『イスラーム 生と死と聖戦』 中田考
「イスラーム」という言葉は、「従う」という意味なんだそうです。それがこの宗教の名前として使われているということは、「従う」という意味だけで、十分にこの宗教の様子が表されているということだよね。
・・・従う・・・。もちろん、唯一の神アッラーに・・・。その全幅的な信頼は、まるで“南無阿弥陀仏”、念仏をさえ思わせる。それは現実世界においては預言者に“従う”のであり、預言者の死後には“カリフ”に従うということになるんだという。
“従う”宗教であるにもかかわらず、“従う”一般信者入るものの、現実世界において彼らを導く、“従わせる”者たるカリフがいない。
ムスリムは自然法に従って生きる。ムスリムにとっての自然法とはシャリーア。シャリーアは“イスラム法”と訳されるが、意味合いとして近いのはムスリムの掟。日本人にしてみれば、まあ、御成敗式目の“道理”みたいなもんか?カリフがいないために、ムスリムは領域国家に構成員たらざるを得ず、“道理”に合わない国家による実定法を受け入れさせられている。
今や、ムスリムという“従う”者を“従わせる”者は、国家となった。中田考さんによれば、ムスリムにとって、今や国家がアッラーに変わった。
認識を改めました。以前、何かの本で読んだ誰かの考えで、「もし、過去において、日本への布教に取り組んだのがキリスト教ではなくイスラム教だったら、日本人はそれを受け入れていたかもしれない」という考え方がある。私、この本を読んで確信した。私たちはもしかしたら天皇陛下をカリフと呼び、今とおんなじように自然災害をごく当たり前の悲劇として受け入れながら、唯一神アッラーの教えを受け入れていただろう。おそらく、歴史上最も几帳面なムスリムとなって・・・。
「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」
キリスト教は神の次位に人間を置き、自然を従わせた。イスラーム教は神の位置をもっと高め、他のすべてを同一の枠にくくった。日本人は自然と人間を区別しない。動物だけじゃなく、植物だけじゃなく、石ころまで含めてね。同一の枠の中にある八百万神への信仰と、それをまとめあげる“カリフ”の存在が続くのなら、・・・。
もしそうなっていたら、今、天皇陛下は世界のムスリムを統べるカリフとして皇后陛下とともに世界のムスリムを導く立場にあったかもね。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
・・・従う・・・。もちろん、唯一の神アッラーに・・・。その全幅的な信頼は、まるで“南無阿弥陀仏”、念仏をさえ思わせる。それは現実世界においては預言者に“従う”のであり、預言者の死後には“カリフ”に従うということになるんだという。
“従う”宗教であるにもかかわらず、“従う”一般信者入るものの、現実世界において彼らを導く、“従わせる”者たるカリフがいない。
ムスリムは自然法に従って生きる。ムスリムにとっての自然法とはシャリーア。シャリーアは“イスラム法”と訳されるが、意味合いとして近いのはムスリムの掟。日本人にしてみれば、まあ、御成敗式目の“道理”みたいなもんか?カリフがいないために、ムスリムは領域国家に構成員たらざるを得ず、“道理”に合わない国家による実定法を受け入れさせられている。
今や、ムスリムという“従う”者を“従わせる”者は、国家となった。中田考さんによれば、ムスリムにとって、今や国家がアッラーに変わった。
![]() | 『イスラーム 生と死と聖戦』 中田考 (2015/02/17) 中田 考 商品詳細を見る ームスリムの死生観を分かりやすく解説ー |
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認識を改めました。以前、何かの本で読んだ誰かの考えで、「もし、過去において、日本への布教に取り組んだのがキリスト教ではなくイスラム教だったら、日本人はそれを受け入れていたかもしれない」という考え方がある。私、この本を読んで確信した。私たちはもしかしたら天皇陛下をカリフと呼び、今とおんなじように自然災害をごく当たり前の悲劇として受け入れながら、唯一神アッラーの教えを受け入れていただろう。おそらく、歴史上最も几帳面なムスリムとなって・・・。
「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」
キリスト教は神の次位に人間を置き、自然を従わせた。イスラーム教は神の位置をもっと高め、他のすべてを同一の枠にくくった。日本人は自然と人間を区別しない。動物だけじゃなく、植物だけじゃなく、石ころまで含めてね。同一の枠の中にある八百万神への信仰と、それをまとめあげる“カリフ”の存在が続くのなら、・・・。
もしそうなっていたら、今、天皇陛下は世界のムスリムを統べるカリフとして皇后陛下とともに世界のムスリムを導く立場にあったかもね。


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