丙子胡乱(覚書)『真実の朝鮮史【663-1868】』 宮脇淳子 倉山満
朝鮮人は、儒教思想にもとづいて、勝手に相手を見下げて差別するんだよなぁ。しかも、そんな意識を持ちながら、強い力を持つものを“事大”するから余計に嫌らしい。李氏朝鮮時代、大陸では明が滅んで清が興る。
清がまだ後金と名のっていた頃、ホンタイジが即位した頃だな、彼は朝鮮に侵攻した。丁卯胡乱という。後金にすれば背後を叩いておくのは当然。朝鮮は、“胡”と見下していた後金と兄弟の関係を結ぶ。もちろん弱い朝鮮が弟。とは 言え、すでにこの段階で朝鮮は、明を“弱い”と見捨てた。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
清がまだ後金と名のっていた頃、ホンタイジが即位した頃だな、彼は朝鮮に侵攻した。丁卯胡乱という。後金にすれば背後を叩いておくのは当然。朝鮮は、“胡”と見下していた後金と兄弟の関係を結ぶ。もちろん弱い朝鮮が弟。とは 言え、すでにこの段階で朝鮮は、明を“弱い”と見捨てた。
一六三六年、ホンタイジは皇帝となり、大清と国号を定めて朝鮮に臣属しての朝貢を求めた。“胡”への臣属を拒否した朝鮮は清軍の侵攻を受けた。丙子胡乱という。翌一六三七年、十六代国王仁祖は、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼をとった。三跪九叩頭の礼である。 | ![]() |
![]() | 真実の朝鮮史【663-1868】 宮脇淳子 倉山満 (2014/08/09) 宮脇淳子、倉山満 他 商品詳細を見る 今度は白村江の戦いから明治維新期まで |
こういういきさつなんですね。以後、清の使者を迎えるときに国王みずからが迎恩門まで出迎えて、三跪九叩頭の礼で迎える。そして、日清戦争に日本が勝ったことで朝鮮は清の軛から独立し、迎恩門にかわって独立門が建てられた。おめでたい方々は、その独立門を日本からの独立を祝うものと思っているという。・・・え~? うそ~❢ ・・・嘘でもないらしい。 | ![]() |
![]() | ここまでは、この間も利用した過去記事の内容と大差ない。でもね、知らなかったことがあるの、この本に書いてあったんだけど、この丙子胡乱後の、三田渡におけるできごとについて、清朝は“三田渡碑”、正式名称を“大清皇帝功徳碑”という石碑を建てさせてるんだな。これは知らなかった。まあ、朝鮮側にすれば屈辱碑に他ならないわけだから、迎恩門と一緒に引き倒して埋めちゃったらしい。んで、日韓併合後の一九一三年に掘り出され、一九四五年の光復後に李承晩の命令でまた埋めちゃった。そんなことがあったのち、一九五七年に国指定史跡に指定されたって。今あるのは復元だそうです。なんでも一九六三年の洪水で流れたそうです。国指定史跡が・・・? 復元後も韓国人に落書きされて、また修復されて・・・、洪水の時、もしかして、わざと流しちゃったんじゃないの。
|


- 関連記事
-
- 『世界史で読み解く現代ニュース』 池上彰 増田ユリヤ (2015/01/12)
- 『ダンテの遺言』 谷川悠里 (2014/12/25)
- 丙子胡乱(覚書)『真実の朝鮮史【663-1868】』 宮脇淳子 倉山満 (2014/12/05)
- 『ヴァロワ朝』 佐藤賢一 (2014/11/18)
- アメリカには中世がない(覚書)『ヴァロワ朝』 佐藤賢一 (2014/11/13)