『津波救国──〈稲むらの火〉浜口梧陵伝』 大下英治
紀伊国有田郡広村を襲った津波は六メートルの高さだったという。それを考えれば、2011.3.11に東北を襲った津波はあまりにも巨大である。でも、“東北”という広い範囲にわたって、無数の浜口梧陵がいたことも、また事実。防災無線で避難を呼びかけ続けた女性。危険を犯して水門を閉じに行った消防団員。逃げ惑う車の整理を続けた警察官。多くの人達が“公”を貫いて命を落とした。親を、子を、家族を、友人を救い出すために、危険の中に見を晒したひとり一人の人たち。その後始まる救援の中でも、自分を顧みずに被災者のためを図る自衛隊員、最悪の事態を防ぐため、命を投げ出したに等しい東電職員、止むに止まれず東北に向かったボランティアの人達。
浜口梧陵の長男浜口坦がイギリスに留学中の明治三十六年のある日、ロンドンの日本協会の主催で、「日本の女性」という演題で講演に立ったことがあった。講演の後に、一人のイギリス人女性が質問に立った。彼女は、ラフカディオ・ハーンの書いた『A Living God』を読んでいて、こう聞いた。「講演者の浜口と浜口五兵衛との間には、何らかの関係があるのでしょうか」
津波被害ののち、浜口梧陵は私財をなげうって堤防を建設した。たんに次の地震と津波に備えるためだけでなく、被災で希望を失った人々に復興へのきっかけを与えるためでもあった。同時に、浜口梧陵は幕末から明治維新を生き、私たちのよく知るこの時期の時代人と交わった。梧陵はヤマサ醤油の棟梁の家の総領である。本来が事業家である。勝海舟らの時代人と交わり、時にはその経済力で多くの若者を支えた。しかし寄って立つ場所が異なれば、彼自身がを動かす立場に立ったとしても決しておかしくない一流の人だった。


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『津波救国──〈稲むらの火〉浜口梧陵伝』 大下英治 講談社 ¥ 1,500(時価) 安政元年 南海大地震により津波が村を襲う。浜口梧陵は「稲むらの火」をかかげて村民を津波から救済 |
安政元(一八五四)年十一月四日午前十時過ぎ、紀州広村は強い地震に見舞われた。揺れがおさまったあと、浜口梧陵は海岸に向かった。海の様子をみるためである。言い伝えでは、大地震のあとには、しばしば大津波が寄せ来ることがあるという。波の動きが尋常ではない。梧陵は行き会う人ごとに声をかけ、高台への避難を呼びかけた。しかしこの日、津波はやって来なかった。翌朝、村人の多くはそれぞれの家に引き上げた。 その日の午後四時、ふたたび地震が発生した。前日のものとは比べ物にならないほどの大地震となった。安政の南海大地震である。現在、その地震の強さは、マグニチュード八.四と推定されている。揺れは、三度、四度に及んだ。梧陵は家族に避難を促し、海へ向かった。地がさけ、水が吹き出すところもあった。脆い家は崩れ、けが人も出ている。梧陵はむらを走り回り、避難を呼びかけた。 「津波だー❢」 この時の津波は、最高で六メートルあったとされている。梧陵自身、逃げに逃げた。途中、波に飲まれたが、かろうじて小高い丘に流れ着き、ようやく命拾いした。悲惨な状況があたりを覆い尽くしていた。災難を逃れて高台の八幡神社に逃れた者たちも、今や悲鳴を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合っている。 午後六時、広村は、第二波、第三波の津波に襲われていた。暗さが逃げる村人の進路を奪い、方角を失った者たちを波が飲み込んでいく。 梧陵はとっさに周りの者たちに命じた。「むらのすべての稲むらに火を放て」 高台にてんてんと広がるすべての稲むらに、火が放たれた。闇の中で、どちらに向かえばいいかわからずさまよっていた人々が、それらの稲むらの火を頼りにして高台に駆け上り、なん人もの命が救われた。その少しあと、一層大きな波が村を襲っていた。 波濤の襲来は、前後四回に及んだが、最後の一波が最大であったという。濱口梧陵の判断が多くの人々を“生”へと導いた。 |
浜口梧陵の長男浜口坦がイギリスに留学中の明治三十六年のある日、ロンドンの日本協会の主催で、「日本の女性」という演題で講演に立ったことがあった。講演の後に、一人のイギリス人女性が質問に立った。彼女は、ラフカディオ・ハーンの書いた『A Living God』を読んでいて、こう聞いた。「講演者の浜口と浜口五兵衛との間には、何らかの関係があるのでしょうか」
浜口坦が、浜口五兵衛のモデルになった浜口梧陵が自分の父親であることを告げると、会場は驚きに包まれ、やがて坦は万雷の拍手が彼に寄せられたという。 |
昭和十九(一九四四)年十二月七日、さらに昭和二十一(一九四六)年十二月二十一に、南海大地震が発生している。特に昭和二十一年の地震の際には、五メートルの津波が界隈を襲った。この地震と津波による死者は二三三〇人におよんだ。しかし、広町における死者は二十四人で食い止められた。梧陵の築いた堤防は、昭和の時代にも広町を守ったのだ。 |


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