高麗(覚書)真実の朝鮮史【663-1868】 宮脇淳子 倉山満
高麗略年表 (元寇まで)
高麗はコリョと読んで、これが英語に入ってコリアという名称になる。モンゴルの時代、ヨーロッパ人までが東アジアに訪れていたので、この時代の支那における各国・各地域の名称が現在の国際的名称につながる。日本は支那の南部で「ジッペングッ」っと呼ばれていたという。
モンゴルに降った段階で、北部、現在の北朝鮮に当たる部分は高麗から切り離されて遼陽行省に編入され、直轄領となる。現在の韓国に当たる部分のみが高麗として高麗王に支配させた。結局は、この地域に“朝鮮”という実態はなかったし、“朝鮮人”と呼ばれるべき主体もなかった。
そういえば、ウィキペディア年表によると日本遠征は忠烈王の進言ってなってたけど、たしか、趙彝とか言う奴がフビライに持ちかけたという話がある。
だいたい、忠烈王以降、代々の高麗王の母親はモンゴル人となる。代を経るにつてどんどんモンゴル人の血が濃くなり、彼らは現王朝の皇族と一緒に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都の宮廷でモンゴル式の暮らしをした。・・・つまり、モンゴル人ってことだな。趙彝という男も支那の進士に合格しているわけで、高麗王も含めて、彼らを朝鮮人というくくりで考えるのは、どうにもこうにも無理なんじゃないかな。
高麗人がこの時、一体どんな意識で日本遠征に望んだか。喜んで日本への手引に臨んだか、いやいや従わせられたかってところだけど、倉山氏も宮脇氏も、《喜んで》派。たしかにね。私も《喜んで》派。
って状況考えれば、あんがい高麗人の日本遠征だったんじゃないかとさえ思わせる。そう言えば、韓国の教科書では、これを“日本征伐”って呼んでるもんね。

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| 王権が後高句麗を倒して高麗を建国 新羅征服 後百済征服 宋建国 宋の正朔を奉じる 契丹の侵入 契丹の侵入 契丹人の遼が朝貢を求めて大規模な侵入 高麗王成宗、遼に朝貢し正朔を奉じる 高麗の政変に乗じ、遼が侵入。高麗軍は首都開城を明け渡す 高麗王顕宗、講和 北宋から柵封。朝貢し、正朔を奉じる 遼の大規模侵入 遼と講和。朝貢、遼の分暦 遼の正朔を奉じ、再び服属 金が遼を滅ぼす 高麗王仁宗、金に服属し、高麗は金の藩となる(高麗藩) 庚寅の乱で武臣政権はじまる モンゴル統一 モンゴルの高麗侵攻 モンゴル軍の大規模侵攻始まる 武臣政権は国王を江華島に移しモンゴル帝国への抵抗を続ける モンゴル皇帝モンケ・ハーンの時、第六次侵攻 江華島でクーデター、武臣政権倒れる 高麗王高宗の世子、後の元宗(忠敬王)がモンゴル帝国フビライ勢力に服属。 モンゴル皇帝フビライ、高麗王元宗の王位を安堵 勿島で倭寇。高麗、日本に使者を送って、倭寇の取り締まりを要請 徹底抗戦を主張する武臣派を排除。元宗、いったんは廃位されるが、元の力で復位 武臣政権下の軍である三別抄(左別抄・右別抄・神義軍)は解散を拒否。反乱を起こす。珍島へ移動 元宗の世子、忠烈王、フビライの皇女の夫となる 忠烈王、フビライに日本遠征を進言。軍船の提供を申し出る 三別抄、元軍に鎮圧される 文永の役。元と高麗の連合軍、総勢3万2300人が合浦を出港し、対馬と壱岐を攻撃し、博多湾に上陸。連合軍は、暴風で損害を受け、高麗に戻る。未帰還者は、一万三五〇〇人以上。 クビライは杜世忠を正使とする使者を日本に送る。北条時宗、鎌倉の龍ノ口で使者5名を斬首に処す 元が日本遠征のための征東行省設置。忠烈王が長官となる 弘安の役。洪茶丘率いる元軍と金方慶率いる高麗軍、総勢四万人の東路軍が、予定を早めて、合浦を出港し、対馬に上陸した。東路軍、単独で日本本土を攻撃する。壱岐島に東路軍と十万人の江南軍が合流するが、暴風により壊滅的な打撃を受ける。生還者は、総勢十四万人のうち、三万三千人に過ぎなかった。 征東行省解散 元が高麗に征東行省設置。高麗王を長官とする |
主にウィキペディアより(抜粋)
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高麗はコリョと読んで、これが英語に入ってコリアという名称になる。モンゴルの時代、ヨーロッパ人までが東アジアに訪れていたので、この時代の支那における各国・各地域の名称が現在の国際的名称につながる。日本は支那の南部で「ジッペングッ」っと呼ばれていたという。
モンゴルに降った段階で、北部、現在の北朝鮮に当たる部分は高麗から切り離されて遼陽行省に編入され、直轄領となる。現在の韓国に当たる部分のみが高麗として高麗王に支配させた。結局は、この地域に“朝鮮”という実態はなかったし、“朝鮮人”と呼ばれるべき主体もなかった。
そういえば、ウィキペディア年表によると日本遠征は忠烈王の進言ってなってたけど、たしか、趙彝とか言う奴がフビライに持ちかけたという話がある。
趙彝(ちょうい)は、進士に合格し、クビライの知遇を受け、クビライに、高麗に郷導(道案内)させて、日本に使者を送ることを勧める。「趙彝 帝所に出入りして、讒しりて曰く、高麗、日本と隣好す。元、使いを日本に遣わすに、本国をして郷導せしめよと。」 [高麗史日本伝〈下〉] |
だいたい、忠烈王以降、代々の高麗王の母親はモンゴル人となる。代を経るにつてどんどんモンゴル人の血が濃くなり、彼らは現王朝の皇族と一緒に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都の宮廷でモンゴル式の暮らしをした。・・・つまり、モンゴル人ってことだな。趙彝という男も支那の進士に合格しているわけで、高麗王も含めて、彼らを朝鮮人というくくりで考えるのは、どうにもこうにも無理なんじゃないかな。
高麗人がこの時、一体どんな意識で日本遠征に望んだか。喜んで日本への手引に臨んだか、いやいや従わせられたかってところだけど、倉山氏も宮脇氏も、《喜んで》派。たしかにね。私も《喜んで》派。
遼東に連れて行かれた高麗人の二世の洪茶丘(元朝に使えた軍人 一二四四~一二九一)は、最初、文永の役の副司令官です。弘安の役でも高麗軍を率いてきます。副司令官と書いてあるけれども、肩書が、文永の役の時の副元帥から、東征都元帥に昇進している。だから司令官という言い方もできて、いち早くモンゴルの家来になった高麗人が、じつは日本に襲来したモンゴル軍の司令官だった。 本書P78 |


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