会津は別(覚書)『渡部昇一、靖国を語る』 渡部昇一
これは、『渡部昇一、靖国を語る』の紹介記事を書いていて、会津のことについて自分の気持ちを書き始めたら、ちょっといろいろと考えちゃって、その部分だけ別の記事にすることにしたものです。なんか、くどくどしてるかも知んないけど、ごめんなさい。
靖国についてものを述べるときに、私は常に会津に対する思いを付け加えている。いちいちそれを問うことが、大きな意味を持つと思うからこそだ。大和朝廷と蝦夷、中央と辺境にもつながる課題ともなるが、そこに日本人の重大な問題があると考えるからこそだ。
こう仰ることにはまったく文句はない。ただし、その上で、会津は別だと思う。
会津を別にしなければ、日本は同じ過ちを繰り返しかねない。《過ち》って言ったって、軍国主義がどうとか、侵略がどうとかってことじゃないからね。日本の過ちは、《戦争に負けた》っていうこと。下士官と兵は世界最高でありながら、世界が恐れる陸海軍を持ちながら、負けるはずのない戦いに、日本は負けた。
下士官と兵が世界最高だったのは、なんのかんのじゃなくて、命よりも大切なものがあることを知っているから。命は地球よりも重いなんて馬鹿は下士官や兵になる階層にはいないからね。なのに、なのに将軍と将校のレベルがあんまりだった。その全部が全部とは言わない。というより、すごい奴ら、まさしく“武士”と呼べる者もたくさんいた。でもそれって、明治以来の日本の本道じゃないよね。明治維新によって新生日本が作られたのだとしたらさ。
明治維新では「天皇を中心とする国づくり」という大義名分にみんな乗っかって行くわけだよね。だけどその時、武士道を貫いたのは会津でしょ。天皇への忠義を貫いたのも会津でしょ。その対極にいたのが、薩摩と長州だよね。それで薩摩と長州が新生日本の立役者になったんだよね。だから、会津の対極にいた薩摩と長州が、武士道とか天皇への忠義を口にしたところで、彼ら自身はそんなもの屁とも思ってないわけでしょう。そんなもの屁とも思っていない連中が、明治維新後の日本の本道を歩いてきたわけでしょう。
だから、世界最高の下士官や兵、上級将校にも少なからずいた人たち、武士の如く、自らを省みずに日本のために戦ってくれた人たちっていうのは、実は本道から外れているからこそ、そうであれたということになる。まどろっこしいからはっきり言っちゃお。「天皇を中心とする国づくり」という大義名分にカモフラージュされた薩長の私利私欲が倒幕成功の最大の要因である。その本道の対極にいたのが会津であれば、その口はふさいでおかなければならない。それが会津戦争だ。そして彼らは、明治以降の日本の中枢に私利私欲を持ちこんだ。
亜流、傍流から武士道精神や無私の精神が持ち込まれるが、決して本流ではない。決して本流ではないものの、生来の質や教育によって亜流、傍流が日本を支えた。そこに受け継がれたものって、会津に象徴されるものなんじゃないかな。そんな人々が支えた日本が《戦争に負けた》。そういった軍民三百十万もの犠牲者を出して《戦争に負けた》。それはなぜなのかな。
いまさら薩摩だの、長州だの、会津だの、いまさらそんなこと言ってたってどうにもならないのは分かってる。でも、《戦争に負けた》という日本の過ちの背景には、当時の日本の政治や軍のあり方がある。その《あり方》を問題にしたとき、薩摩だの、長州だの、会津だのじゃなくて、そこから抽出されたエキスとしての日本人の生き方というのを、必然的に語らなければならなくなるんじゃないかな。だって、「靖国で逢おう」と言って散っていった世界最高レベルの下士官や兵を擁しながら、日本は戦争に負けたんだからね。
そういうことを踏まえたうえでの靖国であってほしい。なにが日本に《戦争に負けた》という過ちを犯させたのか、それを考える靖国であってほしい。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
