翻訳(覚書)『英語化は愚民化』 施光恒
この間読んだ『英語化は愚民化』っていう本。面白かったよ。結局、“英語化”っていうのはグローバル化の、ボーダーレス化の流れの中の、日本に特異な言語現象なんだな。明治維新っていうのはとんでもないグローバル化だったわけだよね。あのときにも「日本語がグローバル化の障害になる」っていう認識があったわけだ。だから英語公用語化の議論があって、その推進者が森有礼だったっていうのもこの間書いたな。その認識は、今よりずっと深刻だったろうな。「植民地にされるぞ」っていう危惧を前提にした英語化論だったんだもんね。
森有礼の主張は、けっして突飛なものじゃないよな。だって、一八七〇~八〇年代、大学や高等教育の世界では日本語で書かれた教科書が存在しなかったんだそうだ。西洋の学問をおさめた日本人もいないから、教師もほとんどがお雇い外国人。
岡倉天心、内村鑑三、新島襄ら、明治最初期の知識人は、ほとんどすべての学問を英語で学んだんだそうだ。津田梅子が日本語忘れちゃったっていうのは有名な話だよね。こういう状況だからね。日本語で世界レベルの学問を語れると考える人の方が、むしろ挑戦者ととらえられたかもね。>
森有礼に対して挑発するような文章だね。でも福沢諭吉も英語を学ぶことの重要性は認識していた。というより彼こそ、適塾においては蘭学をおさめるため、オランダ語の辞書を山羊が紙を食うように必死に勉強した人だもんね。そんな福沢だからこそ、英語公用語化論を一刀両断にできたんだろう。
それに江戸時代までの日本っていうのは、すでに高度で複雑な社会を構成しており、その点においては欧米と比べてもどっちがどうのという問題ではない段階にあった。また言語文化の面でも決して欧米に引けを取るような状況にはなかった。
福沢諭吉のもとで学んだ馬場辰猪が《英語公用語化への反論》を書いている。彼の言っていることが、どうも明治の問題とは思えない。これは、今の日本社会への警鐘だ。安倍さん、是非この本読んで❢
こうした論調が《英語公用語化》にストップをかけた。その代わりに、津波のように押し寄せる西洋の事象をあらわす言葉の翻訳が行われたんだな。津田真道、西周、加藤弘之、蓑作麟祥なんて人がいるんだそうだ。・・・敬意を表して・・・
聖書の翻訳もそう。マルティン・ルターはドイツ語に、ウィリアム・ティンダルは英語に、そしてカルヴァンの従兄弟のオリヴェタンはフランス語に、というように。聖書に書かれた神の言葉を、一般庶民が読めるようにするために。まだまだ識字率は低かったものの、彼らは一般の人々が普段使っている言葉を思い浮かべ、日常の言葉から離れないよう細心の注意を払った。
翻訳作業とは翻訳される言語と翻訳先の言語との間で綿密な概念のつき合わせが行われ、双方とも厳しい知的吟味が行われる。その中で翻訳先の言語は自己認識を獲得し、深め、活性化されていく。
まさしく、“明治”っていうのはそんな時代だったんじゃないかな。・・・じゃあ、今は?
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
森有礼の主張は、けっして突飛なものじゃないよな。だって、一八七〇~八〇年代、大学や高等教育の世界では日本語で書かれた教科書が存在しなかったんだそうだ。西洋の学問をおさめた日本人もいないから、教師もほとんどがお雇い外国人。
岡倉天心、内村鑑三、新島襄ら、明治最初期の知識人は、ほとんどすべての学問を英語で学んだんだそうだ。津田梅子が日本語忘れちゃったっていうのは有名な話だよね。こういう状況だからね。日本語で世界レベルの学問を語れると考える人の方が、むしろ挑戦者ととらえられたかもね。>
『英語化は愚民化』 施光恒 集英社新書 ¥ 821 漱石、諭吉もあきれた明治の英語公用語化論の再来。英語化政策で自ら植民地に・・・ |
書生が日本の言語は不便利にして文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用いるなぞと、とるにも足らぬ馬鹿をいう者あり。按ずるにこの書生は日本に生まれて未だ十分に日本語を用いてることなき男ならん。 |
それに江戸時代までの日本っていうのは、すでに高度で複雑な社会を構成しており、その点においては欧米と比べてもどっちがどうのという問題ではない段階にあった。また言語文化の面でも決して欧米に引けを取るような状況にはなかった。
たしかに先端の学問を語るに、日本語の語彙は不足していた。でも福沢諭吉は文化の発展とともに言葉は自然に増えていくのであって、一人ひとりが日本語能力を磨くことの重要性を訴えた。蘭学にのめり込んだ彼だから、杉田玄白たちがとても苦労して『ターヘルアナトミア』を翻訳して、『解体新書』を世に出したことも頭にあったはず。「そんな苦労もしてねぇ癖に、なに言ってやがる」っていうような気持があったんじゃないかな。 |
福沢諭吉のもとで学んだ馬場辰猪が《英語公用語化への反論》を書いている。彼の言っていることが、どうも明治の問題とは思えない。これは、今の日本社会への警鐘だ。安倍さん、是非この本読んで❢
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こうした論調が《英語公用語化》にストップをかけた。その代わりに、津波のように押し寄せる西洋の事象をあらわす言葉の翻訳が行われたんだな。津田真道、西周、加藤弘之、蓑作麟祥なんて人がいるんだそうだ。・・・敬意を表して・・・
ヨーロッパの近代も、実はそうして生まれてるんだな。「じゃあ、その状況で、自分ならどうするか」を考えたデカルトは、先生たちの教えてくれたラテン語じゃなくてフランス語で『方法序説』を書いた。ラテン語ですでに書かれた書物の世界に飽き足らず、持ち前の理性しか使わない人々にフランス語で語りかけた。 |
デカルト以降の哲学者は、徐々に自分の言葉で哲学を語った。ヴォルテールはフランス語、ホッブスは英語、カントはドイツ語で書いた。哲学だけじゃないよね。ダンテやボッカチオはイタリア語で『神曲』や『デカメロン』を書いたしね。 |
翻訳作業とは翻訳される言語と翻訳先の言語との間で綿密な概念のつき合わせが行われ、双方とも厳しい知的吟味が行われる。その中で翻訳先の言語は自己認識を獲得し、深め、活性化されていく。
まさしく、“明治”っていうのはそんな時代だったんじゃないかな。・・・じゃあ、今は?
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
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