「I」は「私」ではない(覚書)『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』 榎本博明
文科省・・・?
なんかくだらないことやってるらしいじゃん。大切なことはあっちに置きっぱなしにしてさ。
最近なんだか、学校の若い先生たちが、「学び合い」だの何だのというのに熱心だと思ったら、文科省で進めているらしいんだな、これが・・・。最近のはやりが「学び合い」で、そのちょっと前のはやりが「ディベート」ってところかな。そういや、カタリバとかなんとかってのも、文科省と組んでるんかな。な~んだか話を聞けば聞くほど胡散くさそうな団体さんだったな。QUっていうのは何?これもグル?ハイパーQUにグレードアップするらしいんだけど、やっぱり合体するのかな。
『グローバル化の時代だから日本人も自分の意見をハッキリ主張できるようにならなければ・・・』
そんな何とも反論しづらい理屈で“自己主張” はいろんなところででかい顔をするようになってきた。あ~、いやだいやだ。「日本人は自己主張が下手」というならば、なぜそうなのかを考えるべきなのに、そんなことは無視。なんかさあ、文科省の言いだしっぺで、偉い教育学の先生がさ。アメリカだかどっかだからか仕入れてきて、都道府県に卸してさ。NHKあたりに宣伝させてね。で、なびいてくるのには補助金出して、そうじゃないのは日干しにしてね。
著者の言うように、私たち日本人はもともと自己主張にブレーキがかかるような心の構造になっている。自分の意見を際立たせないようにするブレーキが生育過程で心の中に組み込まれる。ただし、それは自分の意見がないのではなく、相手の立場への思いやりや、ものの見方への共感が、自己主張を抑制させる。
「敗者をつくらない配慮」、「矛盾を許容する心」、「体面を重んじる心」、「遠慮する心」、「察する心」、「譲り合いの心」、「許しの心」・・・。そんな美徳を持つ人たちが自己主張の能力を求められて、満座で無様をさらす。あるいはそんな恐怖にさいなまれて、心は追い込まれていく。今の日本の「あ~、いやだいやだ」には、そんな原因があるんじゃないだろうか。
第五章《日本人の心は日本語で作られる》の冒頭には、感動してしまった。《「I」は、「私」ではない》・・・えっ、と思ってしまった。「私」は、友達と飲んでいるときは「おれ」になり、家族団欒の中では「お父さん」になり、・・・それは「僕」だったり、「おじいちゃん」だったり、「弊社」だったり、・・・日本人にとっての「私」って、人と人との間に存在する存在なんだよね。
・・・時には姿を消してしまったり、時には自他の区別がつかなくなったりするんだよね。
ディベートで物事を解決できるなんて、・・・何だかちょっと浅はかじゃないかな。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
なんかくだらないことやってるらしいじゃん。大切なことはあっちに置きっぱなしにしてさ。
最近なんだか、学校の若い先生たちが、「学び合い」だの何だのというのに熱心だと思ったら、文科省で進めているらしいんだな、これが・・・。最近のはやりが「学び合い」で、そのちょっと前のはやりが「ディベート」ってところかな。そういや、カタリバとかなんとかってのも、文科省と組んでるんかな。な~んだか話を聞けば聞くほど胡散くさそうな団体さんだったな。QUっていうのは何?これもグル?ハイパーQUにグレードアップするらしいんだけど、やっぱり合体するのかな。
『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』 榎本博明 ¥821 朝日新書 ーディベートなんか、下手ピで結構ー |
そんな何とも反論しづらい理屈で“自己主張” はいろんなところででかい顔をするようになってきた。あ~、いやだいやだ。「日本人は自己主張が下手」というならば、なぜそうなのかを考えるべきなのに、そんなことは無視。なんかさあ、文科省の言いだしっぺで、偉い教育学の先生がさ。アメリカだかどっかだからか仕入れてきて、都道府県に卸してさ。NHKあたりに宣伝させてね。で、なびいてくるのには補助金出して、そうじゃないのは日干しにしてね。
著者の言うように、私たち日本人はもともと自己主張にブレーキがかかるような心の構造になっている。自分の意見を際立たせないようにするブレーキが生育過程で心の中に組み込まれる。ただし、それは自分の意見がないのではなく、相手の立場への思いやりや、ものの見方への共感が、自己主張を抑制させる。
双方が主張をぶつけ合い、論理的能力で勝負して相手を説得することに力点が置かれる欧米流のコミュニケーションに対して、日本流のコミュニケーションでは双方の主張の対立点をぼかし、和気あいあいとした雰囲気を醸し出すことに力点が置かれる。 本書P109 |
「敗者をつくらない配慮」、「矛盾を許容する心」、「体面を重んじる心」、「遠慮する心」、「察する心」、「譲り合いの心」、「許しの心」・・・。そんな美徳を持つ人たちが自己主張の能力を求められて、満座で無様をさらす。あるいはそんな恐怖にさいなまれて、心は追い込まれていく。今の日本の「あ~、いやだいやだ」には、そんな原因があるんじゃないだろうか。
第五章《日本人の心は日本語で作られる》の冒頭には、感動してしまった。《「I」は、「私」ではない》・・・えっ、と思ってしまった。「私」は、友達と飲んでいるときは「おれ」になり、家族団欒の中では「お父さん」になり、・・・それは「僕」だったり、「おじいちゃん」だったり、「弊社」だったり、・・・日本人にとっての「私」って、人と人との間に存在する存在なんだよね。
・・・時には姿を消してしまったり、時には自他の区別がつかなくなったりするんだよね。
ディベートで物事を解決できるなんて、・・・何だかちょっと浅はかじゃないかな。


うちの納戸の食料品置き場は、さばの水煮、味噌煮はじめ、安い缶詰がゴロゴロしてる。缶詰は工場商品だから、天気に左右されたりしないしね。とくに魚系は缶詰じゃないと、毎日食べるってのは難しい。100なんぼで買ったの缶詰を、家族四人の朝飯のおかずの一つにできれば、これは安上がり。
トマト缶なんかもそうだけど、栄養面で、フレッシュにそう劣るわけでもないって聞いたよ。
水煮と入っても、もともと十分な味が付いているからね。右のさば味付け缶詰(みそ煮です)でも問題なくうまいけど、水煮のほうが飽きが来ないかな。《さばのそぼろ》そのものも瓶詰めとかで売ってるけど、味、量から考えて、半値以下で済んでるはず。・・・ご飯にかけるだけで、孫が喜んで食うんだ。
トマト缶なんかもそうだけど、栄養面で、フレッシュにそう劣るわけでもないって聞いたよ。
![]() | 右は我が家の常備菜の一つ。“我が家” といっても私が作って、私が食ってる言わば私の常備菜、《さばのそぼろ》です。そのままご飯にかけたり、納豆に混ぜたりしてる。 チャーハンなんか作る時は、卵に刻みネギに、このさばそぼろを混ぜれば形が整う。もしも、菜っ葉系の漬物があれば、きざんで混ぜ炒めれば、絶品です。 |
もとの姿は、一個120円のさば水煮缶詰。上出のタッパのさばのそぼろは、さば水煮缶詰二つをフライパンで二十分ほど水分飛ばして炒ったもの。塩、甘み(うちの甘みは全て甘酒)、ごまを適当に加えてあるだけ。 | ![]() |
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