MRJ 飛翔❢ 『翔べ❢MRJ』 杉本要
ついこの間、八月に紹介した記事ですが・・・
![]() | かつて、日本は航空機大国だった。・・・「かつて」とは、大正から昭和の初期まで。この間日本は航空機大国の名をほしいままにしていた。しかし、1945年の終戦とともにGHQから航空禁止令が発せられ、日本の航空機産業は消え去った。 | ![]() |
プロジェクト構想や研究開発の場面での国の関与を考えれば、「オールジャパン体制」での船出となった。
『翔べ、MRJ』 杉本要 日刊工業新聞社 ¥ 1,728 世界の航空機市場に挑む「日の丸ジェット」・・・2015年、半世紀ぶりの国産旅客機が日本の空を舞う |
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日本には「YS-11」という記憶がある。
航空機業界では、1945年の航空禁止令の公布から52年の航空機製造許可までの7年間を、「空白の7年間」と呼ぶという。時期的には、世界でジェットエンジン化が本格化する時代、日本の航空機業界の光だけが消えていた。
YS-11の開発構想が打ち上げられたのは56年である。集められた設計者には、「零式」の堀越二郎、「飛燕」の土井武雄、「紫電改」の菊原静男、「隼」や「疾風」の太田稔らもいた。開発製造の主体として官民出資の特殊法人「日本航空機製造」が立ち上げられた。
66年、アメリカでの最初のデモ飛行が行われた。世界最大の民間機メーカー、ボーイングの技術者がYS-11の視察にやってきた。メンバーが、パイロット、整備員、技術者であることから明らかに日本の飛行機の品定めであったという。彼らは「完璧だ。安定性もバランスもいい。こんな飛行機は見たことがない」と評価したという。
しかし、YS-11の事業は失速する。日航製は「よい飛行機を作り、売る」ことまでしか想定していなかった。しかし、事業として必須の顧客支援体制は、全く確立されていなかった。さらに、「官」の比率が高かったことから、コストダウンが進まず、累積赤字が深刻化した。そのため、YS-11の記憶は苦いものとなってしまった。
このところ、MRJ関連のニュースが出るたびに、「延期」の文字がついてくるような気がする。そのたびに心がうずく。それでなくても、“国産機”っていうだけで、無意味に余分なことを考える連中もわさわさいる。でも、自分に言い聞かせる。MRJは世界の空を飛ぶ。・・・必ず


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