『死を思えば生が見える』 山折哲雄
ええっと、なになに?・・・この本は二〇〇八年にNHK BSハイビジョンで放送された「100年インタビュー/宗教家・山折哲雄」という番組をもとに、単行本化したもんだそうです。そう言えば、表紙の山折さんの写真も、スタジオのライトを浴びてテカテカしてるもんね。なんかすごく脂ぎって元気そう。
小難しいこと考えてきた人が、ざっくばらんにおおざっぱなことを語ってる様子っていいですね。好感が持てて、だからこそうらやましい。日々の生活に追われつつ、自らの足の痛みや、子供の行く末、それに義父の徘徊の心配とかが順繰りに頭を占領。まるで陣取り合戦のよう。
なんか文字にしちゃうと悲惨だな。ちょっと目先を変えりゃ、大したことでもないんだけどな。だから、目先を変えよう。
もともと日本人は死を穢れとしてきたからね。見なくて済むんなら、かかわりを持たなくって済むんなら、見たり、かかわったりしたくない。・・・確かに戦後、本当にそういう世の中になっちゃったんだよね。
特に教育はそうだよね。《生きる力》を大事にしよう。《命》を大事にしよう。《共生》しよう。共に生きよう。《人間同士の共生》、《人間と環境の共生》、《自然との共生》。
そこでは、山折さんの言うとおり、《死をどう受け入れるか》、《死をどう認識するか》、共に生きると同時に《共に死ぬ》こと、死を見つめずに、生だけを語ってきた。だから、生は《命》を失ったということなんだろう。生はあまりにも軽くなった。
家族もバラバラにされちゃったから、年寄りと《共生》してない人も多いことだろう。年寄りがよぼよぼになって死んで行くのは、若いもんにはいい体験だ。自分もそうだった。
軽々しく“死” を選ぶんじゃなくて、あまりにも軽々しいから簡単に“生” を放棄できるわけだ。生きることを大事にしたきゃ、死を見つめることだな。共に生きることを重要と思うなら、共に死ぬことに思いを致すべきだよね。
人間の“死” が遠ざけられたとは言っても、“死” そのものならば、けっこう近所に転がってる。去年の夏の蝉の死がいとかね。犬猫の車にひかれたのとかね。ジッと見つめてみ。自分もいつかそうなるんよ。・・・笑って生きよ。
日本の詩歌に流れるリズムに関する分析は、とても面白い。
そのリズムというのは、もちろん七五調、五七調のリズム。そのリズムに乗ってさまざまな伝統芸能も発達した。仏教の声明やら御詠歌にも、そのリズムの抒情性が流れている。
もうひとつ、寺田虎彦がそう言ったという「天然の無常感」。つまり、この列島の自然そのものが無常感を醸している。自然に生み出された無常観と仏教的無常観とが、この列島では一緒になっている。
美空ひばりが「川の流れのように・・・」と歌えば、多くの人々、「行く川の流れは絶えずして、しかももとに見ずに非ず」という無常感に自然に浸る。
・・・んん、そこには生き死にが溢れてるはずだよな。生き死にが溢れてるってことが、自然が豊かだってことだよね。それを離れたら、日本人は演歌も歌えない。
・・・大事にしなければならないもの、そうだよな~。・・・いい本だったな。字がでかいし・・・。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
小難しいこと考えてきた人が、ざっくばらんにおおざっぱなことを語ってる様子っていいですね。好感が持てて、だからこそうらやましい。日々の生活に追われつつ、自らの足の痛みや、子供の行く末、それに義父の徘徊の心配とかが順繰りに頭を占領。まるで陣取り合戦のよう。
なんか文字にしちゃうと悲惨だな。ちょっと目先を変えりゃ、大したことでもないんだけどな。だから、目先を変えよう。
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もともと日本人は死を穢れとしてきたからね。見なくて済むんなら、かかわりを持たなくって済むんなら、見たり、かかわったりしたくない。・・・確かに戦後、本当にそういう世の中になっちゃったんだよね。
特に教育はそうだよね。《生きる力》を大事にしよう。《命》を大事にしよう。《共生》しよう。共に生きよう。《人間同士の共生》、《人間と環境の共生》、《自然との共生》。
そこでは、山折さんの言うとおり、《死をどう受け入れるか》、《死をどう認識するか》、共に生きると同時に《共に死ぬ》こと、死を見つめずに、生だけを語ってきた。だから、生は《命》を失ったということなんだろう。生はあまりにも軽くなった。
家族もバラバラにされちゃったから、年寄りと《共生》してない人も多いことだろう。年寄りがよぼよぼになって死んで行くのは、若いもんにはいい体験だ。自分もそうだった。
軽々しく“死” を選ぶんじゃなくて、あまりにも軽々しいから簡単に“生” を放棄できるわけだ。生きることを大事にしたきゃ、死を見つめることだな。共に生きることを重要と思うなら、共に死ぬことに思いを致すべきだよね。
人間の“死” が遠ざけられたとは言っても、“死” そのものならば、けっこう近所に転がってる。去年の夏の蝉の死がいとかね。犬猫の車にひかれたのとかね。ジッと見つめてみ。自分もいつかそうなるんよ。・・・笑って生きよ。
日本の詩歌に流れるリズムに関する分析は、とても面白い。
そのリズムというのは、もちろん七五調、五七調のリズム。そのリズムに乗ってさまざまな伝統芸能も発達した。仏教の声明やら御詠歌にも、そのリズムの抒情性が流れている。
もうひとつ、寺田虎彦がそう言ったという「天然の無常感」。つまり、この列島の自然そのものが無常感を醸している。自然に生み出された無常観と仏教的無常観とが、この列島では一緒になっている。
美空ひばりが「川の流れのように・・・」と歌えば、多くの人々、「行く川の流れは絶えずして、しかももとに見ずに非ず」という無常感に自然に浸る。
・・・んん、そこには生き死にが溢れてるはずだよな。生き死にが溢れてるってことが、自然が豊かだってことだよね。それを離れたら、日本人は演歌も歌えない。
・・・大事にしなければならないもの、そうだよな~。・・・いい本だったな。字がでかいし・・・。


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