八月一八日からの戦い

占守島の戦い
8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が突如、猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきた。やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し、自衛戦闘を行った。 |
しかし、日本からの停戦の働きかけにも関わらず、その後も戦闘は続いた。21日、日本軍の降伏により戦闘は終結し、23日にはソ連軍の監視下に武装解除された。 |
太平洋戦争期には、占守島には常住の民間人は別所二郎蔵氏一家をはじめ数家族のみであったが、夏季にだけ缶詰工場が稼働するために多数の工員が島を訪れていた。1945年8月15日時点では、日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、女子工員400~500人を含む漁業関係者が在島していた。さらに、会社経営の慰安婦も50名ほど取り残されていた。また、海軍施設の建設を請け負った民間作業員も残っており、民間人の総数は2,000人を超えていた。
8月15日以降、日魯漁業により、独航船(30トン級)を使って、早急に送還する計画が作られた。しかし、日本軍の許可が取れずに、占守島に留まっていた。戦火が小康状態となった8月19日16時、かねてからの計画通り、26隻の独航船[22]に分乗し、ソ連軍機の爆撃を受けながら濃霧に紛れて脱出し、1隻を除いて北海道に帰還した。1隻は中部千島で難破して女工20人が現地のソ連軍に収容され、1948年まで抑留された後に帰還した。女子工員以外でも、ソ連軍が日本軍を武装解除している隙に、独航船等を使って脱出したものも多かった。
最終的には1,600名ほどの民間人が占守島に取り残された。その後、島にはソ連各地から移住してくる者が現れ、彼らと共に、漁業・建設労働に従事した。1947年9月20日、日本に帰国を希望する日本人民間人全員は島を離れ、樺太真岡にわたり、その後、北海道に帰還した。ソ連人と結婚した等の理由で島に残留した日本人も極少数存在したが、やがて島を離れた。
この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、数年にわたり強制労働に従事させられた。そして、その1割の兵士は、栄養失調と疲労のために亡くなった。 |
北方領土の占領
得撫島以北の占領は、カムチャツカの現有勢力で行われた。乏しい戦力で占守島の戦闘になったため、ソ連軍は大きな損害をこうむった。当初、カムチャツカの現有勢力の占領は新知島までを占領することとされていたが、順調に占領が進んだため、8月27日に、得撫島までを担当することになった。実際に得撫島に到達するのは8月28日、上陸は8月30日、得撫島を占領して帰還したのは8月31日だった。
択捉島以南の占領は、樺太占領部隊を宛てることになっていた。当初、北海道の一部を占領し、その港を使って、南樺太を占領する予定だったが、アメリカ大統領トルーマンに北海道北東部をソ連が占領することを拒否されると、樺太大泊港から直接、南千島に出航することとした。 |


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