古代支那中央集権制の完成(覚書)『政治の起源 上』 フランシス・フクヤマ
支那封建制
春秋戦国がもたらした制度的革新
商鞅の改革






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男子の間で財産を平等に分配するというシステムのもとでは、家族の土地はどんどん細分化されていく。そこで支那人は合同家族という考えを発達させた。男系子孫が複数の世代同じ屋根の下に住む。成長すると、一族が所有する土地に自分たちの家を建てるか、新しい土地の獲得を目指した。子孫は出自集団が共有する財産に関して権利を持ち、共通の祖先に対する祭祀を行う義務を有していたので、先祖の土地から遠く離れることができず、土地を勝手に売却することもできなかった。 ヨーロッパでは、部族を基礎にした制度は封建時代が始まった段階で破壊された。異民族がキリスト教に改宗した後、二~三世代でそのような変化が起きた。ヨーロッパの封建主義は姻戚関係のない領主と臣下を結びつけ、複雑な親族関係が存在しなくなった社会において協力を促進する役割を果たした。 支那では、主要な政治的主体がここの領主ではなく、領主と彼の属する親族集団であった。封土は親族集団のもので、領主個人のものではなかった。領主は親族集団の一員として、裁量権を制限されていた。 |
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戦国時代終盤になると、城郭の包囲戦は数ヶ月に及び、戦争は年単位で行われ、五十万を数えるような軍が参戦した。ヨーロッパのポエニ戦争におけるカンネーの戦いでは将兵五万の命が失われたが、前二六〇年に支那で起こったある戦いでは四五万人が死んでいる。 戦争形態は戦車隊を中心とする体制から歩兵隊へ変わった。鉄製の武器、弓矢の普及がその変化を促した。兵は親族集団ごとに組織化されるのではなく、徴兵によって集められ、階層的に組織化された。徴兵は楚国から始まった。戦国時代初頭に始まる農民の大規模徴兵は歩兵隊を中心とする軍の編成への変化によって促された。貴族は脇に追いやられ、実力主義が国家生き残りの条件として定着した。 戸籍、徴税、官僚制が整えられていくのは、上記の状況からすれば自然な流れであった。その先鞭となったのは、商鞅が秦で行った改革である。 |
商鞅の改革
秦国孝公の首席顧問となった商鞅は、貴族たちが代々世襲していた特権に攻撃を加え、実力に応じて二〇階級からなる官僚制度を整えた。土地、家臣、女奴隷、衣服は実績に応じて国家から分け与えられた。国法に背いた者は厳しい刑罰が科せられた。 農地制度は井田制を廃止した。これによって農民は領主貴族に対する責務から開放され、土地所有や移動の自由を得た。これによって国家は、貴族を通さずにすべての土地所有者に統一された税を課すことができるようになった。合同家族という伝統的習慣を突き崩し、核家族化を促した。これは個人の意欲をかきたてると同時に、国家の個人に対する支配を強化する狙いがあった。 五から十の家族を単位として改革の徹底をはかり、相互に監視させた。犯罪はこの単位で摘発され、報告しなければ厳罰に処された。密告者は戦闘で手柄を上げたと同様の褒章を受けた。 |


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