支那は無法地帯だった(覚書)『山川日本史 近現代史編 下』 倉山満
袁世凱没後の支那は軍閥割拠の内戦状態で、力が支配する無法地帯だった。
その認識が、日本の近現代史を考えるとき、あらゆる出来事の前提になる。袁世凱が生きていた1915年でもひどい状況であったことは、21箇条の要求にも伺える。以下は、“要求”の意義を説明する大隈重信首相の言葉である。
それを理解した上で、十四の要求条項と七の希望条項を読めば、“国際法を順守し、在留邦人の安全を保証し、主権国家として最低限の義務を果たすべき環境を整える”ことを要求するものであることがわかる。つまり、それすらなかったということである。
袁世凱没後の支那は軍閥割拠の内戦状態で、力が支配する無法地帯だった。しかも、それは最後の最後まで続く。
汪兆銘は“支那を救うには日本との和平しかない”と考え、汪兆銘と袂を分かつにあたり、『君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く』と書簡を送っている。ハル・ノートは日本に対し、その汪兆銘を切ってアメリカにアジアを売り払った蒋介石を支那の正式な政権と認めろというのだから話にならない。
なにかそこに、“支那”というまとまった政権があったかのように言っても、満州事変から敗戦に至る日本の歴史、さらにはその後の半島分断、支那の共産化、朝鮮戦争といった東アジアの歴史は見えてこない。当然、あれだけの犠牲を払ったにも関わらず、何の教訓も得られない。最も大きんな問題って、その事自体にあるんじゃないかな。






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その認識が、日本の近現代史を考えるとき、あらゆる出来事の前提になる。袁世凱が生きていた1915年でもひどい状況であったことは、21箇条の要求にも伺える。以下は、“要求”の意義を説明する大隈重信首相の言葉である。
日本は支那に対して決して領土的野心を有する者に非ず。成るべく友誼的に相互の経済的利益を進めて行こうと云う趣旨に他ならぬのである。抑も日支両国の間には、日露戦争以来久しく懸案となって居るものが多い。本来ならもっと早く解決さる可きものが当局の怠慢なりしと、二度の革命に依り、今日まで閑却されて居った為めである。その中、山東省の問題は偶発的のものであるが、是は従来独逸が有して居った利権を、東洋永遠平和の為め、日本に移すと云うに過ぎないのである。斯く観じ来れば今回の要求は支那に対し、決して過大なる要求ではないのである。 |
それを理解した上で、十四の要求条項と七の希望条項を読めば、“国際法を順守し、在留邦人の安全を保証し、主権国家として最低限の義務を果たすべき環境を整える”ことを要求するものであることがわかる。つまり、それすらなかったということである。
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袁世凱没後の支那は軍閥割拠の内戦状態で、力が支配する無法地帯だった。しかも、それは最後の最後まで続く。
第二次大戦後、南京国民政府への参画者はことごとく捕らえられ、中国の裏切り者として『漢奸裁判』にかけられる。 その中に、汪兆銘の妻、陳壁君(チンペキクン)がいた。 彼女の法廷陳述が、日中戦争のすべてを語っている。 「我々を中国の裏切り者というが、蒋(介石)の重慶派こそ国民を捨てて逃げたのではなかったか。・・・我々を日本と通謀した漢奸と呼ぶなら、蒋は米、毛沢東はソ連と通謀したではないか」 (名越二荒之助編「昭和の戦争記念館より) |
汪兆銘は“支那を救うには日本との和平しかない”と考え、汪兆銘と袂を分かつにあたり、『君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く』と書簡を送っている。ハル・ノートは日本に対し、その汪兆銘を切ってアメリカにアジアを売り払った蒋介石を支那の正式な政権と認めろというのだから話にならない。
なにかそこに、“支那”というまとまった政権があったかのように言っても、満州事変から敗戦に至る日本の歴史、さらにはその後の半島分断、支那の共産化、朝鮮戦争といった東アジアの歴史は見えてこない。当然、あれだけの犠牲を払ったにも関わらず、何の教訓も得られない。最も大きんな問題って、その事自体にあるんじゃないかな。


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