続 『愛と暴力の戦後とその後』 赤坂真理
この本は、『愛と暴力の戦後とその後』を経て、さて、憲法改正論議をどうしましょうか、という本でした。
昨日の記事に書いたような戦後日本のとってもわかりにくい歴史は、国民の手で戦後の総括が全くされなかった、アメリカによって敗戦国民に与えられた“民主主義”の名の下に、アメリカの許容の範囲を、ときには叱り飛ばされ、ときには媚びへつらいながら体得していく。それをときには野党の反対を押さえつけながら、ときには慣れ合いながら国民に下ろしていく。それが戦後日本の政治だった。
特別間違った解釈とは思わない。確かに力量を超えた戦争に直面し、様々な無様を晒した戦争だった。戦闘によるよりも、餓死と病死という無駄死に、犬死にに国民を追いやった戦争だった。でも戦争っていうのは相手がある。この本はそのことに対する言及が欠けている。著者の言うとおり、“総括”なしには先に進めないのはそのとおりだとしても、戦争の一方の当事者だけを総括して、著者は先へ進んでいくらしい。
“精神的支え”とは、九条のことを言っているようだけど、このように考えている人もいるようだ。『ノーベル文学賞にも、平和賞にも値すると私は思う。』って言われてみれば、「九条の会」っていうのがあるんだよね。大江健三郎たちが中心になってるの。私はダメ、大江健三郎っていうだけで。
私も現在進められている憲法改正について言いたいことはたくさんある。なにより、占領下の、占領国による国家体制の改変は無効である。基本的にそれ以上でも以下でもない。アメリカによって与えられた“民主主義”に関しては、ありがたがるにはあまりにも悪意に満ちている。
著者が言う『世界はきっと、「物語戦争」ともいうべき新しいフェイズに入った』というのも、そのとおりとしても、勝者のみが“歴史”を書き残せるという意味なら、昔からそうだ。それこそ支那・韓国の得意技だ。結局は“相手がある”というということだ。
付け焼き刃の“大日本帝国憲法”というなら、その通り。民主主義が神に対する人間という意識から始まったものなら、それに似た天皇に対する赤子という関係があったから利用したに過ぎない。もちろん最良の策ではないが、窮余の一策だ。“相手がある”ということだ。
まともな民主主義を描けなかった日本を絶望するのはかってだけど、『なんぴとも、それを無理に起こすことができず、阻止することもできない何か』を求める行為は、ロベスピエールやスターリンや毛沢東の大虐殺を招いた。頭の中の美しい何かに将来を委ねることがどんなに危険なことかは、すでにわかりきっているのに。







一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
昨日の記事に書いたような戦後日本のとってもわかりにくい歴史は、国民の手で戦後の総括が全くされなかった、アメリカによって敗戦国民に与えられた“民主主義”の名の下に、アメリカの許容の範囲を、ときには叱り飛ばされ、ときには媚びへつらいながら体得していく。それをときには野党の反対を押さえつけながら、ときには慣れ合いながら国民に下ろしていく。それが戦後日本の政治だった。
特別間違った解釈とは思わない。確かに力量を超えた戦争に直面し、様々な無様を晒した戦争だった。戦闘によるよりも、餓死と病死という無駄死に、犬死にに国民を追いやった戦争だった。でも戦争っていうのは相手がある。この本はそのことに対する言及が欠けている。著者の言うとおり、“総括”なしには先に進めないのはそのとおりだとしても、戦争の一方の当事者だけを総括して、著者は先へ進んでいくらしい。
![]() | 『愛と暴力の戦後とその後』 赤坂真理 (2014/05/16) 赤坂 真理 商品詳細を見る 私の国には、なにか隠されたことがある |
「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」と言えないのだろうか。日本人がそう世界に対して言えれば、それは日本人の度量を示すことにもなる。うまく負けることは、ただ勝つよりおそらくむずかしい。プライドの示し方は、強さの誇示だけではない。 |
“精神的支え”とは、九条のことを言っているようだけど、このように考えている人もいるようだ。『ノーベル文学賞にも、平和賞にも値すると私は思う。』って言われてみれば、「九条の会」っていうのがあるんだよね。大江健三郎たちが中心になってるの。私はダメ、大江健三郎っていうだけで。
私も現在進められている憲法改正について言いたいことはたくさんある。なにより、占領下の、占領国による国家体制の改変は無効である。基本的にそれ以上でも以下でもない。アメリカによって与えられた“民主主義”に関しては、ありがたがるにはあまりにも悪意に満ちている。
著者が言う『世界はきっと、「物語戦争」ともいうべき新しいフェイズに入った』というのも、そのとおりとしても、勝者のみが“歴史”を書き残せるという意味なら、昔からそうだ。それこそ支那・韓国の得意技だ。結局は“相手がある”というということだ。
付け焼き刃の“大日本帝国憲法”というなら、その通り。民主主義が神に対する人間という意識から始まったものなら、それに似た天皇に対する赤子という関係があったから利用したに過ぎない。もちろん最良の策ではないが、窮余の一策だ。“相手がある”ということだ。
まともな民主主義を描けなかった日本を絶望するのはかってだけど、『なんぴとも、それを無理に起こすことができず、阻止することもできない何か』を求める行為は、ロベスピエールやスターリンや毛沢東の大虐殺を招いた。頭の中の美しい何かに将来を委ねることがどんなに危険なことかは、すでにわかりきっているのに。


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