『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上』 塩野七生
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世。
彼が生きたのは1194年から1250年。在位は1220年から1250年。
祖父は“バルバロッサ(赤ひげ)”と呼ばれたフリードリヒ1世。父ハインリヒ6世はシチリア王女コンスタンツァと結婚してシチリア王の地位につき、ドイツと南イタリアを支配する。フリードリヒ2世は父母を早くに失う。その段階で彼はシチリア王。母は亡くなる前、フリードリヒの後見を、なんと教皇インノケンティウス3世に依頼していたという。・・・
あ~、面白かった。
『ローマ人の物語』を書き終えた著者の塩野七生さんは、「次は何を書くのか」という質問にそう答えたそうです。そうして書かれたのが、まずは『ローマ亡き後の地中海世界』。続いて、『十字軍物語』。実は、まともに読んでない。『十字軍物語』は第一巻だけ読んだんだけど、なぜかその後を続けなかった。たいしたわけがあるわけじゃない。たまたま・・・。たぶん、出版された時に、それ以上に読みたい本があって、そっち読んでるうちに忘れちゃったんだろう。・・・恥ずかしいけど、ニワトリみたいに・・・。
大雑把な言い方をすれば、中世とは500年頃から1500年頃までの1000年間。フリードリヒ2世が生きたのは、間違いなく中世と言われる時代であった。中世の入り口の時期は寒冷期。政治的大混乱と一緒になって、西ヨーロッパは急速にその社会的活動を縮小させる。ローマ帝国の時代、キリスト教が信者を増やしつつあったと言っても高度に進化した文明を知るローマの人々であれば、のちの西ヨーロッパのような“狂信”はありえなかったろう。
しかし西ヨーロッパの場合、古代から中世への移り変わりは、“変化”や“発展”ではなく、“断絶”だった。カール戴冠の後であれば、ローマ教会世界にとってこの“断絶”は、願ってもない幸運でさえあったろう。人々は、教会の説く“神の国”以上に輝かしい人間が作り上げた社会があったことなんて、なんにも知らないんだから。
中世まっただ中の1000年ころは、温暖期。農法の改革と相まって農業生産が伸び、人口が増加して、閉ざされていた西ヨーロッパでは土地が不足する。そんな社会背景と教会が煽り立てた“狂信”で、十字軍が起こる。1096年からおよそ200年間が十字軍時代。フリードリヒ2世も十字軍を率いている。いわゆる、まっただ中の人なのだ。
ところがまっただ中にありながら、彼は違った。明らかに近代を志向した。太陽に照らされてこそ光る月のように、教皇の威光に照らされなければ輝けない皇帝の立場で、彼は自ら光を発した。神による支配よりも法による支配をめざし、法の支配を受け入れるかぎりムスリムにも偏見を持たなかった。新たに大学を創設して官僚を育て、中央集権化をめざした。教皇権が絶頂に達していた時代にである。
それでも彼は皇帝である。彼自身が、実はものすごく中世的存在でもある。中世をくつがえしていく“都市”の最大の敵でもあった。なにしろ社会全体が近代化するよりも、200年以上前の話なのだから。
その人生は波瀾万丈。インノケンティウス3世、ホノリウス3世、グレゴリウス9世の圧力に抗しつつ、中央集権化をめざし、第六回十字軍を外交によって成功させ、ロンバルディア同盟を屈服させてグレゴリウス9世を落胆させる。フリードリヒ2世について私が知っていることは、このあたりまで。この先の彼の人生ってどんなものだったんだろう。
・・・すぐ読まなきゃいけない本があるんで、下巻は少ししてから。・・・そんなこと言ってるうちに、忘れちゃったりするんだよなぁ。一、ニの三歩でさ。・・・なにしろ、ニワトリ並だから・・・







一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
彼が生きたのは1194年から1250年。在位は1220年から1250年。
