『二十世紀と格闘した先人たち』 寺島実郎
“はじめに”に、こうある。
『二十世紀が当時の覇権国たる大英帝国の絶頂期ともいうべき「ビクトリア時代」の象徴であったビクトリア女王の死によって膜を開けた如く、二一世紀は「アメリカの世紀」としての二十世紀のシンボルタワーともいうべきニューヨークの二つのビルのテロによる倒壊というシーンによってスタートした』
もとは平成一四年に出された『歴史を深く吸い込み、未来を想うー一九〇〇年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊』という本だそうだ。それを改編した『二十世紀から何を学ぶか(下)ー一九〇〇年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊』という本に生まれ変わったのが平成一九年。そして平成二七年、本書は三度、世に問いかけることになる。
「そろそろ二一世紀ってやつが見えてきたか?」ってね。
著者の寺島実郎さんにおいても、ペリー来航以来の日本に対して公平なる裁判官とは、私には思えない。〈自らに厳しく〉あろうとする姿は、場合によっては好感のもてるものであるが、この“ペリー来航以来の日本”を考える場合、しかも、アメリカを対象として日本を考える場合、それは無意味であるにとどまらず、有害である。
二十世紀、それも中頃に入ろうとする頃、世界はほんの数人の“化物”に鼻面を引き回される。ヒトラー、スターリン、毛沢東って並べてみると、「この三人で、一体何人の人間を殺したんだか」って数えてみたくなったりする。でも、時期を合わせて見るなら、毛沢東の代わりにフランクリン・D・ルーズベルトを入れるべきだし、こいつが一番恐ろしい。ヒトラー、スターリンを凌ぐ、最悪の“化物”は、彼をおいて他にはいない。
第一章の中で、フランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーが連続して取り上げられる。上に書いたのは、私のフランクリン・D・ルーズベルトに対する評価であるが、フランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーは、やはり、ある種の“化物”だと思う。それも、とてもアメリカらしい“化物”だと思っている。
著者とのフランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーという個別人物、アメリカという個別国家に対する捉え方の違いは、さらには、おそらく、《一九世紀》という時代に対する認識の違いからくるものだろうと思う。そしておそらく、戦後の、日本側の責任を重く、日本側の対応を悪く考える、アメリカから与えられた風潮のなせる技ではないかと思う。
そうは思うものの、この本は読んでいて楽しいし、実際に面白い。展開のテンポが軽妙なことが、楽しさにつながってるんだろう。上記のように認識の違いがあるものの、人柄の良さっていうのか、書かれていることから嫌味は感じられない。それだけに、“毒”はない。
最終章《二十世紀再考ー付言しておくべきことと総括》に書かれているんだけど、「威張る日本人像」がアジアに根深いんだそうだ。『確かに、敗戦後も東南アジア各地に残留して現地の解放・独立戦争に参加した日本兵が少なからずいたことも事実であり、救いを感じる』んだそうだ。『自らが優位に立つと、抑圧に苦しんできたアジアへの共感と連隊を忘れ、傲慢と増長に陥ってアジアの嫌悪の対象とされる日本近代史の闇は深い』んだそうだ。・・・おいおい、なんだかオドロオドロしい感じになっちゃったけど、どうして日本にばかりそんなに厳しい?

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
『二十世紀が当時の覇権国たる大英帝国の絶頂期ともいうべき「ビクトリア時代」の象徴であったビクトリア女王の死によって膜を開けた如く、二一世紀は「アメリカの世紀」としての二十世紀のシンボルタワーともいうべきニューヨークの二つのビルのテロによる倒壊というシーンによってスタートした』
もとは平成一四年に出された『歴史を深く吸い込み、未来を想うー一九〇〇年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊』という本だそうだ。それを改編した『二十世紀から何を学ぶか(下)ー一九〇〇年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊』という本に生まれ変わったのが平成一九年。そして平成二七年、本書は三度、世に問いかけることになる。
「そろそろ二一世紀ってやつが見えてきたか?」ってね。
『二十世紀と格闘した先人たち 一九〇〇年 アジア・アメリカの興隆』 寺島実郎 新潮文庫 ¥ 680 二十世紀初頭、アジア太平洋で「アメリカの世紀」がはじまる。日本は近代化の道をひた走り、アジアの巨星は解放と独立を目指した |
|
二十世紀、それも中頃に入ろうとする頃、世界はほんの数人の“化物”に鼻面を引き回される。ヒトラー、スターリン、毛沢東って並べてみると、「この三人で、一体何人の人間を殺したんだか」って数えてみたくなったりする。でも、時期を合わせて見るなら、毛沢東の代わりにフランクリン・D・ルーズベルトを入れるべきだし、こいつが一番恐ろしい。ヒトラー、スターリンを凌ぐ、最悪の“化物”は、彼をおいて他にはいない。
第一章の中で、フランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーが連続して取り上げられる。上に書いたのは、私のフランクリン・D・ルーズベルトに対する評価であるが、フランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーは、やはり、ある種の“化物”だと思う。それも、とてもアメリカらしい“化物”だと思っている。
著者とのフランクリン・D・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーという個別人物、アメリカという個別国家に対する捉え方の違いは、さらには、おそらく、《一九世紀》という時代に対する認識の違いからくるものだろうと思う。そしておそらく、戦後の、日本側の責任を重く、日本側の対応を悪く考える、アメリカから与えられた風潮のなせる技ではないかと思う。
そうは思うものの、この本は読んでいて楽しいし、実際に面白い。展開のテンポが軽妙なことが、楽しさにつながってるんだろう。上記のように認識の違いがあるものの、人柄の良さっていうのか、書かれていることから嫌味は感じられない。それだけに、“毒”はない。
最終章《二十世紀再考ー付言しておくべきことと総括》に書かれているんだけど、「威張る日本人像」がアジアに根深いんだそうだ。『確かに、敗戦後も東南アジア各地に残留して現地の解放・独立戦争に参加した日本兵が少なからずいたことも事実であり、救いを感じる』んだそうだ。『自らが優位に立つと、抑圧に苦しんできたアジアへの共感と連隊を忘れ、傲慢と増長に陥ってアジアの嫌悪の対象とされる日本近代史の闇は深い』んだそうだ。・・・おいおい、なんだかオドロオドロしい感じになっちゃったけど、どうして日本にばかりそんなに厳しい?


- 関連記事
-
- 『国家の盛衰』 渡部昇一 本村凌二 (2015/10/14)
- 『異端の人間学』 五木寛之 佐藤優 (2015/10/13)
- 『二十世紀と格闘した先人たち』 寺島実郎 (2015/10/09)
- 『隠された歴史』 副島隆彦 (2015/09/23)
- 『変見自在 スーチー女史は善人か』 高山正之 (2015/09/19)