『隠された歴史』 副島隆彦
おかしな話から始まるけど、数年前の事になるが娘は教会で結婚式を挙げた。大事に育てた娘は、なんだかよくわからない男と、なんだかよくわからない神の前で愛を誓った。


でも、それよりもずっと前の段階で、仏教は釈迦の時代のものとは大きく変質していた。
だいぶ前に読んで感動した 『隠された歴史』。仏教の謎に、真正面から体当たり。その本質と、時間の流れの中での根本的変質、姿形を変えて伝播していき、観音・弥勒の姿でマリアを日本に伝えた。そんなら聖徳太子の名前が厩戸皇子だったこともうなずけますね。この本は面白かった。同時に、視界が開けた。まるで目から鱗が落ちたパウロのように。

どう?目次見ただけでも、ずいぶん魅力的な本だってことが分かってもらえると思うんだけど。
仏教への疑問は尽きない。その本質を解き明かす画期的な本だ。少なくとも、私は待ち望んでいた。まずは大乗仏教の登場によって、仏陀の教えは分裂した。このあたりの経緯に関して、かつて“ひろさちやさんの『仏陀』”を読んだ。
この『隠された歴史』では、その辺に主張の違いが見られる。しかし、「救済の教えを求める在家信者に、龍樹が“キリスト教の救済思想”で応えた」という考え方が成り立つ。もちろんひろさんと著者の副島さんは、発言の立ち位置がまったく違うわけであるが、副島さんの考えを主とし、ひろさんの考えを従とすることで、私にとっては一本筋の通った理解が得られたと思う。
ただし、副島さんは小乗にこそ仏陀の本来の思想が語られていると言うが、すでに教えの独占による利益を得ていた教団が仏陀の真意を伝えてきたというのも、なかなかしっくりはいかない。この点、副島さんご本人が書かれているが、宗教界も政治の世界とかわりはない。ともかく、在家信者が求める形に仏教は装いを新たにしたということだろう。
これで、今まで抱えてきた仏教の関する疑問の多くが解決にされていくように思える。それに加えて、本書の中では支那王朝変遷史の中で重きをなす“民衆の反乱”に、“救済思想としてのキリスト教”の影響を強調している。これは支那史、さらには古代史における人の流れ、思想の流れに新風を吹き込むことにつながるのではないだろうか。

日本人は、あんまり窮屈な理屈を由としないんだろう。窮屈なことは、ほかに一杯あるしね。手を合わせる対象くらい、人になんとかかんとか言われたかないな。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
文金高島田姿を楽しみにしてた私の希望は踏みにじられたが、もちろんその場には同席した。娘には絶対的に弱い。その一同を他所の国の人が見れば、揃って熱心なキリスト教徒に見えたことだろう。私たちは、キリスト教も作り変えてしまった。私たちの背丈に合わせて・・・。 |
すでにその成立から千年を経過し、様々な試練にさらされて思想的体系を整えた仏教でさえ、この国の人々は受け入れた。しかも、それまでの神々を失うことなく・・・だ。 |
でも、それよりもずっと前の段階で、仏教は釈迦の時代のものとは大きく変質していた。
だいぶ前に読んで感動した 『隠された歴史』。仏教の謎に、真正面から体当たり。その本質と、時間の流れの中での根本的変質、姿形を変えて伝播していき、観音・弥勒の姿でマリアを日本に伝えた。そんなら聖徳太子の名前が厩戸皇子だったこともうなずけますね。この本は面白かった。同時に、視界が開けた。まるで目から鱗が落ちたパウロのように。
過去記事で~す
![]() | 隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか? (2012/07/27) 副島 隆彦 商品詳細を見る 観音・弥勒=マリア |
どう?目次見ただけでも、ずいぶん魅力的な本だってことが分かってもらえると思うんだけど。
釈迦の教え
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仏教への疑問は尽きない。その本質を解き明かす画期的な本だ。少なくとも、私は待ち望んでいた。まずは大乗仏教の登場によって、仏陀の教えは分裂した。このあたりの経緯に関して、かつて“ひろさちやさんの『仏陀』”を読んだ。
この中では、「出家者を中心とする教団の特権化に伴い、在家信者たちの間には不満が高まっていた。アショーカ王の寄進と仏塔建設により、その管理者としての在家信者が一大勢力となり、仏陀の“救済”の思想を教えの基本とした大乗仏教が生まれた」といった趣旨が語られていた。ひろさんの主張も十分納得のいくものであった。 |
この『隠された歴史』では、その辺に主張の違いが見られる。しかし、「救済の教えを求める在家信者に、龍樹が“キリスト教の救済思想”で応えた」という考え方が成り立つ。もちろんひろさんと著者の副島さんは、発言の立ち位置がまったく違うわけであるが、副島さんの考えを主とし、ひろさんの考えを従とすることで、私にとっては一本筋の通った理解が得られたと思う。
ただし、副島さんは小乗にこそ仏陀の本来の思想が語られていると言うが、すでに教えの独占による利益を得ていた教団が仏陀の真意を伝えてきたというのも、なかなかしっくりはいかない。この点、副島さんご本人が書かれているが、宗教界も政治の世界とかわりはない。ともかく、在家信者が求める形に仏教は装いを新たにしたということだろう。
これで、今まで抱えてきた仏教の関する疑問の多くが解決にされていくように思える。それに加えて、本書の中では支那王朝変遷史の中で重きをなす“民衆の反乱”に、“救済思想としてのキリスト教”の影響を強調している。これは支那史、さらには古代史における人の流れ、思想の流れに新風を吹き込むことにつながるのではないだろうか。
「変わらない教え」とか、「変えてはならない教え」とかってのが、如何に人を不自由にするか。このところのできごとは、つくづくそう感じさせられる。イスラム教はユダヤ教、キリスト教に遅れてきて、完成をめざした分だけ窮屈になった。本来一神教は窮屈にならざるをえないんだろうけどね。 |
日本人は、あんまり窮屈な理屈を由としないんだろう。窮屈なことは、ほかに一杯あるしね。手を合わせる対象くらい、人になんとかかんとか言われたかないな。


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