支那は侵略国家
Record China 2014年6月6日 テロ撲滅に本腰の新疆、5月に続き公開判決実施=81人が裁かれ、死刑などが言い渡される―中国 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=89238&type=0 |
清朝皇帝は、漢人にとっては伝統的な皇帝であったが、満洲人にとっては部族長会議の議長であった、モンゴル人にとってはチンギス・ハーン以来の大ハーン。チベット人にとっては仏教の最高施主。東トルキスタンのイスラム教徒にとっては保護者だった。大清帝国の本質は、五大種族の同君連合国家だった。 この時代、明の旧領だけが支那で、満洲は旗人の土地、旗地と呼ばれる将軍が治める特別行政区域だった。 |
モンゴル草原、今の青海省・四川省西部を含めたチベット、回部と呼ばれた新疆は、清朝時代には「藩部」と言った。藩部に対しては種族自治を原則とし、種族ごとに現地で使用される言語も法律も異なった。
明の支配下にあった地域と、満洲、万里の長城以北のモンゴル草原は分けて支配した。あとから清朝の版図に入った北モンゴル、青海草原とチベット、新疆にも漢人農民の移住を禁止し、商人も一年を超えて滞在することはできず、家も持てず、結婚もできなかった。 (岡田英弘著 『康熙帝の手紙』より)
明の支配下にあった地域と、満洲、万里の長城以北のモンゴル草原は分けて支配した。あとから清朝の版図に入った北モンゴル、青海草原とチベット、新疆にも漢人農民の移住を禁止し、商人も一年を超えて滞在することはできず、家も持てず、結婚もできなかった。 (岡田英弘著 『康熙帝の手紙』より)
上記のように、清帝国を正しく理解すれば、辛亥革命とは、漢族の満州族からの独立であり、それによる清帝国の滅亡により、伝統的な支那も、モンゴルも、チベットも、東トルキスタンも独立したことになる。その後の支那が軍閥割拠による内乱に突入したのは、彼らの勝手。
ただし、東トルキスタンは、清末期のムスリム大反乱が清の漢人の左宗棠による討伐を受けて後、新疆省が置かれて漢人官僚による支配を受けていた。そのため、辛亥革命後、新疆省を通じて東トルキスタン全体が中華民国に合流する形となるが、中華民国事態が軍閥割拠の内戦状態となり、東トルキスタンは事実上の独立状態にあった。さらに、1944年から46年にかけては、ウイグル人主体の独立政権が登場していた。
内モンゴルは、日本の敗戦によって、やがて自然と中共政権の手に落ちるが、東トルキスタンとチベットは、毛沢東が大陸を制したのち、中共軍による軍事侵略を受けた。
内モンゴルは、日本の敗戦によって、やがて自然と中共政権の手に落ちるが、東トルキスタンとチベットは、毛沢東が大陸を制したのち、中共軍による軍事侵略を受けた。
現在の支那が、かつての大清帝国とは異なり、ただ収奪を目的にした侵略国家である事は歴然である。清朝は、末期こそその志を失うものの、地域に安定をもたらす機構として存在し、最良の方法を模索した。現在の支那、中華人民共和国は、各地に漢人農民を入り込ませ、土地を収奪し、混血を奨励し、文化を衰退させ、圧力を加え、逆らうものを踏み潰し、彼らを消滅させようとしている。 支那は裁く立場にはない。裁かれるべきこそが支那である。


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