江戸時代の識字率(覚書)『歴史の読み解き方』 磯田道史
“江戸時代の日本はヨーロッパよりも高い識字率だった”というのは俗説だそうです。ただし、江戸をはじめとする大都市や京都周辺の識字率は、たしかにヨーロッパをしのいでいたようです。南九州や東北地方までおしなべて言うと、一八五〇年頃の日本の識字率はおおよそ四〇%前後と、著者は言ってます。
スウェーデン、プロイセンが八〇~九〇%、ベルギー、フランス、イギリスがおおむね五〇%、ロシアは一〇%に達するか達しないかくらいだったそうです(カルロ・M・チポラの研究)。聖書を自分で読もうとした北西部のプロテスタントで独立自営農民の多い地域の識字率が高く、神父から教えを聞いた南部に向かって低くなる。さらに東部では農奴制の名残が残り識字率が低かったということです。
まあ、幕藩体制期の統一前の日本だから、ばらつき具合も大きかったでしょう。大都市部では九〇%という所もあれば、鹿児島県では男性で三〇%、女性に限れば明治二〇年近くなっても九五%が文字を解さなかったようです。身分によるばらつきも当然あったわけで、それを考えれば都市部の八〇~九〇%の識字率ということにビックリ。
よく“薩長”と並び称される薩摩と長州。でも、抱えている民衆の教養のレベルには大きな違いがあった。字が読めない薩摩の民衆、方や学問好きで理屈っぽい長州の民衆。徴兵検査の時に課された全国統一試験の結果を見ると、山口県の成績が費用に高いそうです。ところが山口県では、旧制中学に入学した学歴のある者も、学歴のない者も、成績に大きな違いがないという。どうやらその理由は、家庭教育や地域教育がしっかりしていて、学校教育によらなくてもある程度の常識問題が解けるだけの程度があったということらしい。
ところが薩摩ではそうではなかった。この間、武田鉄也氏がご自分のラジオ番組“三枚おろし”の中で言っていた。薩摩には、「まだ、議ば言うか❢❢」という方言交じりの言葉があって、これは理屈で物事をとらえようとする者への侮蔑の言葉、罵りの言葉なのだそうです。
かと言って薩摩藩がまったく“議論”をないがしろにしていたわけではないようです。薩摩の青少年教育を『郷中教育』と言いますが、地域の24・25歳の先輩が6・7歳から15歳くらいの後輩に施す伝統的な教育だそうです。この中で後輩たちは、先輩たちの話を聞き、また先輩たちから徹底的に命題を出され、それに答えていきます。その時、誰かが書いたものを読んだような、抽象的な答えにこだわると、先輩達から「まだ、議ば言うか❢❢」と罵られるというのです。後輩たちは先輩たちの出した命題に、具体的、現実的に答えなければなりません。それを繰り返すことにより、抽象的な観念にとらわれない現実的な判断能力が養われるのだそうです。
長州にしてみれば薩摩の連中は理屈の通らない連中で、薩摩にしてみれば長州の連中は理屈に先走った無謀な連中でしょう。ところがこの薩長が同盟したことによって理念は行動力を与えられ明治維新が達成されていきます。だから、いい組み合わせだったわけですね。
ところが、日本は徐々に理念に流されていきますね。つまり長州に流されていってしまいます。実際、幕末においても長州は無謀だった。ただ、その理念が明治維新の熱源となったことは間違いないと思います。この時は、薩摩という具体性を持った力を得て明治維新を成功させますが、その具体性を失った時、理念の暴走を止められなくなってしまいます。藩校での成績の良かったものが藩政に関与したように、官僚が試験によって選抜されることにより、具体的、現実的判断能力を磨く機会が失われていったことの影響が大きいんじゃないでしょうかね。







一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
スウェーデン、プロイセンが八〇~九〇%、ベルギー、フランス、イギリスがおおむね五〇%、ロシアは一〇%に達するか達しないかくらいだったそうです(カルロ・M・チポラの研究)。聖書を自分で読もうとした北西部のプロテスタントで独立自営農民の多い地域の識字率が高く、神父から教えを聞いた南部に向かって低くなる。さらに東部では農奴制の名残が残り識字率が低かったということです。
まあ、幕藩体制期の統一前の日本だから、ばらつき具合も大きかったでしょう。大都市部では九〇%という所もあれば、鹿児島県では男性で三〇%、女性に限れば明治二〇年近くなっても九五%が文字を解さなかったようです。身分によるばらつきも当然あったわけで、それを考えれば都市部の八〇~九〇%の識字率ということにビックリ。
![]() | 『歴史の読み解き方』 磯田道史 (2013/11/13) 磯田道史 商品詳細を見る 江戸期日本の危機管理に学ぶ |
ところが薩摩ではそうではなかった。この間、武田鉄也氏がご自分のラジオ番組“三枚おろし”の中で言っていた。薩摩には、「まだ、議ば言うか❢❢」という方言交じりの言葉があって、これは理屈で物事をとらえようとする者への侮蔑の言葉、罵りの言葉なのだそうです。
かと言って薩摩藩がまったく“議論”をないがしろにしていたわけではないようです。薩摩の青少年教育を『郷中教育』と言いますが、地域の24・25歳の先輩が6・7歳から15歳くらいの後輩に施す伝統的な教育だそうです。この中で後輩たちは、先輩たちの話を聞き、また先輩たちから徹底的に命題を出され、それに答えていきます。その時、誰かが書いたものを読んだような、抽象的な答えにこだわると、先輩達から「まだ、議ば言うか❢❢」と罵られるというのです。後輩たちは先輩たちの出した命題に、具体的、現実的に答えなければなりません。それを繰り返すことにより、抽象的な観念にとらわれない現実的な判断能力が養われるのだそうです。
長州にしてみれば薩摩の連中は理屈の通らない連中で、薩摩にしてみれば長州の連中は理屈に先走った無謀な連中でしょう。ところがこの薩長が同盟したことによって理念は行動力を与えられ明治維新が達成されていきます。だから、いい組み合わせだったわけですね。
ところが、日本は徐々に理念に流されていきますね。つまり長州に流されていってしまいます。実際、幕末においても長州は無謀だった。ただ、その理念が明治維新の熱源となったことは間違いないと思います。この時は、薩摩という具体性を持った力を得て明治維新を成功させますが、その具体性を失った時、理念の暴走を止められなくなってしまいます。藩校での成績の良かったものが藩政に関与したように、官僚が試験によって選抜されることにより、具体的、現実的判断能力を磨く機会が失われていったことの影響が大きいんじゃないでしょうかね。


- 関連記事