『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』 豊田正義
![]() | 二〇一三年八月二四日に、この本の記事をブログに書いている。右の写真は本書の表紙に使われているものと一緒ですね。左の写真。今年の終戦記念日に、テレビ朝日の戦後七〇周年ドラマスペシャルとして放送された番組のもの。 | ![]() |
『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』 豊田正義 角川文庫 ¥ 734 題名だけでは、ちょっと想像もつかない。満洲で特攻?しかも“8月19日”?そのうえ“妻と飛んだ”? |
証明書 元陸軍少尉、谷藤徹夫の妻は昭和二十年八月十九日午後二時、満洲国錦州省黒山縣大虎山飛行場より神州不滅特別攻撃隊の一員たる夫谷藤徹夫の操縦する飛行機にひそかに搭乗し、敵ソ連軍戦車隊に突入自爆しました。夫徹夫に追従し自爆戦死せることを証明します。 証明者 元大虎山飛行場隊長陸軍大尉 箕輪三郎 |
この証明書は、平成二十二年の冬、青森県むつ市の谷藤家を訪ねた著者が、後継ぎを失った谷藤家を管理する徹夫の姪にあたる女性から、徹夫の弟勝男の遺品として見せられたものであるという。証明書には谷藤勝男宛に書かれた手紙が添付されている。それを読むと、この証明書は、終戦から二十三年後の一九六八年に送られたものであるらしい。 | ![]() 97式戦闘機 |
むつ市はかつての大湊田名部市。田名部はかつて戊辰戦争で賊軍とされた会津藩が、斗南藩として再興を許された場所である。谷藤家もその系列に連なる。 |
昭和十七年九月に徴兵検査で「第二乙種」の屈辱を味わった徹夫は、陸軍が十八年に新設した特別操縦見習士官制度に転身し、一年間の訓練ののちに航空将校になる道をめざした。合格した徹夫は、福岡県大刀洗村にあった大刀洗陸軍飛行学校に入校した。福岡には義母の実家があり、最後を共にすることになる妻の朝子とは、そこで知り合った。昭和十九年の夏、初めて田名部に帰る徹夫は、結婚を約束した朝子をともなっていた。結婚式だけは、この帰郷のとき挙げた。
昭和十九年十月一日、特操一期生は飛行学校を卒業し、陸軍少尉の階級が授与された。徹夫の配属先は満洲。飛行教官として少年飛行兵に基礎操縦法を教えるという任務だった。徹夫は下関から満洲に向かう。残された朝子は、夫の言いつけどおり、義理の両親とともに下北半島の先まで列車を乗り継ぎ、長男の嫁として谷藤家で暮らし始めた。
昭和二十年七月上旬、ようやく徹夫は朝子を満洲に呼んでいる。家庭持ちの将校用に作られた官舎に空きがあったからだ。連絡を受けた朝子はすぐに満洲に向かった。九か月ぶりに出会った二人の新婚生活が始まる。飛行場に出かける徹夫を、朝子は投げキッスで見送ったという。 |
結末を知っている私たちからすれば、残酷な光景でさえある。しかし、徹夫が勤務する大虎山飛行場でも連日のように特攻隊の壮行式が行われていた。夫の同期が特攻隊隊長になっている。夫が航空将校である限り、受け入れなければならない運命があることを承知していなかったはずはない。
本書には、徹夫の少年期からここまでの様子が、当時の戦争の進行状況とともに描かれている。どちらかと言えば、戦争の進行状況が主である。正直、なにが書きたいのかと疑った。戦争全体を書きたいのか、谷藤夫妻の特殊性を書きたいのであれば違う方法が、もっとあっさり書いた方がいいのではないかと思いながら読んだ。読み終わった今も、そういう方法もあったという気持ちはあるが、著者は二人の‘やむにやまれぬ’思いを伝えたくてこうしたのだろうと思う。第五章『夫婦-飛行教官として教え子を見送る』、第六章『特攻-谷藤徹夫、朝子と征く』は圧巻。
八月八日、ソ連軍による宣戦布告が行われ、九日には総攻撃が開始された。関東軍は、事情はどうあれ、辺境の日本人居留民を見捨てた。最前線の国境守備隊だけが取り残され、後方の部隊には撤退が命じられた。辺境の開拓民を見捨てる防衛作戦を実行し、敵軍との総決戦の直前に白旗を掲げた関東軍の中で、降伏を断固拒否し、ソ連軍に敢然と立ち向かった若い兵士たちがいた。第五練習飛行隊の十一人の将校たちである。その中に徹夫もいた。
居留民たちの受けた耳をふさぎたくなるような無残な現実を前に、彼らはソ連軍への怒りに燃えていた。「俺もかならずあとから行く」と言って送り出した少年飛行兵たちとの約束を果たす意味もあったろう。 |
彼らは自らを「神州不滅特別攻撃隊」と命名し、出撃の日を八月十九日と決めた。ソ連軍への武装解除の日だった。前日、徹夫はそれを朝子に打ち明けた。その日以外にはありえない。そしてどのような話し合いが行われたのかは分からないが、朝子が同乗することは、この時に決められたはずである。このことは仲間にも伝えられた。他にも大倉巌少尉が恋人の‘スミ子’という女性を同乗させている。岩佐輝夫少尉は許嫁とその母の自決を見届けて飛行機に乗った。
錦州飛行場に向かってソ連軍に引き渡されるはずの十機の編隊は、錦州とは逆方向の積乱雲のかなたに消えていったという。
戦後、この神州不滅特攻隊のできごとは、もと軍関係者から黙殺されてきた。「特攻隊」としても認められず、「女を乗せた」と怒りをあらわにする者もいたという。「英霊」の名簿からも削られたという。隊員たちが「戦没者」として認定されなかったため、遺族年金も給付されず、困窮する老父母もいた。
証明書を書いた箕輪三郎中尉は、第五練習飛行隊生き残り勇士たちとともに、隊員の名誉回復に奔走した。昭和四十二年五月五日、神州不滅特攻隊慰霊碑の除幕式が行われ、遺族と戦友が世田谷観音に集まった。


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