命は自分のもの?(覚書)『日本人はなぜ「小さないのち」に感動するのか』 呉善花
自由平等とか、個人主義とか、西洋に生まれた価値を受け入れなければ、存在を否定されかねない時代があった。しかし、西洋のそれは、キリスト教という信仰に裏打ちされたものであった。神と個人が縦につながってこその個人主義。今、西洋人が、どれくらいの信仰心を持つのかしらないが、信仰心によらず、長い歴史の中で社会制度化しているからね。
日本は、キリスト教なしに個人主義社会を作り上げちゃった。その個人が、自由だの平等だのを主張するんだから、考えただけでも悲惨なことになる。事実、目に余る状況が報道されることは、珍しいことではなくなった。最近はニュースを見るのが嫌だ。ことさらに煽りててるワイドショーみたいな番組には、それこそついていけない。
それでも日本がこの程度で済んでいるのは、おそらくご大層な民主主義のおかげではない。ご先祖様が営々と築き上げてきた人と自然の、人と人との関わり、そしてそれを支える日本人の心情がいまだに色濃く残されているからだろう。
ただそれには、この日本列島の特殊な事情が関わっている。いったん荒れ狂えば、ただ手をこまねき、為す術もなく立ち尽くすばかりであるが、あまりにも豊かる恵みを与えてくれる自然が、ここにはある。私たちがそれを失うことがあるとすれば、その時そこにあるのは“日本”ではなく、そこにいるのは“日本人”ではないだろう。
これらが紹介されているのは、『命のはかなさに触れて感動する日本人』と銘打たれた項目で、著者は、ほかからでは極めてわかりにくい日本人の美意識について語っている。著者は、それは若者たちの間にも厳然と受け継がれていると言っている。・・・それならわかる。私はたまたま、若い連中とかかわる位置にいる。若い連中との間では、もちろん分かり合えない部分もある。でも、この美意識なら共有できていると思う。
衰えゆく命のはかなさに、手のひらの中でぶるぶる震えるひよこのような命の弱々しさにこそ、心を動かしているのだ。若者たちも・・・。
たしかに、本来、人は、“強いもの”、“美しいもの”、“完全なもの”を求めるものであって、本当はそうでなければ淘汰されてきたはずだ。淘汰されるべき感情を抱いたまま淘汰されず、それを高度な美意識に昇華させ、著者の言い方を借りれば、《なおかつ広く一般にまで広まって庶民化していったような事態は、世界の中で日本にしか見ることはできません。秋という季節に感じる日本人の情緒のあり方は、外国人にはかなり不思議なものです》
《かよわく小さな命への感動》、それは自分自身がそういう存在であることをよく知っているから。だからこそ、その生命を使いきろうとするものへ、私たちは大きく心を揺さぶられるのだろう。
呉善花さんは帰化して日本国籍を持つとはいえ、よその国からこられた方。当たり前すぎて意識さえすることのできない日本人的心情に、だからこそ“言葉”を与えることができるのかもしれませんね。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
日本は、キリスト教なしに個人主義社会を作り上げちゃった。その個人が、自由だの平等だのを主張するんだから、考えただけでも悲惨なことになる。事実、目に余る状況が報道されることは、珍しいことではなくなった。最近はニュースを見るのが嫌だ。ことさらに煽りててるワイドショーみたいな番組には、それこそついていけない。
それでも日本がこの程度で済んでいるのは、おそらくご大層な民主主義のおかげではない。ご先祖様が営々と築き上げてきた人と自然の、人と人との関わり、そしてそれを支える日本人の心情がいまだに色濃く残されているからだろう。
ただそれには、この日本列島の特殊な事情が関わっている。いったん荒れ狂えば、ただ手をこまねき、為す術もなく立ち尽くすばかりであるが、あまりにも豊かる恵みを与えてくれる自然が、ここにはある。私たちがそれを失うことがあるとすれば、その時そこにあるのは“日本”ではなく、そこにいるのは“日本人”ではないだろう。
![]() | 『日本人はなぜ「小さないのち」に感動するのか』 呉善花 (2014/03/14) 呉善花 商品詳細を見る 日本で生活して30年の著者が体感し掴み取った日本文化の奥深さ |
春はただ花のひとえに咲くばかり もののあわれは秋ぞまされる (詠み人知らず『拾遺集』) 本書P73 |
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき (猿丸太夫) 本書P74 |
花は盛りに 月は隈なきをのみ 見るものかは ・・・咲きぬべきほどの梢 散り萎れたる 庭などこそ 見どころ多けれ (徒然草 下 第一三七段) 本書P81 |
これらが紹介されているのは、『命のはかなさに触れて感動する日本人』と銘打たれた項目で、著者は、ほかからでは極めてわかりにくい日本人の美意識について語っている。著者は、それは若者たちの間にも厳然と受け継がれていると言っている。・・・それならわかる。私はたまたま、若い連中とかかわる位置にいる。若い連中との間では、もちろん分かり合えない部分もある。でも、この美意識なら共有できていると思う。
![]() | 若い連中はそれを、「微妙」だの、「かわいい」だの、身も蓋もない言葉で済ましてしまうから、私は近づきたくないのだが、そういった言葉で表現されている感情の根底にあるのは、漲るばかりの命への感動ではない。 | ![]() |
たしかに、本来、人は、“強いもの”、“美しいもの”、“完全なもの”を求めるものであって、本当はそうでなければ淘汰されてきたはずだ。淘汰されるべき感情を抱いたまま淘汰されず、それを高度な美意識に昇華させ、著者の言い方を借りれば、《なおかつ広く一般にまで広まって庶民化していったような事態は、世界の中で日本にしか見ることはできません。秋という季節に感じる日本人の情緒のあり方は、外国人にはかなり不思議なものです》
《かよわく小さな命への感動》、それは自分自身がそういう存在であることをよく知っているから。だからこそ、その生命を使いきろうとするものへ、私たちは大きく心を揺さぶられるのだろう。
呉善花さんは帰化して日本国籍を持つとはいえ、よその国からこられた方。当たり前すぎて意識さえすることのできない日本人的心情に、だからこそ“言葉”を与えることができるのかもしれませんね。


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