ヴァリニャーノのすすめで、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの四名をローマ法王庁に派遣した。謁見したグレゴリウス二世は、使節の少年たちを見て歓喜し、「これは神が私に、地上において最後で、最高の祝福を与えてくれたのだ」と感涙にむせんだという。
キリシタン大名にとっては、イエズス会に協力することで南蛮貿易の見返りを期待したものだった。輸入品としては生糸、絹織物、錦糸。金、香、武器。輸出品は銀や硫黄、蒔絵などの工芸品であった。
大村氏は、イエズス会の要請を入れて、南蛮貿易の中核であった領地の長崎港を同会に寄進していた。このことが、天正十五(一五八七)年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発する原因にもなったという。
四人の遣欧使節が帰国したのは、天正十八(一五九〇)年である。すでにキリスト教は弾圧され始めていた。
千々岩ミゲルは、一時は修道士になるものの棄教し、大村純忠の嫡男喜明に、「きわめて邪法なり。表に後世を説くといえども、じつは国を奪うはかりごと」と密告している。ミゲルは正式に大村家に召し抱えられ、名を大村清左衛門と改める。亡くなるまでキリスト教批判をやめず、迫害にも加わったという。
原マルティノは、慶長五(一六〇〇)年には司祭にまで出世するが、江戸幕府が禁教令を出すとマカオへ脱出し、寛永六(一六二九)年、六十年の生涯を閉じる。
伊東マンショは、マカオへ渡り三年間過ごした後に再帰国、宣教師として布教活動を展開するが、四十三歳の若さで長崎で命を落とす。
中岡ジュリアンは、マカオで司祭に叙せられて帰国し、幕府の禁教令がでてからも布教活動を続ける。しかし、寛永九(一六三二)年に捕縛され、拷問され棄教を迫られるが、屈しなかったため逆さ吊りの刑に処せられる。
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慶長遣欧使節
慶長十八(一六一三)年、仙台藩主伊達政宗は、家臣の支倉常長一行をメキシコ経由でスペインに派遣した。スペインとの独自の交易により徳川氏の支配をくつがえす端緒を得ようという、伊達政宗独自の一策であると言われていたが、背景に徳川家康の意志があったとする説が強くなっているという。
慶長元(一五九六)年、秀吉は土佐に漂着したサン・フェリペ号乗員の発言をきっかけに、宣教師はじめ二十六人のキリスト教徒を捕らえ、長崎で公開処刑している。キリスト教側の言う、“二十六聖人の殉教”と呼ばれる事件である。これでスペインとの関係が悪化。国交が途絶えてしまう。
江戸幕府を開いた徳川家康は、スペインとの通商復活を強く希望していた。世界一の産出量を誇る南米の銀山や、太平洋横断の航海技術、銀採掘技術への欲求があったと言われる。様々な努力も実を結ばず、仙台藩主伊達政宗に白羽の矢が立てられた。牡鹿郡月浦で行われた大型西洋帆船建造には幕府の船大工が多く派遣されており、使節には幕臣も同乗している。
ちなみに、家康をその気にさせたのはフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロで、使節に派遣により、スペイン国王やローマ教皇に布教の成果をアピールしたかったらしい。


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