『キリスト教の創造』 バート・D・アーマン
2011年10月にこの本を読んでの記事を書いている。
キリスト教の本質はパウロの言ったことにあるわけで、「人の罪をすべて背負ってイエスは十字架上で死んだと、だからイエスの復活を信じるものはすくわれる」と、これを信じるか否かが、キリスト教の本質。復活という奇跡を補うために、生前のイエスまでが書きかえられたわけだ。
以下は、その時書いた記事の一部です。
さてと・・・、そして最初に戻る。「しかし、他者を完全に排除してまで守るべきキリスト教とは、いったい、それに見合う価値を持っていたのだろうか。 」







一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
副題は「容認された偽造文書」 著者のバート・D・アーマンは、キリスト教関連の偽造文書の研究者。そのメスは聖書そのものにも及ぶ。 「その研究成果を一般向けにわかりやすく解説したのが本書」という立ち位置の本。だけど、私なんぞは聖書すらまともに呼んでないのだから当然だけど、全般を面白く読めたというわけには行かなかった。だけど、初期キリスト教の置かれた立場。文書の偽造が必要であったことの歴史性。そういった点に関しては、とても面白く読ませてもらった。 キリスト教徒の非キリスト教ユダヤ人に対する恐れが、いかに歴史に大きな傷跡を残してきたか。キリスト教徒の異教徒に対する恐れが、いかに歴史に大きな傷跡を残してきたか。 キリスト教徒の恐れは、キリスト教に対するすべての攻撃が、それへの防御をおろそかにすれば、キリスト教そのものがあっけなく雲散霧消してしまうことを理解していたからこそのものだろう。だからキリスト教は、他者に対して常に攻撃的であり、容赦なかった。 しかし、他者を完全に排除してまで守るべきキリスト教とは、いったい、それに見合う価値を持っていたのだろうか。 |
![]() | 『キリスト教の創造』 バート・D・アーマン (2011/09) バート・D. アーマン 商品詳細を見る 容認された偽造文書 |
この間、塩野七生さんの『皇帝フリードリヒ二世の生涯』を読んで、この本のことを思い出した。一神教で、しかも寛容性を書いたそれが、いかに人々を苦しめるか。前述の過去記事の中で、最後に私は、「しかし、他者を完全に排除してまで守るべきキリスト教とは、いったい、それに見合う価値を持っていたのだろうか。 」と書いているが、やっぱり今でも同じだな。 |
以下は、その時書いた記事の一部です。
キリスト教は数々の嘲笑を浴びた。“イエスは不倫で生まれた子だった。父親はどこの馬の骨とも分からない男だ。イエスには神の威厳があるという主張も、彼の貧しさと、恥ずべき末路によってあきらかに否定されている。”エピクロスは神々の存在を否定しなかった。しかし、神の概念がいかなるものであれ、それが人間の祈りや儀式に耳を貸すなどと考えるのは幻想だ。なぜ神が他の生き物ではなく“人間の姿で現れる”などと考えなくてはならないのか。しかもなぜユダヤ人の姿で現れたのか。なぜ分別ある人間が神の摂理などという考えを信じなくてはならないのか。なぜ神の屈辱と苦痛に対する賛美が、傲慢な勝利主義と結びつくのか。エピクロス派の科学的原子論からすれば、また感覚からとらえた事実から考えても、受肉だの復活だのはあまりにも馬鹿げていた。 キリスト教は、その地位を完全に確立したとき、このような敵対的な嘲笑を示す表現の大部分を破壊することに成功した。エピクロス学派の初期キリスト教徒に対する嘲笑と異議が、その後、エピクロス学派が完全に消滅するきっかけとなった。キリスト教徒は、自らが学問を捨てて信仰を選択した引け目から、真理を追求することを喜びとするエピクロス派からの嘲笑を恐れた。それ以上に、魂が死すべきものであるというエピクロスの主張を認めれば、キリスト教理念の基本構造が崩壊することを恐れた。「至高の善は喜びの追求と苦痛の低減」という倫理観は、それだけでキリスト教を否定していた。 エピクロスは愚か者で、豚のような大食漢で、頭がオカシイ人物に仕立てあげられた。信奉者で『物の本質について』の作者ルクレティウスも愚かで、豚のように放縦で、正気ではなく、最後には自殺したと際限なく繰り返した。名声を傷つけるだけでは十分ではなかった。そうすることによって彼らの著作を読むことを禁じ、関心を示す人々に屈辱を与え、写本づくりもやめさせた。 エピクロスの痕跡は丹念に消されていった。それでもそれを辿ろうとするものは、耽美的快楽主義者にしか行き着くことはできなかった。キリスト教徒は救い主の苦しみ、人間の罪深さ、父なる神の怒りについて説き、人々は、喜びは愚かで危険な悪魔の罠であると思い込むことになった。 そのようなキリスト教世界に変化をもたらしたのが、ポッジョ・ブラッチョリーニが一四一七年にその古写本を発見した、ルクレティウスの『物の本質について』であった。 |
さてと・・・、そして最初に戻る。「しかし、他者を完全に排除してまで守るべきキリスト教とは、いったい、それに見合う価値を持っていたのだろうか。 」


- 関連記事