靖国についてものを述べるときに、私は常に会津に対する思いを付け加えている。いちいちそれを問うことが、大きな意味を持つと思うからこそだ。大和朝廷と蝦夷、中央と辺境にもつながる課題ともなるが、そこに日本人の重大な問題があると考えるからこそだ。
近代国家建設の過程で生じた内戦と、その後の国内融和に苦悩した明治の人々の歴史を汲まずに、一片の矛盾で靖国神社を非難するのはあまりにも偏狭ではないでしょうか。はじめに靖国神社の否定ありきだったら、そういう経緯を踏まえる必要はないでしょうが、知識人であろうとするならば、まず調べるということが必要です。 本書P75 |
こう仰ることにはまったく文句はない。ただし、その上で、会津は別だと思う。
会津を別にしなければ、日本は同じ過ちを繰り返しかねない。《過ち》って言ったって、軍国主義がどうとか、侵略がどうとかってことじゃないからね。日本の過ちは、《戦争に負けた》っていうこと。下士官と兵は世界最高でありながら、世界が恐れる陸海軍を持ちながら、負けるはずのない戦いに、日本は負けた。
下士官と兵が世界最高だったのは、なんのかんのじゃなくて、命よりも大切なものがあることを知っているから。命は地球よりも重いなんて馬鹿は下士官や兵になる階層にはいないからね。なのに、なのに将軍と将校のレベルがあんまりだった。その全部が全部とは言わない。というより、すごい奴ら、まさしく“武士”と呼べる者もたくさんいた。でもそれって、明治以来の日本の本道じゃないよね。明治維新によって新生日本が作られたのだとしたらさ。
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明治維新では「天皇を中心とする国づくり」という大義名分にみんな乗っかって行くわけだよね。だけどその時、武士道を貫いたのは会津でしょ。天皇への忠義を貫いたのも会津でしょ。その対極にいたのが、薩摩と長州だよね。それで薩摩と長州が新生日本の立役者になったんだよね。だから、会津の対極にいた薩摩と長州が、武士道とか天皇への忠義を口にしたところで、彼ら自身はそんなもの屁とも思ってないわけでしょう。そんなもの屁とも思っていない連中が、明治維新後の日本の本道を歩いてきたわけでしょう。
だから、世界最高の下士官や兵、上級将校にも少なからずいた人たち、武士の如く、自らを省みずに日本のために戦ってくれた人たちっていうのは、実は本道から外れているからこそ、そうであれたということになる。まどろっこしいからはっきり言っちゃお。「天皇を中心とする国づくり」という大義名分にカモフラージュされた薩長の私利私欲が倒幕成功の最大の要因である。その本道の対極にいたのが会津であれば、その口はふさいでおかなければならない。それが会津戦争だ。そして彼らは、明治以降の日本の中枢に私利私欲を持ちこんだ。
亜流、傍流から武士道精神や無私の精神が持ち込まれるが、決して本流ではない。決して本流ではないものの、生来の質や教育によって亜流、傍流が日本を支えた。そこに受け継がれたものって、会津に象徴されるものなんじゃないかな。そんな人々が支えた日本が《戦争に負けた》。そういった軍民三百十万もの犠牲者を出して《戦争に負けた》。それはなぜなのかな。
いまさら薩摩だの、長州だの、会津だの、いまさらそんなこと言ってたってどうにもならないのは分かってる。でも、《戦争に負けた》という日本の過ちの背景には、当時の日本の政治や軍のあり方がある。その《あり方》を問題にしたとき、薩摩だの、長州だの、会津だのじゃなくて、そこから抽出されたエキスとしての日本人の生き方というのを、必然的に語らなければならなくなるんじゃないかな。だって、「靖国で逢おう」と言って散っていった世界最高レベルの下士官や兵を擁しながら、日本は戦争に負けたんだからね。
そういうことを踏まえたうえでの靖国であってほしい。なにが日本に《戦争に負けた》という過ちを犯させたのか、それを考える靖国であってほしい。


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