薩長同盟(覚書)『逆説の日本史 21』 井沢元彦
一、もし長州征伐が実行されたら、薩摩は二千の兵を京大坂方面へ出兵し在京の兵と合流、大坂にも一千の兵 を残し、京大坂周辺を固めて幕府軍を牽制する。 一、戦いが長州の勝利に終われば、薩摩は朝廷工作を行い、長州の冤罪を晴らすために尽力する。 一、万一長州が敗れた時も、一年や半年は持ちこたえるだろうから、この間薩摩は長州の冤罪を晴らすために 尽力する。 一、また幕府軍が撤退したら、それで満足せず、薩摩はやはり長州の冤罪を晴らすため朝廷工作に尽力する。 一、もし橋会桑が兵力を増強し朝廷を担ぎあげて薩摩の工作を妨害するような動きを見せた時は、薩摩は武力 でこれを阻止する。 一、このような流れの中で長州の冤罪が晴らされた時は、薩摩長州は心を合わせ、天皇を中心とした日本国成 立のために尽力する。 |
こうして読んでみると、やっぱり変ね。なんだか、くどくどしててさ。笑っちゃうよね。このくどくどしさは、滅亡寸前まで追い込まれた長州の、なかでも藩を支えた桂小五郎のくどくどしさだよね。事実、薩摩にしてみれば、この時の長州と結ぶことにどれだけの実利があったか。かえって危ないよね。だからこそ、合意文書を残さなかったんだろうな。
薩長同盟といわれるこの文書。実は両者の合意で文書化されたものではない。この同盟に、文書の取り交わしはない。そのことに不安を感じた弱い立場の長州藩士桂小五郎が、立会人の坂本龍馬に合意内容を書いた文書を送り、保証人としての裏書を求めたものだそうだ。
《一、・・・・》という書き方に、桂が西郷に、「こういう場合は・・・、ならこういう場合は・・・・」と、一々確認をとった様子がそのまま条文化されているのが、“ようっく”分かるよね。“薩長連合”のくどくどしさって、そのまま滅亡を目の前にした長州の、ようやく存続の明かりを目にした桂小五郎の、涙ぐましさの現れなんだよね。
雄藩の、薩長の連合しか次の時代への扉は開けられない。勝海舟は、そう西郷を説得したそうだけど、かりに保険の一つだったとしても、恐ろしいまでの慧眼だね。その勝の言葉に耳を傾けた西郷もすごいけどね。
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私なんかじゃ、まずダメだね。この間も書いたけど、私じゃ長州を受け入れられない。この時代の長州の狂気。その“物狂い”を尊ぶ姿勢は事実、後の日本を未曾有の惨禍にさらすことにつながるものと、私は思っている。でもそれが、この幕末と後に呼ばれる時期においては、まったくの不可能を可能にする奇跡を産んだ。いわば、劇薬中の劇薬で、通常使うべきものじゃない。副作用も激しく、重度の後遺症にも苦しめられる。だけど、そんだけの劇薬だからこそ、あの困難を乗り越えられたのか?
後の時代から考えて、・・・やむを得なかったと・・・、そういうのは簡単な事だけど、私はやっぱり、多くの人材が志半ばで死んでいったことがこの時代最大の悲劇であったことは間違いないと思う。為すべくしてそうなったという人もいるけど、それだって人材あればこその話。
上記の同盟においても、みずから招いた“朝敵”の汚名を、冤罪と読んではばからない態度。桂小五郎にしてこうだ。やっぱり駄目だ。私にはどうしても受け入れられない。
幕府による、そして攘夷派による人材のすり潰しは、あんまりにも馬鹿馬鹿しいものだったと思う。すごい連中はあらかた死んでしまって、そして迎えた明治維新。その行き着く先はいったい何だったんだろう。


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