教皇と皇帝(覚書)『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上』 塩野七生
ローマ法王は、神の意を信者に伝えるとされている役割からもキリスト教会の最高権威者であり、それによってキリスト教徒全員の精神上の指導者であるとされていたのだ。法王に背くものは破門に処せられたのも、法王に背くものは神に背くことに同じ、と考えられていたからである。・・・ 一方の皇帝だが、皇帝でもオリエントの皇帝と違って、ヨーロッパにしか存在しなかった神聖ローマ帝国の皇帝である。ヨーロッパのキリスト教世界では、世俗界の最高位者、とされる存在だった。 言い換えれば、ローマ法王の責務が、信者たちが精神的ないし宗教的に安らかな生を送り安らかに死を迎えるのに責任をもつことにあるならば、皇帝の責務は、同じ信者が平和裏に生活でき、貧しさに苦しむことなく生きていけるよう務めること、にある。この二者に与えられた「権力」も、前者のそれが「聖権」で、後者は「俗権」と称されたのだから。 しかし、「聖権」と「俗権」に分かれていようと、最高位者にのみ神が授けた権力、とされていたのが中世という時代である。それゆえ、ローマ法王も神聖ローマ帝国の皇帝も、世襲は認められていなかった。いずれも、選挙で選ばれる必要があった。 ローマ法王は、緋色の衣の枢機卿たちの投票によって選ばれなければ、その中で一人だけ白衣を許される法王にはなれない。神聖ローマ帝国の皇帝も、「選帝侯」と呼ばれたドイツの有力諸侯たちに選ばれないかぎり、帝冠を頭上にすることはできないのである。 この点が、この二者と他の王侯たちとの最大の違いだった。王権は、王の子に生まれれば得ることができる世襲の権利だが、ローマ法王と神聖ローマ帝国の皇帝だけは、地位は彼らよりも上とされていたことからも、世襲権ではなかったのである。 本書P59~P60 |
![]() | 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上』 塩野七生 (2013/12/18) 塩野 七生 商品詳細を見る 近代をめざした皇帝 |
それにしても、古代ローマ帝国においては、何度となく弾圧を受けたキリスト教である。初期は、他教から白眼視され、ネロ帝からはスケープゴートに使われさえした。皇帝の神格化、兵役を巡ってもローマ帝国のお荷物であった。そんな状況でも信者を増やしたのは、パウロの教えよりも、むしろ“ユダヤ教徒イエス”の言行に見られる博愛の精神にあったんだろう。
中世西ヨーロッパにおける“教皇と皇帝”の始まりは、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313)でしょ。あれで、教会と帝国は妥協した。この妥協によってローマ帝国は権力に加え、その権力を裏打ちする神の権威を手に入れた。キリスト教会は皇帝の権力に神の権威を与えることで、皇帝への影響力を持った。
ミラノ勅令はキリスト教の“公認”。認める立場にあるのだから、この段階ではコンスタンティヌス帝がキリスト教会に対して上位にある。しかし、“神の権威”を皇帝の権力の後ろ盾として利用しようと考えた段階で、少なくとも“神”に対しては、皇帝は下位に立っている。その思想は後世に“王権神授説”と呼ばれるものであり、900年後に教皇インノケンティウス3世が「教皇は太陽、皇帝は月」と言った体制はここから始まっている。
しかし、教皇は神ではない。ただの代理人である。ただの代理人が“神の意志”を独占したというのだから、これは人間による支配である。代理人はやりたい放題ということになる。


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