祖父は“バルバロッサ(赤ひげ)”と呼ばれたフリードリヒ1世。父ハインリヒ6世はシチリア王女コンスタンツァと結婚してシチリア王の地位につき、ドイツと南イタリアを支配する。フリードリヒ2世は父母を早くに失う。その段階で彼はシチリア王。母は亡くなる前、フリードリヒの後見を、なんと教皇インノケンティウス3世に依頼していたという。・・・
![]() | 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上』 塩野七生 (2013/12/18) 塩野 七生 商品詳細を見る 近代をめざした皇帝 |
あ~、面白かった。
ルネサンスを書き古代ローマを書いてきたら、まだ手つかずの一千年がその中間に残っていることに気づいたのです。中世と呼ばれるその一千年を、これから埋めていこうと考えています。 |
『ローマ人の物語』を書き終えた著者の塩野七生さんは、「次は何を書くのか」という質問にそう答えたそうです。そうして書かれたのが、まずは『ローマ亡き後の地中海世界』。続いて、『十字軍物語』。実は、まともに読んでない。『十字軍物語』は第一巻だけ読んだんだけど、なぜかその後を続けなかった。たいしたわけがあるわけじゃない。たまたま・・・。たぶん、出版された時に、それ以上に読みたい本があって、そっち読んでるうちに忘れちゃったんだろう。・・・恥ずかしいけど、ニワトリみたいに・・・。
大雑把な言い方をすれば、中世とは500年頃から1500年頃までの1000年間。フリードリヒ2世が生きたのは、間違いなく中世と言われる時代であった。中世の入り口の時期は寒冷期。政治的大混乱と一緒になって、西ヨーロッパは急速にその社会的活動を縮小させる。ローマ帝国の時代、キリスト教が信者を増やしつつあったと言っても高度に進化した文明を知るローマの人々であれば、のちの西ヨーロッパのような“狂信”はありえなかったろう。
しかし西ヨーロッパの場合、古代から中世への移り変わりは、“変化”や“発展”ではなく、“断絶”だった。カール戴冠の後であれば、ローマ教会世界にとってこの“断絶”は、願ってもない幸運でさえあったろう。人々は、教会の説く“神の国”以上に輝かしい人間が作り上げた社会があったことなんて、なんにも知らないんだから。
中世まっただ中の1000年ころは、温暖期。農法の改革と相まって農業生産が伸び、人口が増加して、閉ざされていた西ヨーロッパでは土地が不足する。そんな社会背景と教会が煽り立てた“狂信”で、十字軍が起こる。1096年からおよそ200年間が十字軍時代。フリードリヒ2世も十字軍を率いている。いわゆる、まっただ中の人なのだ。
ところがまっただ中にありながら、彼は違った。明らかに近代を志向した。太陽に照らされてこそ光る月のように、教皇の威光に照らされなければ輝けない皇帝の立場で、彼は自ら光を発した。神による支配よりも法による支配をめざし、法の支配を受け入れるかぎりムスリムにも偏見を持たなかった。新たに大学を創設して官僚を育て、中央集権化をめざした。教皇権が絶頂に達していた時代にである。
それでも彼は皇帝である。彼自身が、実はものすごく中世的存在でもある。中世をくつがえしていく“都市”の最大の敵でもあった。なにしろ社会全体が近代化するよりも、200年以上前の話なのだから。
その人生は波瀾万丈。インノケンティウス3世、ホノリウス3世、グレゴリウス9世の圧力に抗しつつ、中央集権化をめざし、第六回十字軍を外交によって成功させ、ロンバルディア同盟を屈服させてグレゴリウス9世を落胆させる。フリードリヒ2世について私が知っていることは、このあたりまで。この先の彼の人生ってどんなものだったんだろう。
・・・すぐ読まなきゃいけない本があるんで、下巻は少ししてから。・・・そんなこと言ってるうちに、忘れちゃったりするんだよなぁ。一、ニの三歩でさ。・・・なにしろ、ニワトリ並だから・・・


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